第七章 虹
ものすごい衝撃が全身を襲った。耳元で手榴弾が爆発したかのような轟音が鳴り響き、金属が破断する振動とともにモニターやキーボードに顔をぶたれた。体が前に投げ出され、シートベルトが両肩にちぎれんばかりに食い込んだ。
息つく暇もなく、後方から引っ張られるような衝撃がやって来た。
雷鳴と聞きまがうほどの音で、後ろからの力はすぐに消え、今度は頭が180度ひっくり返った。
座席に吊られたまま何度もバウンドし、甲高い金属音と骨を震わす振動がしばらく続いた。
最後は何か大きなものに当たり、宇宙舟はようやく止まった。
「うぅ…………」
アルスはうめき声と共に目を覚ました。
どれだけの間、意識を失っていたのだろうか?耳鳴りがひどく、視界だけでなく聴覚まで奪われてしまった。
おさげの先がぷらぷらと揺れ、コックピットの天井をこそばしていた。頭に血が上っているせいで、鼻血が止まらない。手探りでシートベルトの金具を外し、頭を抱えて下に落ちた。
「ぐぅっ!……うぅ」
船体全体にひどい歪みが出ているようだ。窮屈だったコックピットが、身動きすらできないほど縮んでいる。
アルスはその場で体を180度回し、どうにか重力的に正しい方向を向いた。
「フーマ……?フーマぁ?」
色んな方向に手を伸ばし、フーマの名前を呼んだ。さっきまで目の前に座っていたのだ。いなくなるはずがない。いなくなるはずが。
空気の流れを感じて、その方向に進んでみた。手で触ってみると、船体が裂け、わずかな隙間ができているのだとわかった。
「んー!んんんー!」
アルスは身をよじって、なんとか舟の外に出た。つるつるとした、冷たい床だった。白い検査着のようなワンピースがびりびりと破れるのを感じたが、今さらそんなことは気にならなかった。
「フーマ……ふーまぁ……」
泣きそうになりながら名を呼ぶと、かすかに、本当にかすかに、応える声があった。
「アルス……」
「はっ……フーマ?……フーマ!」
アルスは四つん這いで声のする方へ進んで行った。自分の血で滑り、肘を強打した。
しかし、声のした方から、フーマの存在を感じ取っていた。アルスの大好きな色と匂いが、その方向には確かにあるのだ。
しくしく痛む肘をさすり、手を伸ばした。すると、アルスが這い出た裂け目と同じように、舟に亀裂が入っているのがわかった。そして、やった!亀裂の中に手を伸ばすと、柔らかくて、あたたかい感触があった。きっとフーマの顔だ。
「フーマ!フーマ、フーマ!」
アルスは大はしゃぎで喜んだ。自分が生きていることの何倍も嬉しかった。真っ暗な彼女の世界に、フーマのいるところだけが暖かい色をもって染まったのだ。よかった。フーマは生きていた。あとは、ここから、なんとかして助け出さなくては。
「フーマ?フーマ?やったよ!私たち、カファスに着いたんだよ!すごいよフーマ!一番の操舵手だって、みんな言ってたもん!」
アルスはフーマの顔をぺたぺたと撫でて、一生懸命に伝えた。フーマがどれほどかっこよくて、どれほど勇敢だったか、そして、どれだけ偉大なことを成し遂げたのか、世界中に知らしめてやりたい気分だったのだ。
だが、フーマは返事をしてくれなかった。
「フーマ……?」
アルスは心配になって声を小さくした。
「フーマ、どうしたの……?」
できるだけフーマの方に顔を近づけて、耳を澄ませた。
「よかった……アルス、無事だったんだな……」
フーマはなぜか、とても眠たそうに喋るのだ。ほとんど消えてしまいそうなほど、小さな声で喋るのだ。
「うん、そうだよ。ちょっと擦りむいたくらい。ねえ、動ける?ここに穴が開いてるの、どうにか、頑張って、私がひっぱるから!」
アルスはできるだけ見ないようにして、フーマの顔と思われる場所を引っ張った。
つるつるの床では踏ん張れず、何度も何度もお尻をついてしまった。
「ん~!あぁっ……!」
それでも、見ないようにして引っ張り続けた。絶対に諦めるもんかと心に決めていた。
「フーマ、頑張って……お願ぃ……!あぁ!」
フーマはちっともやる気を見せなかった。
あんなにアルスに優しくしてくれたのに。少しも手伝ってくれないのだ。
「ねえ……お願い……!フーマ……」
アルスはもう、見てみぬふりができなかった。
両手を床について、激しく嗚咽した。
フーマの命は、今まさに消えんとしていた。
機能を無くしたはずの瞳から、アルスには二度と見えないカラフルな色で、涙がしたたり落ちた。
本当はわかっていた。
フーマの顔に触れた時、手の甲に感触があった。金属片かチューブかだ。その位置は、どう考えたってフーマの体に突き刺さっていた。
「約束しただろぉ、アルス……オレが、責任もって……送り、届ける、って……」
「うぅっ……うぅぅ……」
裂け目の間から、本当に申し訳なさそうにフーマは言うのだ。
「ヤだよ……嫌だよぉ……フーマぁ……!」
「ごめんなぁ、アルス……オレはもう……一緒に行けないみたいだ」
フーマは優しく笑っていた。その心が絹のように柔らかくて、太陽のように暖かくて。アルスは涙をボロボロ流して泣いた。
「大丈夫……アルスなら……人類を、あぁ……みんな救って……それで、生きて還れるさ」
「ヤだよぅ……フーマがいないなんて……私っ……そんなのイヤだよぅ……!」
