第1話 ブル・シット・ジョブの果てに悪役令嬢になりました
午前3時。
玄関の鍵を閉めた瞬間、胸の奥に電流が走った。
激痛。
息が詰まり、視界が歪む。
(……あ、これ)
膝から崩れ落ち、床に手をついた。
心臓が、変な打ち方をしている。
(……過労死、ってやつか)
ふと思う。
俺は、死ぬほど価値のある仕事をしていたのか。
売上にも改善にもつながらない資料を作り続け、
根回しと忖度に時間と神経を削り、
はんこの角度みたいな形式に何時間も奪われ、
上と下に挟まれながら、
社内政治に、じわじわと押し潰されていく。
――それが、俺の「仕事」だった。
(……変えられたはずなのに)
誰かが言えば、止められた。
俺自身が言えば、変えられた。
でも、言わなかった。
流される方が楽だったから。
だから――
「……もう二度と、流されない」
それだけ呟いた。
心臓の音が、遠ざかる。
天井が滲み、世界がほどけていく。
――そして、俺は死んだ。
***
目を開けると、天井が高かった。
凝った模様が、やけにくっきり見える。
(……豪華だな)
そう思った次の瞬間、違和感が襲った。
胸が……重い。
柔らかい。
嫌な予感に、視線だけを下へ落とす。
「……は?」
ついてない。
心臓が、爆音を立てた。
頭が真っ白になる。
(待て待て待て待て待て)
思わず、上体を起こす。
薄いシーツが胸の上で、不自然に盛り上がった。
そのとき。
コン、コン。
控えめなノック。
返事をする前に、扉が開いた。
「あら……生き返られたんですね、お嬢様」
若いメイドの声。
溜息まじりだ。
まるで、死んでいた方が都合が良かったとでも言うように。
廊下から、足音が近づいてくる。
ゆっくり、迷いなく。
「――ユリウス・フォン・アイゼン宰相閣下がお見えです」
メイドが一歩下がる。
「ちょっ……待て」
止めるより早く、男が現れた。
まず、視界に入ったのは全身だった。
黒の礼装。
そこに走る、細い銀のライン。
装飾を極限まで削ぎ落とした、研ぎ澄まされた佇まい。
肩にかかる、銀の長髪がわずかに揺れる。
視線が、自然と引き寄せられていく。
整った顔立ち。
そして――
氷のような瞳。
ベッド脇の机に、書類を置く。
音一つ、立てずに。
「……放蕩、面会拒否の次は、服毒による自殺未遂ですか」
淡々とした声。
「俺……いえ、私が、そんなことを?」
「ええ」
即答だった。
「俺との婚約が、
そんなに不満でしたか?」
「……ええと」
「……誤解されていると思うと、悲しいですね」
その瞬間、声の温度が変わった。
顔を上げると、いつの間にか距離が縮まっている。
「あなたが愛しくて、胸がつぶれそうなのに」
腕を取られ、引き寄せられる。
近い。
息がかかる。
どく、どく、と身体だけが正直に反応する。
(なんだ、これ)
(身体が……勝手に)
一瞬、頭が追いつかなくなる。
――けど。
(……いや)
(男だから、わかる)
(これは、本気じゃない)
「……演技だろ」
腕の力が、ほんの一瞬止まった。
視線が、わずかに好奇心を帯びる。
「なぜ、そう判断なさったのですか?」
「なんでって……近づき方が正確すぎる。
逃げ道も、逃げない距離も計算済みだ。
言葉は整ってるけど……平坦すぎる」
一拍。
「それで、演技だって言われて、否定せずに問い返した」
ユリウスが一瞬、真顔になる。
それから、くすっと笑った。
「噂に聞いていた、恋愛体質で軽薄でわがままな令嬢――
では、ないようですね」
その瞳が、さっきまでとは違った。
まるで、初めて「面白いものを見つけた」とでも言うような、
ひどく静かで、ひどく熱のこもった視線。
指先で、顎を軽く持ち上げられる。
「では……今ので本気になったと言ったら、どうしますか?」
吐息が耳にかかる。
「あ……っ」
熱く湿った息が耳の穴まで忍び込み、ぞくりと背筋を駆け上がる。
肩がびくびくと震え、喉の奥から小さな声が、抑えきれずに零れ落ちる。
慌てて唇を噛むが、遅かった――ユリウスの瞳が、わずかに細くなる。
(……っ)
(この身体……)
(反応しすぎなんだよ……!)
ユリウスの瞳が、わずかに細くなる。
「ふふ……可愛らしい反応ですね」
「なっ」
「冗談です」
彼は、すっと真顔に戻った。
どこか熱い視線だけを残して。
(なんなんだ、こいつは……)
それでもなぜか、この男に惹かれるものを感じた。
(演技のはずなのに)
(この氷みたいな瞳の奥に、何があるのか……知りたくなる)
(いや、男相手に? どうしたんだ、俺)
胸の奥が、妙に騒がしい。
さっきまで死にかけていたはずの心臓が、今は別の理由でやかましい。
(……まずい)
(これは、この身体のせいだ)
(混乱してるだけだ)
そう自分に言い聞かせるのに、思考はまるで言うことを聞かない。
ユリウスの声。
距離。
視線。
あの一瞬の、温度。
思い出すたび、身体が微かに反応してしまう。
(……やめろ)
(惹かれるな)
(こいつは、信用していい相手じゃない)
この男は宰相だ。
権力の中心にいる人間だ。
甘い言葉も、距離の詰め方も、すべて計算だ。
(前世と同じだ)
(肩書きに騙されて、言葉に流されて……それで、俺は死んだ)
なら、今度は逆だ。
相手がどれだけ魅力的でも。
どれだけ心を揺らしてきても。
俺はもう、「流される側」にはならない。
胸の上で、ぎゅっとシーツを握る。
(観察してやる)
(この男が、何者なのか)
(何を企んでいるのか)
その上で――
(利用できるなら、利用する)
心の奥で、静かにそう決めた。
この世界で生き直すのなら、今度こそ、俺は自分で選ぶ。
誰かの都合でも、空気でもなく。
感情でも、身体でもなく。
――俺の意思で。
普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。
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