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序章

 声が聴こえた。

「ねぇ…誰か…ねぇ」

 切なくも心の底から助けを求めている声だ。

「誰か…“ボク”をみつけて…」




 ちらほらと空から舞い落ちてくる真っ白なそれが、屋根を濡らし、家垣を濡らし、庭木を濡らし、地面に落ち着いては濡らしていく様子を、()れた林檎のように赤く腫れ上がった頬もそのままに少年はただただ見ていた。

 都心では珍しく真っ白なそれが降り続き、地面を染め、庭木を染め、家垣を染め、屋根を染め上げてまた地面を染めていく様子は、生まれてからこのかたずっとこの都心で暮らしている少年にとって初めての光景だった。

 何処(どこ)か近くにある児童公園からは子供たちの楽しそうな声が届き、その声に反応して少年の眉根がきつく寄っていき、あどけなさが残る顔に似合わず盛大な舌打ちが鳴った。その苛立ちは舌打ちを鳴らしただけでは解消されるはずもなく、ただただ見ているだけだった真っ白なそれを靴で踏みにじり、靴底の土が真っ白なそれを汚していく光景でようやく口許(くちもと)が緩んだ。苛立ちは解消されないが、真っ白なそれが(けが)されていく光景は少年をひどく満足させるものだった。

 全部、(けが)れてしまえば良いのだ。

 真っ白さなど必要ではなかった。白く()ることは求められず、()すか()されるかの違いがあるだけで、(けが)れていくのだと知った。踏みにじられ、(けが)された真っ白なそれと同じように、人間も同じなのだと少年は身を(もっ)て知っていた。腫れ上がった頬がその事実を物語(ものがた)り、少年という存在もまたその事実を裏づけていた。

 飾りたてた若作りも(はなは)だしい身体(からだ)(しわ)を隠すために厚く塗られたファンデーション、毒々しいほどに(あか)口許(くちもと)、子供という存在をひた隠し母親にならなかった女の口癖は「アンタなんて生まなきゃ良かった」だ。ドラマや小説で使い回される(じゅ)()のような台詞(せりふ)を現実に浴び続けた少年は、真っ白な時期を早い段階で失っていた。

 ごろん、と少年は地面に横たわった。真っ白く染まっていた地面は少年の重さを受け入れ、少年の温もりによって溶かされ、泥と混ざりあっては少年の温もりを奪い、そしてまた少年の身体(からだ)を染めていった。

 綺麗に染まったら――と少年は(ほほ)()んだ。

 (かす)かに残る頬の痛みもそのうちに消え、それと(ともな)って少年も消えるのだと思ったら、自然に頬が緩んでいた。

「なにちてるの?」

 声が聞こえた時はようやっと迎えが来たのだと思った。

 少年を(のぞ)き込んでいる子供が以前教会で見た、ステンドグラスの中に(えが)かれた天使に似ていたからだ。ただ(えん)()色の帽子と制服が、ここはまだ現実の世界だと知りたくもないのに教えてくれていて、その事実は少しだけ少年を打ちのめした。

「なにちてるの?」

 全く微動だにしない少年を不思議そうに見ていた子供は、問いかけながら躊躇(ためら)うことなく少年の顔に触れた。

「―――っ」

 自然の冷たさに赤みは多少引いていたが、痛みはそうもいかず、子供の手を思わず振り退()けてしまった。パシンと乾いた音にしまったと思ったが(あと)の祭り、突然のことに驚いた子供の目にはみるみる涙が溜まっていき、少年が謝るか悩む(ひま)すら与えず子供は泣き出した。

「―――っ、泣くな」

 子供のあやしかたなど知らない少年は、ぐしゃりと子供の髪を掻き混ぜ、振り退()けてしまった手を示し「悪かった」と口の中でぼそりと謝った。泣いていた子供はきょとんと少年を見下(みお)ろしていたが、掻き混ぜられた髪と気まずそうな少年の表情(かお)から謝られたことを悟ったようで、涙を溜めていた目で「うん」と答えた。

 それから少しはにかんで「にぃちゃ、まっかっか、いんごしゃんみたい」と笑い、痛みの残る頬を良い子良い子と撫でてきた。

 この子供は愛されて育ち、まだ当分は真っ白なままなのだろうと考え、少年はふと他人を気にしている自分がいることに気がついた。

 消えてなくなりたいと願っていた少年の前に現れた、天使と見間違えた子供の存在が、急に少年を現実へと繋ぎ()めてしまったのだ。

 目の前の、空から舞い落ちてくるそれと同じくらい真っ白な存在は、少年に初めて命を吹き込んだ。

(……生きたい、のかも、しれない……)

 途端に目の奥から何かが広がって、それは雫となって目から(あふ)れ出し、頬を撫でていた子供の手を濡らした。

(……そっか、生きたいのか……)

 自覚した瞬間、体温と違う何かが少年を温めた。それは長い間少年が欲しかったモノ(・・)で、それを手に入れた喜びが少年の身体(からだ)を駆け巡り、どこか吹っ切れた表情(かお)で少年は笑い出した。

 泣いたり、笑ったりしている少年を見ていた子供は、やがて「よあったねぇ」と嬉しそうにしていた。何故(なぜ)かは解らないが、少年の変化を察し、それが嬉しいことであると子供は理解したようだ。

「キミの名は?」

 その問いに答えは不要だった。子供がどういう答えを出そうとも、少年にとって子供の存在が自分の生きる意味(すべ)だと確証していたからだ。

 全てを失ってしまおうとしていた少年にとって、この瞬間(とき)からその子供の存在が少年の未来(すべて)となり、少年を生かすことになった。




 声が聴こえた。

「みつけた」

 それは歓喜に満ち(あふ)れた声だった。

「よかった」

 同時に切なく、苦しみを(ともな)う声でもあった。

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