泣けない彼女の涙になって
*
その噂は、僕が入学する前からあったようだ。
大学の授業。バカでも単位を取れると評判の講義。僕は卒業に必要な単位を稼ぐためにも、その講義を受けていた。
ぐるりと講義室を見渡す。すごい人気だ。
お経のようで眠くなる教授の挨拶を聴きながら、ふと顔を上げた。
右の耳にピアスがずらり。
初めはそこが気になった。
ひとつ前の席。肩までのストレートに、ブルーのインナーカラーを入れている学生。
講義が終わると、僕は気になっていた彼女の顔を真正面から見た。
彼女は大人びた容姿に加え、歳上の雰囲気を見事にまとっている。先輩だということは、容易に想像できるくらいに。
立ち話をしている隣の友達らしき人との会話から、どうやら進級に必要な単位を取りにきているようだとわかった。
その後、ランチタイムで彼女にまつわる噂を聞いた。
感情が希薄だということ。悲しいことがあっても、まったく泣かないらしい、ということ。
例えば、彼女が飼っていたハムスターの死。ゼミの教授の急死。なんなら一緒に観た感動系の映画でも泣かなかった、等々。
笑う怒るなどの表情も乏しいらしいが、冷たいし非情、冷徹なんじゃない? と、僕の友人が勝手なことを言っていた。
ある日。
受けていた講義で教授の都合が悪くなり、急遽一本の映画を観てレポートを書くことになった。
醜く生まれてしまった男の、哀し過ぎる人生を綴った、レトロ映画。
薄暗い、モノクロ映像に最初はなかなか慣れず、微妙だと思っていたが、観ているうちに引き込まれて、これは名作だと思った。
映画の終盤、クライマックスでは教室のあちこちで、鼻を啜りながら、ひっくひっくと泣き声がする。
人生を悲観し自ら死を選ぶ、なんとも言えない哀しいラストに、僕も泣いてしまった。
「良かったらこれどーぞ」
くるりと振り返って、前の席からポケットティッシュを差し出してくる。泣かないと噂の先輩だった。
ティッシュを持ってなかった僕は、それまで涙を長袖で拭っていたけれど、良かった。さすがに鼻水までは拭けないなと困っていたから。
「ありがと……ございます」
僕はポケットティッシュを受け取ると、二枚取り出して返し、鼻をかんだ。
そうだな。確かに彼女は、泣いていなかった。
*
ティッシュのお礼に、ポケットティッシュを返したら、笑ってくれた。
「ふふふ、そんなの良かったのに。でもせっかくだし面白いから貰っとく」
笑わないとの噂は真実ではなかった。
だから泣かないという噂もそうなのではないか、と思ったが、それは本当のことらしい。
それから彼女と話すようになって、病気のことも知った。
『シェーグレン症候群』
ググってみると、広い括りで使われている、膠原病のうちのひとつだとか。
自己免疫性疾患。身体の免疫の異常によって自分自身を攻撃してしまう病気らしい。自己免疫が、外から来たウィルスや菌ではなく、涙や唾液を産生する涙腺・唾液腺などの自分の機能を攻撃してしまうため、ドライアイやドライマウスになる病気だという。
だから、涙が出ない。
ドライマウスによって唾液もほぼ出ないらしいので、ごはんを食べる時には飲み物をやたら飲んでいる。
そうか。その理由をみなは知らない。同情されたくないからと言って、お披露目はしない。冷たい女だと思われがちだが、それは仕方ないと言っていた。
彼女は寂しそうに笑った。
僕は、その頃から急速に彼女に惹かれていった。病気のことはあまり触れないでいたが、話せば話すほど波長が合うし、人として好感が持てた。
価値観が一緒なのだ。
気がつくと僕はいつも彼女のことを考えていた。
「君はどうして、いつも私に構うの?」
「先輩のことが好きだから」
その流れで付き合うようになり、大学を卒業した後、僕たちは結婚した。
結婚生活を送る中で、彼女が本当に泣けないのだということをよく理解できる機会も増えた。
彼女の祖父が亡くなった日も、だめだった泣けなかったと凹んでいた。親戚にも不評だったと言う。まあ不評って言葉は適切ではないかもしれないけれど。
彼女は、たまに襲ってくる悲しみを、どう外へと排出すればいいのか、わからないと言う。
僕は考える。
起こりうる悲しみは、彼女の内々へと蓄積していくのだろうか。
その後、その悲しみはいったいどうなっていくのだろう?
