第10話 毒を盛ったメイドの家を訪ねたら、恋が始まってしまった
「……正直、驚いた」
馬車が動き出してから、しばらく沈黙が続いていた。
先に口を開いたのは、ユリウスだった。
低い声。
「君が、彼女の家を見たいと言い出すとは思っていなかった」
俺は視線を前に向けたまま、静かに答える。
「……彼女は、確かに私を殺そうとしました」
事実として口にすると、胸の奥が少しだけ痛む。
「けれど、それで裁くというのなら……。
私は、知りたいと思ったんです」
ユリウスが、わずかにこちらを見る気配がした。
「……何を、だ」
「……彼女が、どんな場所で生きていたのか。
何を背負って、どこまで追い詰められていたのか」
ほんの一瞬、馬車の揺れが大きくなる。
俺は、言葉を選びながら続けた。
「それを知らずに裁くと言うのは……。
私には、怖いと思った」
沈黙。
やがて、ユリウスが低く言った。
「……覚悟はあるのか」
問いは短いが、重い。
「貧民街の現実は。
君がこれまで見てきた世界とは、まるで違う」
少しだけ、声が低くなる。
「……見て、気持ちのいいものではない」
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「……それでも。
だからこそ、見たいんです」
言い終えてから、自分でも少しだけ驚いた。
迷いながら話しているつもりだったのに、声は思ったよりも静かで、はっきりしていた。
ユリウスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、前を見たまま、ぽつりと呟くように言う。
「……君は、本当に……」
言葉の続きを、飲み込んだようだった。
代わりに、ただ一言。
「……分かった」
それだけで、十分だった。
***
「ここから先は、馬車では目立ちすぎる」
ユリウスはそう言って、御者に短く指示を出した。
馬車が止まる。
彼は外套の留め具を外し、裏返して羽織った。
高価な刺繍は内側に隠れ、色褪せた布地だけが表に出る。
「……宰相府の視察という名目だ」
俺にも、地味な外套を差し出してくる。
装飾のない、ただの布。
袖口も、少し擦り切れている。
装飾品を外し、髪も軽く結い直す。
馬車の窓に映った俺たちは――
貴族ではなかった。
ただの、身なりの整った役人にしか見えない。
「……これでいい」
ユリウスが小さく言った。
それから、馬車を降りた。
馬車を降りた瞬間、空気が重く、汗と腐臭が混じったような息苦しさに包まれた。
路地の壁にも、人の背中にも、生気が貼りついていない。
角を曲がった先で、子どもが座り込んでいた。
手は差し出されているのに、目だけがもう諦めている。
俺は、なぜか声をかけることができなかった。
足元に、毛布に包まれたまま動かない人影があった。
眠っているのか、違うのか、確信が持てない。
視線を逸らしたくて、けれど逸らせなかった。
「……見慣れない方が、正常だ」
隣で、ユリウスが静かに言った。
「あなたは?」
「俺は、ここから来た人間だ」
一拍、沈黙。
「……君には、ふさわしくない場所かもしれない」
その言葉には、どこか影があった。
自嘲でも、遠慮でもなく。
長く、この景色の中で生きてきた人間だけが持つ、静かな諦め。
俺は、彼の横顔を見つめた。
そして、言葉の代わりに、そっと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、ユリウスの手がわずかに強張った。
けれど、振りほどかれることはなかった。
むしろ、次の瞬間には、そっと握り返されていた。
***
ユリウスが、メイドの家の扉を軽く叩いた。
扉と言っても、打ち付けただけの板戸だった。
中から、足音。
ためらうような間。
きぃ、と音を立てて扉が開く。
覗いたのは、小さな少女だった。
頬はこけ、髪は絡まり、けれど目だけが大きい。
少女は、俺たちを見て、ぴたりと動きを止めた。
「……だれ?」
かすれた声。
ユリウスは、感情を乗せないまま、淡々と言った。
「宰相府の視察です」
それだけ。
難しい言葉の意味は、分からないはずなのに、その響きだけで、少女の背がわずかに伸びた。
しばらく迷うようにこちらを見てから、小さくうなずく。
「……入る?」
俺は、静かにうなずいた。
部屋の中は、暗かった。
昼間のはずなのに、窓から差す光は、布越しに濁っている。
奥で、女が咳き込んだ。
乾いた咳。
途中で息が切れて、空気を探すような音。
「……母ちゃん……」
少女が、小さく呼ぶ。
返事はない。
床の隅に、木箱があった。
周囲が荒れているのに、そこだけは不自然なほど整っている。
少女が、迷いなく蓋を開けた。
中には、乾いたパン。
干し肉がひとかけ。
布に包まれた、小さな紙包み。
それを見ただけで分かった。
貧民街で、普通に手に入るものじゃない。
少女は、紙包みを指先で持ち上げる。
