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第六部:後始末 札幌へ。

 東京・西麻布で起きた謎の集団事件は、マスコミによって「ガス漏れによる一酸化炭素中毒か」「新種のドラッグによる集団昏睡事件か」などと様々な憶測を呼びながら、センセーショナルに報じられた。しかし、その中心にいた玄武会という組織の名が公に出ることは、決してなかった。


 だが、裏社会のネットワークは、その沈黙の裏にある真実を正確に伝えていた。

玄武会が、正体不明のたった二人の男によって、一夜にして壊滅させられた、と。


 その衝撃は、津波のように北の大地、札幌へと到達した。旭真会の事務所は、完全なパニックに陥った。上部組織である玄武会が消滅したという事実は、彼らにとって世界の終わりを意味した。

 幹部たちは、自分たちの身にも破滅が迫っていることを本能的に悟り、蜘蛛の子を散らすように札幌の街から姿を消し始めた。


 手稲の隠れ家に戻った二人は、その様子を録画したモニター越しに静かに眺めていた。彼らの最後の仕事が、始まろうとしていた。


 新道のモニターには、旭真会の主要メンバー、十二人の顔写真がリストアップされていた。

東京での一件が公になる前に、智仁の仲間が旭真会のサーバーから抜き取っておいた最後のデータだった。


二人の狩りは、冷徹で、機械的だった。


 一人目と二人目は、海外逃亡を企てていた幹部たちだった。仲間が彼らの偽造パスポートの申請データと、新千歳空港へ向かうハイヤーの予約情報を掴んでいた。深夜、空港近くの長期駐車場。息を潜めていた智仁が、車から降りた二人の首筋に音もなく手刀を叩き込み、意識を奪う。新道が彼らの口に薬物を流し込み、深い昏睡状態に陥らせた。二人は、盗難車として通報されていた車の後部座席に乗せられ、警察が発見した時、彼らはただの「泥酔して眠り込んでいる不審者」にしか見えなかった。


 次の四人は、ススキノの雑居ビルに潜伏していた武闘派の組員たちだった。智仁が、消防設備点検を装ってビルに潜入し、彼らがいるフロアの火災報知器に細工をする。深夜、けたたましいベルの音とスプリンクラーの豪雨が、彼らをパニック状態で屋外へと追い立てた。路地裏で待ち構えていた新道が、煙幕弾を投げ込み、視界を奪われた彼らを一人、また一人と無力化していく。警察には「ビル内で違法な賭場が開かれている」という匿名のタレコミが入り、駆けつけた警官たちは、路地裏で折り重なるように倒れている男たちを「偶然」発見した。


狩りは、着実に続いた。


 組織の金庫番だった男は、愛人のマンションに現金を隠しているところを、隣室に潜んでいた二人によって拘束された。彼は、脱税の証拠書類と共に、自ら警察に出頭したかのような形で警察署の前に放置された。


