第三部:再び、札幌 手稲
雑居ビルの一室は、外界から完全に遮断された、新道だけの城塞と化していた。
窓は遮光カーテンで閉ざされ、部屋を照らすのは四つのモニターが放つ無機質な光だけ。
時間の感覚は希薄になり、昼と夜の区別は、モニターに映る街の景色によってのみ認識された。
彼の生活から、医師であった痕跡は消え失せ、食事は最低限の栄養バーと水だけ。
睡眠は、極度の疲労で意識が途切れる数時間のみ。
彼の全ては、復讐というただ一つの目的のために最適化されていた。
モニターには、札幌中の監視カメラから抜き取られた映像、盗聴した音声データ、そして旭真会の内部システムから違法に引き抜いた情報が、絶えず流れ続けていた。彼は、ゴーストのような存在となった旭真会の五人の男たちの情報を、執拗に追い求めていた。
膨大な映像データをAIで解析し、彼らの行動パターンを分析する。その結果、少しずつだが、その輪郭が見え始めていた。五人のうちの一人、常に周囲を警戒し、その歩き方、視線の動きに一切の無駄がない男。一度、組の事務所近くでチンピラ同士のいざこざが起きた際、彼が割って入った映像があった。
それはもはや喧嘩の仲裁ではなかった。常人には目で追えないほどの速さで相手の急所を的確に打ち抜き、一瞬で無力化するその動きは、特殊な訓練を受けた戦闘のプロフェッショナルであることを雄弁に物語っていた。
もう一人は、その姿をほとんど現さないが、新道が旭真会のデジタル領域に侵入するたびに、巧妙で高度な防御壁として立ちはだかった。新道が仕掛けたウイルスは即座に検知・駆除され、逆にこちらの痕跡を辿ろうとするカウンターハッキングの鋭さは、並みの技術者ではないことを示していた。間違いなく、組織の情報を守る、優れたハッカーだ。
だが、残りの三人は、依然として謎のままだった。彼らはただ、幹部のそばに影のように佇んでいるだけで、その役割も、能力も、一切が不明だった。その得体の知れなさが、新道に一層の警戒心を抱かせた。
そして、最も重要なターゲット。谷が死に際に漏らした、「四年前の事件に関わった男」。
新道は、組の内部データを洗い直し、当時のアリバイが不自然な幹部を一人、特定していた。
男の名は黒川。現在の旭真会で、若頭の地位にいる男だ。
新道は、黒川に接触し、四年前の事件の真相と、さくらを殺害した実行犯、そしてその背後にいる黒幕の情報を引き出すことを計画した。しかし、その計画は早々に暗礁に乗り上げる。
監視カメラが映し出す黒川は、決して一人で行動することがなかった。料亭での会合、高級クラブでの遊興、事務所への出入り。そのいかなる時も、彼の周囲は常に屈強な組員たち、そしてあの身元不明の男たちのうちの誰かが、鉄壁の警護を固めていた。車での移動時も、前後を別の車が固める徹底ぶり。新道が付け入る隙は、どこにも見当たらなかった。
うかつに手を出せば、確実に返り討ちに遭い、全ての計画が水の泡になる。新道はモニターに映る黒川の顔を、冷たい瞳で睨みつけながら、何度も頭の中で接触のシミュレーションを繰り返した。だが、導き出される結論は、常に「失敗」の二文字だった。
焦りが、彼の心を静かに蝕んでいく。だが、その表情は変わらない。彼はただ、現状を冷静に分析し、別の、より確実なアプローチを探し始めていた。力ずくでの接触が不可能ならば、別の方法で彼を一人にさせ、情報を引きずり出すしかない。
新道はキーボードに指を走らせ、札幌市の水道局や電力会社のサーバーへの侵入を開始した。彼の思考はすでに、新たな作戦の構築へと移行していた。
札幌のインフラを司るサーバーの深層部に、新道は音もなく潜り込んでいた。彼の指先がキーボードの上を疾走し、電力、水道、交通管制システムといった、都市の血流とも言えるライフラインの制御権を一つ、また一つと掌握していく。彼の目的は、物理的な破壊ではない。都市機能の一時的な、そして局所的な麻痺。鉄壁の要塞に守られた王を、その外堀から崩していくための、緻密な準備だった。
ターゲットは、黒川が週に二度、決まって訪れるススキノの高級スパ。会員制でセキュリティは厳しいが、その内部に入ってしまえば、誰もが裸になる無防備な空間だ。そこが、作戦の舞台だった。
数日後、黒川の乗る黒塗りのセダンがスパのエントランスに滑り込むのを、近隣ビルの屋上から監視していた新道は、静かにノートパソコンのエンターキーを押した。