「……これ、のませると……夜、ちょっと静かになる」
声は、ただの事実を述べているだけだった。
俺は、喉の奥が痛くなるのを感じながら言った。
「……薬ですね」
少女はうなずく。
「……あねちゃん、すてきなお屋敷におつとめしてて……
おうじさまが、くれたって」
そこで、言葉が終わる。
誇らしげでもなく、
ただ「そう聞かされていた事実」を、そのまま口にしただけだった。
――おうじさま。
あのメイドが、あの男を本気で王子様だと思っていたとは思えない。
それでも、妹にはそう言って聞かせるしかなかったのだろう。
そう悟った瞬間、胸の奥にあった怒りは、音もなくほどけた。
残ったのは、ただ、逃げ場のない悲しさだけだった。
ユリウスも、何も言わずに箱を見ていた。
その目が、やけに静かだった。
その沈黙の重さに、俺はそれ以上、言葉を続けられなかった。
***
外に出ると、空気がさらに重く感じた。
しばらく歩いてから、ユリウスが低く言った。
「……あの毒」
俺は、顔を上げた。
「……使う量を、減らしていた。
だから君は死ななかった」
短い言葉だった。
けれど、それだけで、
あのメイドが、どんな綱渡りをしていたのかが、はっきりと伝わった。
殺したいと思った。
でも、殺しきれなかった。
壊したいと思った。
でも、完全には壊せなかった。
ユリウスは、前を見たまま続ける。
「ハインリヒが、令嬢たちから巻き上げていた金……」
一拍。
「……こんなものでは、済まないはずだ」
それは、断定だった。
推測ではなく、知っている者の言葉だった。
俺は、何も言えなかった。
ただ、胸の奥で、何かが静かに形を持ちはじめていた。
怒りでも、同情でもなく。
もっと冷たい、決意に近いものが。
「ユリウス、私……彼女を許します。
――甘いと思うかもしれないけど」
言い終えてから、胸の奥が少しだけ静かになった。
ユリウスは、すぐには答えなかった。
前を見たまま、ほんのわずかに間を置く。
「……俺なら、そういう判断はしなかった」
わずかに視線がこちらに向く。
「……甘すぎますか」
「ああ。甘いと思う」
一拍。
「だが――そういう選択肢が、本当は必要なのかもしれない」
肯定でも、否定でもない――
けれど、彼の中で何かが動いた気がした。
それで、十分だった。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
路地の石畳を踏む音だけが、規則正しく続く。
やがて、ユリウスが低く言った。
「……俺は、誰かを許すために動いているわけではない」
声は、相変わらず淡々としている。
「……この国で、同じことを繰り返させないためだ」
それだけだった。
理念でも、感情でもなく、ただの事実を述べているだけのような口調。
けれど、その言葉は、どんな慰めよりも重く、胸に残った。
俺は、歩きながら、わずかに息を吐いた。
この人は、優しい言葉を選ばない。
救いの形を、言葉で与えようとしない。
それでも――行動で、必ず現実を変えようとする。
だからこそ。
ユリウスが、呼吸の延長みたいな調子で、ぽつりと続けた。
「……だから、変える」
その一言が、ひどく自然に落ちた。
聞いた瞬間、胸の奥が、わずかに熱を帯びた。
目の前にある現実を見て、それでも同じ言葉を選ぶこの人を見て、その覚悟の重さだけが、静かに伝わってくる。
(……ずるいな)
心の中で、そう思う。
言葉は少ないのに、こういうところで、いちばん強い。
(やばい)
(本当に好きかも、こいつのこと)
俺は、惚れ直したのを悟られないように、わざと軽く口角を上げて言った。
「あら」
ユリウスの視線が、わずかにこちらへ向く気配。
「……以前には、私怨だとおっしゃっていたのに?」
一拍。
ユリウスは、前を見たまま、淡々と言った。
「……私怨だ」
即答だった。
俺は思わず瞬きをする。
「……だが」
低い声が続く。
「その結果として、この国の歪みが是正されるのなら……好ましい」
俺は、少しだけ笑った。
「……では」
ユリウスの視線が、こちらを向く。
「その私怨に、私も付き合います」
言ってから、胸の奥がじんわり熱い。
ユリウスは何も言わなかった。
ただ、こちらを見つめてくる。
いつもより、少しだけ長く。
逸らさない。
熱を帯びたような、静かな視線。
胸が、きゅ、と鳴る。
「……君は」
小さく、低く。
「……本当に、厄介だな」
困ったような声なのに、
視線だけが、やけに優しかった。
俺は、それ以上何も言えなくなって、ただ小さく笑った。
――これはもう、完全に。
一本、取られているのは、たぶんお互い様だった。
普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。
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