プロローグ
新道龍二の過去について深く掘り下げた物語です。
夏の終わりの空気が、生温かい潮風に混じって鼻をくすぐる。
アスファルトにじっとりと染み込んだ日中の熱が、陽が傾き始めた今になって、むうっと立ち上っていた。
石狩の港は、静まり返り、錆びた係留ビットと、古びた漁船が黒い影を長く伸ばしている。
空と海とを茜色に染め上げる夕日が、世界からゆっくりと色彩を奪っていく、そんな時刻だった。
ぴくり、と指先が動いた。コンクリートの冷たさと、べったりと肌に張り付く、粘つく液体が、男の意識を現実へと引き戻す。
最初に感じたのは、鉄錆のような血の匂いと、全身を鈍く苛む痛みだった。
瞼は糊で固められたように重く、それをこじ開けると、滲んだ視界に燃えるような夕焼けが飛び込んできた。
ゆっくりと、一つ一つの動作を確認するように、男は身体を起こそうと試みる。肘をつこうとした腕が、灼けつくような痛みを訴えて震える。見れば、黒ずんだ血に濡れたシャツの袖が裂け、その下の腕には生々しい刺し傷が口を開けていた。顔をしかめながら、もう片方の腕に力を込める。腹の底から何かがせり上がってくるような不快感と、めまいにも似た浮遊感に耐えながら、軋む身体を少しずつ持ち上げていった。
腹部に走る激痛に、思わず息が詰まる。そこにも、深い傷があった。おびただしい量の血が流れ出し、乾き始めてアスファルトに黒い染みを作っている。
足も、腕も、そしておそらくは顔も、無数の切り傷と刺し傷に覆われているらしかった。もはやどこが痛みの中心なのかさえ分からない。
ゆっくりとようやく上体を起こした男の視線の先に、もう一つの人影が転がっていた。
屈強なガタイのいい男。こちらも自分と同じように、あるいはそれ以上に全身を血に染め、ぴくりとも動かない。
胸がかすかに上下しているのが見て取れなければ、死んでいるとしか思えなかっただろう。
意識はないようだ。
男は、震える手でポケットを探った。指先に、潰れたタバコの箱が触れる。なんとか一本を取り出し、唇に咥えた。
湿気ってしまったそれを、何度か空打ちしたライターの頼りない炎でようやく着火させる。乾いた唇から、煙が細く立ち上った。肺の奥まで吸い込んだ煙が、わずかに痛みを和らげる。
男はゆっくりと空を見上げた。遠くの水平線に沈みゆく夕日が、最後の輝きを放っている。
燃えるような赤と、深い藍が混じり合う空のグラデーションを、男はただ、じっと見つめていた。
その瞳には、絶望も、安堵も、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、あまりにも美しいその光景を、目に焼き付けるように。