その瞬間、ススキノの一角が、まるで深海に沈んだかのように沈黙した。スパはもちろん、周辺のブロック一帯の全ての照明が消え、非常用電源さえ作動しない完全な暗闇が訪れる。街の喧騒が、一瞬にして不安な囁きに変わった。さらに、スパを中心とした半径五〇〇メートルの信号機が全て赤で固定され、意図的に作り出された大渋滞が、警察や組の増援が駆けつけるための道を物理的に塞いでいた。
スパの内部は、阿鼻叫喚の渦に叩き込まれた。突然の暗闇に、利用客の悲鳴が響き渡る。その混乱をさらに増幅させるように、天井のスプリンクラーが火災報知器の誤作動を装って、冷たい水を豪雨のように撒き散らし始めた。携帯電話は圏外となり、外部との連絡手段は完全に断たれている。
「何事だ!」「落ち着け!」
黒川の部下たちの怒声が響くが、暗闇と水、そしてパニックに陥った人々の波に、彼らの統制はあっという間に崩壊した。黒川もまた、混乱の中で部下たちとはぐれてしまう。
「クソッ、どこだ!」
苛立ちの声を上げる黒川の腕を、暗闇の中から伸びてきた手が、鋼鉄の万力のように掴んだ。
「ひっ…!」
黒川が悲鳴を上げる間もなく、首筋に鋭い衝撃が走り、彼の意識は闇に落ちた。
次に黒川が意識を取り戻した時、彼は配管が剥き出しになった、蒸し暑いボイラー室の床に転がされていた。両手は背後で固く拘束され、口には粘着テープが貼られている。目の前には、暗視ゴーグルを装着した、黒ずくめの小柄な男が、氷のような瞳で彼を見下ろしていた。新道だった。
新道は無言で黒川の口のテープを剥がすと、その耳元で静かに、しかし腹の底に響くような声で囁いた。
「四年前、東京で、お前は何をした」
「…てめえ、何者だ…」
強がる黒川の言葉を無視し、新道は続けた。
「お前が殺した女の名を言え」
その言葉に、黒川の顔色が変わった。動揺を隠せない。
「…し、知らねえな…人違いだろう」
「そうか」
新道は短く応じると、黒川の足首を掴んだ。そして、解剖学的に最も苦痛が大きく、それでいて致命傷にはならない神経の走行部分を、指先で的確に、そして容赦なく圧迫した。
「ぐっ…ぎぃあああああああっ!」
全身を貫く、焼けるような激痛に、黒川の巨体がエビのように跳ねる。声にならない絶叫が、ボイラー室に響き渡った。
「もう一度聞く。女の名は」
「…さ…さくら…」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、黒川は途切れ途切れに答えた。
「そうだ。よくできたな」
新道は圧迫を解いたが、その瞳の冷たさは変わらない。
「なぜ殺した。誰の指示だ」
「…お、俺じゃねえ!俺は直接は…!」
「実行犯の名を言え。そして、指示した人間の名を。さもなくば、今度は全身の関節を、一つずつ外していく」
その声には、一切の感情がなかった。だからこそ、黒川は本能的な恐怖に支配された。こいつは、本当にやる。
観念した黒川は、ついに全てを白状し始めた。
「実行犯は…当時、うちにいた外様のチンピラだ…。もうとっくに消した…。指示したのは…俺たち旭真会だけじゃねえんだ!」
「何?」
「あの女をさらって、お前をおびき出す計画を立てたのは…もっと上の連中だ…!俺たちは、その手駒にされただけに過ぎねえ!」
「上の連中とは誰だ」
「げ…玄武会だ…」
「玄武会だと…?」
「そうだ…東京に本家を置く、俺たち旭真会の上部団体だよ!あんた四年前に潰したあの組も、玄武会の傘下だったんだ!」
黒川の言葉に、新道の脳裏で全てのピースが繋がった。自分は、巨大な蛇の尻尾を踏み潰したに過ぎなかったのだ。
「奴らの目的は何だ」
「そんなことはわからねぇ!命令だからな!あんたがこんなに強いなら俺たちゃぁやらなかった!」
ほとんど悲鳴に近かった。
その時、遠くからサイレンの音がかすかに聞こえ始めた。
新道が仕掛けた交通麻痺が、解け始めたのだ。もはや時間はない。
新道は、気絶させるのに十分な量の薬物を詰めた注射器を取り出すと、それを黒川の首筋に突き立てた。抵抗する間もなく、黒川は再び意識を失う。
情報を得た新道は、もはや用済みの男に一瞥もくれず、ボイラー室の闇に溶けるように姿を消した。
彼が建物を出た直後、ススキノの街に光が戻り、スパには警察と組員たちがなだれ込んでいった。
だが、混乱の中心にいたはずの復讐者の影は、どこにも見当たらなかった。
