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第一部:札幌 町病院

 遡ること半年前、札幌。


 街は初夏の気配に満ち、ライラックの甘い香りが風に乗って運ばれてくる季節だった。大通公園の噴水がきらきらと陽光を反射し、人々は穏やかな昼下がりを享受している。

 そんな都市から少し離れた住宅街に、その病院はひっそりと佇んでいた。

古くから続く、地域に根差した小さな町病院。龍二がここに流れ着いて、一年が経とうとしていた。


 新道龍二、三十四歳。東京の大学病院から来た、ということ以外、彼の過去を知る者は誰もいない。


 彼の身長は、成人男性としてはかなり低い。百六十センチに満たないその背丈は、白衣を着ていてもどこか頼りなげな印象を与えた。いつも眼鏡をかけ、その奥の瞳は、どこか焦点が合っていないかのようにぼんやりと遠くを見ていることが多い。診察室の椅子に座る彼は、いつも静かで、おとなしかった。


 しかし、その人当たりの良さは誰もが認めるところだった。不安を抱えて訪れる高齢の患者には、孫のように優しく、根気強く話を聞いた。泣きじゃくる子供には、目線を合わせ、魔法でも見せるかのように巧みに注意を逸らして注射を終える。多忙な看護師たちへの指示は的確で、それでいて常に労いの言葉を忘れない。医師仲間との会話でも、決して自らの意見を強く主張することはなく、穏やかな笑みを浮かべて聞き役に徹した。街の商店街ですれ違えば、誰にでも丁寧にお辞儀をする。その姿は、絵に描いたような「善良な町の医者」そのものだった。彼はまるで、自らの存在の輪郭を曖昧にするかのように、人々の記憶に強く残らないよう、目立つことを巧みに避けていた。


 新道の内科診察室のドアが、遠慮がちにノックされた。

どうぞ、と彼が穏やかに声をかけると、勢いよくドアが開いておばあちゃんが

「先生、ちょっときいて!」と言いながら入ってくる。

齢七十は超えているだろうが、その声の張りは実年齢を感じさせない。

彼女は、特に悪いところがあるわけではない。高血圧の薬を処方されてはいるが、数値は安定しており、むしろ健康そのものだ。しかし、彼女はほとんど毎日のようにこの診察室に顔を出した。


「先生、なんだか昨日からね、この右の肩がほんのちょっとだけ重たいような気がするのよ」

 新道はいつものように「そうですか、それは心配ですね」と優しい相槌を打ちながら、聴診器を彼女の背中と胸に当てる。その所作はゆっくりとしていて、焦るという感情が抜け落ちているかのようだ。

「うーん、心臓の音はいつも通りきれいですよ。肺も問題ありませんね」

「そう?でもねえ…」

 そこから始まるのは、近所のスーパーの特売の話、隣の家の嫁の愚痴、飼っている猫の自慢話。

新道は、パソコンのカルテ画面を見つめているのか、あるいはその向こうの何かを見ているのか、ぼんやりとした表情で、うん、うんと頷き続ける。時折、的確な相槌を挟むことを忘れない。

十分近く話し込んで、すっかり満足した様子で「じゃあ先生、また明日ね」と手を振り、診察室を出て行った。


 看護師が、やれやれといった顔で溜息をつく。

「先生、小池さん、今日も長かったですね。先生は優しすぎますよ。こっちは次の患者さんたちが待ってるっていうのに」

「まあまあ、小池さんも誰かに話を聞いてほしいんですよ。それが一番の薬になることもある」

新道は、そう言ってふわりと笑うだけだった。その怒りや苛立ちといった感情をどこかに置き忘れてきたような表情に、看護師もそれ以上は何も言えなくなる。

「じゃあ、次の方どうぞ」

呼び入れられて入ってきたのは、腰を六十度に曲げたシゲさんだった。八十歳はとうに超えているだろう。

「先生、わしは腰が痛くてかなわん」

杖を突きながら、シゲさんは診察用の椅子にゆっくりと腰を下ろす。

「シゲさん、腰ですか。いつから痛みます?」

内科医の自分に専門外の痛みを訴えるシゲさんを無下にすることなく、辛抱強く話を聞き始めた。

どこが、どのように痛むのか。いつもの整形外科でもらった湿布は効いているのか。その優しい問いかけに、最初はぶっきらぼうだったシゲさんも、次第に心を開いてぽつりぽつりと症状を語り出す。


