#003 五里霧中
「学校はどう?」
「もうそろそろこちらにも慣れたかな?」
「東京とはやっぱり進み方も全然違うのかしら?」
僕が目の前の皿に盛られた絶品のおうちカレーを頬張っている間、シャーロットさんはにこやかに世間話を投げかけてくれた。それに対して
「ええ」「まあ」「普通っす」「大丈夫です」
だけで答える僕はいったい何様なのかと。
だが、僕だってシャーロットさんと話すのが面倒だからそうしているわけではない。
シャーロットさんの質問に真面目に答えるなら
「学校も始まったばかり。養父も養母もまだ僕との距離を測りかねている状況で、何も分からんし何も始まってないよ」
と言うのが正直なところだ。
でも、こう答えたら最後、誰も話なんか続けられない。まだ生返事のほうがマシというものだ。
そう。僕は僕なりに何かしら忖度している。カレーを食べている今だって。
「あ、カレーに蜂蜜が入ってる……父さんがいつも怒るやつだ」
「ふふ。それが分かるなら影山一族は安泰よ」
シャーロットさんは誰に何を言われても絶対にカレーに蜂蜜を入れるのだそうだ。そういえば父も文句は言っていたが必ず最後には折れて食べてたっけ。
ナイジェリアの風習とか……なんだろうか?
それにしても、シャーロットさんは東京で一緒に暮らしていた頃とまったく外見が変わっていない。うちの母は経済誌やネットで「財界美魔女三羽烏」の一角と言われているがそれと似ている。
正直、シャーロットさんがしのぶの母だなんてとても信じられない。知らない人が見たら絶対に姉妹だと思うだろう。
「大地、ゴールデンウィークはどうするの?」
カレー皿の底が半分くらい見えるようになったところでようやくしのぶが口を開いた。今までものも言わずにカレーをかっこんでいたのか……。うちのクラスの連中が見たらどんな顔をするだろう?
「どうもこうも……家にいるよ。課題やってゲームして……合間に散歩でもしてちょっとずつ土地勘つけようかなってくらい。あの体育祭でやる、なんとかいうダンスの練習を休日にやるかもしれないとか聞いててちょっとうげーってなってる」
「そっか、家か。そうだね……それがいいよ」
僕がフラフラ東京にでも行きたいと言い出すと思っていたんだろうか。そんな事をしたら養父や養母との軋轢が高まるくらいのことは僕にも解っているのに。
「しのぶはどうすんの?」
「私はね……ちょっと伊勢志摩に呼ばれてるんだ」
「はあ、伊勢志摩?」
「うん。合宿というか特訓と言うか、そういうやつでね」
しのぶは中3の時から数学オリンピックに出ている。僕の基準でいうと間違いなく天才だ。で、主催団体はそういう天才達を一箇所に集めて合宿をやったりして国際大会の代表を決めたりするらしい。伊勢志摩での合宿とやらもそういう類の何かなんだろう。僕には縁遠い話だ。
「そっか。天才は大変だなあ……」
「天才だなんて……心配しなくてもそのうち大地にも声がかかるよ」
「いやいや、僕はそういうのは積極的にパスしてるから」
「へ……? パスしちゃうの? もったいない」
なんだろう。会話が成立しているようでしていない感じだ。
「まぁ、そんなこんなで5月前半は私、倉敷に居ないけど寂しいからって泣かないでね?」
「誰が泣くんだよ?」
「あ、生意気だね大地のくせに。昔は『しのぶねーちゃんどこいったのー?』って大声で泣いてたじゃん」
「覚えてないよ。いつの時代の話だよそれ……まったく」
僕としのぶとシャーロットさん、三人で他愛ない会話をしながら過ごす楽しい夕食の時間―― 養母には悪いが僕にとってはこちらのほうがよほど家族の団らんと言えそうだ。
あれほど山盛りに盛られたカレーを最後に食べ終わったのが僕だったという事実だけは何かこう、アレなんだが。
◇◇◇◇◇
「大地、2階に来ない? 」
「うん。このお茶飲んだらね」