 道内の温泉地に身を隠していた別の幹部は、入浴中にサウナ室に閉じ込められ、熱中症で意識を失ったところを「発見」された。


 一人、また一人と、リストの顔写真に赤い×印がつけられていく。彼らの手口は常に巧妙で、

痕跡を一切残さない。札幌の警察は、この不可解な現象に首を傾げるしかなかった。

 この数週間で、指名手配中の旭真会の人間たちが、まるで空から降ってきたかのように、

次々と警察の目の前に「転がって」くるのだ。


 そして、ついに最後の十二人目。旭真会の組長その人だった。彼は、全ての部下を失い、石狩の港にある廃倉庫に、たった一人で隠れていた。


 午後の港に、潮風だけが吹き抜ける。新道と智仁は、音もなく倉庫に侵入した。追い詰められた組長は、震える手で拳銃を構え隠れている。

 背後に現れた影が、彼の銃を持つ腕を掴み、あっさりと捻り上げた。

智仁だった。そして、死角から、新道が静かに姿を現す。


組長の目には、恐怖と絶望の色が浮かんでいた。目の前の男が、全ての元凶であることを、彼は悟った。


新道は、何も語らなかった。ただ、その男の顎に強烈な掌底を叩き込み、その意識を沈めた。


 夏の光が、石狩の低い雲を灰色から徐々に白へと変え後光が射し始めていた。旭真会の組長が、無力な塊となって廃倉庫の中に転がっているのを見届け、智仁は肩をすくめた。


「さて、と。これで全部おしまいっすね」

彼の口調は、まるで面倒な仕事を終えた後のように軽かった。

「俺、そろそろマジで帰らねえと、ただのサボり魔でクビになるわ。じゃあまた新道さん!」

智仁はひらりと手を振ると、遊びに来てたかのように颯爽と帰っていった。

彼の身軽さは、この壮絶な復讐劇の後日談にはあまりに不釣り合いだった。


 一人残された新道は、潮風に混じる鉄錆の匂いを深く吸い込んだ。長かった戦いが、終わった。

その解放感と、目的を失った虚脱感が、彼の全身を包み込む。


その時だった。


 背後のコンテナの影から、何の気配も音もなく、一人の男がぬっと姿を現した。


 新道は、全身の神経が警告を発するのを感じ、ゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、忘れようにも忘れられない、あの男だった。

 戦闘に特化したあの男。その体格は屈強で、佇まいからは一切の感情が読み取れない。

なぜここに。どうやって。思考するより早く、新道の身体は戦闘態勢に入っていた。


 男は何も語らない。ただ、その手には闇に鈍く光るコンバットナイフが握られていた。その瞳は、復讐でも憎しみでもなく、ただ純粋な闘争への渇望に満ちていた。


次の瞬間、二人の姿が交錯した。


キィン!という甲高い金属音が、夕焼け前の静寂を切り裂く。新道が抜き放った警棒と、男のナイフが火花を散らした。速い。これまで対峙した誰とも違う、次元の違う速度と重み。


 男のナイフが、新道の肩を浅く切り裂く。新道は痛みに顔をしかめる間もなく、身を翻して男の脇腹を打つ。だが、男は最小限の動きでそれを避け、分厚いジャケットに線が走るだけにとどまった。


互角。いや、純粋な戦闘技術では、相手がわずかに上かもしれない。


 二人は距離を取ると、互いの呼吸を読み合うように睨み合った。この戦いがただの殺し合いではないことを、暗黙の内に示していた。


 再び、男が動いた。フェイントを織り交ぜた高速の突き。新道はそれを紙一重でかわし、男の腕を掴もうとする。だが、男は掴まれた腕を軸に身体を回転させ、強烈な回し蹴りを新道の腹部に叩き込んだ。


「ぐっ…!」

息が詰まり、数メートル後方に吹き飛ばされる。アスファルトに背中を強かに打ち付けたが、すぐに体勢を立て直した。口の端から、血が伝う。


 新道は、医師としての知識を総動員した。筋肉の走行、神経の束、骨格の急所。彼の攻撃は、全てが人体の最も脆い部分を狙っている。対する男の攻撃は、戦場で磨き上げられた、純粋な破壊のための技術だった。


 ナイフが空を切り、コンテナに突き刺さる。新道がその隙を突いて距離を詰め、男の首筋に掌底を叩き込むが、男は首をわずかに傾けて威力を殺し、逆に新道の足に強烈なローキックを浴びせた。膝が砕けるような衝撃に、思わず片膝をつく。


 もはや、両者ともに無傷ではいられなかった。新道の腕と腹には生々しい切り傷が走り、おびただしい血が流れている。男もまた、顔や脇腹に深い傷を負い、その息は荒くなっていた。


勝負は、最後の一瞬で決まる。


 男が、勝負を決めるべく大きく踏み込んできた。そのナイフが、新道の心臓を正確に狙って突き出される。新道は、それを避けることを選ばなかった。自らも前に踏み出し、男の懐に潜り込む。


 男のナイフが、新道の左肩の付け根に深く突き刺さった。激痛が全身を貫く。だが、その痛みと引き換えに、新道の右手もまた、急所を捉えていた。握りしめた木の枝が、男の鎖骨の下、動脈が集中する一点に、深く、深く突き立てられていた。


「…がっ…」

男の目から、初めて闘志以外の色、驚愕の色が浮かんだ。力が抜け、ナイフが新道の肩から滑り落ちる。男の巨体は、そのままゆっくりと後ろに倒れ込み、アスファルトの上で二度、三度と痙攣すると、完全に動きを止めた。


勝った。


 その認識と同時に、新道の身体から全ての力が抜け落ちていった。肩からの出血が酷い。腹も、足も、もはや感覚が麻痺し始めている。彼は、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。





