#019 計測と因果探索
雨の少ない瀬戸内にも入道雲がちょくちょく顔を見せる8月の後半、僕はもやもやした気分から抜けられずにいた。バスで一緒に話したあの女の子が忘れられない。焦燥感が常に湧き上がってくる感じだ。
夏休み前半の超能力に対する興味と興奮の代わりに、彼女とまた会いたいという感情が僕の心の多くを占めてしまっている。正直、僕は自分の心を持て余し気味だ。大丈夫か僕。
望外に可愛い娘と話せた幸運を反芻しているのか、それとも彼女の病気が気になっていたのか、その両方か――
まあ、暇な男子高校生が陥りやすい感情の泥沼ってやつなんだろう。今の気持ちを誰かに話しても困ったような顔をされて「はいはい。枕を股に挟んで寝てなさい」と乾いた返事が帰ってくるだけだ。
あれから僕は何度か彼女と出会った時間に福山駅に行ってみた。しかし彼女の姿は当然というか残念ながらなのか見当たらない。僕は駅に行った回数だけがっくり肩を落として岡山に帰って来た。
しょうがない。僕は別に彼女とまた会おうと約束したわけでもない……というか、世間一般の基準で言えば僕は立派なストーカーだ。ストーキング出来ていないだけで。
運良く彼女とまた逢えたとしても、もう彼女はどのバスに乗れば良いのかは知っているわけだし、ぎこちない笑顔で彼女に近寄って行っても気持ち悪がられるだけだろう。
「なんだ。詰んでるじゃないか。僕は……」
街に流れる失恋系のラブソングが自分のことを歌っているような錯覚に囚われる毎日。僕はやるせない気持ちを抱えながら日々を過ごしていた。
そんな時だ。しのぶが「遊びにこないか」と連絡をくれたのは――
そうだ、彼女には聞いてみたいことは数多くある。シャーロットさんに市民病院についても聞いてみたい。この際、泡吹いて倒れたことは忘れよう。
僕は返事もそこそこに、倉敷行きの電車に飛び乗った。
◇◇◇◇◇
「まあ、適当にその辺の物を端っこに寄せて座ってよ。はいこれ」
僕を部屋に招いてくれたしのぶがドアを開けると同時に手渡してくれたのはマスクとゴーグル。その理由はすぐに理解できた。
「うわ、少しは片付けろよ。しのぶのファンが見たら泣くぞ」
しのぶの部屋は汚部屋と言っても過言でないほど雑然としていたのだ。昭和や平成の年季の入ったアイドル雑誌がうず高く積まれ、部屋の隅には裁断機でバラバラにされた大量の雑誌のページがいくつものゴミ袋に詰まって転がっている。
部屋の中には古本特有の少しすっぱい匂いがたちこめ、異様な光景を更に異様なものにしていた。
「なんだこりゃ? しのぶ、掃除くらいしろよ。それに何だ? 急に昔のアイドルヲタクにでもなったのか?」
「うん……ちょっと必要なことがあってね。それにしても本ってのは裁断したら途端にぶわっと体積が増えるものなんだね。びっくりするよ」
「そうなのか……しかしなんだこれ……ホコリというより紙の繊維か? 目がショボショボする。まさかしのぶ、こんな中で寝てるの?」
「いやあ、さすがに厳しくて……今は寝る部屋と作業部屋は分けてるわ。目に小さな紙の繊維が入ると結膜炎になるからこすらないで。渡したゴーグル使ってね。マスクも」
僕は慌ててマスクとゴーグルを着用した。しかし時既に遅し。もう目がゴロゴロして痒い。さっさとゴーグルだけでも着けておくんだった。
「とりあえず窓開けろよ。換気してないだろこの部屋。変な匂いしてるぞ」
「あははは……ごめん。空気清浄機は頑張って回してるんだけどね。窓開けたいけど、このバカみたいな気温でしょ。量子コンピュータの冷却のための電気代が跳ね上がっちゃうのよ」
意外な弱点もあるもんだ、量子コンピュータ。
「それより、アノテーション手伝ってよ。ツールに食わせるだけでいいからさ。そこの雑誌を切って、こっちのスキャナに入れてくんない?」
「なんで僕が……」
「この部屋の環境を元に戻すためにもこの作業をさっさと終わらせたいの。悪いけど、お願い」
しのぶが何をしたいのかも分からないまま、僕はしぶしぶ作業を手伝うことになった。
しのぶが神保町で買ってきたというアイドル関連の芸能誌や写真集、雑誌のグラビアなどを粛々と裁断してはドキュメントスキャナに食わせるのが僕の作業の全容だ。
