お化け桜が咲く頃に
「先輩、卒業おめでとうございます」
いつもと違う髪型の彼女に、僕はそんな祝福の言葉を投げかけた。先輩は、僕の言葉に小さく「ありがとう」と返す。
巻かれた綺麗な黒髪は花のモチーフがついた髪飾りに彩られ、艶やかな光をたたえている。普段より主張の強いアイメイクとチークも、彼女の凛とした美しさに強さと華を添えていた。
校則が厳しいことで有名なうちの高校も、今日だけは化粧も髪も暗黙の了解、というところなのかもしれない。
少しばかりまじまじと見つめすぎてしまっただろうか。彼女ははにかんだ笑みを浮かべつつも、所在なさげに視線を彷徨わせた。
目の前の彼女は、僕のひとつ上の先輩だ。知り合ってからは二年弱になるだろうか。そして今日、彼女はこの高校をめでたく卒業し、この春から東京の有名な大学へ進学する。
先輩は感慨深そうな顔で、もうすっかり寂しくなった部屋を見渡した。ここは、旧校舎にある文芸部の部室。この一年、僕と先輩だけが所属し、今年度で廃部になる部活の部室であった。
本来は、一年前――当時の三年生が卒業した時――に、部活として成立する最低人数を満たさなくなり廃部となるはずであった。
だが、今年でちょうど定年を迎える顧問の計らいもあり、最後のもう一年だけと今まで存続していたというわけだ。部室の片付け自体は殆ど終わっており、残すは私物や学校で処分できないものを持ち帰るだけである。
「まだ月末まで使ってよかったのに」
「先輩も居なくなりますし、今日で終わりにしますよ」
先輩のからかうような声に、僕はどうにかそう答えた。こんな言い方は、少し気持ち悪かっただろうか。元々、僕はあまり人との会話が得意な方ではない。気恥ずかしさに視線を窓の外へと向ければ、満開の花を咲かせた桜の大樹、通称『お化け桜』が目に入った。
立派な大樹ではあるが、正門側の桜並木が有名なせいで誰もわざわざ見に来ない、不憫な桜である。木の幹の模様が人の顔に見えるから『お化け桜』なんだとか、そんな話だった気がする。
老木だからか知らないが、年々開花が早まっているとも聞く。だが、今日この日に満開になってくれたことには、素直に感謝したいと僕は思った。
何故って、先輩はあの桜に大層ご執心なのだ。僕と先輩が初めて出会ったのも、あの桜の下だった。
僕たちが今いる旧校舎は来年度取り壊しが決まっている。二年後の他校との合併に向け、新校舎や体育館を建てるらしい。だが、その頃には自分が在籍している訳でもない。それに関しては大した興味はないのだが――――。
「ねね、聞いた? お化け桜のこと」
先輩の声に僕は小さく首を振った。彼女の表情を見れば分かる。あれは、自分が話したくて仕方がない顔だ。普段からにこやかな彼女だが、この二年弱で僕も大分その裏の感情が分かるようになっていた。だから僕は、彼女が気持ちよく話せるようにお膳立てをすることにした。
「お化け桜って、旧校舎の取り壊しと同時に伐採が決まってましたよね?」
「そうそう。……それがね、なんと! 東京の小さな図書館に移植して貰えることになったんだって!」
「……へぇ、そうなんですね」
「何それー。もっと驚いてよー!」
だって、全部知ってましたから。僕はそんな言葉を飲み込んで、肩をすくめた。そう、知っていたのだ。どうにかあの桜が残せるよう、先輩が色々な所に自ら掛け合っていたことを。やがて、顧問から教職員、卒業生をも巻き込み、それを実現させたことを。……僕はそれを、ここの卒業生でもある母親から聞いた。
あれだけの大木で且つ老木である。その移植が困難であることは容易に想像できた。業者の選定から資金調達にスケジュール調整さえ、彼女が中心になって決めたというのだから驚くばかりだ。ちなみに受け入れ先は、一番沢山お金を出してくれた昔の卒業生のところらしい。
そんな大変な状況にあっても、先輩は決して僕に手伝ってと言わなかったし、あの桜の移植に関して自分が関わったなどと言わない。この人はそういう人なのだ。
