#005 呑気な当事者
5月半ばの木曜日。週末の体育祭の準備と練習のために放課後遅くまで残っていたクラスメイト達がようやく帰り支度を始めた頃、内海が僕のところに軽やかな足どりでやってきた。
「おい市川、今日は抽選日だぞ。忘れてないだろうな? 宝くじ当たったらお前は俺にラーメン奢るんだぞ?」
宝くじの当選番号の発表は基本、抽選日の午後五時以降。そしてすっかり忘れていたがそれって今日だ。どうやら内海は僕と一緒に当選確認をするつもりらしい。
僕なんかもうヘトヘトなのにお前はどうしてそんなに元気なんだ。いやむしろヘトヘトだからこそ、ささやかなお楽しみが必要なのか? そうなのか?
「覚えてるよ。何度も確認しなくても大丈夫だってば」
僕の返事を聞いた内海の顔は急に邪悪な様相を見せた。
「かかったな市川。まんまと俺の策略に引っかかってくれたわ」
「どうしたんだよ内海? 顔がおかしいぞ」
「いいか市川、俺は『宝くじ当たったらラーメン奢れ』と言った。お前は『いいぞ』と言った。間違いないな?」
「うん。それが?」
「何等が当たれば、とは言ってないよな?」
「あっ!」
やられた。6等でも当選は当選だと言いはるつもりか?400円の当選金で900円のラーメンをたかる気だこいつ!
「さあ、当選番号を確認しようぜ友よ!」
違う。お前は断じて友じゃない! 心のどこかでそういう言葉を発しながらも、僕は流れに抵抗できずにみずほ銀行の宝くじ当選番号案内のページをタブレットで表示した。
「え? あれ?」
「なんだ? どうした?」
僕の裏返った声と、いつもと違う内海の様子を見てクラスメイトが何人か集まってきた。
なんだかひどく落ち着かない。事情を察した野次馬達が固唾を飲んで見守る中、僕は自分の宝くじ券の番号と発表された当選番号を何度も見比べることになってしまった。
都合4回この作業を行った後、嗚咽のように僕の口から出た言葉。誰もがそれを聞いて自分の耳を疑った。
「2等3000万円……当選したみたい」
まるで他人事のようだがしょうがない。実際、自分のことのようには思えなかったのだ。
「「「マジかよ!」」」
周りに居たクラスメイト達は皆、驚きの表情を隠せない様子だった。持って行き場のない感情を短い言葉で吐き出すのがせいぜいと言った感じだ。だが、僕には彼らの気持ちを慮る余裕などない。ポケットの中でしわくちゃになっていた宝くじ券には突如、3千万円の価値がついたのだ。冷静でいられる方がおかしい。
目の前の信じられない出来事をなんとかして共有しようとするクラスメイト達は、夕日の差し込む教室で大きな声を上げてはしゃいでいたが、中でも内海の反応は尋常ではなかった。
「さ…さんぜんまんえんてラーメン何杯分だ?」
動転した内海は僕の得るであろう当選金すべてをラーメンにして食い尽くすような不穏な発言を繰り返す。流石にそれはないから、と何度か否定したけど、解っている様子はない。
結局その日、僕は内海とその他数名に駅近くのラーメン屋「すご塩」で夕食を奢らされる羽目になってしまった。彼らに言わせればお祝いなんだそうだ。
「やっぱ『すご塩』は最高だ!」
「地元民としては尾道ラーメンも捨て難いが、『すご塩』は確かに美味い」
湯気にまみれながら美味そうに麺をすするクラスメイト達が好き勝手な事を言っている。人に奢らせたラーメンは美味いに違いない。
だが、出来れば忘れないで欲しい。僕はまだ当選金を受け取ってないってことを。今君達が貪り食ってるそのラーメンの代金は僕の小遣いのほぼ全額で賄われているんだ。
彼らはひとしきり腹を満たすと、誰も彼もが目を輝かせて同じことを言い出した。
「俺も次の宝くじ買うよ」
幸運な成功例を見てしまったら人間誰しもこうなるものなんだろうか。きっと皆、自分も当選できるとしか考えていないのだろう。どいつもこいつも妙に幸せそうな顔をしている。
そういえば当選したのは僕なのに、僕自身の喜びというものがちっとも内から湧き上がってこない。自分で喜ぶより先に周囲が喜びすぎたせいかもしれない。
いや待て……僕の感情の起伏は彼らに比べてかなり小さいような気がする。これほど大きな出来事なのに僕自身は妙に冷静だ。
最後に心の思うままに喚き散らしたしたのっていつだっけ? 思い出せない。
◇◇◇◇◇