 もちろん、こうした常連の老人たちばかりが彼の患者ではない。合間には、高熱を出した子供が母親に抱かれてきたり、咳が止まらないというサラリーマンが駆け込んできたりもする。そんな「まともな」患者たちに対して、彼の診察は驚くほど的確で、無駄がなかった。必要な検査を指示し、的確な薬を処方する。その手際の良さと、普段のぼんやりとした姿とのギャップに、看護師たちが密かに首を傾げていることを、新道は知る由もなかった。


 その日の外来診察が全て終わった後、新道は当直の任に就いた。

この病院は二次救急の指定を受けていないため、救急車のサイレンが鳴り響くことはない。

しかし、夜間に急な発熱や腹痛を訴える患者のために、夜間緊急外来の窓口は開かれている。

 大抵は、穏やかな夜が更けていくだけだ。

新道は医局のデスクで分厚い医学書を開いていたが、その視線は活字の上を滑るだけで、頭には入っていなかった。


 時計の針が深夜二時を回った頃、夜の静寂を切り裂くように、外来の入り口から荒い息遣いと、何かを引きずるような生々しい音が聞こえてきた。

 当直の看護師、川口美園が「どうしました!」と声を張り上げながら駆け出す。新道も、読んでいた医学書のページに栞を挟むと、静かに立ち上がった。


 処置室のベッドに倒れ込むように横たわったのは、血塗れの男だった。脇腹を自身のジャケットで強く押さえているが、その布地はどす黒い血を吸い尽くし、滴が床に小さな染みを作っている。顔色は土気色

「自分で…歩いてきたんですか?」

男はこくりと頷くだけで、言葉を発する力も残っていないようだった。

「先生!」

美園の悲鳴にも似た声が飛ぶ。新道は男の姿を一瞥した瞬間、いつものぼんやりとした内科医の仮面を剥ぎ落としていた。その瞳には、氷のように冷徹な光が宿っていた。

 これまで新道は、簡単な縫合処置くらいはしても、本格的な外科手術には一切関わろうとしなかった。

メスを握る姿など、誰にも見せたことがない。だが、もはや躊躇している時間はない。

この男は、今ここで腹を開かなければ確実に死ぬ。


「バイタル、急いで。ショック状態だ。ルート確保、輸液全開。輸血の準備、すぐに加温してくれ。それと、オペ室の無影灯をつけて、ありったけのガーゼと開腹用の器械セット、電気メスを用意して」

「オペ!?でも外科の先生は…」

「いない。だから俺がやる。早く!」

有無を言わさぬ低い声。普段の彼からは想像もつかないその気迫に押され、美園は弾かれたように走り出した。

 手術室の冷たい空気が、肌を刺す。男はすでに麻酔で意識を落とされ、その腹部だけが、消毒液の茶色い光沢の中で無機質に横たわっていた。美園が急いで器械台を整える横で、新道は丁寧に手を洗い、手術着とグローブを装着する。その一連の動作には、一切の迷いも無駄もなかった。


「メス」

新道の短い言葉に、美園は吸い込まれるようにメスを手渡す。彼がそれを握った瞬間、手術室の空気が変わった。メスの刃が、男の腹部に吸い込まれるように走る。皮膚、皮下脂肪、そして白く強靭な筋膜が、まるで熟練の職人が布を裁つかのように、一息に切り開かれていく。

