第12話 裁きは、静かに下る
その翌日、現れたのは――よりにもよって、この男だった。
――ハインリヒ・フォン・クラウス。
午後の光が、応接室の床に長く差し込んでいた。
ユリウスと向かい合い、書類を眺めていたとき――
コン、と。
今度は、ノックとも呼べない、乱暴な音が扉を打った。
嫌な予感がした。
「……失礼します」
返事を待たずに、扉が開いた。
現れたのは、見たくなかった顔だった。
一瞬、誰も息をしなかった。
まだ正式な拘束には至っていない。
それでも本来なら、ここに立てる立場ではないはずの男が、まるで招かれた客のような顔で、そこに立っていた。
(こいつ、どういう神経してるんだ?)
「……これはこれは。
閣下もご一緒でしたか」
唇に貼り付いたような笑み。
あの、虫のように粘ついた視線。
変わっていない。
いや――どこか、前よりも「余裕」があった。
「どうやって、ここに入った」
ユリウスの声は、低く、冷たい。
ハインリヒは肩をすくめた。
「警備兵が、思いのほか物分かりが良くて。
金と、ほんの少しの忠告で……人は簡単に動くものですね」
胸の奥が、冷たくなる。
ユリウスが、ゆっくりと立ち上がった。
「……用件は何だ」
「ええ、簡単なことです」
ハインリヒは、楽しげに言った。
まるで、勝利宣言でもするかのように。
「そろそろ、諦めた方がよろしいのでは、と。
裁判など……無意味でしょう?」
その視線が、俺に向く。
「証言者は次々と口を閉ざしている。
裁判官も、決まらない。
皆、分かっているのですよ」
一歩、近づいてくる。
「……この国は、そういう仕組みだと」
俺は、何も言わなかった。
ただ、まっすぐに見返す。
ハインリヒは、口元を歪めた。
「味方は、想像以上に多い。
貴族も、商人も、聖職者も……」
ちらりと、今度はユリウスへ視線を向ける。
「――宰相閣下のご威光をもってしても、抗えない流れというものがある。
そうは、お思いになりませんか?」
得意げに、指を折る。
「あなた一人が騒いだところで、世界は変わらない。
むしろ――」
声が、ねっとりと低くなる。
「これ以上足掻けば、あなた自身が壊れますよ、リーゼロッテ嬢」
空気が、張りつめる。
そのときだった。
コツ、と。
背後の扉の向こうで、
靴音が、ひとつ、静かに響いた。
重い音だった。
ゆっくりで、迷いのない足取り。
ハインリヒが、わずかに眉を寄せる。
次の瞬間。
扉が、静かに開いた。
そこに立っていたのは――
背筋をまっすぐに伸ばした、ひとりの男。
白銀の髪に、落ち着いた灰色の瞳。
年齢を重ねた威厳と、感情を押し殺した静けさ。
見覚えのある背中。
けれど、今まで見たことのない空気。
「……遅れたな」
低く、落ち着いた声。
俺は、思わず息を止めた。
「……父、上……?」
アウグスト・フォン・グラーフェン侯爵。
リーゼロッテの父だった。
ハインリヒの表情が、一瞬だけ、硬直する。
それでも、すぐに取り繕った。
「……これはこれは、グラーフェン侯。
まさか、お出ましとは」
父は、ハインリヒを一瞥しただけだった。
それだけで、空気が変わる。
「……誰の許可で、ここにいる」
声は、静かだった。
だが、その静けさの中に、
明確な格があった。
ハインリヒが、一瞬、言葉に詰まる。
「い、いや……その、少し話を……」
「質問に答えろ」
それだけで、空気が、凍りついた。
ハインリヒの喉が、目に見えて動いた。
「……け、警備兵が……」
「金で買収した、と」
父は、淡々と続けた。
「記録しておこう。
不法侵入。
贈賄。
公務妨害」
ハインリヒの顔色が、はっきりと変わった。
「な、なにを……そんな大げさな……!」
父は、初めてハインリヒを正面から見た。
その視線は、怒りでも憎悪でもなく――
ただの、評価だった。
「大げさではない。
君がしてきたことと、同じだ」
静かな声。
だが、逃げ場がなかった。
「味方が多い、と言ったな」
父は、一歩だけ前に出る。
それだけで、ハインリヒが半歩、無意識に下がった。
「……ならば教えてやろう」
声は、変わらず低い。
「中立を保ってきた者たちが、今、動いている」
ハインリヒの目が、揺れた。
「裁判官の辞退理由は、すべて記録に残した。
誰が、誰に、どのような圧をかけたか――
すでに調査が始まっている」
ユリウスが、静かに言葉を継ぐ。
「……君が思っているほど、世界は君の味方ではない」
ハインリヒの笑みが、完全に崩れた。
「……そんな、馬鹿な……!」
父は、淡々と告げる。
「馬鹿なのは、君の方だ。
自分が守られていると思っていた構造が、
永遠に続くと信じていた」
ハインリヒの唇が、わずかに震え始める。
「……違う……僕は、ただ……」
「君は、選んだ」
父の声は、最後まで穏やかだった。
「人を踏みつける側でいることを」
沈黙が落ちた。
ハインリヒは、もはや言葉を探すこともできず、
ただ、立ち尽くしていた。
その姿は、ついさっきまでの「勝者」ではなかった。
ただの――
追い詰められた男だった。
父は、視線を俺に向けた。
ほんの一瞬だけ、
いつもの、見慣れた目になる。
「……大丈夫か」
短い言葉だった。
でも、その中に、今まで一度も言葉にされなかったものが、すべて詰まっていた。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
父は、それだけで十分だと言うように、
わずかに顎を引いた。
そして、ハインリヒに視線を戻す。
「帰れ」
たった一言だった。
だが、それは命令だった。
ハインリヒは、唇を噛みしめ、何も言えないまま、よろめくように踵を返した。
扉が閉まったあと。
部屋には、静寂だけが残った。
俺は、ようやく、息を吐いた。
胸の奥が、熱い。
(……父は、ずっと見ていたんだ)
俺のことも。
この状況も。
ユリウスが、俺の隣に立つ。
その声は、いつもより少しだけ、柔らかかった。
「……これで、流れは変わる」
俺は、小さく笑った。
「……ですね」
盤上の駒だったはずの俺は、もう、誰かに動かされるだけの存在じゃない。
味方がいる。
覚悟もある。
そして――
もう、逃げない。
普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。
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