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殻裡  作者: 綾高 礼


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第3話


 5


 帰りにコンビニに寄って、呼吸をするようにお菓子を万引きした私は颯爽と店を出て、トンネルの近くにある神社の前で歩く坊主頭の、丸顔で、ユニフォーム姿の少年を見かけ、声を掛けた。


「おお、ケンジか。今帰り?」

「おん。Oは部活帰りか」

「そうそう、そんな感じっす」


 私たちは神社を通り越し、近くにやたらと墓が多くある路をゆっくりと歩いていた。空の端にはうっすらと紅が滲んでいた。真上を覆う灰色雲が、まばらに星を隠していた。道端に、黒紫の蛇がうようよと走って行った。


 Oとは小学生時代から同じで、割と仲が良い方だった。彼の家庭は父子家庭で、兄との三人暮らし。基本的な掃除炊事洗濯などの家事全般は、Oがいつもやっているらしく、彼の事は、どうしても嫌いになれなかった。そんなOに、私は一度だけ気が狂ったように激怒したことがある。


 小学六年の時、休み時間に彼とバスケの三本勝負をして負けた時にOが勝ち誇った様子で謙遜もしなかったので、腹を立てた私がバスケットボールを至近距離からOの顔面に投げつけてしまった。


 Oは元からすぐに顔が赤面してしまう人で、その時は達磨のように真っ赤っかに染まって鼻血を噴出させた。

 次の日、私は流石に良心が痛んだので、彼の為というよりも自分の良心の為に謝罪したことがあった。

 彼は言いたいこともあっただろうが、それでも私のことを形式上では許してくれた。あの時、本当はどう思っていたのか。今となっては聞くことも出来ない。


「ケンジはもう野球部戻ってこんのか」

「うーん、もう野球はええかな。やるのもみるのも好きやけど、バリバリ部活でっていうのはな」

「そうか……。勿体ないな、ケンジは今から戻ってもエースになれる才能あんのに。やっぱ桐島やったら全然あかんわ。この前の試合であいつ普通に押し出しファーボール連発してたからな」


 Oはどこか寂しそうに笑っていた。顔は少しだけ赤かった。


「今も相変わらず自前弁当作ってんのか」

「当たり前よ。お陰様で主婦顔負けの腕並みやわ」


 私は同情と尊敬の入り混じった静かな笑みで微笑んでみせた。


「最近は……どうや」

「うん?」


 Oはこの時、私が何を聞きたいのかおそらく悟っていた。が、一々聞き返す。


「ほら、兄ちゃんとか、父さんとか」

「ああ、まぁ、普通や。普通」


 彼は耳を赤くして、重い荷物の詰まった鞄の位置を調整するように肩にかけ直した。彼の家は少し異常な状態であることは小学生の時から知っていた。


 Oは時々、腕や足を腫らしてきたり、時々学校を休んだりすることがあった。中学に入って一緒に野球部にいた時も、時々休むことがあったのだ。たまに服も汚れていたり、使い古した雑巾のように臭かった時もあった。


 その度に私は、彼が兄と父から暴力を振るわれている事を知っていたのだ。だが次の日にはケロッとしたように顔を出す。私が家庭の詳細を簡単に教えてもらったのは、バスケ事件があって仲直りした時だった。


 Oは元来凄く真面目な奴なのだ。優しくて、人の弱さや非常さを知っていて、人に優しくあれる。私よりも遥かに懐も広い。それがOという少年だった。


「そうか。まぁなんかあったらいつでも言ってくれ」


 私は、そんな空虚なことしか言えない自分が少しだけ嫌になった。


「ありがとう」


 Oは少し笑って「いきなり聞きたいことあるねんけど、一つだけいい?」とまた顔を赤らめた。


 私は静かに頷いて、Oの赤くなった耳を見ていた。微かに白い産毛があったような気がした。


「ケンジって父さんと喧嘩した事とかってある?」


 私は少しだけ、間をおいて、思い出に帰った。

 確かに一度だけ、父親と胸倉の掴み合いをしたことがある。原因は私が野球部を勝手にやめた時だった。他の家庭の父親事情にそこまで明るい訳ではないので、どうかは分からないが、うちの父親はあまりしつこくものを言ってこない人だった。


 昔は酔っぱらったり、阪神が巨人に負けて機嫌が悪くなって八つ当たりされたことがあったけど、まあ許容範囲内であった。寡黙ともお喋りともあてはまらない人だった。だがその時の父親は、私を引っ張り回して胸倉を掴んだ。そして私もつい熱くなって胸倉を掴み返した。


 父親は驚いた様子で、でもすぐにカッとなって私に「殴ってみろ!」「おお、どうしたんや。殴れんのか、殴ってみんかい!」「今までそうやって散々殴ってきたんやろがい!」そう吠えた。


 私は震える拳を握って、父親の頬にあるちくちくの髭たちを睨みつけた。でもすぐに悲しくなって涙を流した。この時の涙は随分と久しぶりの涙だった気がする。我々は結局どちらからともなく、手を放して、その時は終わった。それからもしばらくは気まずさもあったが、時が経って、気まずさも幾つか緩和した。


「一回だけ、あるな」


 私は胸倉の掴み合いの経緯を軽くつまんで話した。私が泣いたことは言わなかった。


「って感じやな。ていうかいきなりなんで」

「……いや、ケンジん家もそういうのあるんかな思て、聞いてみただけ」

「なんやそれ。Oは父さんと喧嘩とかするんか」

「喧嘩って言うほどでもないんやけどな。反抗しても殴られるだけやし……この前も玉子焼き焦げたまま弁当に入れて頭どつかれたわ」


 Oは自虐的に寂しく笑った。私はチャンとした言葉が見つからなくて何も言えずに静かに笑った。


「ほなまた」

「おう、ケンジ。また明日」


 我々は二筋道にて別れた。

 Oはこの時、確かに「また明日」と言った。


 だがOは翌日から卒業まで一日も学校にくる事はなかった。


 その二日後か三日後か忘れたが、ニュースや新聞で『14歳少年。父親を金属バッドで殴り、逃走。未明、殺人未遂の疑いで逮捕』と取り上げられていた。

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