「開腹。血が溜まっている。サクション」

美園が吸引器のチューブを差し出すと、新道はそれを腹腔内に挿入し、淀んだ血液を的確に吸い上げていく。ごぼごぼ、と不気味な音を立てて、透明なチューブが赤黒く染まる。視野が確保されると、彼は左手の指で巧みに臓器を避けながら、出血源を探し始めた。

「あった。小腸だ。…ひどいな」

そこには、刃物によってえぐられたような、生々しい穿孔があった。内容物が漏れ出し、腹腔内を汚染している。ここが致命傷だった。


「川口さん、バイタルは?」

「血圧80切りました!」

「輸液と輸血、もっとペースを上げて。俺はここを処理する」

新道は、損傷した小腸の一部を鉗子で丁寧に剥離し、健全な部分の両端を、血管を傷つけないよう絶妙な力加減で、クランプで遮断する。そして、メスを再び手に取ると、損傷箇所を寸分の狂いもなく切除した。

ここからが、彼の真骨頂だった。


「持針器、ケリー、糸」

美園が手渡した器具を、まるで彼自身の手の一部であるかのように操る。絹糸をかけた湾曲針が、鉗子で寄せられた二つの腸管の断面を、寸分の隙間なく縫合していく。それはもはや医療行為というより、精緻な刺繍を編み上げる職人の手つきに近かった。針が組織を貫き、糸が結ばれる。その一連の動きは、淀みなく繰り返され、あっという間に完璧な吻合部ふんごうぶが形成された。


「生理食塩水で洗浄。漏れはないな。よし」


 腹腔内を洗浄し、他の臓器に損傷がないことを指先の感覚だけで確認すると、彼は閉腹に取り掛かった。腹膜、筋膜、皮下組織、そして皮膚。開いた時とは逆に、一層一層、丁寧に、しかし驚くべき速さで縫い合わせていく。最後の皮膚縫合が終わった頃には、男のバイタルは奇跡的に安定し始めていた。


 手術を終え、マスクとグローブを外した新道の額には、玉のような汗が光っていた。

美園は、ただ呆然と立ち尽くす。目の前で起きたことが、信じられなかった。

あれは、地方の町病院の内科医にできる手技ではない。

大学病院のエース級の外科医でも、あれほど冷静で、完璧な手術を、たった一人の看護師を相手にできるだろうか。


 数時間に及ぶ手術を終え、男の容態が安定したのを確認すると、新道は額の汗を拭った。一般病棟の個室に男を移し、術後の管理を美園に指示する。二人きりになった病室前で、美園は震える声で尋ねた。

「先生…一体、何者なんですか。あんな手術、普通の町医者にできることじゃありません」


 新道は壁に背を預け、一度だけ固く目を閉じた。

「…東京にいた頃は、大学病院の救命救急にいたんだ。少し、色々あってね。もうメスを握るつもりはなかったんだが」

その声には、微かに観念の色が滲んでいた。

「事情は聞かないでほしい。ただ、今夜のことをくわしくは誰にも言わないでくれるか。手術はたどたどしくなんとか成功したように話してくれ、俺はここの、ただの内科医でいたいんだ」

彼の真に迫った瞳に見つめられ、美園はこくりと頷くことしかできなかった。


 朝の光が窓から差し込む頃、新道は当直の任を終え、病院を後にした。

電車に揺られ、最寄駅から歩くこと数分。彼の住処は、手稲の雑居ビルの一室にあった。

ドアを開けて中に入ると、そこには生活感というものが一切存在しなかった。

 部屋の半分を占めているのは、ベンチプレスやサンドバッグといった本格的なトレーニング設備。

そしてもう半分には、L字型に配置されたデスクと、その上に並ぶ四つのモニター。

病院の廊下や受付を映し出す監視カメラの映像。札幌市内の、とあるオフィスビルの内外を捉えた複数のカメラ映像。

そして残りのモニターには、複雑なプログラムコードと、絶えず更新され続ける暗号めいたデータが表示されていた。

 新道は白衣を脱ぎ捨て、黒いTシャツ一枚になると、トレーニングベンチに横たわった。昨日までの穏やかな町医者の顔は、そこにはもうなかった。冷徹な光を宿した瞳で、彼はただ静かに、モニターに映し出される無数の情報を睨みつけていた。