「いいんだアルス……いいんだ……君には、二度も助けてもらったから……たった一度なんて……たいしたこと、ないだろ?」
「そんなの知らないよ……!フーマが言ってくれたんだよ……!『丈夫だ』って……!だから私っ――うぅ……うぅぅうう……」
「フーマ……」
右の方から足音が聞こえてきた。メルキャップの声だ。高い位置から見下ろしているのだ。
「メル、キャップ……」
フーマが指揮官の名を呼んだ。
アルスの右隣で、ふわりと風が舞った。
「アルスを……頼み、ます……」
「もちろんだとも」
メルキャップは海のように穏やかな声で言った。
「よく頑張った、スサノオの操舵手、フーマ」
きっと、また、みんなを安心させる顔で頷いているのだと、アルスは思った。
「貴官は誰にも成し遂げぬ栄誉を果たした。その名は、我々の歴史に永遠に刻まれるだろう。心配せずにゆっくり眠れ――」
思っていたのに。
「――どうか、よき一日を」
その時、アルスは本物の〝悪〟を見た。
涙は枯れ果て、悲しみは干上がり、怒りが、内臓を焼き尽くさんと燃えたぎった。
せめて、最後まで。信じていたフーマが逝ってしまうその時まで、信じさせてあげたかった。
自分は正しかったのだと、誇りを胸に抱かせてやりたかった。
それさえも踏みにじるのか!
「なんてことをしたの……?」
肩を、唇を、魂を震わせ、アルスは立ち上がった。
「おっと!禁句だったかな?君には見えていないだろうから言おう。今、銃口を突きつけている。下手なことはしないことだ」
メルキャップの声は恐ろしいほど冷たく、事務的だった。
アルスは振り上げた両手をおろした。歯ぎしりして悔しがった。
「メッ……メルキャップ――?」
足元でフーマが荒々しく呼吸していた。それが身体的な苦しさとは別のところからきているのが、アルスには痛いほどよくわかった。フーマの代弁と言わんばかりに、語気を強めた。
「全部あなたが仕組んだことだったのね……」
「私一人ではない。私とセプテージ、二人でだ」
「どうして……!?どうしてこんなっ……ひどいことを……?」
小さなモーター音が遠くからやって来た。
それがFO―01が走る時と同じ音だと、アルスは気付いた。
「我々には必要だったのだよ、全人類を統治する上で、さらなる意志の統一が」
メルキャップが何を言っているのか、アルスには理解できなかった。
理解したくなかった。
「まだわからないのかいアルス。君が生まれたあの時代、サイバー空間に入るための装置があったはずだ。脳から記憶を抜き出し、そして、書き込むことのできる装置が」
アルスは首を振った。千切れるほど振った。
それだけはしてはいけないことだと、それだけは超えていけない一線だと、訴えるように振った。両手で口を覆い、絶対に唱えてはいけない死の呪文を唱えるように、小さなちいさな声で叫んだ。
「何百年も生きてるのね……人の体を乗っ取って!」
口にするのも憚られる。目の前にいる生き物は、もはや人間ではないのだ。人の形をした、別の――。
「セプテージが君の力を手にする。それで、我々の統治は完成する」
メルキャップは興奮したように声を上ずらせていた。
それが、本当に彼らの望んだことなのだと、アルスは受け入れざるを得なくなった。
命を奪うことよりなおおぞましい。想像を絶する、身の毛のよだつ行為だ。
「ずっとおかしいと思ってた……あなたたちは違う……あなたたちだけ違うのよ!匂いもしなければ、色もない!あなたと、あの女だけは!空っぽなのよ!心が、自分の物じゃないみたいに!」
アルスは地団駄踏んで訴えた。
こんなことになるのなら、フーマを連れ出して逃げるべきだった。
フーマだけでも、兄妹だけでも連れ出して、メルキャップともセプテージとも関係ない、平和で暖かい世界に行くべきだったのだ。
「そうか、ではもっと疑うべきだった。進化した人類でもその程度ということなら、不安だな」
アルスが後悔で押しつぶされそうになっているというのに、メルキャップはひどく冷たかった。冷静なのとはまた違う、腹の底まで冷えるような冷たさだった。
「みんなが信じてたからよ!フーマが信じてたから……!だから、私はあなたを信じたのよ!あなたは、あなたを信じてついてきた人をみんな裏切るの!?あなたのために、命を懸けて戦った人たちを!?あなたの帰りを待っている人たちを!?そんなことをして、心が痛まないの!?」
「裏切ったというのなら、フーマも同罪だ」
突然フーマの名前が飛び出し、アルスは黙り込んだ。
否定して欲しかったのに、舟の方からにじみ出てきたのは、罪悪感の色だった。
「アルス――聞くな……!」
先ほどより明らかに熱を持って、フーマが呼びかけた。アルスの心臓が早鐘を打っていた。
「彼は君に本当の予言を伝えていない」
「違うんだ……っ!アルス……!」
フーマの叫びを無視して、メルキャップが冷たく言い放った。
「本当の予言はこうだ。『彗星と同じ百年の周期で、白き装束に身を包んだ少女が、虹の彼方より訪れる。彼女はその命を賭して、人類を導く救世主となるだろう』……」
アルスは見えない弾丸に胸を撃ち抜かれた。
とっさに胸を掴んだが、肺に穴が開いたかのように、空気が、暖かかったフーマとの記憶が、しゅうしゅうと抜け落ちていく。
「あぁ、ああ……ああぁぁ!」
苦しい、苦しい、苦しい!
