#032 配慮と安堵と勘違い
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影山が席を外した後もなお青白い炎を上げている貴子。
亜希は貴子に近寄ると、そっとその強張った顔を覗き込んだ。
「貴子、一応聞いとくけどバーゼルに何があるの?」
「……バーゼルそのものは穏やかな学研都市よ」
「穏やかな、ねえ? それだけで貴方の顔があんなになる筈ないでしょう? 目なんかこーんなにつり上がってたわよ」
亜希が冗談めかして自分の目尻を指で吊り上げてみせる。
貴子もようやく強張った顔を緩めた。
「長年の付き合いって嫌ね。隠し事もできやしない」
「そこは私とあなたの仲じゃない。で、どうなの?」
「バーゼルはね、第二次大戦中あのドロッセルマイヤー家の疎開地だったのよ。何かと地縁があるようで、当時の名残みたいなものがそこかしこにあるらしいわ」
「ってことはあのベルンハルトの?」
「そう。バーゼルって聞いてまずそれが最初に頭に浮かんだのよ。でも一応ほら、アレに関することは影山さんの前では話さないほうがいいでしょ? 何がきっかけでフラッシュバックが起こるかわかったもんじゃないし」
影山はベルンハルトに拉致されていた頃の記憶をほとんど失っている。
15年以上経った今もあの時のことを思い出そうともしていない。
思い出してもろくでもないことばかりなのは分かりきっているし、ろくなことにならないに違いないからだ。
なので、影山の周囲の女性達も、あえてベルンハルトに関係しそうなことには触れないようにしていた。時折影山が羊飼いのことを無邪気に話しながらアントニオに会いに行ったりする度に彼女達はヒヤヒヤしていたのである。
「ごめんなさい……気が付かなかったわ」
「気が付かなくて当然よ。まとまった資料なんかもう長い間作ってないもの」
「ただの偶然ならいいんだけど」
「イッチー、私、壬生の戦略研究所を使ってそのエト・ディシット研究所? 調べてみるね」
「いいけど、ちょっと調べただけでもマッドサイエンティストの吹き溜まりなんて情報が山ほど出てくるわよ? 」
「そう……ゴミみたいな情報の中から一番臭そうな情報を探し出すのって、きっと簡単じゃないわよね」
「ま、そこのトップと会うって決めたんでしょ? だったら下調べは必要だわ」
「そうね。調査の結果次第ではいなくなってもらうかもしれないんだし、そこはできるだけ公正にやらないと、消される方は堪ったものじゃないでしょうからね」
貴子の口から出る物騒極まりない言を聞き流そうとした亜希だったが、どう見ても貴子は本気そのものだ。
「そ、そういえば大河が学校サボったって言ってたわね。叱ってやらなきゃ! 福山にまで行くなんて何やってんだかもう……」
亜希はその後もなんとか頑張ってはみたが、貴子の背中に立ち上る青い炎はくすぶり続けていた。
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「た……助かった。誘拐犯にならずに済んだ……」
松下はマクシミリアンからの報告を聞いた途端その場に崩れ落ちた。
無理もない。マクシミリアンが昏睡した市川大地を大きなスーツケースに詰めて戻ってくる可能性は決して低くはなかったのだ。
そして、事が起これば自分達に訪れるのは破滅。
その事態を避けられたと知った松下の目には安堵のあまり、涙さえ浮かんでいた。
「それで、市川のボンの脳ミソの確認は取れましたんかいな?」
「確認は取れたってことになったらしい。マクシミリアンはそのまま井原には寄らずに帰るんだと」
松下がマクシミリアンから聞いたファミレスでの出来事のあらましを早川に話すと、早川もまた何度も深呼吸を繰り返して壁に寄りかかった。
「せやけど、そんなことてあります? たまたまこの案件の発注者が福山のファミレスにいて、たまたまそのファミレスを訪れたマクシミリアンさんと市川のボンに遭遇するとか……」
「そうだよなあ。よほど毎日そこに通い詰めたりしてないと難しい話だ。そもそもその発注主、ドイツだかベルギーだかの人間らしいし」
「どんな人ですのん? マクシミリアンさんなんか言うてはりました?」
「ああ、なんでもエト・ディシット研究所の所長らしいぞ」
「え? あのエト・ディシットですか? 僕らも使てるクローン向け寿命操作ライブラリの?」
「そのエト・ディシットだな、たぶん。プルヴィーラに対して巨額の注文を出したり、マクシミリアンに対してその場で帰れなんて言うのはそのくらいの人間じゃないと難しくないか?」
松下は当面の危機が去った安堵から他のことはまだ何も考えられない様子だ。一方で早川はその奇妙な偶然の裏に何があるのか、考えを巡らせ始めていた。
しかし、考えるにしても材料が少なすぎて結論がどこにも着地しない。数分後には早川も松下と同じ、すっかり緩んだ顔をしていた。
「まあ……なんか知らんけど、ギリギリのところで助かりましたね僕ら。所長さまさまやわ」
「判らんぞ。虎から助けてくれたのが大虎だった、なんてのはよくある話だからな」
「まあ、今日はもう難しいことは置いときましょう。今晩どないです? 飲みにでも」
「やめとこう。立石と同じ轍は踏みたくない」
立石を殺した犯人の素性がまだ解っていない以上、松下もまだ迂闊な行動に出るわけには行かない。今日にも自分にその手が及ぶかも知れないのだ。
「不要不急の外出は、ですか」
「そうだな。当面は自粛だ、自粛」
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「大河、中間考査どうだった? 俺は今回頑張っただけあって結構いいとこまで行ったぞ」
大河に久しぶりにリモートコールを申し込んでみた。
テストの結果を大河と報告し合う。これは僕ら兄弟の年中行事みたいなものだ。
今回僕は頑張っただけあって、学年一桁、もしかしたらトップ3に入ったかもしれない。特に平均点が36点だった数学で90点以上取れたのは学年で僕だけだった。夏の特訓が効いているのかもしれない。
「へえ凄いじゃん……僕はまあ、ボチボチだよ。いつもの通りって感じかな。それよりこっちは行事が多くて大変だよ。実力テスト、野外実習、球技大会と行事が立て続けで、その合間を縫って中間テストがあるんだ」
おや、今日はノリが悪いな。大河が点数のことをぼかして話すなんてことはなかったのに。
久しぶりに話すんだからもう少しこう、なんというか……。
「もしかしたら何かしてる途中だった?」
「いや、そんなこともないんだけどさ。ちょっと疲れてるんだよ」
何だろう。ノリが悪いというよりは僕と話したくないのか?
やっぱり、ちょっと離れて暮らすと何かと変わってしまうものなのかね。大河が何考えてるのか解らない。
かく言う僕も、大河には話していない事がたくさんあるんだけど。樋口さんのこととか。
ははあ、そうか。大河にもそういう人が出来たってことなのかな? だったら解る。
兄弟でテストの話なんかしているよりも、ピンク色の妄想に浸っている方がどれだけ幸せかは僕も知るところだ。
「はは。お互い悩みは深いな。じゃ今日はこれで」
「ああ、またな。おやすみ」
一年ほどにも思えた試験週間が終わったことだし、明日は真由美さんに会いに行こう。きっと僕を待ってくれている筈だ。




