#018 夏の出会い
夏休みも残すところ3週間弱という中途半端な時期に、僕は志摩の壬生別邸から岡山へと帰ってきた。あれからしばらく僕の能力が戻らなかったからだ。
能力が使えない以上、僕はあの別荘ではただの食客に過ぎない。そんな状態では当然居心地も悪かったし、帰っても良いと言われた時はほっとしたくらいだ。
瞳さんいわく、僕の能力のロックは既に外しているらしい。だが、ロックを外したからと言ってすぐに能力が使えるようになるものでもないそうだ。
一度身体知をロックすると脳がパニックを起こして能力が使えなくなるのでは、と瞳さんは言っていた。ケースが少なすぎてはっきりしたことが言えないのだそうだ。
確かに、それまで意識せずに出来ていた事が何かの拍子に出来なくなると誰だって軽くパニクるだろう。そして出来なくなったことで軽い苦手意識を持ったり、全盛期のカンを無理やり取り戻そうとしてドツボにはまるかもしれない。
あの超能力が身体知に依存している以上、似たようなことが僕に起こっているのだと言われれば納得もできる。
「いつ頃使えるようになるか、だいたいで良いから教えて下さいよ」
「んー。こればっかりは本当にいついつとは言えないんですよ。ある日『クララが立った』という感じで使えるようになる筈です。何かのきっかけがあれば良いんですけどね」
僕はしつこく瞳さんに食い下がったが、ついぞ明確な解答は得られなかった。ある日なんとなく戻っているかもしれないし、一生戻らないかもしれない。ただ、身体知である以上、常日頃から使ってみようとする意志とチャレンジは必要だろうと言われてしまった。
ちなみに、大河にはその手の喪失感は無いらしい。そもそも能力の訓練をしていなかったのだからそれもそうか。
◇◇◇◇◇
「夏休み、通常運転に戻ったなあ……」
帰宅してからの僕は淡々と勉強の日々を送っていた。たまに外出しても図書館で勉強すると言った感じだ。他にやることもないし。
考えてみれば、僕は合宿中に理系科目を徹底的に仕込まれていたのだ。勉強する場所と科目が変わっただけで生活そのものは合宿中と何ら変わりはない。確かに当初予定していたような予備校の夏期講習での勉強は出来なかったが、トータルで見れば予定よりも勉強は捗っている筈だ。
しかし、勉強に集中していては僕の能力は戻らない。どうしたものか――
あれから2,3回、しのぶから様子見の連絡があったが僕は中身のない生返事ばかり返していた。しのぶの能力を見て泡を吹いてひっくり返ったことに対する恥ずかしさもあったが、何よりしのぶが僕の遥か先を行っているような気がして、以前のような気安さで話すことが出来なくなっていたのだ。
そんな気のない返事をしているうちに、しのぶはしのぶで何やら忙しいらしく、ぱたりと連絡は来なくなった。
さておき、夏休みの前半20日程を志摩で過ごした僕は養父母からの信用をかなり失っていたように思う。警察や学校から呼び出されたと思ったら、合宿などと言って長い間家を開け、帰ってきたらその間のことを何も話さずに仏頂面で黙々と勉強しているのだからしょうがない。僕が養母の立場だったら不気味なことこの上ないだろう。
「ちょっと出てくる。昼飯はいらないよ」
だんだん勉強ばかりしているのも飽きてきたある日、僕は出かけることにした。
どういうわけかこの家では夏の間の昼飯は素麺と相場が決まっているらしい。
素麺も2、3日続くくらいなら良いがそれ以上となるとたまには他のものが食べたくなる。勉強への飽きと素麺への飽き、2つが僕の外出への決断を後押ししていたといっても過言ではない。
「そう言えば、内海がなんとかオリンピックの予選の準備で夏休みは出ずっぱりとか言ってたな」
久しぶりに学校に行って内海の顔でも見てやるか。夏休み前ならともかく、志摩でコンピュータの特訓も受けていたから今なら奴等の話す言葉が少しは分かるかもしれない。
いや、分かっても入部するつもりはないけど。
ちなみに僕は今日、内海のクラブが学校で活動しているかどうかは知らない。いいのだ。何か目的があって出かけるのではなく、出かけること自体が目的なのだから。
例の宝くじのおかげで懐事情はすこぶる良い。贅沢だが新幹線に乗って福山まで行き、そこから学校まで自動運転バスで行こう。福山駅前からも学校までは無料の自動運転バスが出ている筈だ。夏休み期間は学生専用ではないらしいが。