この半年、先輩は受験もあってすごく忙しそうにしていたし、本当に珍しく疲れを滲ませていることもあった。それでも、やっぱりここが落ち着くからと足繁く部室に通っては、僕と他愛のない話をしてくれていた。
だから、僕はそんな先輩のことが――――、正直苦手だった。
あまりにも……、そう、あまりにも眩しかったからだ。その光で、僕がどれだけ矮小な人間なのかを、くっきりと浮かび上がらせるからだ。
先輩は殆ど何でも出来た。成績も良かったし、この部室を飾っていた賞状や盾のほとんどは、彼女を称えたものだった。形だけの文芸部で、活動報告のためだけに適当に書いて応募したというのに、だ。
僕はきっと所謂人格破綻者の類なんだろう。矛盾するのは自分でも分かっている。それでも、彼女と過ごす放課後のひとときはとても心地よかった。
彼女はいつも僕の話を聞きたがった。本当にくだらない、日常の些細なことを知りたがった。それが何故なのかは、よく分からない。
先輩は元々何を考えているのか分からないことがあったし、掴みどころのない人ではあった。だが、何故か昔から僕に構った。そして、これも本当によく分からないのだが、僕は先輩にだけは何だって話せた。心の奥底にあった、ある感情を除いては。
先輩は、聞くのが上手なのかもしれないし、壁を作るのが上手なのかもしれない。彼女は、絶対に僕の深い所に踏み込まない。そして同時に、彼女自身もまた、その本心をいつも隠していたように思える。
僕たちはある意味、似た者同士だったんだろう。上手に周囲に溶け込めない、という点で。僕と先輩の理由は違うだろうけれど……。
これは本人に聞いたわけではないが、僕は間違いないと思う。今だって、新校舎の方からは未だに卒業生たちの多くの声が聞こえてくるというのに、先輩はここに居るのだから。
「――――あ」
それは、どっちの声だっただろうか。少しの沈黙を破らせたのは、窓から吹き込んだそよ風だった。部室の中央に置かれた大きな長机。その上に無造作に置かれていた写真が舞うのを、僕の右手と、先輩の左手が止めた。
いつもこの机を囲んで部員たちは活動していた。年季の入った重厚な木の机の上に散乱している写真たちは、つい先程まで壁のコルクボードに貼られていたものたちだ。
それは、部室に残されていた古いフィルムカメラで撮られたものだ。先輩は無言で、いくつかの写真を撫でると、一枚の写真を手に取った。
「ねぇこれ、私が貰ってもいい?」
「あ、はい……。いいですよ」
僕の了承の声に、先輩はにこやかに頷く。その写真には、執事に扮した僕とメイドに扮した先輩が写っていた。恥ずかしそうに俯く僕と対象的に、満面の笑みの先輩。
あれは僕が一年生の時の文化祭――。当時の文芸部の三年生たちの悪ノリのせいで、とんだ恥をかくことになった時の写真だ。今思い出しても耳が熱くなる。
「この時のキミ、傑作だったなぁ」
「いつまで言ってるんですか……」
先輩は気付いているだろうか。あれは、唯一僕と先輩が二人だけで写っている写真だ。そして、文句なしに先輩が一番可愛く写っている写真でもあった。
先輩は、その写真をとても大切そうに自身の鞄へ仕舞う。僕は少しばかり後ろ髪を引かれるような気持ちになった自分が嫌になった。
「一枚だけで、いいんですか?」
僕の問いかけに先輩は頷くと、その鞄を手に持った。僕はそれで、先輩との時間が間もなく終わることを悟る。
僕は先輩の連絡先を知らない。知る手段はきっとあったのだが、今更だし、彼女もそれは望まないだろう。何か機会がなければ、もう一生会うことはないのだ。
「……少し、歩かない?」
「今日くらいは、正門まで送りますよ」
先輩の問いかけに、僕はそう答えた。この高校は正門から出てすぐに駅があり、先輩は電車通学だ。僕はいつも裏門から出て徒歩で帰るが、今日は特別だ。
僕は部室の窓を閉めると、同じく部室の鍵だけを手に取った。まだ全部の荷物が片付いたわけじゃない。後で戻ってくればいい。
小さな声で部室に「ばいばい」と告げた先輩と一緒に、旧校舎を出て渡り廊下を歩く。空は間もなく茜色に染まるだろう。傾きかけた太陽は、僕たちの影を長く伸ばしていく。春の陽気は、既に早退してしまったようで、僕はブレザーを部室に置いてきたことを後悔しつつあった。