これが普通の家ならば2階に行くとしのぶの部屋、ということになるのだろう。しかしこの家は二人で住むには広すぎるほど広い。5世帯くらい入っても全然大丈夫なんじゃないだろうかというくらいだ。
そんな空間に二人で住んでいるのだから、当然部屋割は贅沢そのもの。2階には様々な目的を与えられた専用室がある。書斎、研究室、電算室、VRシアター、リモート会議室、そしてなんだか胡散臭い立入禁止の部屋。IT最先端を行く父の家でさえこんなには充実してない。
あ、さすがにラットの飼育室なんてのはないみたいだ。
「もともと医院として設計施工したんだけど、作ってる最中に表通りに居抜きでいい物件があったんで医院の方はそっちを買ってやってるのよ」
いくらいい出物があったからって作ってる最中の病院を簡単に自宅にしてしまうこの母娘はなんなのか。
「じゃん! ほら、見てこれ」
「うぉ」
連れて行かれた先は電算室だった。シャーロットさんがシミュレーションでもやるところなんだろうか? いくつもの大型モニターやキーボードが整然と机の上に並び、見たこともない機器群がメタルラックに無造作に放り込まれている。
今どき、コンピュータと言ってもモバイルデバイスとクラウドの組み合わせでほとんどの用事に事足りるから、ハイエンドVRゲーマー以外で大げさなデスクトップPCなんて使う人は居ない。
作業の快適さを求めてキーボードや大きめの画面なんかを使う人も居るけれど、処理主体は殆どの場合モバイルデバイスだと聞いたことがある。内海なんかはそうやってプログラムを組んでいるらしい。
だが部屋の中にあるのは僕の知っているデスクトップPCですらなかった。なんだか扉の少ない冷蔵庫みたいなものが5つほど、静かにうなりを上げているのだ。
「これは……スーパーコンピュータ……?」
「お、よく解ったね。256キロ量子ビットの量子コンピュータとオーソドックスなマルチノード型のハイブリッドだよ……っつってもわかんないか」
「うん。全然わかんない」
「最近はこういうのが使えないと最先端の医療研究なんてやってられないらしいよ。まあ、さすがに自宅にこの規模のものを持ってる人は居ないだろうけど」
「じゃこれ、シャーロットさんが買ったの?」
「いや、あたし」
しのぶが今日一番のドヤ顔をしている。どうやらこれを僕に見せたかったらしい。
「どうやって買ったのこれ?すごく高いんだろ?」
「あー言ってなかったか。私、4年前から株やってたんだよ。父さんに種銭出してもらってね。父さんの部下で詳しい人がいてさ、ミズ・クラークって言うんだけどその人に手ほどきを受けて始めたらあれよあれよと……」
「いや待てよ! 何だよそれ? あれよあれよにも限度があるだろ!」
そもそも、父もどうかしている。中学に入りたての女の子にいったいいくら出してやったんだ? ミズ・クラークって何者だ? 水?ミズ? Ms?
「いやいや、3ヶ月で3割くらい上がりそうなのを見繕って売買してみ?1年で何倍になる?」
「2倍」
「それを4年で?」
「r =1.3 の等比級数だよな……ええと、50倍くらい?」
「だね。まあ、私の場合はもうちょっと成績が良くて110.3倍。ナイジェリアの新興株が結構上がってねえ……運が良かったのよ。うふふぅ」
しのぶの顔がニヤけている。無理もないか。僕だってそんなことになったらしのぶ以上にニヤける自信がある。
「じゃ、もし父さんが1億出してたとしたら今しのぶは110億円持ってるってことになるのか?」
「あはは。父さんは現金なんかくれないよ。1億なんてとんでもない。附属中の合格報告に行った時に、自由になるお金が欲しいって言ったら『ほれ』ってグリーンジャンボ宝くじ渡されただけ。まあ、運が良かったんだね」
その宝くじが当たったっていうのか……。なんだか全然洒落になってないぞ。そしてミズ・クラーク。まるで父さんは最初からしのぶに渡した宝くじが当選するって知ってたみたいじゃないか。
どうなってるんだ、いったい……?
