第一章 1
真っ白だった。
冬景色というのは正にこういうことを言うのかもしれないなと、窓から外の様子を覗きながら、渋谷巳鶴は感嘆する。都心で暮らす巳鶴にはこれほどの雪は初めてだった。
パシャリとスマホで景色を撮影しつつ、寒さに身体を震わせる。室内を暖めているとはいえ、窓際は冷気が流れ込み、しんしんと降り積もる雪の冷たさを伝えてくるようだ。
年々様々な異常気象が増えつつあり、この冬景色もその一つと言える。それらは少しずつ日常生活にも食い込み、影響を及ぼしはじめていた。
だが人間とは不思議なもので、異常であるものが積み重なるとそれを日常だと思い、順応性が高くなる。そして異常である事実が少しずつ薄れていくのだ。
順応することが悪いとは思わないが、真実が薄れていくことは怖いことだとも思う。表裏一体のようなそれに巳鶴は苦笑した。
「広瀬……ううん、――さゆり…かな」
「おまえ、本当に高校生か?」
考えを振り切るように、ぼそりと冬ソングで思い浮かぶ歌手を呟く。そんな巳鶴の様子を、珈琲片手にリビングへ戻ってきた兄・和巳が呆れた表情で見ていた。
いや、呆れたというよりは高校生としてどうなんだという疑問を感じている表情だろうか。
巳鶴より十も上の和巳だが、外見はそっくりだ。
癖のない黒髪と、鍛えてもあまり身体に反映されない細めの体型。身長は和巳のほうが高いが、巳鶴はまだ成長期なため然程気にはしていなかった。
スタイリッシュな眼鏡をかけている和巳が知的に見える一方で、巳鶴はどちらかと言えばやんちゃで明るめな印象を与える。その程度の違いだ。
「和兄の影響だと思うんだけど」
差し出しされた珈琲を受け取りつつ答えると、和巳は納得がいかないのか、首を傾げている。そんな兄の仕種が可愛らしく見えていることは黙っておいた。
普段から音楽を聞く和巳ではないが、時々暇を持て余した時や、運転する時に聞いている曲に最新のものは少ない。どうやら本人にはそのことに全く自覚がないらしく、少し困った表情をしていた。
解りやすく表情を変えるわけではないが、巳鶴は幼い頃から近くで和巳と過ごしてきているため、表情の変化に気づきやすい。今も変化する表情に微笑ましささえ感じるほどだ。
けれど和巳は仕事中に困った表情どころか、表情筋が全く機能していないと同僚の人たちからはよく聞かされている。巳鶴からすれば色々な表情を見たことがあるため、あまり無表情という和巳に実感がなかった。実は表情筋が動かない和巳も見てみたいと考えてることは内緒である。
家では温和な雰囲気の和巳が、怜悧は解るが、冷徹だと言われているというのだから、二面性であることは確実だった。
どちらにしろ和巳は和巳だと巳鶴は思い、巳鶴は巳鶴だと和巳が思っていることもあり、十の年の差もあってか二人が仲違いすることは少ない。
幼少時に両親を亡くし、親戚を盥回しにされたことも、二人にとって互いを思いやる原点にもなっていた。和巳に至っては巳鶴が心の拠り所になっているからだと断言するほどで、他者に対して表情筋が動かないのはそのせいなのかもしれない。
プライベートと仕事、それによって表情筋の働きが違うのだろう。
高校生らしくないのではと巳鶴に対して困っている和巳だが、そういう和巳自身も世代ではなかった。恐らく父親か母親の影響だと思われるが、兄弟揃って少し影響されるところがずれているのかもしれない。
「ところで、和兄、のんびりしてるけど時間大丈夫なの?」
温くなりつつある珈琲に口をつけながら巳鶴は問いかけた。壁に飾られた時計の針が和巳の出勤時刻をだいぶ過ぎている。
思い出したかのように問う巳鶴に「雪の影響だな」と和巳は苦笑しつつ、悪天候で出勤時刻が遅れていることを教えてくれた。
ちなみに巳鶴はずる休みではなく、悪天候のため学校閉鎖である。雪に慣れていない地域のため、除雪作業が追いつかず、通学時の危険性が高いという学校側の判断だった。
雪は見ている分には楽しいのだが、生活に影響するとなれば楽しいだけでは過ごせない。けれど、やはり普段降らない地域だからか、世間的にも浮き足立っていた。
「もしかしたら、帰れないかもしれない。戸締まりはしっかりしておけよ?」
「うん、和兄も気をつけてね?」
「それは何とも難しいことだな。極力気をつけるとしよう」
そろそろ迎えが来るようで、いつものように戸締まりについて指摘を受ける。和巳の台詞に返す巳鶴の台詞もいつもと同じものだ。両親が亡くなってからというもの、戸締まりについては毎回確認される。和巳の精神的安心のためだというので、高校生になっても止めることはなかった。
玄関で和巳を見送って、戸締まりを確認する。外はだいぶ吹雪いていて、これでは本当に和巳は帰ってこれないかもしれないなと独り言ちた。
雪を楽しみに何処かへ出かけたいところではある。けれど吹雪いている上に、交通機関が麻痺している今日は止めておくべきだろう。
ふと思い立って撮った写真を送る。
珍しくすぐ返信があり、和巳と同じく雪の中出勤しているようだ。忙しくなると断言された文面を見て、巳鶴は少し寂しさを感じる。
揺れる己の気持ちを持て余しながら、珈琲に口をつけた。