先輩は近くの自販機でパックジュースを買うと、「これも飲み納めかー」などと笑う。まぁ確かに、ここの自販機でしか見かけない飲み物なのは確かだ。
ローファーを履いて中庭に出た僕たちは、どちらともなくベンチに腰掛けた。卒業式の日だからか、隣の先輩からは、いつもより華やかな香りがした。お化け桜が夕日に輝く様子を眺めながら、僕は先輩がジュースを飲み終えるのを待つ。
「ねぇ覚えてる? あそこで初めて会った時のこと」
お化け桜の根本に視線を向けながらそう問いかける先輩に、僕は一度わざとらしいため息をついてこう答えた。
「忘れるわけないじゃないですか。だって第一声が『え、生きてるの? 変死体じゃなかったんだ。残念ー』なんですよ?」
「あはは……。あの時の私はミステリに傾倒しててさ。桜の根元と言えば、的な? ……あと、二度と私の声真似はしないでね?」
「分かってますって。でも、あの時は本当に、『めちゃくちゃ変な人に絡まれた。どうしよう!?』ってなりましたよ」
「めちゃくちゃ変な人とは失敬な。入学早々、授業サボって寝てた人には言われたくないし。……それで? 実際一緒に部活をしてみてどうだった?」
「まぁ普通に変な人でしたね」
僕がそう言うと、先輩は可愛らしく「もう」と言って頬を膨らませた。僕は、そんな先輩の横顔を見ることに罪悪感を感じ、目をそらす。
僕が手持ち無沙汰に周囲を見渡したのだと思ったのだろうか。先輩は、手に持っていた飲みかけのジュースを差し出し「いる?」と聞いてきた。
先輩は時折、妙に思わせぶりな行動を取る。だがそれは、彼女にとってはただの暇つぶしに過ぎないと、僕は分かっていた。からかわれているだけだ、と。
だから僕は、今日くらいはと勇気を出して、そのパックジュースを手に取った。驚いた表情の先輩が見れただけで儲けものだ。そう自分に言い聞かせると、顔の熱さを感じながら一息にそれを飲み干す。
味なんて分からなかったが、少なくとも後味は強烈な甘さであった。先輩は少々変わってはいるが、顔はいい。悪い気はしなかった。……彼女はそうじゃないだろうが、まぁ自業自得だろう。
二人の間を沈黙が支配する。僕は先程の行動のことを、家に帰ってから死ぬほど後悔するだろう。これは確定事項だ。
そんな沈黙を破る機会をくれたのは、お化け桜だった。風に吹かれ、その枝を揺らすと夕日を浴びた満開の花たちがこちらに手を振るように揺れ、空に舞い踊る。
「こういうの、零れ桜って言うんでしたっけ? 文芸部的には」
「うん、そうだね。凄く綺麗……」
「僕が今まで見た中でも、間違いなく一番綺麗だと思います」
「ねぇ。もし、だけどさ……。また、三年――――」
何かを言いかけた先輩であったが、力なく首を横に振り、口をつぐんだ。何故かその様子が胸に引っかかった僕だったが、どうせ『また三年生をしたいって私が言い出したらどうする?』的なことを言うつもりだったんだろうと自分を納得させる。
アンニュイな気持ちになりながら、桜を眺めること数分。意を決したように立ち上がった先輩に続き、僕も立ち上がる。
先輩はゆっくりとお化け桜の下まで歩くと、こちらを振り返り微笑んだ。
「キミが最後まで居てくれて良かった。今日まで、本当に、本当に楽しかった。文芸部に入ってくれて、ありがとう」
そう言って、先輩はその頭を下げた。そんなストレートな言葉に、僕はしどろもどろに、「……あ、はい。僕も、楽しかったです」などと、情けない返事を返した。
「あ、そう言えばさ。キミ、彼女とはうまくやってんの?」
「……えっと、彼女って?」
「そりゃ、キミが前に話してくれた恋人のことに決まってるじゃん?」
何でこのタイミングでそれを聞くかな、と僕は心の中で毒づく。先輩は何故か地面ばかり見ているようで、その真意を測ることはできなかった。
「いや、いつの話をしてるんですか? 入部したばっかりの時の話ですよね、それ。もうとっくに別れましたよ」