 翌日、病院は静かな興奮に包まれていた。昨夜、手術した腹部の刺創の男は、一命を取り留めたものの依然として予断を許さない状況だった。そして、彼の身元が判明したことで、事態は新たな局面を迎えていた。

 男が持っていた財布の免許証によれば、名は谷浩二、四十二歳。

住所は札幌市内。そして、駆け付けた警察官がもたらした情報は、彼が市内に拠点を置く広域暴力団の組員であるという事実だった。


 谷の病室のドアの前には制服警官が椅子を置いて常時監視するようになった。

警察は事情聴取を試みたが、麻酔から覚めたばかりの谷は、痛みと衰弱でまともに言葉を発することもできない状態だった。


 翌朝いつも通りに出勤してきた新道は、看護師たちのひそひそ話と、廊下に立つ警官の姿から事の概要を知る。

川口が心配そうに彼に近づき、警察から聞いたという谷の所属を告げた。

「先生、あの患者さん…広域暴力団、旭真会きょくしんかいの組員だそうです」

その組の名前を耳にした瞬間、新道の瞳の奥で、何かが一瞬、鋭く光った。

それは凍てついた刃のような、冷たい光だった。

しかし、次の瞬間にはもう、いつものぼんやりとした内科医の表情に戻っていた。


 あくる日の夜、新道は再び当直だった。表向きは穏やかにカルテを整理し、時折見回りをしているように振る舞いながら、彼の意識は三階の奥、警官が監視する個室へと集中していた。