「で、やっとこれを買って春休みにセットアップが終わったってわけ。電気代がとんでもないことになるからあまりブン回せないんだけどね。知ってる? 私達が生まれる前に日本が世界に誇っていたスパコンがあったんだけど、電源入れると小豆島一つ分くらいの電力が必要だったんだって」
「……そうなんだ」
それからしのぶは出来るだけ分かりやすく目の前のシステムについて僕に解説をしてくれた。このシステムの性能や特徴から始まり、昨今の医学部が人工知能に傾倒するあまり工学部化していること、個人的な興味から勉強している題材があって、このシステムを使えば楽になることなどをだ。
「で、結局さ、しのぶは父さんの仕事を手伝いたいからこんなにコンピュータの勉強してるの?」
腹違いとはいえ姉弟なんだし、これくらいの踏み込みは許されるだろう。それに、昨今の医学における人工知能情勢よりも僕にはそちらのほうがよほど気になるのだ。
「ええと、父さんの近くに居たいとかってわけじゃなくてね。父さんの周りに面白そうな題材が山のようにあるのよ。父さんはその一つ一つに引っかかっては七転八倒してるみたい。そういうの、傍で見ているより参加したほうが面白そうじゃない?」
しのぶは僕が父のことをよく思っていないのを承知の上で、それでも言葉を選びながら答えてくれた。その上で僕が驚いたのは、つい最近まで父と一緒に住んでいた僕よりも、しのぶの方が遥かに父の仕事や、父が直面している課題に対して情報と理解があるということだ。
いつから?どうして?どうやって? もしかして僕は父の仕事に無関心過ぎたのか? 焦りと困惑で頭がどうにかなりそうだ。
「そういえば、瞳さんは元気なの?」
「瞳さん?」
「ほら、ナニーやってくれてた瞳さんよ。覚えてないの?」
「え? ちょっと待って……。 ナニー? 居たっけ?」
「忘れちゃったの? 東京の家で住み込みで働いてくれてたじゃない? まだ教育係として居てくれてるものとばかり思ってたわ」
しのぶが妙に心配しながら僕の顔見ている。まるでここにいる僕が偽物か何かのような、そんな顔だ。だが、本当に瞳という人に覚えがない。
瞳……瞳って誰だ? それを考えると頭の奥が妙に疼く。平衡感覚が少しなったのか、立っている床がぐんにゃりして心もとない。僕はたまらず尻もちをついてしまった。
「大地、どうしたの? 」
「いやちょっと目眩がして…」
それを聞いたしのぶは慌ててシャーロットさんを呼びに行った。そうか、シャーロットさん医者だもんな。しのぶが状況説明をするとシャーロットさんは「あちゃあ」という顔をして右手で目を覆っていたが、何がどうだというのだろう。
「んー。まあ大丈夫でしょ。問題ないわ。もし明日になっても気分が悪いようならもう一度来てもらえる?」
「ほんとに? 良かったね大地。でもびっくりしたよ!」
「ごめんな……でも、今日は帰るよ。カレーごちそうさま」
「その様子じゃ電車は危ないわね。車で送って行くわ。市川のご両親にも説明しないと」
「ありがとうございます。すいませんほんとに……」
それほどの大事だとも思えないが、そのあたりをキッチリするのがシャーロットさんなのだろう。確かに、自分の家で他所の家の子供が変調をきたしたら報告するよな。うちの親はそういうことをしなさそうだけど。
僕は帰り道、シャーロットさんが運転する高級スポーツカーの窓から見える景色もそこそこに、父やしのぶの行動、そして瞳という人物について考えていた。