スキャナのボタンを押すと登録されたアノテーションツールが起動して画像と文字が読み込まれていく。読み込んだあとのページはゴミ袋へと直行。データは学習用の教師データとして蓄積されるようだ。
「あれ? これは?」
笑顔が可愛いアイドルの写真の載ったページに僕の両目は釘付けになった。解説を読むと、1980年代中盤に粗製乱造されたアイドルの一人らしい。
久川ゆき、それが彼女の名前だった。
楽曲に恵まれず、出演したドラマでも良い役は回ってこなかったがテレビ番組にはそれなりに出ていたらしい。この時代のアイドルにしてはスタイルが抜群に良く、いまどきの芸能人と並べても見劣りしない感じだ。
「ん、好みの子でも居た?」
しのぶのからかうような言葉が僕の背中を刺した。好みどころではない。このアイドルの顔は、僕が福山駅で見たあの子にそっくりなのだ。似ているにもほどがある。
「ああいや、うん……この人にそっくりな人を見たことがあって」
「へえ、どの子?」
僕はしのぶに久川ゆきのページを渡し、ついでにそのそっくりさんのこともしのぶに話してみた。
福山の市民病院に行くと言っていたことや、バスの中で聞いた多少のエピソードなどをだ。どうせ後でシャーロットさんに話そうと思っていたことだ。先にしのぶに言ってしまっても良いだろう。
「この人だね……あ、既ににいくつかアノテーションしたデータがあるわ」
馴れた手付きでコンピュータを操作し、以前にスキャンしたデータを検索していたしのぶの顔が不意に曇った。
「あ……」
「どうした?」
「あ、いや、うん。Wikiを見ると、ご本人様はもう亡くなってるみたいね。それにしてもWikipediaのアイドル情報ってすごい充実っぷりよね……」
「確かに。これほど記述を充実させてる人達のモチベーションって凄いよな。一方で数学や物理の記事なんかはほぼ読む人を置き去りにしていて、これが同じメディアなのかと思うと笑えるよ」
「ほんとそうよね。正しい記述かもしれないけどあれはないわーって思うわ」
しのぶが何かを咄嗟に誤魔化したことは僕にも解った。きっとしのぶにも誤魔化さなくてはならない理由があったんだろう。僕は知らないふりをしてアイドル雑誌の裁断を続けた。
★★★★★
「……というわけなのよ」
「そっか。その患者さんに市民病院に行けって言ったの確かに私だわ。そっかー。これはもう、羊飼い云々はともかく、この辺りにきな臭い連中がいるの確定だね……」
大地は作業中に古紙の繊維が目や鼻に入ったせいか猛烈なアレルギー症状が出てしまい、話もそこそこに帰ってしまった。
シャーロットにその症状を見せることも考えたが、あいにく今日は婦人科診療の日だ。大地がいくら図太くても待合室の居心地が悪かろうとしのぶなりに気を使った結果である。
結果的にしのぶ一人が得をしたことになるが、たまにはそんな日があってもいい。
『この近辺では福山市民病院でしか本格的な治療ができない病気とはどんな病気なのか、シャーロットさんに聞いておいてもらえるか?』
しのぶは大地が帰り際に託していった質問をシャーロットに伝えた。「久川ゆき」にそっくりな患者が先日のそっくりさん来院リストにあるという事実と共にだ。
「ねえ母さん、もう少しこの件について聞いても良い?」
「うーん。患者さんのプライバシーって点ではあんたにべらべら話すべきことではないんだけどね……。あんただからまあいっか。
要するにその女の子はクローン個体独特の症状が出てたの。いろいろ顕著な症状は出てたんだけど、とにかくテロメアが短かったのを覚えてるわ」
「え」
「大抵の人間の細胞には分裂回数に限界があるのよ。ヘイフリック限界って言うんだけどね。クローン細胞は親個体の遺伝子をコピーしてるんだけど、それまでの分裂回数もコピーされると思っていいわ」
「えーと、じゃあ、おじいちゃんの細胞をクローンすると」
「特別な措置を施さない限り、通常より早い年齢で残り分裂回数が尽きてしまうわね。興味があるならテロメアとテロメラーゼについて調べてごらん。ノーベル賞を獲ったような研究だから文献は多いわよ。岡大でこのあたり詳しい笹本先生って人がいて、福山市民病院にも行ってる人だから紹介したんだけど……大丈夫かしら」