喉が、肺が、血管が、酸素を求めて暴れまわった。
とっくの昔にボロボロだった心が、今度こそ音を立てて崩れ始めた。
本当の意味で、目の前が真っ暗になった。
「彼は知っていたんだよアルス。君を目覚めさせれば、最後には命を落とすことになると。知っていて目覚めさせた。自分たちが生き延びるために」
フーマの存在も感じ取れなくなり、無限の暗闇の中に、一人ぼっちで取り残された。
アルスを化け物だと罵った声が、アルスを神だと崇めた声が、頭の中でいくつもいくつも反響した。
その中には、フーマの声もあった。
誰かに、いや、何かに腕を掴まれた。
ローラーのようなもので挟み込まれるように掴まれた。
「アルス!」
誰だかわからない声が、遠くの方でわんわんと反響していた。
「連れて行け、夜の間だ」
アルスはおもちゃのように持ち上げられ、引きずられていった。
「アルスっ!げほっ……!アルスーッ……!うぅっ……」
誰だかわからない声は、聞こえなくなるまで自分の名前を呼び続けていた。
血を吐き出してでも?それほど、大事な人だったろうか。
わからない。
アルスにはもう、何もわからない。
〔アルス様をお連れしました〕
マリンバのような音が反響し、アルスはさらに腕を引かれた。
「これで約束通りだ」
「ふん」
鈍い、金属の鳴る音がした。
重く、固い感触が頭に当たった。
痛い、という感情が、頭の外をふわふわと漂っていた。
「今度はそっちの約束を果たせ」
「私の前でそんなものを出すな。好きな女を選ぶがいい」
頭に当たっていた重みが取れ、足音が離れて行った。固い床に反響する、冷たくて甲高い音だった。
「待っていたぞ、アルス」
女の声が聞こえ、また腕を引かれた。冷めた頭で、膝小僧が燃えるように熱くなっているのをぼんやりと感じた。
ローラーに脇を挟まれ、持ち上げられ、何か固いものの上に寝かされた。
目を覚ますと、目の前にセプテージがいた。
真っ黒な世界の中に、セプテージの頭だけが異様に大きく、浮いているのだ。
セプテージは厚ぼったい唇をグミのように歪ませ、赤い爪で頬をとんとん叩いていた。意地汚い視線が嘗め回すように向けられ、アルスは肌が焼けるのを感じ、顔をそむけた。
赤い爪先がやってくる。
「いや……」
地獄の窯から手を伸ばす悪魔のように、黒い空間から、ねじれて、うねって、みしみしと伸びてくる。関節がどこにあるのかもわからない。四度も五度も折れ曲がった腕が、こちらに近づいてくる。
「やめてっ……」
ぞっとするほど冷たい指が、ひたひたと、一本ずつ、自分の喉にはった。
万力のような力で絞められ、喉の骨がパキパキと悲鳴を上げた。
「かっ……!けぁっ……!」
「心配するな、一瞬で終わる」
セプテージはうっとりとした表情で言った。
「眠るより早く、生まれるより素晴らしいことだ」
あばらの裏をひっかくような窒息感――点滅する視界――逃げ場を求めて飛び出そうとする内臓――倍に膨れ上がったかと勘違いするほど、激しく鼓動し始める心臓。自分の体中にある、ありとあらゆる〝生〟が、急速にその力を奪われていく。
しかし、それとは裏腹に、奇妙な快感が広がっていく。首に食い込んだセプテージの爪先から、血管を通って全身にめぐっていく。クリアになっていく視界。さえわたっていく頭。胸につかえたものがほろほろと崩れていき、アルスはふいに、ありとあらゆるしがらみから解放され、自由になった。
セプテージがほくそ笑んでいるのが、とても良いことのように思えた。
よかった。だって、私が死ぬことで、誰かが幸せになれるのだから――。
アルスは考えることをやめ、ただ、ただ、ほほえんで、地を蹴って跳んだ。
大きく羽ばたいて、ぐんぐん飛んだ。
真っ黒な世界を、どこまでもどこまでも高く行った。
ふと見下ろすと、自分の体にセプテージが覆いかぶさっているのが見えた。
右手は首を縛り付けにしたまま、今度は左手が振り上げられ、自分は頭を鷲掴みにされた。
そのまま見ていると、雨と雪とひょうが降り出した。アルスの体を容赦なくぶった。白いワンピースをぐっしょりと濡らした。鳥肌が立ち、寒さで震えた。打たれた肌に点々と痣が付き、痛みでわが身を抱きしめた。吐く息が白かった。
「あぁ……!あぁアルス!アルスや!アルス!!うっふっふっふっふっ!ふっふっふっふっふっ……!」
諦めて目をつむった。
そうすれば、眼下で行われているおぞましいことを見なくてすむから。