「えぇぇぇ!? 嘘!? いつ!?」
急に大きな声を出した先輩に困惑しつつ、僕は「一年の夏休み前には」と答える。すると先輩は、「はぁぁぁぁぁぁ……」とため息なのかどうか最早わからない声を出して項垂れた。
「先、輩……?」
突然の先輩の奇行に、僕は恐る恐るそう声を掛けた。すると先輩は、下を向いたままこう呟いた。
「なんだ、私にもチャンスあったんだ」
僕は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。文脈から考えれば、そうに違いないとは分かっていたのに、頭が理解することを拒否していたようであった。
だって、有り得ないから。相手は、あの先輩なのだ。
しかし、顔を上げた先輩の瞳が微かに潤んでいることを認識した僕の頭は、凄まじい速度で回転を始めた。何か言わなくては。とはいえ、僕の口からこぼれ出たのは、言葉にすらなれなかった音で。
「あ、えっ? はい?」
僕のそんな態度に業を煮やしたという訳ではないだろう。単純に気恥ずかしさがあったのかもしれない。分からないが、先輩は何も言わずに背を向けて歩き出してしまった。
頭の中を錯綜する断片的な情報が、先程の先輩の言葉で繋がり、急速にひとつの解を導き出そうとしていた。しかし、その答えが出る前に、彼女は行ってしまう――。
このまま行かせてはいけない。僕は思わず手を伸ばし、その背中に叫んだ。
「待っ――!」
しかし、必死に絞り出した声は、最後まで続かなかった。
夕日と桜吹雪の中、振り返った先輩の笑みが、あまりにも――。
そう、あまりにも、綺麗だったから。
「じゃあね!」
先輩はそう言って走り去る。
時が止まったように凍りついた、僕を残して。
❖ ◇ ◇ ◇ ❖
高校を卒業して、約二年――――。僕は、まだ花を咲かせていない桜並木を歩いていた。桜を見れば、嫌でも思い出すのは、あの日のことだ。
あの時、何と返すのが正解だったのだろうか。それは分からないが、せめて「それを今伝えるのは卑怯ですよ」くらい返してやりたかった。
今にして思えば、僕が高校一年生の頃、当時の三年生たちはやけに僕と先輩を二人きりにしたがったし、「この子可愛いでしょ? 短歌も上手いし、器量もいいよ」としきりに先輩の良さを僕に説こうとしていた。
当時は、たちの悪い冗談だと相手にしなかった。それに、先輩には鬱屈した感情も抱いていたこともあり、僕は逆に距離を保とうとしていたのだ。
実際、先輩自身もどこか線を引いていたようなところもあるし、僕にも深く踏み込んでくることはなかった。だから僕は、これで正解だったと、当時は思い込んでいたのだ。
だが、もし――。先輩が居もしない僕の恋人に遠慮していただけだったとすればどうだろうか。僕は、大きなため息を吐く。
この季節は毎年こんな感じなのだ。少しずつ春めく街の匂いや空気が、僕を憂鬱にさせる。これが先輩の作戦だったとしたら、大成功に違いない。
何故なら、僕の中の先輩は、今でもあの日のままなのだから。あまりに鮮烈で、あまりに美しいままで、時間が止まっているのだ。
あの日、僕は夜まであそこに突っ立っていた。どうやって帰ったのかは記憶にない。そしてそれ以降、先輩とは勿論会っていない。
僕の方から連絡など取れるはずもなかった。そして僕は、先輩が暮らしているであろう東京からも、故郷からも逃げ、九州の片田舎の大学へと進学したのだ。
後ろから走ってきた自転車のベルに気づき、僕が歩道の端によると、同級生たちが横を走り抜けていった。今からカラオケに行くんだろう。昼休みに誘われたが、断ってしまった。僕は振り返ってくれた同級生に軽く手を挙げた。
そういえば、先輩は大体のことは出来たけど、歌だけは壊滅的に下手だったな。僕は、高校一年生の文化祭の打ち上げを思い出す。文芸部の皆で行ったカラオケで、三年生たちと一緒に笑い転げたものだ。
思わず頬が緩むのを感じた僕は、パーカーのフードを目深に被り視線を下げた。ほら、まただ。いい加減、忘れないと。きっと先輩は僕のことなんて思い出しもしないだろう。
