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第二部:東京 過去

【四年前:東京】


 東京の大学病院で、新道は救命救急センターのエースだった。神業的な技術と、いかなる状況でも冷静さを失わない精神力。彼の両手は、数えきれないほどの命を死の淵から救い上げてきた。


 ある週末の夜だった。けたたましいサイレンと共に、二つの命が同時に運び込まれた。一つは、暴力団の抗争で腹を撃たれた屈強な男。そしてもう一つは、交差点でトラックにはねられた、まだ五歳の少女。少女は、すでに心肺停止状態だった。


「先生!」

複数の医師が、どちらを優先すべきか判断を仰ぐ。新道は一瞬だけ二人を見比べると、迷いなく叫んだ。

「子供が先だ!全員こっちへ!」


 彼の判断は正しかった。少女は奇跡的に一命を取り留めた。

銃創の組員も、他の医師の処置で命に別状はなかった。

しかし、この一件が、新道の運命を狂わせる。

組員が所属していた組織が、幹部の治療を後回しにされたことを「恥」と受け取ったのだ。


病院への嫌がらせは、陰湿さを増していった。深夜の無言電話は鳴り止まず、新道のロッカーは頻繁に荒らされた。

だが、彼が何より心を痛めたのは、その脅威が、彼が守るべき世界、恋人である「さくら」の日常にまで影を落とし始めたことだった。


 さくらは、新道が唯一、心を許せる人間だった。彼女の前でだけ、彼は命の瀬戸際で戦う医師の鎧を脱ぎ、ただの新道龍二に戻ることができた。


「大丈夫だよ、龍二は何も間違ってない」そう言って微笑む彼女の笑顔が、彼の全てだった。

しかし、その彼女の郵便受けに見知らぬ男が長時間佇んでいたり、帰り道に不審な車が後をつけてきたりと、卑劣な圧力は確実に彼女へと近づいていた。


「俺のせいで…」

新道が謝罪の言葉を口にするたびに、さくらは彼の口を人差し指でそっと塞いだ。

「龍二のせいじゃない。悪いのは、命の価値もわからない人たちだよ。私は、あなたの正しさを信じてる」

気丈に振る舞う彼女の瞳の奥に、隠しきれない怯えの色が浮かんでいることに、新道は気づいていた。

その日を境にさくらと一緒に暮らした。


 何日か過ぎ、

その日も、彼は執拗な嫌がらせに疲弊しきって、救命センターでの激務を終えた。

せめて声だけでも聞きたいと、いつものようにさくらに電話をかける。

しかし、何度呼び出し音を聞いても、彼女が出ることはなかった。

メッセージを送っても、既読のしるしはつかない。


 胸を支配し始めた嫌な予感が、急速に膨れ上がっていく。

新道は着替えもそこそこに病院を飛び出し、タクシーに乗り込むと、アパートへと向かった。


 ドアを開ける。部屋は、静まり返っていた。

テーブルの上には、彼女が読んでいたのであろう雑誌が開かれたまま置かれている。

キッチンには、二人で飲むために買っておいた紅茶の缶。何もかもが、いつもの日常のままだった。

ただ、そこにいるはずの彼女だけが、忽然と姿を消していた。まるで神隠しにでもあったかのように。


 血の気が引いていくのがわかった。夜の街を駆けずり回った。

彼女が行きそうな場所、思い出の公園、よく立ち寄ったカフェ。

しかし、どこにも彼女の姿はなかった。


 時間だけが、無情に過ぎていく。一日、また一日と彼女の不在が続くと、新道の心は焦燥と絶望で擦り切れていった。食事も睡眠も忘れ、彼は亡霊のように彼女の影を追い求め続けた。


 そして、悪夢が現実になったのは、彼女が消えてから三日目のことだった。携帯電話が鳴り響き

「新道龍二さんですか…落ち着いて聞いてください…念のため、確認に来ていただけますか」

警察からだった。ところどころ聞きそびれた。

その言葉の意味を、頭が理解することを拒絶した。足が鉛のように重い。

警察署の冷たく、無機質な廊下を歩き、案内されたのは、死体安置所の凍てつくような部屋だった。


白いシーツが、ゆっくりと、ためらうようにめくられる。


 そこに横たわっていたのは、さくらだった。いつも優しく微笑んでいたはずの顔には、恐怖と苦痛の痕跡が生々しく刻まれ、その白い肌には、無数の痣が痛々しく残っていた。

新道の時間が、完全に止まった。声が出ない。呼吸さえ忘れていた。

ただ、目の前の光景が、信じられなかった。


 彼は震える手で、彼女の頬に触れた。氷のように冷たい。その絶対的な冷たさが、彼女がもう二度と笑うことも、怒ることも、彼の名を呼ぶこともないという、残酷な現実を脳髄に直接叩きつけた。


「あ…あ…」

喉から、獣のような、意味をなさない声が漏れた。

「さくら…」

名前を呼んでも、返事はない。彼は、その場に崩れ落ちた。冷たい床に両手をつき、背中を丸め、声を殺して泣いた。なぜ、守れなかった。なぜ、俺はここにいるのに、お前はそんな冷たい場所にいるんだ。

後悔と自責の念が、彼の心を内側から引き裂いていく。


 どれくらいの時間が経っただろうか。涙は枯れ果て、嗚咽も途絶えた。新道はゆっくりと顔を上げた。その瞳から、悲しみの色は消え失せていた。代わりに宿っていたのは、地獄の業火のように燃え盛る、昏い憎悪の光だった。


 彼は、もう一度さくらの冷たい手を、今度は強く、強く握りしめた。


「約束する、さくら」


その声は、静かでありながら、部屋中の空気を震わせるほどの重い響きを持っていた。


 (お前をこんな目に遭わせた奴らを、俺がこの手で、一人残らず地獄に送ってやる。必ずだ)