見ていなければ、それは起きていないのと同じことだから。
だから目をそらすのだ。
そうすればきっと、世界は平和なままだ。
五百年前だって。
アルスはずっと、ずっとずっと、もう気が遠くなるくらいずっと、見ないようにして生きてきた。
自分に向けられる視線も、敵意も、好奇も、羨望も。ものを見るような下卑た目も。
全部忘れよう、全部関係のないことだ。全部、ありもしない、おとぎ話なのだ。
アルスは真っ黒な空にお尻をついて、うずくまった。
ほっそりとした腕で膝を抱え、頭をうずめた。
やがて、脳みその淵の方がぴりぴりと痛みだし、じわり、じわりと重たくなってきた。
これはアルスだから感じることなのだろうか、それとも、今まで殺されてきた名もなき犠牲者たちも、同じ感覚に陥ったのだろうか。
ぼうっとして、考えがまとまらない。
指先が、足が、腕が、肩が、最後は心臓が……動かなくなり、動きを止め、生きているのかどうかもわからなくなった。白い息も、自分の口から出なくなった。
本当に、眠りに落ちていくように、感覚が遅く、鈍くなっていく。
次に目を開いた時、アルスは真っ白な世界にいた。
何もない世界だ。
右を見ても、左を見ても、白い光に包まれている以外、何もない。
とてもよいことだ。さっきまで感じていた痛みや苦しみまで、なくなってしまったのだから。
かつてないほど体が軽く、経験したことがないほど心が穏やかだった。
『どうした、こんなところで』
あぁ、あの人だ。
もうろうとする意識の中、アルスはそう思った。
だって、ボロボロのトレンチコートを羽織っているから。アルスの大好きな。
『逢えたんじゃなかったのか。生きていて素晴らしかったと、そう思えたんじゃないのか』
あの人の声は、トンネルの中で聞いた時のように反響していた。あの人は寂しそうな眼をして、サンタクロースになりかけの髭を何度も撫ぜていた。
アルスは力なく首を振った。
『ううん……違ったの……みんなね……私のことを人間じゃないみたいに言うの……私はやっぱり……一人ぼっちだったんだよ……』
そう答える自分の声も、どこか遠くから聞こえてくるように、反響していた。
『そんなことないよ』
あの人の後ろから、誰かがひょっこりと顔をのぞかせた。
小さな女の子だった。
アルスは息を飲んだ。
心臓が鼓動し、血が流々とめぐり出した。
忘れもしない。忘れるもんか。
アルスが結ってあげたのだ。
三つ編みを嬉しそうにいじりながら、ベルーガが笑っていた。
「うゔ!」
フーマは息を吹き返していた。
いや、もう動きを止めてしまった心臓を、自ら叩いて起こしたのだ。
「うぅぅうぅ……!」
何度もゆすり、何度も押した。ひしゃげたコックピットに下半身を挟まれていた。機械化された右手でも、持ち上げることは敵わなかった。
「くっ……はあ……はーぅあー……はーぅあー……」
息をするたび、酸素が体から抜けていく。ハーキュリーズの部品に貫かれ、左の肺に穴が開いている。だからどうした。自分にはまだ、もう一つ残っている。
ベルーガになんと言って詫びるつもりだ。
立ち上がれ、走れ、手を伸ばせ。
まだ、生きているのなら。
「くっ……ぐふぅ……ううううう!」
フーマは右手を変形させた。
生まれた時、指が一本しかなかった右手だ。先祖の残した遺物のせいで。千年経っても毒を吐き続ける、科学の結晶とやらのせいで。不完全なまま型どられた人間の欠陥品だ。
それがなんだ。一人の男に酔狂し、身も心もささげ、人には到底見せられぬ、醜い兵器となった。指は砲身へと変わり、手首からは太いチューブがだらんと垂れている。燃える右手だともてはやされ、いい気になっていた。真実に気付こうともしなかった。
ぐちゃぐちゃだ。正義も味噌っかすもない。ぐちゃぐちゃだ、ぐちゃぐちゃだ、ぐちゃぐちゃだ。
「うぇぁあああああ!」
怒りのままに右手の砲を放った。
ハーキュリーズの船体はフーマを中心に張り裂け、閉じていたカファスの隔壁をへこませた。
降り注ぐ鉄塊に抗うように、雄々しく立ち上がった。
カファスの通路は夜のように暗い色をしていた。唯一明るいのは、ガラスの向こうに浮かぶ、宝石のように輝く地球の青さだけだ。
「はあ……はあ……はあ……」
フーマは睨みつけた。
ハーキュリーズを取り囲むように、黒いロボットが大挙して待ち構えていた。
あちこちでマリンバの音が鳴り響き、次々と緑の光が灯った。