その後、うちの学校では宝くじブームが沸き起こった。ブームの火付け役は僕だ。なので僕はクラスのヒーローに祭り上げられてしまっていた。ブームが加熱する中で、急に宝くじに詳しくなるものや攻撃的なアンチなども現れたりしたようだ。
そんな中、僕が最も目にしたのは僕にあやかろうとしてすり寄ってくる人達だった。最初はそこそこいい気分だったことは否定しない。だけど結局彼等は僕という人間と仲良くしたいわけではなく、本当の目的は別にあるのだということに気がつくとそんな気分はどこかへ消えてしまった。
「宝くじに当たったのは市川、お前のせいじゃないのは解っている。しかし、これだけ学校がざわついているとなぁ…先生も文句を言いたくなるよ。それにお前の事も心配だ。大金を持っているというだけで余計なトラブルが向こうからやって来ないとも限らんからな」
体育祭が終わったある日、担任に呼び出された僕はそんな忠告とも愚痴とも分からない話を聞かされてしまった。学校としても何かしら気にはしているということなんだろう。
だけど先生の言う通り、宝くじに当たったのは僕のせいじゃないし、宝くじを買ってはいけないと校則で決まっているわけでもない。先生としても悩ましいところだろうな。
意外なことに、今回の件で一番大きな反応を見せたのはしのぶだった。何かの合宿で学校を休んでいたので、つい2,3日前に僕の宝くじ当選の話を聞いたらしい。彼女は僕に詰め寄り、微に入り細を穿って僕の話を聞こうと躍起になっていた。それが何故かは僕には分からない。
僕としては合宿から帰ってきたしのぶの雰囲気がえらく変わっていたのでそのあたりの説明もして欲しかったのだが、結局詳しいことは聞けなかった。何か胡散臭い感じはするけどうまく言語化出来ないところが歯がゆい。
当のしのぶも合宿については言いたくても言えない何かを隠している―― そんな感じだった。伊勢志摩で行われていた合宿とやらが一体何の合宿だったのか、それすら僕は教えてもらえなかったのだ。
◇◇◇◇◇
しのぶが合宿から帰ってきて3日後の土曜日、また夕食をご馳走するから遊びに来いと言われたので僕は倉敷の家に行った。シャーロットさんの料理は美味しいし、養家は居心地が悪い。2つも理由があれば十分だろう。
だが今日はいつもと様子が違う。夕食中、シャーロットさんまでもが例の宝くじの話を聞きたいと言い出したのだ。僕は学校で何度もした話をここでもすることになった。
どこで買ったのか、何枚買ったのか、当選金は何に使うつもりなのか――。
ここまで話すとだいたい学校の連中は「俺がお前の代わりにカネを使ってやるよ」と言い出すのだが、さすがにシャーロットさんは大人だ。そんな品のないことは言わない。
僕が一通り話した後、シャーロットさんは持っていたカレースプーンをじっと見つめながら僕に一つだけ質問をした。
「ねえ大地くん。その宝くじを手にとって、当たる確率のことを考えたりしてた?」
「そりゃあ誰だってそれくらいは。というか、何度考えたかしれないよ」
当然だ。宝くじを買ったままタンスの中に入れておいて買ったことすら忘れてしまうような大人と、高校生の貧しい財布の中身事情を一緒にしてもらっては困る。
宝くじの表裏を何度も舐めるように眺め、当たりますように当たりますようにと心で唱えながら、何万分の一、何千万分の一で当たるその当選確率について少しでも何とかならないかと思わない日はなかった。
当時の僕は何と言うかその……鬱屈とした日々を宝くじが切り開いてくれるような錯覚にでも陥っていたのだろう。まるで何かにすがるような、そんな気持ちだったことは否定しない。
「昔から僕、運だけは良かったから。受験勉強やってる時に家の近くに居たうるさい鳩の群れがある日急にどっかに行ったりとか、僕にやたら吠える隣の家の犬がある日失踪したりとか……まあそれで運を使い果たして養子に出されたのかなと思ったら、近所にしのぶやシャーロットさんがいたりするし。プラマイ数えたら結構プラスかもね」
「え? お隣の犬って佐竹さんとこの虎徹のこと? 居なくなっちゃったの?」
「うん。ある日首輪を残して居なくなったよ。佐竹さんち大騒ぎして警察まで呼んでた」
僕の話を黙って聞いていたシャーロットさんは少し考え込んで、しのぶの方をちらりと見た。しのぶもまた、シャーロットさんの顔を見て頷いている。なんだろう。今の会話に重大なポイントなんか無い筈だけど。
二人を訝しげに見ていたのがバレたのか、しのぶは取り繕ったような笑顔に戻った。