 ぴくり、と指先が動いた。コンクリートの冷たさと、べったりと肌に張り付く、粘つく液体が、意識を現実へと引き戻す。


 最初に感じたのは、鉄錆のような血の匂いと、全身を鈍く苛む痛みだった。

瞼は糊で固められたように重く、それをこじ開けると、滲んだ視界に燃えるような夕焼けが飛び込んできた。

 ゆっくりと、一つ一つの動作を確認するように、身体を起こそうと試みる。肘をつこうとした腕が、灼けつくような痛みを訴えて震える。見れば、黒ずんだ血に濡れたシャツの袖が裂け、その下の腕には生々しい刺し傷が口を開けていた。顔をしかめながら、もう片方の腕に力を込める。腹の底から何かがせり上がってくるような不快感と、めまいにも似た浮遊感に耐えながら、軋む身体を少しずつ持ち上げていった。

 腹部に走る激痛に、思わず息が詰まる。そこにも、深い傷があった。おびただしい量の血が流れ出し、乾き始めてアスファルトに黒い染みを作っている。

 足も、腕も、そしておそらくは顔も、無数の切り傷と刺し傷に覆われているらしかった。もはやどこが痛みの中心なのかさえ分からない。


 ゆっくりとようやく上体を起こした男の視線の先に、もう一つの人影が転がっていた。

屈強なガタイのいい男。こちらも自分と同じように、あるいはそれ以上に全身を血に染め、ぴくりとも動かない。

胸がかすかに上下しているのが見て取れなければ、死んでいるとしか思えなかっただろう。


 意識はないようだ。


 震える手でポケットを探った。指先に、潰れたタバコの箱が触れる。なんとか一本を取り出し、唇に咥えた。

 湿気ってしまったそれを、何度か空打ちしたライターの頼りない炎でようやく着火させる。乾いた唇から、煙が細く立ち上った。肺の奥まで吸い込んだ煙が、わずかに痛みを和らげる。

 男はゆっくりと空を見上げた。遠くの水平線に沈みゆく夕日が、最後の輝きを放っている。

燃えるような赤と、深い藍が混じり合う空のグラデーションを、男はただ、じっと見つめていた。


 その瞳には、絶望も、安堵も、何の感情も浮かんでいなかった。

ただ、あまりにも美しいその光景を、目に焼き付けるように。

それは、四年前、さくらを失ったあの日の夕焼けに、どこか似ている気がした。


長い、長い復讐が終わったのだ。


携帯電話を取り出した。そして、メモリのトップにある番号に、発信する。


 数回のコールの後、眠たげな、しかし聞き慣れた声が聞こえた。

「…はい、川口です…」

「…川口さん…俺だ…新道だ…」

途切れ途切れの声に、電話の向こうで川口が息を呑む気配がした。

「石狩の…港…第3倉庫の…前だ…悪いが…手当を…頼む…」


 そこで、彼の意識は、静かに沈んでいった。携帯電話が、力なく手から滑り落ちる。

彼の隣には、同じく血塗れで意識を失った、ガタイのいい男が転がっていた。


 潮の匂いとカモメの甲高い声が夏の夕暮れに海を赤く染めていた。


 この物語を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。


 「静かな人間の内なる激情」をテーマに、一人の男の過去を描いてみたい、という思いからこの物語は始まりました。普段は穏やかな町医者である主人公が、愛する人を奪われた悲しみと怒りを原動力に、超人的な能力を発揮するという二面性は、書いていて最も心を砕いた部分です。


また、孤独な復讐者である新道にとって、唯一無二の理解者であり、彼の人間性を繋ぎとめる錨のような存在として、相棒の智仁を登場させました。彼のちゃらけた明るさが、物語の重厚な雰囲気に少しでも緩急と彩りを与えられていれば幸いです。


物語の構成としては、冒頭のシーンに最後のシーンが繋がる「円環構造」を意識しました。これは、彼の長い復讐の旅が終わりを告げ、また新たな(あるいは本来の)人生が始まるのかもしれない、という仄かな希望と、復讐という行為が結局は何も生み出さず、ただ元の場所に戻るだけという虚しさを同時に表現したいという意図からでした。


彼の戦いが、そして彼の選んだ道が、読者の皆様の心に何か一つでも残るものであったなら、これに勝る喜びはありません。


改めて、ご愛読ありがとうございました。

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