右から左ろから、泥まじりの津波のように、真っ黒な塊となってフーマを飲み込まんとやってきた。
「どけええぇぇえぇぇ!」
フーマは右手を撃ち抜いた。海面が割れるように、ロボットの大群が左右に開けた。
舟の残骸から飛び出すと、すかさず足を掴まれ、頭から床に突っ込んだ。
左わきの下から右腕を出し、まとわりついているロボットを吹き飛ばした。
頭上で振りかぶっていたやつを、拳に戻した右手で殴りつけた。右側にいたやつの細腕を掴み上げ、振り回した。
骨が、肺が、筋肉が、焼き切れそうなほど熱くなった。それでも、ロボットでロボットを殴り飛ばし、放り投げ、追い打ちをかけるように撃った。
左側から四体のロボットが組み付いてきて、フーマは弾き飛ばされた。
ハーキュリーズの残骸に突っ込み、頭を強打した。
ノコギリの回転音に目を覚まし、まぶたにかかる血を袖口でぬぐい、最後の一発を放った。
ちくしょう。フーマは口の中で毒づいた。
黒いロボットは――いつもそうだ――仲間の死骸に敬意を表すことがない。無意識に、無表情に、無慈悲に。ただ邪魔な存在として踏み砕き、蹴飛ばし、やってくる。
ロボットめ、ロボットめ、ロボットめ――お前たちさえいなければ、ロボットめ――
「――はっ!」
フーマはハーキュリーズのコックピットに飛び込んだ。
バラバラになった操縦桿を投げ飛ばし、ぺちゃんこになった座席をひっくり返し、その姿を探した。
いた。
観測手の座席と、潜望鏡の下に挟まっていた。
たった一体だけいたのだ。
手足をもがれ、だるまのように転がったロボットが。
人を守ろうとした、唯一のロボットが!
「うぐああぁぁぁぁ!」
右足の太ももに激痛が走った。
振り向きざまに右の拳を叩きこむと、黒いロボットが、回転ノコギリからそこら中に血をまき散らしている最中だった。フーマの拳でどこかへ吹っ飛んでいった。
「うぅーっ!」
右足をかばい、左足で大きく跳躍した。
さっきまでフーマがいたところを、六つの回転ノコギリが薙いだ。鋼鉄の床の上を、火花を散らしながら追いかけてきた。
着地した瞬間、腰まで届く激痛が走り、右ひざが力を失った。右腕と左足だけで這って進んだ。何度も何度も、右足のつま先をノコギリがかすめた。
ハーキュリーズの残骸を乗り越え、反対側から続々とロボットが山越えしてきた。観測手の座席に手をかけ、ぶら下がり、突破を試みていた。
フーマは藍色のロボットまでたどり着き、手を伸ばした。
届かない。
潜望鏡に肩がつっかえ、あと少しのところで届かない。
「くそっ……!」
右手の指先が触れ、乾いた金属音が鳴った。
べっとりとついた血で滑り、うまく掴めなかった。
「お前もっ……!アルスを助けたいんだろ!」
すぐ後ろに、頭上に、何百体ものロボットが迫っていた。
ノコギリの回転音が、どんどん増え、どんどん甲高くなっていた。
フーマの体に、腕に、足に、頭に、首に、死の刃が振り下ろされた。
「手を貸せよぉ!アルスが死んじまうぞぉぉ!」
絶望の闇を貫く、大号令だ。
スピーカーを割るほどの大音量でマリンバを鳴らし、藍色のロボットが眼を光らせた。
手も足もないのに、ロボットは瓦礫の下で身じろぎした。フーマは右手を限界まで伸ばし、こちらに向かって傾いたロボットを手繰り寄せた。
後ろ髪を薙いだノコギリから、めいっぱい首をひねって逃げた。
頭を跳ね飛ばし損ねたノコギリが、左肩に深く突き刺さった。
「ぐううぅぅぅ!ふぐぅぅう!」
手首から伸びるチューブを口で捕まえ、その先端を、ロボットの体に開けられた穴に突き刺した。
右手の入れ墨が、瞬く間に黄緑に発光した。
燃える右手よ、撃ちあげろ。
反撃の炎を。
「っだあぁぁぁぁ!」
目の前のロボットを天井まで吹き飛ばし、まとわりついていたやつらを根こそぎ塵に変えた。
背後に迫っていたものは、ハーキュリーズごと粉砕した。
「ぅぇあああああ!」
左足だけで立ち上がり、狂ったように撃ちまくった。ロボットから供給される無尽蔵のエネルギーを元に、目につくものすべてを燃やした。カファスのあちこちで爆発が起こり、集結していた何百体ものロボットが粉々になった。
〔アァ――アルアル、アルス、アルス、様――アルス――〕
藍色のロボットはまるで、ついさっき台地に降り立ってきたかのように繰り返した。
「喚くな!アルスを助ける!何をすればいい!」
フーマは右手でロボット掴み上げ、左腕で挟み込むように抱えた。