そう、忘れようと思っていたはずなのに――。
「そういえば、今日届くんだった」
一人暮らしも長くなると、独り言が増える。帰宅した僕は、アパートに届いた荷物を開封しながらそう呟いた。実家が引っ越すらしく、自室にあったもので処分に迷ったものを送ると母が言っていたのだ。
「迷うものは、全部捨てていいって言ったのに」
僕はそんなことを言いながら、大きなダンボールの中身を漁る。そして、一番奥にあるものに気づき、思わず苦笑いを零した。
それは、文芸部の部室から持ち帰らされた物たちが詰まっている箱だったからだ。最後の部長だったから仕方がないとはいえ、不要なものを押し付けられただけにも感じる。
この際、全部捨ててしまおうか。一瞬そんな考えが頭を過るも、一応中を確認してからにしようと考え直す。そして意を決して箱を開くと、ちょうど今日思い出していたカラオケでの写真が目に入った。
耳まで真っ赤な先輩が、部屋の隅で体操座りして顔を膝に埋めている。思わず僕は吹き出してしまう。やっぱり、写真くらいは取っておいたほうがいいかもしれない。
箱の中には、写真の他にもここ数年の活動日誌や、文化祭やイベント用に印刷した冊子なんかも入っていた。その中には、先輩が短歌で入選した時の文芸誌もある。
いくつかの冊子をぱらぱらとめくっていると、その当時の温度や匂いを思い出すから不思議だ。そうして何冊かめくった僕の目に止まったのは、何故か既視感のある青緑色のノートだった。
他の冊子などとは毛色の違うそれを手に取ると、ページの隙間からラミネート加工された桜の栞がはらりと落ちた。
「何でここに?」
僕はその桜の栞で思い出していた。このノートは先輩が使っていたものなのだ。ページを開けば、美しい字で理路整然と桜の移植に関することが書き込まれていた。
僕は首を傾げる。先輩は僕にこれを見せようとしていなかったし、普段から持ち歩いていたはずだ。既に移植までの段取りは卒業の時点で決まっていたから、不要になり忘れていったのだろうか。
移植方法やリスクについて書き込まれたページの下の方に貼ってある付箋には『満開の花を咲かせるには移植から二年くらい必要。全部の枝が今みたいに伸びるのには十年かかるかも』とある。
確かに、僕も移植直前のお化け桜を見たが、一番太い幹以外の枝――最早普通の桜の幹くらいの太さ――のところまで切られ、痛々しい姿だったのだ。
ノートにも書かれているが、桜は花や葉が落ちている時期が一番移植に適しているようで、僕が高校を卒業する少し前に運ばれていった。
数ページ先には、恐らく移植先を探していた時のものであろう、住所や電話番号のリストがある。数ページにわたりびっしりと書き込まれたそれらには、沢山の取り消し線が引かれている。
今更ながらに、彼女の本気度を僕は思い知ることになった。自らアポを取って交渉していたと、僕は母親から聞いていた。尚、先輩は母から「桜の子」と呼ばれている。
そして、数ページを経て、大きな赤丸が付けられている場所がある。きっと今、あのお化け桜がある場所なんだろう。
そこまで見てノートを閉じようとした僕だったが、違和感に気づく。後ろの方のページがやけに厚く感じたのだ。よく見ると、最後の方の数ページを、中身が見られないように糊かなにかで止めてあるようだった。
トクン、と心臓が跳ねた気がした。すぐそばに、荷物を開封するのに使ったカッターナイフがある。先輩が隠していたもの? いやしかし、本当に見られたくなければ破り取って捨てているだろう。
そんな免罪符を胸に、僕は震える手で慎重に貼り付いた数ページを開いていく。やったことはないが、雑誌の袋とじもこんな感じなんだろうか、と僕は思う。何故なら、糊は端にしか付いていなかったのだ。
そう、これはいつか開くかもしれないと、先輩が想定していたものに違いない。それを開いているのが僕なのは、想定外だろうが。
「よくよく考えると、相当気持ち悪いことしてない?」