深夜、ほとんどの人間が寝静まったのを見計らい、彼は行動を開始した。


 向かったのは、病院の地下にある空調管理室。彼はこの病院の設計図を、隅々まで記憶していた。

目的の空調ダクトの系統図を即座に確認すると、彼は一つのバルブを操作した。

これで、三階の特定の廊下エリアにだけ、独立して空気を送ることができる。

彼はポケットから取り出した小さなアンプルを、ダクトの点検口に設置した特殊な噴霧装置にセットした。

中身は、彼が独自に調合した即効性の高い神経性ガス。

無味無臭で、吸い込めば数秒で深い眠りに落ちるが、後遺症は残らない。

タイマーを十分後にセットすると、彼は何食わぬ顔で医局へと戻った。


 十分後、新道は白衣のポケットに聴診器を入れ、ごく自然な様子で三階の廊下を歩いていた。 

案の定、谷の病室の前で椅子に座っていた警官は、首をがくりと垂れ、すやすやと寝息を立てている。

新道は一切の音を立てずに警官の横を通り過ぎ、マスターキーで静かに病室のドアを開けた。


ベッドに横たわる谷は、点滴に繋がれ、苦しげに浅い呼吸を繰り返していた。

新道は彼の耳元に顔を寄せ、氷のように冷たい声で囁いた。

「谷浩二。起きろ」

その声には、人の意識の深層に直接響くような、異様な圧があった。

谷の瞼がかすかに震え、ゆっくりと開かれる。

目の前に立つ白衣の男が、自分を手術した医師であると認識するのに、数秒かかった。

「…あんたは…医者…」

「黙れ。質問にだけ答えろ」

谷は、目の前の男の瞳を見て、全身が凍り付くような恐怖を感じた。それは医者の目ではなかった。

「五年前、東京で何があったか覚えているな。お前たちが関わった、あの事件だ」

谷の顔が、目に見えてこわばった。

「…し、知らねえ…なんのことだか…」

新道の殺気が現実に引き戻す。

「もう一度聞く。知っていることを全て話せ」

「…し、知らねえ!おれは何も…!」

「そうか」

新道は短く言うと、点滴のチューブに手をかけた。

「これを外せば、お前はショックで死ぬ。どちらがいい?」

その狂気じみた静けさに、谷はついに屈した。

「…わ、わかった!話す!ひとつだけだ…俺が知ってるのは、ひとつだけだ!」

恐怖に引きつった声で、谷は白状した。

「五年前の件に関わった男が…一人、今のうちの組の事務所にいる…。名前は知らねえ。だが、間違いなくあいつはあの時、東京にいたはずだ…!俺はそれ以上は何も知らねえ!」

「なぜお前は刺された」

「…それは…別の、裏の奴らに…」

谷はそれ以上を語ろうとせず、再び口を固く閉ざした。


新道はそれ以上は追及しなかった。ひとまず、糸口は掴めた。警官がいつまでも眠っているのは不審だ。彼は静かに病室を出ると、廊下の隅にある換気口に向かって、ポケットから取り出したもう一つの小さなスプレーをワンプッシュした。覚醒作用のある中和剤が、静かに廊下の空気に混ざっていく。数分もすれば、警官は軽い寝ぼけ状態から覚醒するだろう。新道は音もなくその場から立ち去った。

(今夜、もう一度だ)


 診療を終え、当直勤務を続けていた新道は、さらに情報を引き出す算段を立てていた。

しかし、その計画は思わぬ形で打ち砕かれる。


 明け方、朝日が登ろうとする頃だった。突然、三階の廊下が騒がしくなった。警官の怒鳴り声と、看護師たちの悲鳴が響き渡る。新道が駆けつけると、谷の病室のドアは開け放たれ、中から駆け出してきた警官が血相を変えて叫んでいた。


「谷が…!谷が殺された!」

病室の前にいた警官は、異変に気づかなかったという。部屋は内側から施錠されていたわけでもない。だが、状況は異常だった。三階にある病室の窓ガラスが、きれいに円形に切り取られて外されており、ベッドの上の谷は、喉を鋭利な刃物で一文字に掻き切られ、絶命していた。


 警官がすぐ目の前にいたにもかかわらず、犯人は外から侵入し、音もなく目的を遂げ、同じ経路で姿を消したのだ。そのプロフェッショナルな犯行は、単純な暴力団の抗争とは、明らかに異質な何かを物語っていた。