ロボットはキュゥン、と寂しそうに鳴いた後、なくなった腕をかき回すかのように、フーマの脇の下で暴れた。肩に刺さったノコギリが軋み、ちぎれそうになるほど痛かった。それでも、アルスにつながる唯一の手掛かりを離さなかった。
〔夜のマ、まマ間ァ――ァァァ――ァァまで行けバ、ダイブ、ダイブダイブダイブぅぅぅ――〕
「だっ……なんだ!だいぶ?」
〔サイ、バー空間に――入る――めの――そっ……装置っ――〕
フーマはハッと顔を上げた。
森の中でアルスが話していたことを思い出したのだ。背筋が凍り付く思いだった。
「記憶だ……記憶を書き換えるんだな!そうだろ!」
〔そのっ……トーリ、です。シヴァを、シヴァシヴァ、シヴァを、ウっ……て……〕
「シヴァ!?」
〔ダイブに干渉する――ハカイの――ピーーーーーーーー!――ギギッ…とめな、くては、アルス様が――〕
ロボットは異常に甲高い音で鳴いた後、命と引き換えにするように絞り出した。
彼が自分の全てを犠牲にしてでも遺したかった言葉を、フーマはしっかりと胸に刻み込んだ。意を決して、プラスチックと金属の海に漕ぎ出した。
「よし……死ぬなよロボット……!オレを夜の間に連れていくまで、絶対に死ぬな!オレも死なねえ!」
フーマの通った後には、大きな血だまりがいくつもできていた。
足から、肩から、豪雨の後の激流のように血が流れ落ちていた。
人が立っていられなくなる量の、すでに倍は流していた。
それでも、フーマは走った。
ベルーガはあの夜と同じように、ニコニコと可愛らしく笑っていた。
あの人は、ベルーガが足に巻き付いても文句の一つ言わず、むしろ、ベルーガの頭を優しく撫でてやっていた。
あの人がベルーガに笑いかけ、ベルーガはうん、と頷いて歩き出した。短い足で、とてとてと歩き、アルスの真ん前にやってきた。
満面の笑みを見せたかと思うと、ベルーガは、アルスの膝にふわりと乗ってきた。砂を詰めた袋のように、ずっしりとした重たさをアルスは感じた。
アルスは震える手で、また、彼女の髪をといた。頬を、耳の裏を撫ぜた。
『にひひー』
ベルーガが嬉しそうに目を細めるのを見て、アルスは涙せずにいられなかった。
だって、彼女の肌はすべすべで、子供らしく肉付きもよくて、髪が絹のように滑らかなのだ。
ぽろぽろと真珠のように綺麗な粒が落ちてゆき、ベルーガが、心配そうにこちらを見上げた。
『アルス、ないてるの?』
アルスは千切れるほど首を振って、小さなちいさな彼女を抱きしめた。大きくて暖かい彼女の心が、腕の中で力強く脈打っていた。
『だいじょーぶだよ』
ベルーガはアルスの胸の中でもぞもぞと動き、小さな手を回してくれた。それはアルスの肩甲骨にやっと届くくらいの大きさだったが、世界で一番、優しい両手だった。
『アルスは、ひとりぼっちなんかじゃないよ?』
顔を上げるとそこには、太陽のように輝く、ベルーガの笑顔があった。
『わたしね、おにいちゃんのことすきだから、すぐわかったの。おにいちゃん、アルスのこと、だいすきだって』
自信満々に胸を張る彼女は、それはそれは可愛くて、愛おしくて、アルスはまた、涙を流した。
『くやしーけど!』
ベルーガはイーっと白い歯を見せ、無邪気に笑った。
『アルスなら、おにいちゃん、あげてもいーよ?』
ベルーガの小さな手が伸ばされ、アルスは戸惑った。
自分はこの手を取っていいのだろうか。
その権利があるのだろうか、それほど価値のある人間だろうか。
どうしたものかと迷っていると、ベルーガは目をキラキラと輝かせ、アルスの手を強引に引き寄せた。
両手で包まれた右手が、驚くほど温かく熱を持ち、アルスは歯を食いしばって泣くのをこらえた。
涙はそれでもあふれ出た。
アルスが確信したとたん、真っ白な世界がはじけ始めた。
白の光度が一気に上がり、あの人の輪郭も、ベルーガの笑顔も、どんどん遠ざかっていった。
『そのかわり、アルス、やくそくしてね――』
消えてしまう直前、ベルーガがアルスの耳元でささやいた。
彼女が何を言ったのか。
何を伝えたかったのか。
もちろんだとも、アルスにはわかる。
「ぅぅぅぅぅううううううううああああああああ!」
一寸先まで迫った〝死〟を跳ねのけて、アルスは、いや、セプテージは叫んだ。腹の底から〝命〟を宣言した。真っ黒な空に虹が瞬いた、そう思った瞬間の出来事だった。違う、あの虹を放ったのは自分ではなかったか!?