そんなことを自分で言いながらも、ここで止める気などなかった。一旦呼吸を落ち着けた僕は、高鳴る胸を押さえながら、件のページを開いた。
そこに描かれていたのは、満開のお化け桜だった。先輩は、絵も上手いのかと僕は思わず頬が引き攣る。鮮やかな色使いに、繊細な筆致はとても素人の描いたそれには思えなかった。
僕は感嘆の息を漏らす。風や匂いすら感じさせる出来栄えであった。そんな桜の下には、二人の人間が描かれている。
「えっと、こっちが先輩で……。こっちは誰だ?」
片方はすぐに分かった。肩口で切りそろえられた黒のボブカット。こっちは、先輩に違いない。だが、もうひとりは後ろ姿ということもあり、よく分からなかった。
当時の僕にしては、髪が長いし――。そこまで考えて、ハッとする。そういえば昔、先輩が東京の大学に合格が決まった時のことだ。
『キミは卒業したら、何したい?』
『とりあえず、髪でも伸ばしますよ。ほら、うちの学校だと色々面倒じゃないですか』
とか、そんな会話を交わした気がするのだ。くだらない返答をした自分を呪ったから、僕は覚えている。とはいえ、それを先輩が覚えているとは限らないし、流石に僕もそこまで自意識過剰じゃない。
「いやいや。まさか、ね」
そう自分に言い聞かせてはみたものの、どうしようもなく息苦しかった。だって、これを描いた先輩は、もしかしたら僕のことを――――。
深呼吸をしながら絵を眺めていた僕は、ふと違和感に気づく。
「あれ? お化け桜の背景が……学校じゃ、ない……?」
背中を寒気が走った。あの時と同じ感覚。色々なピースが繋がっていく感覚。何故僕の髪が長い? 何故お化け桜の背景が違う?
荒い呼吸を繰り返しながら、僕は散乱した荷物をどけて携帯電話をひっつかんだ。即座にブラウザを立ち上げると、お化け桜の移植先である図書館の名前を入力する。
「これ、なんて読むんだろ? まぁいいや。……やっぱり!」
検索結果に出てきた小さな図書館の庭。それは、先輩の描いた絵の背景そのものであった。そう、彼女が描いたのは、未来の絵だったのだ。
僕は、鼓動がだんだんと早くなっているのを感じていた。頭が熱い。けれど、ここで思考を放棄したら駄目だ。僕は思考を整理するために口に出す。
「お化け桜が移植されて最初に満開になるのは二年経った春。つまり、この春だ。そして、先輩はあの日何を言いかけた? 『また、三年』の続きは?」
もし、それが再会を願うものだったら?
このノートを、先輩がわざと忘れていったのだとしたら?
「ああ、もう!」
何度見たって、携帯のカレンダーは二月二八日を指していた。先輩が卒業したのは、約三年前の三月一日。つまり、その三年後は――――、明日だ。
窓の外はもう日が暮れようとしている。時間は殆ど残されていない……。自分でも馬鹿なことを考えていることは分かっていた。
でも、自惚れでも、勘違いでも、何だっていい。
行かなければ、一生後悔するから。
もし、どんな結果であろうと。きっと一生話せる笑い話にできるだろう。僕は上着を羽織ると、携帯と財布を掴んで外に出た。
多分、生まれてきて一番速く自転車を漕いだと思う。昔より伸びた髪が、汗で貼り付いて気持ち悪かった。荒い呼吸のまま、どうにか夜行バスの席についた僕はタオルすら持ってきていないことに気づき苦笑いを浮かべた。
そして、案の定一睡も出来ぬまま、僕は朝を迎えることになった。
色々なことを考えすぎて、頭が痛い。僕は重い足取りで早朝の駅を歩く。まだ早い時間だというのに、行き交う人の多さに酔いそうになった。
テレビで見る景色や、背の高い建造物が並ぶ光景に興味がない訳ではなかったが、今はそれどころじゃない。必死に電車を乗り継ぎ、更に徒歩で二十分歩き、僕はようやく目的地に到着した。
立派な生け垣に邪魔され、奥にあるであろうお化け桜を外から見ることは叶わなかった。流石に、不法侵入するわけにもいかない。
「ま、こんな時間から開いてるわけないよね」
僕はそう呟くと図書館の門の前に座り込んでしまった。どうにか到着できたことへの安堵からか、一気に疲れが押し寄せてきたのだ。