手稲の自室に戻った新道は、モニターに映る旭真会の事務所の映像を、無表情で見つめていた。
敵は、この札幌にいるチンピラどもではない。
さくらを奪い、自分の人生を狂わせた元凶は、北の海を隔てた、あの東京にいる。
復讐の矛先は、今、明確に定められた。
「玄武会…」
その名を、彼は地獄の底から響くような低い声で呟いた。復讐の舞台は、札幌から、全ての始まりの地である東京へと移ろうとしていた。
手稲の部屋の空気は、張り詰めたままだった。新道は、黒川から聞き出した「玄武会」というキーワードを元に、あらゆる手段を尽くして情報収集にあたっていた。
だが、その成果は驚くほどに皆無だった。
インターネットの表層はもちろん、アンダーグラウンドの巨大掲示板や闇サイト、海外の情報ブローカーが持つデータベースに至るまで、彼のハッキング能力を駆使して深層まで潜った。
しかし、「玄武会」という組織の実態を示すデータは、どこにも存在しなかった。
まるで、最初から存在しないゴーストを追いかけているかのような、不気味な手応えのなさ。
それは、この組織が物理的な暴力だけでなく、情報統制においても恐るべき能力を持っていることの証明だった。
一方で、モニターに映る旭真会の事務所は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
若頭である黒川が、忽然と姿を消したのだ。
組員たちは混乱し、苛立ちを隠せずに事務所を出入りしている。
玄武会に消されたのか、それとも正体不明の何者かに連れ去られたのか。
組織の統制は乱れ、疑心暗鬼が渦巻いていた。
この混乱は、いずれ新道の存在へと繋がる危険な火種でもあった。
ことが大きくなりすぎた。敵は、札幌のチンピラ集団ではない。
実態さえ掴めない、巨大で狡猾な組織。東京へ乗り込むにしても、このままでは犬死にするだけだ。
新道は、モニターに映る無数の情報を前に、初めて一人での復讐の限界を悟り始めていた。
命が常に狙われる状況下で、誰かに助けを求めることは、その相手を死地に引きずり込むことと同義だ。そんな真似はできない。
ただ、一人を除いては。
その夜、新道は全てのモニターの電源を落とし、部屋の闇に溶け込むように外へ出た。
午前0時。札幌、中央区東三条。古びた雑居ビルの屋上は、吹き抜ける夜風が肌寒い。
眼下にはススキノの眠らないネオンが煌めいているが、その光もここまでは届かない。
新道は、フェンスに背を預け、ただ静かに街を見下ろしていた。
不意に、背後で気配がした。音は、一切なかった。まるで闇そのものが人の形をとったかのように、そこに一人の男が立っていた。
「新道さ〜ん久しぶり〜」
間延びしたチャラチャラした口調で静かに言った、新道は振り返らなかった。
「ああ」
短く応える。それだけで、十分だった。
男は新道の隣に並び、同じように眼下の夜景を見つめた。歳は新道より十歳ちがう。
薄手のシャツで見た目はチャライが、夜なので派手目ではない。だがその佇まいは、裏社会の人間とも、堅気の人間とも違う、独特の空気を放っている。彼の名は、智仁。
かつて、新道が外国の野戦病院で国境なき医師団にいる時に怪我人で出会ったのが彼だった、処置してまもなく、病院が襲われ、生死の境界線を二年間、何度も共に越えてきた、唯一無二の仲間だった。
「どうしたんです?今日は、すすきの連れてってもらえるんですか〜?」
智仁は、面白がるように口の端を上げた。
「頼めるか?」
「聞きましょう」
真顔になった。
「一人の女が殺された。四年前だ」
新道は、ぽつり、ぽつりと事の経緯を語り始めた。さくらのこと、病院でのこと、そして玄武会の存在。智仁は、ただ黙って聞いていた。相槌も、質問も挟まない。彼の共感は、言葉ではなく、ただそこにいるという存在そのもので示されていた。
全てを話し終えた新道に、智仁は静かに問いかけた。
「で、どうします。その玄武会とかいうのを、潰したいですか」
「いや」
新道は、初めて智仁の方を向いた。その瞳には、暗く、しかし揺るぎない決意の炎が燃えていた。
「俺は、俺の全てを奪った連中から、全てを奪い返す。ただ、それだけだ」
智仁は、ふっと息を吐くと
「いいでしょう。友の頼みだ、断れないでしょう」
チャラかった印象が微塵も感じられない目を、空にむけた。
言葉は少なくとも、覚悟は共有された。孤独な復讐者の隣に、最強の協力者が立った瞬間だった。