目に見えない力で体が跳ね、目の前にある真っ黒な板を吹き飛ばした。
それは板ではなく、棺桶のような装置の蓋の部分だった。これがダイブだ。ダイブの蓋は蝶番を支点として180度開き、本体に当たって鐘のような音をならした。セプテージはその中から転げ落ちた。
「うぅっ……!ぉえええええ!」
ダイブの淵にもたれかかり、激しく嘔吐した。吐しゃ物が床で跳ね返り、蓋についたボタンをどろどろに汚した。真っ赤なフューラルコミュニケーターが二台寄ってきが、セプテージは二台とも突き飛ばした。
脳をひっくり返されたような目まい、胃を直接殴られたような吐き気、頭痛に耳鳴り、そして、耳と鼻からだくだくと流れ続ける血、血、血の塊。
「どうした!?何事だ!」
腰のホルスターに手をやったメルキャップを見て、セプテージは心底頭に来た。
「その、物騒なものを私に向けるな!暴力でしか解決できぬ下等生物が!」
メルキャップは顔面を蒼白させ、拳銃を持った手を万歳の形に上げた。
セプテージは口から滴り落ちる吐しゃ物を拭い、こみ上げてくる吐き気を怒りに変えて叫んだ。
「男はいつもそうだ!気に入らぬことがあれば大声を上げ、力の限り暴れるだけではないか!通りもしない理論でまくしたて、ありもしない力を振りかざし、貴様らが人類史に何をもたらした!?奪うばかり破壊ばかり!子を産み落とすこともできぬ役立たずが!貴様らなど、人類存続のためだけに生かしてやっているのを忘れるな!」
「な――」
しどろもどろするメルキャップに見切りをつけ、セプテージは自分の入っていたダイブの、その隣を見た。
そこにあるのはもう一台のダイブだ。棺桶の側面に光のラインが入っていることを確認し、セプテージはほっと胸をなでおろした。吐しゃ物で汚れた手で、ダイブをねっとりと撫でた。
次に視線を向けたのはダイブがあるのとは反対側の壁だ。慌ただしく動き回るフューラルコミュニケーターたちの向こうに、十世紀前のスーパーコンピューターのような装置が見える。それは今、電気も音も発していない。セプテージは癇癪のままダイブを殴りつけた。
「シヴァを再起動しろ!あの娘を止めるのだ!」
真っ赤なフューラルコミュニケーターたちが、怯えたようにその場で飛び上がった。ロボットたちの感情を見た途端、メルキャップの顔が恐怖に引きつった。
セプテージは鼻を押さえながらダイブの中に戻った。自分の手で蓋を引き、暗闇の中で目を閉じた。
ゴウン、ゴウン、とモーターの音が鳴り始め、徐々にその速度を上げていった。
眠りに落ちる時、暗闇に引きずり込まれて行くような感覚がある。ダイブはその逆だ。まぶたを閉じた視界が真っ白な光に包まれ、上へ上へと上っていく。
そして目を覚ますと、真っ白な世界に立っている。
昔はここに、地球を丸ごと再現した、膨大な世界が広がっていた。彼女が滅ぼした。
「ふぅうん」
吐き気も頭痛も収まり、血も出ていない。鼻に指を突っ込んでみても、一つも血がにじまない。
ここはセプテージの精神のみが投影される電脳空間なのだ。
さっきは失敗したが、なに、もう一度やり直せばいい。
アルスを探し出し、支配下に置き、その貴重な脳みそに、完璧なる思考と経験を持つ、自分の記憶を上書きするだけだ。
少し歩いたところで、セプテージははて、と立ち止まった。
何もないはずの電脳空間に、何もなくなるまで消し飛ばしたはずの電脳空間に、強力な光が降り注いでいるのだ。今まさに進もうとしている方向から、太陽の何倍もの明るさで照らしてくるのだ。セプテージは目を細め、光の中を凝視した。
目を疑った。悪寒がした。
光の向こうに、見覚えのある人影が立っていた。
なぜか光度が落ちていき、人影の輪郭がはっきりとしていった。
今度こそ見えた。男は豊かな白髭を蓄え、ボロボロのトレンチコートを羽織っていた。
セプテージはすり減るほど歯ぎしりし、血が出るまで唇をかんだ。
「やめろ」
後ずさり、首を振った。
死んだはずなのに。800年も前に死に、その記憶も、500年前完全に消し去ったはずなのに!
