第一章 2
真っ白だった。
神谷怜は視界を染めるほどの雪に感嘆していた。二十六年の人生の中で最も白い世界だったからだ。日本の北陸地方などに住んでいれば冬景色として当たり前の世界でも、都内に住んでいればあまり縁のない世界である。
はぁ、と白い吐息を零しながら、そういえばと思い返す。観るともなしにつけっぱなしにしていたテレビの天気予報で、ヤン坊とマー坊が東京一帯に十㎝以上の積雪が予測されるのは、十数年振りだと話していた。それをうけた一方的に顔見知りとなった天気予報士が、わりと興奮気味に何かをコメントしていて、大人になっても積雪でテンションが上がるものなんだなと感心したものだ。
感嘆してしまった自分も同類かと思いつつ、そう思ってしまった暢気さに呆れもした。
まず、とにかく寒い。
積雪がよくある地域では「凍てつく」と言うこともあるらしいが、成程、凍てつく寒さを体感中である。
次に、視界が塞がる。
視界を染めるという響きは美しいが、さすが自然現象、要は吹雪いているということだ。車のワイパーも半分凍りつき、スタッドレスタイヤやチェーンを装着したタイヤであっても慣れない雪道に苦戦し、車間距離が目測できず、普段より気を張って肩がこった。
さらに長靴に履き替えたところで、隙間から雪が入ってくるため冷たい。
挙げ始めればキリがないほどだ。
「ぶぇっくしょいッッ」
おっさんのようなくしゃみの後は、ズビーッと豪快に鼻を擤み、コートのポケットのビニル袋にちり紙を落とす。風邪ではなく、完全にこの凍てつく寒さによるものだ。神谷が到着してまだ十分程度だというのに、右ポケットには使用済みのちり紙がかなり溜まっている。
ビニル袋を偶々持っていたためコートのポケットを汚さずに済んでいるものの、そのビニル袋の許容量を早くも越えてしまいそうで、内心ではかなり焦っていた。それに加え、手持ちのちり紙が底をつきそうであることも問題である。
さすがに二十六にもなって洟垂れ小僧はいただけない。
ふと、彼らも寒かったのだろうかと考えた。
現場は人通りもなく、第一発見者は空き巣対策で周辺を巡回していた警察官だという。吹雪き続ける悪天候を直に受け、息絶えている。遺体の状況から鑑みても別場所で殺害されたことは明らかであるのに、何となく寒かったのではないかと考えた。
いや、考えた、というよりは、感じた、のほうが正しいのかもしれない。
ぼんやりとそこまで考え、はっとなり神谷は首を振ってそれを流した。私情は禁物、これは鉄則である。
機捜隊によれば所持品は多く、その中には生徒手帳もあったことから、身元の確認は早期に行われることになるだろう。だが、確認させると同時に、保護者は認めないかもしれないなと思った。
基本的に身元の確認を行うのは、保護者を含む家族や、近しい親族が多い。それは被害者の顔を識別するには、被害者と常日頃から接しているほうが識別してもらいやすいからだ。
しかし、それも面影がしっかりと残っている場合の話であり、遺骨であったり、顔面の損傷が激しい場合などであれば、DNA鑑定や歯型鑑定が行われる。DNA鑑定や歯型鑑定の場合、一致したとしても被害者だと認めない遺族は多く、今回もそれに該当しそうだなと神谷は眉を顰めた。
変死体に慣れ、常人の感覚と比較すれば麻痺している神谷であっても、今回の遺体が常識を逸して異常であると断言できる。
彼らが寄り添い、手を繋ぎ、息絶えていた。
文字にすれば、成程、心中事件のような状況である。けれど、そこに男同士、ぶくぶくと膨れあがって生前の面影はなく、その上で顎を外され林檎を丸々一個詰め込まれている、という状態が足されることによって、あっという間に類を見ない状況が出来上がっていた。
第一発見者が警察官でなければ、状況を面白がって脚色した情報が瞬時に拡散していただろう。
確実に壮大な揉め事へ発展するだろう今後の対応を想像した神谷はげんなりしながらも、生徒手帳や制服から被害者の身元を手帳へと書き写した。捜査本部が設置されるとはいえ、そこへ情報を集約する作業があり、この足でそれを収集しに行くことは確定している。
情報社会となり、誰でも手軽に情報操作ができる世の中は、ある意味では警察の敵だ。まして今回の被害者が学生であるとなれば、学生からある程度情報が社会へ拡散されることを前提に動かなければならない。機密だ何だということは約束でしかなく、それを縛る方法は法律上存在しないからだ。
(……学生にはナメられるし、あんま聞き込み行きたくないっスね……)
童顔気味の神谷は警察という後ろ盾があったとしても侮られやすい。そのため常に強面で体格の良い者か、他者を寄せつけないような威圧的な者と組まされていた。
「よう、冷えるな」
その一人でもある真田友彰の挨拶に「そうッスね」と返しながら神谷は苦笑する。何せ「冷えるな」と言いながらも、真田自身は手袋やマフラー、コートすら着ておらず、ジャケットさえ羽織っていなかった。
「その格好で言われても説得力ゼロっスけど」
「そうか?」
きょとんとした様子で首を傾た真田越しに検死と鑑識の作業が見える。現場を保存するには向かない気候の中忙しなく動く鑑識とは別に、手早く検死や遺体の搬送を指示する姿があった。
ポケットのビニル袋がそろそろ限界を迎えそうだと内心で焦る神谷の横で、作業を眺めつつ真田がスマホを操作している。
「え?!」
「ん?」
思わず声を上げれば、真田以外もこちらを振り向いた。それに慌てて何でもないと手を振りながら、神谷は小声で「いつスマホなんて持ったんっスか」と真田に問いかける。
「あー、この間?」
かりかりと頬を指で掻きながら真田が返すが、それよりも邪魔だと言って財布や警察手帳すら持たない真田を知る神谷は驚愕して、まじまじと真田を見上げた。
「いや、恋人と、連絡できねぇの、困るし」
照れながら曝露した真田に「恋人ってそれも聞いてないっス」と叫び、仕事の邪魔すんなとばかりに周囲から睨まれた神谷は再びぺこぺこと謝罪する。
「後で詳しく聞くっスからね」
じろりと睨むように真田へ告げれば、その気迫に呑まれたように「あ、あぁ」と応えがあった。それに満足そうに神谷は頷いたが、しかし結局忙殺されて聞く暇はとれず、それを後悔することになるのだが、まだそれを知らない。