#014 蘇る記憶
貴子さんが会長室を出て行ってしばらくすると「焼き鳥屋のバイトをちょっと抜けてきた」と言う瞳さんが会長室にやって来た。その顔は明らかに不機嫌そうだ。
「坊っちゃんの世話を焼くより今は焼き鳥を焼いていたかったんですが……。
そもそも、この件に関しては刺激をせずにそっとしておくか、新たなタガをはめるかの二択じゃなかったんですか? 前にここで焼き鳥食べながらそう言ってましたよね? なんで第三の選択肢『外れそうなタガならさっさと外してしまえ』が最有力になってるんですか?」
なるほど。どうやら以前から瞳さんと父との間では、僕の封じられた記憶についてどう取り扱うかの話し合いが持たれていたらしい。その時の決定と、今の現状との間には乖離があるということなんだな。それで瞳さんは怒っているわけだ。
「すまん瞳。俺もあれからいろいろ考えたんだ。でな、このままなし崩し的に記憶の封印が解けるよりは、ある程度安全が確保された状況で人為的に封印を解いたほうが良いと考えたんだよ。幸い能力の封印が先行して外れたのだから、まずは天然だろうが養殖だろうが能力を制御できるように訓練して、それから記憶の封印を解けば上手くいくかと思ってな」
「そういうことはちゃんと連絡してくれないと、知らずに私が大地さんのテレポート見かけでもしたらどうなってたか解ってるんですか?」
「う……そうだな。すまん、俺が悪かった」
え? もし瞳さんに知らせないまま僕がテレポートしてたら僕はどうなってたの?
「で、もういいから思い出させようってことですか?」
瞳さんはぶっきらぼうに父に問いかけた。相当苛立っているのが良く分かる。
「いや、どうしようかとはまだ悩んではいる」
「影山さん、『お前には俺が封じた記憶があって、それはお前の能力に深く関わっている』と、今まさに能力の訓練をしている若者に言ったあと、『でも何を封じたのかは内緒な』って言えると思います?」
まったくだ。そんな生殺しみたいな状態にされてたまるか。
父は僕の顔をそろっと覗き込んでいたが、僕が強く睨み返してうなずくと慌てて瞳さんの方を向き直して取り繕ったような真面目な顔をした。
しかし妙だ。普通、こういったツッコミは母の役どころの筈だ。どうして瞳さんがこの事ばかりは歯に衣着せぬ勢いで父にツッコミを入れまくっているんだろう。これだけ言いたい放題だと母も瞳さんに釘を刺したりしそうなものなのに。
そうこうしている間に、貴子さんがしのぶを連れて入って来た。
「これで全部って事でいいかしら? 褐色娘はこの話、参加させなくてもいいの?」
「あいつもそろそろ来るだろう。今日は御茶ノ水で会議だとか言ってたから少し遅くなってるのかな」
御茶ノ水か。あのあたりには東京医科歯科大や順天堂大、他にも大きな病院がいろいろあったっけ。シャーロットさん、都内の大学なんかとも仕事をしてるのかな? やっぱり凄いなあの人は。
「だとしたらえらく遅くまで会議してるのね。ま、あの娘にしちゃあ真面目に仕事してるみたいじゃない」
「いやいや、うちの母はいつでも真面目ですよ? うちの病院はいつも母を頼りに来る患者様でいっぱいです」
「そうよ。それに有能だわ。3足も4足もわらじを履きながらどれ一つ破綻しないんだから」
しのぶと母が揃ってシャーロットさんの肩を持つのを見るのは珍しい。まあ、貴子さんがシャーロットさんにあまりいい感情を持ってないことは薄々気がついてたけど、一体何があったんだろう。この人達のことだから悪口を言われたとか、そういう単純な話じゃないと思うんだけど。
しかしこの人達、全員が個人として恐ろしく有能に見えるけど、部下を使って組織運営するって話になるとどうなんだろうな。すぐに「ええい、自分でやるから貸せっ!」って言いそう。
「シャーロットは確かに真面目で有能だが今回は擁護出来ないかもしれんな。お前ら、御茶ノ水と神保町の距離を考えてみろ」
父がそう言うので僕は手元の携帯デバイスで地図を出して御茶ノ水と神保町の距離を見てみた。その距離わずかに400メートルほどだ。いったい神保町に何が有ると言うのか……僕は古書街くらいしか知らないが。
「あ……」
「母さん今日はいつもよりノリノリで出張に出かけたけど、それが目当てだったのね……」
その場の全員が、何か残念な人のことを語っているように僕には見えた。人の評価って、たった一つ条件を加えられただけでこんなに簡単にひっくり返るんだな。恐ろしい。
「こんばんは。晩ごはん買ってきたよ~」
会長室にたちこめていた残念な空気を打ち破るような明るい声で入ってきたのは、その残念な空気の元凶のシャーロットさんだった。白いビニール袋を3つも抱え、中にはお持ち帰りのカレーがいくつも入っている。
「母さん、遅いよ」
「やっぱり神保町に行ってたか……」
「あんた、そのうちカレーで命落とすわよ」
「あはは~、ごめんね? こればっかりはやめられなくてさ。ささ、食べよう食べよう。何話してたんだか知らないけど深刻な顔してたら良い知恵が浮かぶってわけでもないでしょ? 相田さんも呼んでさ、一緒に食べよ?」
皆それなりに空腹だったらしく、シャーロットさんのお土産を有り難く頂こうということになった。しかし流石に応接セットの低いテーブルの上に買ってきたカレーを全部置くと手狭なことこの上ない。それじゃあ役員会議室で食べながら話そうということになって、僕らは会長室を後にした。