しんしんと降り積もってゆく悲しみは、まったく違うものへと変化していくのだろうか。
それとも、悲しみのまま、そこにどんと居座り続けるのだろうか。
だとしたら、相当な苦しみなのではないか。
「よくわかったよ。僕、涙もろい方だし、僕が代わりに泣いてあげるよ」
そう揶揄っても、嫌味と取られないくらい、僕たちは仲が良い。ずっと一緒にいた。
結婚して、1年が経つころだった。
僕は人より泣き虫の自信がある。
切ないドラマも哀しみのドキュメンタリーも、泣けない彼女の隣で、僕が代わりに泣いていた。
「なにこれ、こんなラスト反則やん」
ティッシュを取ってくれながら、彼女が薄く笑う。
「結末がねえ。ちょっとえぐいね」
ちら、と横顔を見る。眉根だけを寄せるだけの彼女の悲しみは、そのまま内包され続けるのだろうか。そう考えたりしていたけれど、月日が流れるにつれ、僕は彼女の悲しみについて、あまり考えなくなった。
その年、彼女は妊娠した。
*
どれほどの小さな生命だったのだろうか。
彼女の妊娠を、僕はこれ以上ないほどに喜んでいた。が、彼女は反対にとても不安がっていた。
「病気のこともあるから……ちょっと心配」
膠原病は、二つ、三つの病気を併発する場合もある。
今後、違う種類の自己免疫疾患を発症する恐れがあることは、僕だって十分に理解していた。
けれどまだ彼女はシェーグレンひとつだけだからと、僕はどこかで楽観視していたのだと思う。
ドライアイやドライマウスが、妊娠を妨げるなどと思えなかったから。
「ベビーグッズ? ちょっとまだ早いんじゃないかな。安定期に入ってからの方がいいと思うし、私もゆっくりネットで見てみたいし」
けれど、僕は嬉しさのあまり、渋る彼女を押して、勝手にベビーグッズを揃え始めてしまっていた。
そしてそれは寒椿が、美しく咲き誇る、寒い季節のことだった。
彼女の不安が的中してしまい、彼女は妊娠から三ヶ月で流産してしまった。
「私のせいだ、私の病気のせいで……せっかくこのお腹にきてくれたのに……」
彼女はただただ自分を責め、そして使うことのなくなったベビーグッズを握りしめて、呆然としていた。
こんな時でさえ、涙はその頬を流れない。
「僕が……君の代わりに泣くから。僕がこれからもずっと君の側にいるから」
泣けない彼女の涙になって、僕は君と一緒に生きていく。
その夜、二人おでこをくっつけて、涙を分かち合い、そして眠った。
*
結婚してから7年が経った。
僕はゆっくり自分を取り戻していたが、けれど彼女は相変わらずだった。
泣けないということは、彼女の負担となってのしかかる。
立ち直ったかと思えば、また落ちてを繰り返していた。
彼女の、一滴ですら出ない、涙よ。
その涙には理由があるというのに。
純粋に、単純に、僕は見てみたいと思う。
けれど、それは叶わない。
この先もずっと、叶わない。
きっとこのまま二人で歳を重ね、おじいさんおばあさんになり、そして最初に僕が死に、次に彼女が死ぬとき、泣けない彼女はいったいどうなってしまうのだろうかと不安になる。
彼女が心配で、僕は彼女より長生きしなければならないと、強く思った。
僕が居なくなったら、誰が彼女の代わりに悲しみを共有するというのだ。
人生は。ゆっくり。
そして淡々と。
過ぎていった。
ただ。僕は幸せだった。彼女をとても愛していて、もし彼女が目の光を失ったなら、僕がその目の代わりになりたいと思っていたし、もし彼女が足を奪われたなら、僕がその足の代わりになりたいと思っていたから。
「君の代わりに僕が泣くから」
君が泣き虫なのだということを、僕はもう知っている。
不妊治療が失敗する度に、何度共に泣いただろう。
僕たちは涙を共有し続けた。
365日のうちの1日を、どうにかして乗り越えるために。
*
柔らかな日差しが心地よい、春のある日のことだった。すとんと突然に、この世界の有りようが変わった。
僕たち夫婦のもとに、ようやく赤ちゃんがやってきてくれたのだ。
最初の数ヶ月は、不安そうにはしていたけれど、少しずつ大きくなっていくおなかを、彼女は慈しみの表情で、優しく撫でる。
「やっと……やっと神さまが……」
想いが溢れ出してきて、胸がいっぱいになる。
彼女は不安とともに、十月十日を過ごし、そして僕は今。
新生児という儚い存在を抱っこしている。
その軽さ、柔らかさ、香り、すべてに反応して、僕の心はほわりと温かくなる。
彼女は病室のベッドに横たわり、くすくすと笑いながら笑顔で見つめている。その笑顔を見ていると、感謝の気持ちが溢れてくる。
「こんなに愛しい存在を、僕に分け与えてくれてありがとう。頑張ってくれて、ありがとう」
ほにゃあほにゃあと小さな命は、懸命に泣いている。その儚さに、じわりと目尻に涙がたまった。
涙もろい僕に、彼女はティッシュを寄越す。
「こちらこそありがとう、今まで……本当に……」
言葉に詰まった彼女は、笑ったのか照れたのか、よくわからない複雑な顔をして、彼女は顔を両手で覆った。
いや、言わなくても、わかる。たとえ君が涙を流さなくても。わかっているよ。
君が今、嬉しくて、嬉しすぎて泣いている、ということを。
涙の姿は見えないけれど、僕たちは数えきれないほどの涙を、流してきたのだから。そして、その涙を分かち合ってきたのだから。
これからも。
君の涙の代わりに、僕が泣くよ。
この子がこの先成長し、いつか就職し結婚して、僕たちのもとを離れていく日にも。
これからもずっと永遠に、君の涙になる。