「と、ところでさ、大地。毎日宝くじを眺めて祈ってたって、なんでまたそんなにおカネ欲しかったの? 欲しいものでもあったの?」
愚問だ。カネなんてあればあるほどいいに決まっているじゃないか。
人に雇われず、経済的な自由を満喫している父や母を見ればそれぐらい嫌でもわかる。シャーロットさんだってしのぶだって恐らく一生働かなくても食っていけるだけのカネを持っているのだろう。だからこそこの大邸宅、この暮らしなんじゃないのか? いいじゃないか、僕が少しくらい持ってたって。
2等の当選金くらいじゃ僕が将来、経済的自由を勝ち取るにはまるで足りないことは百も承知だ。それでもこれは僕が初めて得た、自分で自由に使えるまとまった金額のカネなんだよ。
でも正直なところ、何に使うなんて考えは全然まとまらない。こんな大金を持つなんて今まで考えたこともなかったからな。
「まあ、学費にでもするよ。東大行って院まで行こうとするとそれなりにお金もかかりそうだし」
「あら、それくらい自分で出さなくても親に出してもらえるでしょうに」
「いえ、聞いた話だと、今の家は選挙になると蓄えがすっからかんになるぐらいカネを使うらしくて……。それだと時期が悪ければ合格したのに大学に通えないなんてことになりかねないから、自分である程度持っておくに越したことはないかな、なんて」
これは本当の話だ。宝くじの当選が現実だと認識した時、僕が一番最初に考えたのは「これで誰から反対されても好きな大学に行ける」ということだった。まあ国内限定だけど。
「だったらその時は亜希に頼めばいいんじゃないの? 亜希が駄目なら私が出してあげてもいいわよ?」
「そういうわけにもいかないんですよ。無理言って養子にもらった息子の学費が出せなくて、実母に無心したなんてことがどこかから漏れたら大変でしょ? また言いますよ。『そんなこと、後援会や支持者に知られたら外聞が悪い』って」
マスコミの目が届きにくい地方自治体の議会議員や首長の選挙ではネガティブキャンペーンを張られたら命取りなんだそうだ。それを防ぐにはまず汚点や醜聞をできるだけ作らないこと。
うちの養父母はそんな話だけは妙にきちんと説明してくれる。将来的に地盤を継ぐことを期待されてるんだろうか。
「そんなものなの? 日本の地方政治家ってのも大変ね。日本には結構長いこと住んでるけど未だに解らない事ばかりだわ」
シャーロットさんが肩をすくめ、お手上げのポーズをした。彼女がこういうポーズをとると米国製のホームドラマのひとコマみたいですごくサマになっている。
患者の立場では絶対見たくないポーズだけど。
「正直僕にもよく分かんないよ。だけど、このカネは両親の目の届かないところに置いておきたい。できればさっさと使い切ってしまいたいぐらいかな。選挙の時に僕の方をじっと見る養父母なんてのは想像したくないし」
「それはほんとに、そうよねえ……」
夕食のカレーをすっかり平らげた後、僕はしのぶと体育祭の話なんかをして過ごし、遅くならないうちに帰路についた。
しのぶの合宿の話はやはり聞けないままだ。無理に聞いても上手に用意された嘘が帰って来るぐらいなら聞かない方が良い。心のどこかで僕はそんなふうに考えていた。
★★★★★
大地が帰った後、シャーロットの家のリビングではしのぶとシャーロットが青い顔をしていた。食事の後片付けをするしのぶ。お茶を淹れるシャーロット。互いが互いの落ち着きを取り戻したと判断して会話を始めるのには結構な時間が必要だった。
「ねえ母さん。大地の宝くじって……やっぱりアレかな」
「たぶんね。それにしても、確率かあ、そっちで来たかあ……さすが亜希の息子だわ。ストレートに来ないわねぇ」
「犬や鳩の件も考えると確率だけじゃなさそうよね。どうする? 父さんに知らせる?」
「こういうのは黙ってて後でとんでもないことになるより間違ってても一応報せておいた方がいいのよ。報連相って言葉知ってる?」
「放課後恋愛相談?」
「突っ込みにくいからそういうの止めてよ。あんた程日本語上手じゃないんだから、私は。
報連相ってのは『報告・連絡・相談』って意味なんだってさ。昔、あんたの父さんは私達に報連相せずに色々やりすぎたせいで結構大変な目にもあってるからね。あんたも気をつけるのよ」
「えー? 沈黙は金って言うけどなぁ」
「やめてよ金なんて。あんなもののために何人死んだんだか」