クローン牛などの家畜は数年で屠殺される運命にあるためヘイフリック限界に至る例は少ない。だが人間はどうか。紛争地域でもない限り、クローンとて数十年という単位で生きるだろう。
実年齢と遺伝子の年齢の差異が引き起こす歪みがヒト・クローンの身体にどのような影響を及ぼすのか、その実例は乏しい。ほとんどの国で人間のクローン作成が禁じられているため、先行研究そのものが存在しないのだ。
「あの、ちなみに母さんたちの残り分裂回数は大丈夫なの?」
「ちょっと、何を言い出すかと思えば……。まあ、私達は大丈夫よ。ある日突然老化して死んだりしないわ。テロメアの長さをちゃんと補正してるし、そもそも『運営』からの特別措置を受けてるからね」
「そうなんだ。安心した。私もそのうち特別措置を受けさせてもらえるのかな?」
「それよりこのこと大地くんには話しちゃだめよ。私は相田さんと話してほんとに彼女がクローンかどうか確認するから」
「あ、うん。わかった」
しのぶはあてが外れたような顔をした。大地が気にかけている女の子というのも気にはなるが所詮は見知らぬ他人。彼女のにとっては自分の年齢が母の見た目の年齢に近づきつつあるということの方が遥かに重大な問題だ。
あと5年もしたら自分のほうが母より年上に見えるようになるだろう。それまでに勝ち取らねば―― その特別措置とやらを。
★★★★★
次の日、シャーロットは相田の所に赴いた。
自分の患者がクローンであるかどうかということと、羊飼いに縁のある研究機関がクローンを作っているかもしれないというのは全く別の問題だ。
であれば自分の周囲に起きている2つの問題に「クローン」以外の関連性があるかどうかは確認しなくてはならない。
タックスヘイヴンならぬクローンヘイヴンと言われる地域が地球上にはいくつか存在している。そこでは聞くもおぞましい商売が繰り広げられているとシャーロットは医師仲間から聞いていた。美女のクローンを金持ちの変態に売り飛ばすくらいは可愛いとさえ思える程の商売が横行しているのだそうだ。
日本もその例外ではない。クローン技術規制法によってクローン胚を母胎に移植することは禁止されているが、クローン胚を作ることそのものは禁止されていないのだ。ヒトクローンによって得られる利益が、法による制裁で失うものよりも大きければ非合法組織のフロント企業はいくらでもヒトクローンを作ってしまうだろう。
「で、ウチの出番かいな」
相田の能力「カウンター&フェイトチェイサー」は事象を遡って情報を取得できる能力だ。運営によってやりなおしを禁じられたシミュレータ環境において、情報収集手段として最上級のこの能力を持つ者は彼女を置いて他に居ない。
彼女の能力を持ってすれば物理シミュレータでは意味のない筈の社会情報さえ扱えると言えば、その特殊性と汎用性が解るだろう。
「計測器と因果探索は対で動くのが理想やけど、ぶっちゃけTrue か False かを計測するだけで二択の問題は何でも判るからやれんことはないねん……。せやけど、あんまり便利に使わんといてな」
「こんな気が重くなる依頼をしょっちゅう持ってくるってことはないから安心して。それより、来週木曜日、朝10時半なんだけど一緒に来てもらえる?」
相田の能力による因果律の遡行はあくまで結果として遡行しているように見えるだけで、その実態はいくつかの原因と思しき事象と、その結果となる事象の相関関係や因果関係について逆方向への探索を行っているに過ぎない。レグエディットが視覚に、空間情報エディタが空間把握能力に強く依存しているように、相田の能力は事象への認識能力に強く依存している。
したがって、「久川ゆき」のそっくりさんがクローンかどうか、羊飼いと関係があるかどうかを相田の能力で判定するには、相田自身がそのそっくりさんを自身で認識しなくてはならない。
シャーロットは「そっくりさん」の主治医となった笹本医師から次の彼女の診察についての情報を得、偶然を装って相田と「そっくりさん」を引き合わせようと画策していた。そうすれば当面必要な情報は全て揃うし、なんと言ってもお手軽だ。
「しゃあないなあ。『広島カープ仕様スパイシーせんじ肉』5袋で手ェ打とか」
「あら、相田さんカープファンなの?」
「いや、メーカー特定するためやな。せんじ肉だけやといろんなメーカーが作ってるらしいから」