 それは、復讐の誓いだった。その瞬間、人の命を救うことを天命としていた医師、新道龍二は死んだ。そして、ただひたすらに標的を狩る、冷徹な復讐者が生まれた。


  その夜、東京の街には冷たい雨が降り注いでいた。雨は、アスファルトの汚れも、そして人の心に巣食う澱みも、全て洗い流そうとするかのように激しく地面を叩いていた。


 新道は、黒い防水ジャケットのフードを目深にかぶり、目的の雑居ビルの前に立っていた。暴力団の事務所が入るそのビルは、けばけばしいネオンサインとは対照的に、不気味な静寂に包まれている。彼は通用口の鍵を、まるで自分の家に入るかのように、音もなく開錠した。彼の指先は、メスを握る精密さで、複雑なシリンダー錠の内部を探り当てていた。


 事務所のドアの前に立つ。中からは、下品な笑い声と、麻雀牌をかき混ぜる音が漏れ聞こえてくる。彼は躊躇しなかった。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと、しかし確実な力で押し開ける。


 『ギィ』と軋む蝶番の音に、室内の会話が途切れた。煙が立ち込める部屋の中、十数人の男たちが一斉に新道に視線を向ける。小柄で、雨に濡れた侵入者。その姿は、あまりにも場違いで、ひ弱に見えた。

「あんだコラ、誰に断って入ってきやがった」

ソファにふんぞり返っていた一人が、凄みを利かせて立ち上がる。他の者たちも、嘲笑や侮蔑の表情を浮かべ、面白半分に成り行きを見守っていた。


 何も答えなかった。ただフードを外し、その冷え切った瞳で、部屋にいる全ての男の顔を、一人一人、順番に見ていった。その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。悲しみも、怒りさえも。

ただ、目の前の物体を観察するような、無機質な光があるだけだった。


「聞こえねえのか、この野郎!」

最初に立ち上がった男が、痺れを切らして新道に掴みかかろうと腕を伸ばす。


その瞬間だった。


 新道の姿が、ふっと消えたように見えた。次の瞬間には、彼は男の懐深くに潜り込んでいた。伸ばされた腕を内側から受け流し、その肘関節に、体重を乗せた掌底を寸分の狂いもなく叩き込む。


「ゴキッ」という、湿った木が折れるような鈍い音が響き渡った。


「ぎゃあああああっ!」


 男の絶叫が、事務所の空気を切り裂く。腕はありえない方向に曲がり、骨が皮膚を突き破っていた。男が床に崩れ落ちるのと、新道が次の標的に向かって踏み出すのは、ほぼ同時だった。


 嘲笑は、驚愕と恐怖に変わった。

「てめえ、殺せ!」

誰かの怒声が響き、男たちがテーブルを蹴り倒し、椅子や灰皿を掴んで一斉に襲いかかってくる。


 だが、彼らの動きは、新道の目にはあまりにも遅く、無駄だらけに映っていた。

彼は人混みの中を、まるで水の中を泳ぐ魚のように滑らかに、しかし恐ろしいほどの速度で駆け抜ける。


 ビール瓶を振りかざした男の脇をすり抜け、その首筋、頸動脈洞に指先を突き立てる。男は「うっ」と呻いたまま、意識を失って崩れ落ちた。ドスを抜いた男の手首を掴むと、腱を的確に圧迫し、いとも簡単に刃物を落とさせる。そして、その男の身体を盾にしながら、背後にいた別の男の膝関節を、横薙ぎに蹴り砕いた。


悲鳴と怒号が入り乱れる。しかし、その数は急速に減っていった。新道の攻撃は、一つ一つが人体の急所を正確に捉えていた。喉仏、みぞおち、こめかみ、眼球。医師として知り尽くした人体の構造は、今や最も効率的な破壊のための設計図と化していた。


一人の男が、震える手で拳銃を抜こうとする。だが、ホルスターから銃身が覗くより早く、新道が投げつけたウイスキーボトルがその顔面を直撃し、砕け散った。ガラスの破片と血に塗れた男がひるんだ一瞬、新道は距離を詰め、その顎を強烈な肘打ちで打ち抜き、脳を揺らして沈黙させた。


 それは、もはや「喧嘩」や「戦闘」ではなかった。熟練の職人が、決められた手順に従って作業をこなしていくような、冷徹で、機械的で、一方的な「制圧」だった。


 数分後。事務所には、完全な静寂が訪れていた。

十数人の男たちが、まるで打ち捨てられた人形のように床に折り重なり、呻き声一つ立てる者はいない。死んではいない。だが、その全員が、回復不能に近い肉体的ダメージを受け、戦闘能力を完全に奪われていた。


 部屋の中央に、新道は一人、静かに立っていた。返り血は、ほとんど浴びていない。呼吸はわずかに乱れているが、その表情は能面のように変わらない。彼は、さくらを奪った者たちの無力な姿を、その昏い瞳に焼き付けるように見下ろした。


そして、一言も発することなく、背を向けた。


 彼がビルを出ると、雨はさらに勢いを増していた。雨音が、ビルの中で起きた惨劇の記憶をかき消していく。この瞬間、一つの組が地図の上から消えた。


 全ての痕跡を消して姿をくらました新道のもとに、数日後、一枚の紙片が届けられた。

黒い旭の紋章が一つだけ押された、漆黒の紙。

裏社会に君臨する謎の組織からの警告だった。

『殺』とだけ記してあった。

新道は、その紙を無言で引き裂き、ライターの炎で灰にした。


彼は全ての過去を焼き捨てるように、北へ向かう夜行列車にその身を滑り込ませた。

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