◇◇◇◇◇
「でぇえ……あづい……なんじゃこりゃあ」
中旬を過ぎても8月の気温は殺人的だ。僕は新幹線のプラットフォームから駅北口のMaaS専用ロータリーまで歩く、ほんの数分間で汗だくになっていた。
ペットボトルの一本も持たずに学校まで歩いて行ったら、志摩のストレス合宿を耐え抜いた僕でさえ倒れてしまうかもしれない。福山駅から学校までは徒歩1時間弱。
うん。確実に死ぬ。
この世の全てが呪わしいと言わんばかりに太陽を歪な目つきで睨みつけ、呪いの言葉を呟く僕の姿は周囲にはさぞかし奇異に映ったことだろう。
そんな不穏な空気を一変させるような光景が僕の目の前に突如現れた。
つばの大きな帽子、白いおそらくは上等なワンピースを着た、僕と同じぐらいの年頃の女の子が僕の向かうロータリーの辺りに立っていたのだ。
美人というよりはむしろ可愛らしく、それでいてどこか儚げな青白い肌の少女。彼女の周りの空間を切り取るだけで素晴らしい絵画にでもなりそうな、そんな光景だった。
こういう人のことを可憐、と表現するのだろう。
僕は自分の学校へ行くであろう自動運転バスのサービス標識の前に立ちながらも視界の端にそっと彼女を捉え続けた。冗談みたいだが、本当に彼女を見ているだけで涼やかな風が吹いてくるような気がしたのだ。
彼女はMaaS用ロータリーにいくつか立っているサービス標識の前を困った顔をしながら右往左往していた。 自分が乗るべき車が分からないのだろうか。
学校の方に行くバスの標識の前に立つ僕を見た彼女は、 藁にもすがるような顔をして僕のところにやって来た。
「あのすいません。私、その……困ってまして、ちょっと教えていただけないでしょうか」
「何でしょう? 僕も地元ではないんですが分かることなら」
「私、蔵王町にある市民病院に行きたいんです。でもどれに乗っていいか分からなくて」
涼やかな風の主に話しかけられた僕の心は降って湧いたようなシチュエーションに踊った。しかし、僕もどのバスに乗れば病院に行けるのか知らない。
「ちょっと待って。調べるから」
僕は浮き立つ心を抑えつつ、持っていたタブレットで検索してみた。しかし福山駅から市民病院へ直接行くバスは見当たらない。徒歩かタクシーがおすすめ、とある。
「直通はないですね。病院に一番近いバス停で降りても10分くらいは歩かなきゃいけないみたいです」
この炎天下、道を知らない人や病人にはなかなかきつい行程だ。もし今僕が風邪を引いていてこの距離を歩けと言われたら、すぐに倒れて救急車を呼ぶ羽目になってしまうだろう。
「この炎天下で10分も歩いたら私、死んでしまいそうです。だからオンデマンドバスか何かで丁度いいの無いか探してたんですけど……」
青白い肌や着ている物のせいか、彼女の印象はどことなく儚げだったが、話す言葉はしっかりしていた。少しはにかんだような愛想笑いの笑顔がとても可愛い。人を惹きつける笑顔というのはこういうのを言うのだろう。
「なるほど、オンデマンドですか。福山駅から見れば市民病院とうちの学校はだいたい同じ方角ですし、確か夏休み期間はオンデマンドリクエストができたと思いますよ。やってみましょうか?」
「そうなんですか? できるんでしたら是非お願いします」
僕がサービス標識のタッチパネルを操作してバスの行き先を福山市民病院に指定できるか試してみたところ、幸運なことに既に市民病院を目的地に指定した乗客が他にいると表示された。僕が何かしなくても次に来る自動運転バスは市民病院まで行くらしい。
「どうやら次にここに来るのに乗ったら市民病院に行けるようですよ。途中まで一緒ですね」
「ほんとですか? やった! ありがとうございます」
僕の二の腕を掴んで無邪気にサイネージの表示を覗き込む彼女の笑顔。それは、それまで女っ気の無い学生生活をしていた僕には新鮮な気持ちを起こすに十分だった。有り体に言えば僕はすっかり舞い上がっていたのだ。
「ふーん……頭良いんですねえ」
「いやあ……」
バスに乗り込んだ僕は、彼女と何気ない会話を繰り広げた。他の大人たちから見たら初々しいカップルどころか、そっけない世間話をする知り合い程度にしか見えなかったことだろう。しかしこれでも僕は相当な勇気を振り絞って頑張っていたのだ。