やれやれ、忙しいことだ。まあ、ソファに座ってそっくり返ってカレー食べると高確率でシャツが汚れるからこれは正しい判断なんだろう。
「もしかして医科歯科大との共同研究って……」
「うん。神保町に近いから承諾したんだよ」
しのぶは母の満面の笑みとその回答を聞いてがっくりと肩を落としていた。
……それにしても、きれいな女性ばかりだなあ。なんでこれだけの美女達が父の周りに寄り集まるのか、僕にはかなりの謎なんだが。
◇◇◇◇◇
役員会議室は木製で大きめのミーティングテーブルがあり、椅子も12脚ある。だいたい誰がどこに座るかは決まっているらしく、まず父や母、ショートボブと貴子さんが席に付き、余ったところに僕を含む今日のゲスト達が座っていった。
シャーロットさんが持ち帰りのカレーを袋から出す傍ら、しのぶは飲み物の準備をするとかでグラスを棚から出している。これは倉敷でもよく見る光景で、僕なんかはちょっとほっこりしてしまう。
「えーと、私、相田さん、市川さん親子、ウチの子、瞳さん、ダンナ、お菊人形……困ったな。2つ足りないや。まさかお菊と大地君来てると思ってなかったからな」
「こら、誰がお菊人形よ」
この場合、消去法から行ってお菊人形は貴子さんのことだろう。
「あんただって私のことまともな呼び方してないでしょうが。文句あんの? だったら食べなくていいわよ」
「夕食買ってくるなら連絡の一つも入れて、数くらい確認すれば良かったじゃない。たったひと手間惜しんだ挙げ句に馬鹿面晒してるんじゃないわよ」
いきなりの舌戦。貴子さんがシャーロットさんのことを褐色娘と言ってるのは僕も知ってるし、貴子さんがシャーロットさんに同レベルの呼び方をされて怒る権利はないと思う。
「私は話が終わったらすぐ焼き鳥屋に戻るんで、カレーはいいや」
「あ、僕も晩御飯は志摩で食べてきました」
貴子さんとシャーロットさんが激しく火花を散らしている中、瞳さんと僕が足りないカレーの分を辞退した。これで全員に行き渡るし、二人が争う理由も減ったはずだ。
「だったら数ピッタリ……と言いたいけど、食べてない人の前で美味しいものを食べるのは気がひけるのよね。市川さん、アレでなんとかしてよ」
「だったらしのぶちゃんにやらせてみたら? GWにしっかり仕込んでおいたから」
シャーロットさんと母が意味不明な会話をした後、母がしのぶを顎で指した。
「え? 大地がいるけどいいの? だったらやるけど……」
「もう、話すって決めちゃったみたいだしね。とりあえず私がやるよりはいいかなって」
母は諦めたような顔をして瞳さんの方を見た。瞳さんは先程の苛立ちがまだ収まっていないようで「お好きに」とだけ言って肩をすくめて両手を開くポーズをとっている。
なんだろう。しのぶはこれから何かをするようだけど、それは何か重要な意味を持っているのだろうか。
「了解。じゃ、このA3用紙借りますね」
しのぶは会議室の片隅に置かれていたA3の事務用紙を机の上に敷くと、持ち帰りのカレー容器を2つ置いてそれを5秒ほど、ちょっとエロいアヘ顔で見つめ、そして目を閉じた。
「はい終わり。上手く出来ました!」
はーっと言う大きな溜息とともに、しのぶはいつもの理知的な笑顔に戻った。さっきまでのちょっとエロいアヘ顔はなんだったのか? そしてしのぶはいったい何をしていたというのか?
僕はしのぶの顔ばかり見ていたので何が終わったのか良く分からなかったが、その後机の上を見て仰天した。
「カ、カレーが4つに!」
A3事務用紙の上に置かれたカレー容器、それがもう1セット増えていたのだ。
「これが亜希さん直伝、空間情報エディタの複合メソッド『空間コピペ』だよ。ホントはカレーを増やすために使うような能力じゃないんだけどね」
これがしのぶの能力……そして母もこれを……?
え、ちょっと待って。もしかしたらこの場にいる全員が能力者で、僕が一番のミソッカスなの? そうなの?
「空間情報エディタってのは本当はこうやって使うものじゃないんだよ。オブジェクトパラメータをいじるやり方ではどうしても『波の伝播』とか『真空中のエネルギー』なんかについて干渉できないでしょ。そういう、オブジェクトを介さない空間に対しての干渉のためにこの能力はあるんだと、あたしなんかは思ってるんだけどね」
しのぶが得意気に自分の能力について解説をしてくれているが、その言葉はあまり頭に入ってこない。
その時僕の頭を支配してたのは「僕は小さい頃、これに似た光景を見たことがある」という感覚だった。そしてそれを思い出す方が僕にとっては大きな、そう、とても大きな問題のように思えたのだ。
いつ……どこでだ?
思い出そうとする度に僕の心臓の鼓動は激しくなり、全身は冷や汗でびっしょりになった。それはわずか十秒か二十秒の事だったかもしれないが、僕には永遠にも思えるほどの長い時間だった。
ぱしん
そんな、何かが弾けたような音が頭の中で聞こえた気がする。その瞬間、激しい光の明滅のイメージとともに景色は歪み、記憶の奔流が僕の脳を駆け巡りだした。
「あああーーーーーーーーっ!」
「まずい、瞳、準備しておいてくれ」
「もう、言わんこっちゃない」
「カっ……カレーが!」
周囲の人達の会話は徐々に聞こえなくなり、僕の五感は渦巻く記憶の激流の中に飲み込まれて行った。