冷たいアスファルトに体温を奪われながら、僕はしばらく街に日が差していく様子を眺めていた。このあたりは、東京だというのに緑が多い。こうして知らない街で、こんな時間に外で座り込んでいる自分が可笑しくなる。
きっと先輩は来ないだろう。最早、来てほしくないとさえ思っていた。今更だが、何を話せと言うのだ。そうして、僕が衝動でここに来たことを後悔しかけていたときであった。
「おはようございます。早いですね?」
「あ、はい。おはようございます。すみません、こんなところに座り込んじゃって」
声を掛けてきたのは、六十代くらいの女性であった。この図書館の職員だろうか。いや、この規模だ。オーナーかもしれない。僕はとっさに立ち上がると、その女性に挨拶を返した。
携帯の時計を見るが、まだ開館時間には早い。だが、女性はそんな僕の仕草から察してか、優しく「どうぞ」と笑った。
だが、あいにく僕は本を読みに来たわけではない。僕は女性に礼を伝えつつ、桜を見に来たのだと正直に伝えた。
「あらあら、勿論大歓迎ですよ。ちょうど満開ですからね。今年、ようやくなのよ」
「それは良かったです。ぼ――私、実はあの桜があった高校の卒業生でして……」
「ふふふ。そうだと思いました。実は私も卒業生なんですよ?」
そう言っていたずらっぽく笑う女性は、何処か先輩に似ていると僕は思った。そんな大先輩に案内され、僕は庭の方へと向かう。
「学校もかなり変わったんでしょう? もう今は確か、共学なのよね?」
「ええ、そうですね」
「旧校舎もなくなってしまったけれど、『お化け桜』がここにあるのが、夢みたいに思うわ」
お化け桜なんて名前が、数十年前からあったことに驚きながら石畳を歩き、建物の角を曲がった時であった。目に入ったのは、緑あふれる庭園の中央、日差しを浴びて輝く一本の桜の大樹。お化け桜が満開の花をたたえて、そこにあった。
僕は思わず言葉を失う。桜、しかも老木の移植には大きなリスクが伴う。正直なところ、桜自体がちゃんと残っているのかという不安はあったのだ。
しかし、目の前のお化け桜はどうだ。まだ枝は少しだけ歪だが、全体が生命力に満ち溢れ、力強く咲き誇っていた。
どうやら、先輩ほどではないが、僕もお化け桜が好きになっていたらしい。頬を一滴の涙が伝う。そんな僕に気を遣ってくれたのだろう。オーナーの女性は、「いつまで居てもいいからね」と優しい言葉を残して、建物の方へと去っていった。
僕は改めてお化け桜を間近で見上げ、その幹を撫でた。来てよかった、と心から思う。
「お前、こんな所に居たんだ。良かったじゃん」
手で触れ、花の匂いを嗅げば色々な思い出が蘇ってくる。一番多く浮かんだのは、やっぱり先輩の顔だったが、もうこれで色々と吹っ切れそうだ。今年からは、桜が好きになれそうな気がした。
そして僕は、そんなお化け桜に背を預け座り込む。遠い日、先輩と出会った日のように。まだ東京は肌寒いが、不思議とお化け桜に触れているところは暖かさを感じた。
流石に図々しいな。あとでちゃんと、あの人にお礼言わないと……。そんなことを考えながらも、やがて欠伸を噛み殺せなくなった僕は、微睡みの海へ沈んでいった。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。瞼を閉じていても感じる明るさに、僕の意識が覚醒に向かおうとしている時であった。
その明るさを、何かが遮る。それが人影だと気付いた僕は、転がるように飛び起きて目を開けた。今の僕は、公共の場所で――花見シーズンではないが――満開の桜の前で寝ている不審者だ。
青すぎる空に、満開の桜、周囲の緑。それらの鮮烈なコントラストがあまりに眩しく、僕に顔を上げることを許さない。
とりあえず謝ろうと思うが、うまく言葉が出てこなかった。事情を話すべきだろうか、とも思う。けれど何から説明したらいいか分からない。
けれど、結果的に言えば、その必要はなかった。
何故ならば、そこに居た人がこう言ったからだ。
「なんだ、生きてたんだ。でも、変死体じゃなくて良かった」