「ところでどうして市民病院へ? ご家族が入院でもされているんですか?」
僕の、ちょっと踏み込んだ質問に彼女の顔色が変わった。しまった、いきなり踏み込みすぎたか? 自然な流れかと思ったんだが……。
僕の頭が通常の3倍は回転してリカバリのための会話シミュレーションを繰り広げていると、彼女は重そうな口をゆっくりと開けた。
「あの……私が病気っぽいんです」
「あなたが?」
「ええ。福山市民病院に私の病気をよく知っている先生が居るって聞いて、それで……」
「そうなんですか……」
何の病気だろう? しかし、道案内をしただけの男子高校生がそこまで聞くのはさすがに踏み込み過ぎだ。女性に対しては適切な距離感が大前提。次に同情と共感を示すこと! 情報収集や解決法の提示提案は二の次三の次って良くしのぶも言ってたしな。
『まもなく、附属校前、です。夏休み期間は便数が限られておりますのでお帰りの便のご確認をお忘れなく。危険ですからバスが完全に止まってから席をお立ちください。お客様のご要望で、このバスはこの後、福山市民病院、へと向かいます』
無機質かつ無情な自動音声のアナウンスが僕達の会話の終わりを告げる。僕は彼女の名前を聞き出すこともなくバスを降り、内海達がいるかどうかも判らない校舎へと足を向けた。
「いやあ、綺麗な子ぉじゃったねえ。昔のアイドルにあんな感じの子ぉおらんかった?」
「おったおった。なんとかいう名前で……ああ思い出せん」
同じバスに乗っていた年配のおばあちゃん達がそんな会話をしていたのを聞いて僕は多少鼻が高くなった。なるほど、昭和平成ならアイドル級の女の子か。そんな女の子と数十分でも話せたなんて、内海達が聞けば悔しがるに違いない。
……僕にもう少しの勇気があればあの娘の名前くらいは聞けたんだろうか。
◇◇◇◇◇
「市民病院で有名な先生? そりゃいっぱいいるよ」
僕はなんとなく彼女が向かった市民病院の話題を内海に振ってみた。
「なんだ、そのアイドル級の女の子が気になるのか? しのぶ先輩が近くにいるだけじゃ飽き足らず、他の女にまで手を出そうってのかよ」
「いや、なんてのかな、気になるじゃないか。あんな青っちろい顔をしている子がどんな病気なのかとか」
内海は情報オリンピック予選への準備に余念がなく、今はシュタイナー木問題を量子コンピュータで解く際の量子アルゴリズムの最適化について頭を捻っているそうだ。それだけ忙しいのなら僕なんかすぐに部室を追い出されるかと思っていたのだが、人数分のアイスクリームの差し入れをするだけで何時間でも居ていいということになってしまった。
ラーメンからアイスに変わっただけで、こいつのたかり体質は変わらないらしい。
「ふうん。まあ外見に特に異常が無いんならやはり内科とかじゃないかなあ。わざわざ遠くから来てると言うことは、もしかして難しい病気かもな」
「つまり?」
「腫瘍とか、他の遺伝子疾患、膠原病、重度のアレルギーなんかじゃないか?」
「やけに詳しいな」
「うちは兄貴が岡大の医学部だからな。耳学問ってやつだよ。市民病院は岡大の先生が何人か来てるらしいから、兄貴に聞けば何か判るかもしれん。とは言っても、最近の兄貴はたまに廊下で見かける美人の非常勤講師の先生の話しかしないんだが」
「ははは……。まあ、内海の兄さんを巻き込んでまで、他人のプライバシーを暴くのもどうかと思うし、何より名前も知らない女の子だからな。あの娘の病気について知ったところで僕がなにか出来るわけでもない。無事と快癒を祈るに留めておくよ」
岡山大の医学部と言えばシャーロットさんが非常勤講師をやっていた筈だ。だが、医学部と言っても広いだろうし、さらにその先の病院の情報となると高校生の僕には分からないほど面倒な話が待っているかもしれない。ちょっと話しただけの女の子の情報をゲットするためだけにそこまでしちゃいけないのは僕でも判る。
しょうがない。この話はここまでだ。内海のお兄さんがシャーロットさんに惚れたりしていないことを祈ろう。
「そうだな。そうしておけよ。自分が何も出来ない人の不幸に首を突っ込んでも良いことは何も無いからな」
そうだな。内海の言うことはもっともだ。
僕は半分みぞれになってしまったレモン味のかき氷を啜りながら、あの娘の少し寂しそうな笑顔を忘れることにした。
「ン、内海、そこ、ハミルトニアンの演算式間違ってる」
「マジで?」