 谷浩二の殺害事件は、小さな町病院を根底から揺るがした。警察の捜査員がひっきりなしに出入りし、職員や患者にまで事情聴取が及ぶ。


 院内は落ち着かない雰囲気に包まれ、その中心には常に、あの夜の手術の噂があった。

川口美園は固く口を閉ざしていたが、手術をしたのは誰でもわかる、誤魔化そうにも警察が来た時点で返って注目され、噂は燎原りょうげんの火のように広がっていった。

「新道先生が、緊急とはいえ手術するとはねぇ」


新道は、周囲の好奇と疑心の視線を浴びながらも、これまでと何ら変わらぬ様子で診察を続けていた。

だが、夜、手稲の自室に戻ると、彼は全く別の顔になる。

モニターに映し出された旭真会の事務所周辺の監視カメラ映像を、彼は瞬きもせず睨みつけていた。

出入りする組員たちの顔をデータ化し、自ら構築した顔認証システムで、国内外のあらゆるデータベースと照合していく。しかし、谷が死んだ今、糸口はなかなか掴めなかった。


 そんなある日、新道は院長室に呼ばれた。老齢の院長は、新道がこの病院に来た経緯を知る、数少ない人物だった。

「新道君、君をこれ以上、ここに置いておくことはできんかもしれん」

院長は、疲れ切った顔でそう切り出した。

「皆、君の腕前に疑問を持ち始めている。東京での君の過去が知られるのも、時間の問題だろう。私は君を守りたいが…」

「ご迷惑をおかけしました」

新道は、院長の言葉を遮るように、静かに頭を下げた。彼の苦悩は、痛いほどわかっていた。

「今日限りで、辞めさせていただきます」


 その日のうちに、新道は白衣を脱いだ。誰にも挨拶をせず、まるで最初から存在しなかったかのように、ひっそりと病院を去った。…はずだった。

「新道せんせ」

駅から家までに向かう一〇〇メートル位の時後ろから声をかけた。

川口美園だった。私服姿の彼女は格段若く、可憐な感じだった。

「川口さん?どうしたの仕事は?」

にっこり顔で「今日は早退しました!」

「これから先生の家に行ってもいいですか?」

突然の事で驚いたが、ゆっくりと静かに

「駄目だよ、若いお嬢さんがそんな軽々しい行動をしては、帰りなさい」

ちょっと悩んだ顔をして

「軽々しい?…あ、そんなつもりで言ったんじゃなくて…ですねぇ…」

「先生について行けば楽しそうだなぁって」

あっけらかんと言ってのけた。


(変わった子だ、明るい子だと思ったが、処置、手術をした時の手際の良さ、判断力、順応性、とても只の看護師とは思えない、この子も過去に何か・・・)

そんな事を思いながら

「私には関わらないほうがいい、帰りなさい」

「分かりました、今日は帰ります。でも、明日来ますね!」

全然懲りてない、流石に新道も困り、

(関わればこの子の身にも影響するはずだ)

「少し話をしよう」

家には行かず、駅前のカラオケ屋に入った。

何故か彼女も歌おうなんて気は全く感じさせなかった。

「なぜ君は私に構うの?こんなおじさん好みではないだろう?」

「そういうのではないんです、以前から先生が只の人ではないと思っていました」

「只の医者だよ、何処にでもいる」

「医術もそうなんですけど、人間として内に秘めているものが人と違うので」

もう、顔は笑っていなかった、全てを見透かしているかのように、断定的に話している。

「君は何か知っているのか?」

「知りません、感じ取っただけです。ただ、先生の闇は共感できる、そう直感しました」

淡々と話す顔はにこやかだった。

「君の話を聞かせてもらえないか、話せる範囲でいい」

以前東京でオペ看をし救命救急にも在籍した事、恋人との別れで札幌に来た事など話した。

(経歴は分かったが、恋人のくだりは只の別れではないようだ、まだ隠している事はありそうだが、やはり、危険な目には合わせられない)

「君の話は・・・」

言いかけた時話を遮るように

「離れませんよ、絶対先生には私が必要になるから」

「何を無茶な事言出すんだい、今までも一人でやってきたんだ、大丈夫だ」

「いいえ、これからは必要になります。これ、番号です、必ず連絡するはずです」

そう言って彼女は帰っていった。

(凄い自信だったな、なぜ必要になるんだ?そして、あの全てを見透かすかの様な洞察力、彼女は一体何者なんだ?)

 カラオケ屋を後にし帰路につくまで考えた。


完全に一人になった彼は、部屋に籠り、旭真会の調査に没頭した。

昼夜を問わず、膨大なデータを解析し続ける。

事務所に出入りする組員のほとんどは、前科のあるチンピラですぐに身元が割れた。

だが、どうしても身元が判明しない男たちがいることに、彼は気づいた。

幹部と思われる連中に付き従う、常に無表情な五人の男たち。

彼らの顔データは、警察の犯罪者データベースにも、住民基本台帳ネットワークにも、SNSのアカウントにも、どこにも存在しなかった。

まるで、この世に存在しない幽霊のような男たちだった。


モニターに映るその顔を睨みつけながら、新道の脳裏に、忘れることのできない過去の光景が蘇っていた。血と硝煙の匂い、そして、愛する人の冷たくなった感触。


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