シャーロットは何かを思い出したのだろう。彼女が急に眉間にシワを寄せて声のトーンを落としたので、しのぶは何か地雷を踏んだかなと思ったものの、さすがに何も思い浮かばなかった。
「私からお父さんと亜希には報告しておくわ。それから、もし本格的に大地くんが天然だった場合、妙に刺激したり、こちらの能力を見せたりするのは絶対ダメよ」
「その辺は亜希さんから聞いてるわ。私もこっちでは絶対能力を使わないよう言われてるの。それより大河はどうなんだろうね? 全然話聞かないけど」
「のんびりしたものらしいわよ。亜希も全然心配してないみたい。手がかからなくて助かるって」
「そういうこと聞いてんじゃないんだけどな……」
「万事そんな感じってことよ」
「ふーん……」
★★★★★
その日の夜遅く、シャーロットは東京に跳び、大地の件について影山と市川亜希に報告を入れた。
「大地くんに能力発芽の疑いがあるわ。宝くじを念じて当てちゃったみたい」
二人は神妙な顔をして細かい報告を聞いていたが、顔には驚きの色が無い。シャーロットは報告をしながら二人の反応の薄さに少し肩透かしをくらったような気分になった。自分の息子のことなのだから少しは驚くなりすればいいのにとさえ思ったほどだ。
「せっかく普通の生活が出来るようにお膳立てしてやったのに、しょうがないやつだ」
報告を受けての影山の第一声。シャーロットはその言葉の裏に自分の知らない事情の存在を感じ取ったが、だからと言って問いただすようなことはしない。影山が話さないのはいつものことだ。
亜希もやはり「そう、わかったわ。ありがとう」とだけ言って、シャーロットへはやはり何の要請もしない。
「あまり面白い話じゃなかったみたいね。じゃ、今日は帰るわ。またね」
「ああ、シャーロット、ちょっと待ってくれ」
先程までの無関心な態度と少し違う影山の様子に、シャーロットは少し身構えて振り返る。
「何?」
「しのぶはいい子に育ったな。将来が楽しみだ」
影山のその一言が完全に予想外だったのに加え、その表情が以前ラゴスで自分に向けていた表情にそっくりだったため、シャーロットは少し狼狽えた。
「しのぶは俺達と同じ道を歩くと決めたが、それはしのぶが自分でそう言ってきたからだ。俺は大地や大河にその選択肢をこちらから突きつけるつもりは無い。お前も、大地の近くに居てくれるならそこのところは理解しておいてくれ」
「うん、解った。じゃあね」
「それと、広島、岡山辺りでおかしな連中が出没しているらしい。何か情報があったら回してくれ」
「おかしな?」
「うん。お前の専門分野、医学というか生化学あたりでな。ソッチ系の資材が最近大量に西日本に流れてるらしいんだが、途中で相当量の行き先が判らなくなってるそうだ。相田が言ってた」
影山が気をつけろというのであれば、敵対組織という程ではなくとも挙動不審な何かがいるということだ。気に留めておく必要はあるだろう。
「そう。彼女が言うなら間違いないわ。でも、だとしたら物騒ね……相田さんに、その資材のうち試薬と培養液周りの情報を私に送るように言っておいてくれない? 何か分かるかも知れないわ」
「了解した。試薬と培養液だな。ああ、それともう一つ」
「まだあるの?」
影山はシャーロットから目線をそらして照れくさそうに口を開いた。
「今日はカレーだったんだろ。残ってたら後で少し持って来てくれ」
影山の耳はみるみる赤くなっていく。なるほど、自分の服についていた匂いでも嗅いだのか。そう察したシャーロットの口元はにやけたように上がり、顔には満面の笑顔が浮き出ていた。
「たまにはあなたが来なさいよ。 汗一つかかずに来れるでしょ? もうしのぶに知られて困ることもないんだし、遠慮しないで時々顔を見せに来てやって。父親なんだから」
そう言うとシャーロットは影山と亜希に軽く手を振り、虚空にかき消えた。
「そういえば、『相田』ってごく普通に言ってたな。相田さん離婚したんだっけか……今度お話してみよっと」
久しぶりに聞いた名前にシャーロットは思い出話、茶飲み話の相手を思い描いていたが、現実はそう甘くない。翌日相田から届いたデータには、お茶どころではない情報がいくつか記載されていたのだ。
「え? 高分子ポリマーの3次元培養液とスフェア抑制剤がこんなに? どこかで秘密の合成肉プラントでも作るつもりなのかしら? それにしてはジェランガムが……」