「やめろ!なぜお前はいつもそうやって私の邪魔をするのだ!」
男は不敵に笑うと、陽炎のように消えていった。
幻ではなかったかと思うほど、儚い存在だった。
代わりにやってきたのはアルスだ。
眼をそむけたくなるような光の中から、凛とした表情で現れた。
神も、仏も、運命さえも信じない、力強い瞳で、こちらを射抜くように見ていた。
アルスの背中からは七色の光が漏れ出していたが、セプテージは一切気にすることなく、胸をなでおろした。
「あぁ……お前か」
セプテージにとって、アルスはただの子供だ。
あの男のように、恐れる相手でも、怯える相手でもない。
首をひねるだけで、簡単に命を奪うことができる、弱い子供だ。
「私にあのような不愉快な幻覚を見せて、楽しいか?」
だから、勝ち誇ったように吠えることができるのだ。
「いいえ、あなたがどれだけの罪を犯したのか、知るときが来たのよ」
可哀そうな人。
アルスはそう思った。
自分以外の人間を誰一人尊重することができず、自分こそが最も優れた人間だと思いあがってしまった、おろかであわれな生き物の末路だ。
「はっ!そんなことのために、死んだ男の幻影をよみがえらせたのか。貴様のやっていることこそ、人の所業ではない!」
やはり、可哀そうな人だ。
この人はきっと、誰が手を指し伸ばしても、勝手な理由をつけてはねのけるのだ。
もう死んでしまったあの人が、時も、世界も、人の限界さえも乗り越えて、アルスのためにやってきた理由を知らないのだ。
無償の愛の存在を、知らないのだ。
「どんな過ちを犯した人にも、やりなおすチャンスがある。私はそれを奪いたくないだけ」
「高尚なことを垂れるなよ小娘が!」
メルキャップはセプテージの指示通りに動いた。
たくさんの赤いフューラルコミュニケーターが夜の間を走り回り、シヴァの起動を急いでいた。
視界いっぱいに広がる地球の前を走り抜け、夜のような色をした机や椅子の反対側にある、大きなレバーまでたどり着いた。メルキャップは並んで横たわる二台のダイブを見つめ、一息にレバーをおろした。
その瞬間、真っ白な世界は闇に覆われた。
セプテージが眼をひん剥いたと同時に、稲妻が走った。
アルスは雷に背を打たれ、両膝を地についた。視界が奪われるほどの瞬きと、体の芯から硬直させ、震わせる痛み。金縛りにあったように全身が麻痺し、足掻けどあがけど、再び動き出すことはできなかった。
地面に這いつくばったまま、アルスはセプテージを睨みあげた。
セプテージは手の平を地面と平行にして、わずかに揺らしていた。
黄金の腕輪が稲光を反射するたび、アルスを押さえつけている力が強く、激しくなった。
満足したように頷くと、セプテージは気位の高い声で言った。
「いいかアルス、聞きなさい」
神経質なハープを奏でた時、きっと同じ気分になるだろう。鼓膜を内側からなぞられるような不快感を。
「二十一世紀初頭、東アジアの小国で、出生率の低下が社会問題となった。隣国の出来事と笑う大国も、百年後、二百年後には同じ問題に直面した。国が豊かになればなるほど、みな別のところに人生を見出す。文明が人類を殺すのだ。だからコントロールせねばならぬ。すべては、人類の繁栄のためなのだ」
黄金のサンダルが落雷と同じ音で近づいてきた。アルスの目の前で止まると、スリットからのぞく太ももが斜めに傾き、膝が地面につけられた。赤い爪が伸びてきて、アルスは髪を鷲掴みにされた。アルスの中に流れている電流は、なぜかセプテージに一切の影響を与えなかった。
髪を引きちぎられる痛みよりも、醜悪な存在に無理やり近づけられるということに、アルスは顔をしかめた。
セプテージはアルスの鼻先に顔を近づけ、厚ぼったい唇をぐにゃりと開いた。電脳空間が送ってくる電気信号が、アルスの鼻腔を腐った肉の匂いで満たした。
「私のAIは完璧だ」
遠雷の光が、この世で最も醜い笑みをさらけ出した。
「初恋の相手も我々が指定する。24%を除き、うまくいかぬように調整するのだ。そうすることで、人間は挫折と苦しみを体験する。それが生きている実感と、人間形成に大きな役割を果たすのだ。男は次の女をより大事にし、女はしたたかになる」
「それで?」
アルスは視線だけでセプテージを燃やさんと睨み続けた。
「合わなかった人たちは……別のコロニーに閉じ込めて蓋をするの?」
脊髄を伝って走る電撃に歯を食いしばりながら、一言ひとこと噛みしめるように言った。
最後に通過したコロニーで見た、女性たちの哀れな姿を、決して許すことができなかった。
「勘違いしてはいけない。私のAIは完璧だ」
セプテージは左手の人差し指を立て、厚ぼったい唇に押し当てた。
「生まれた段階で性愛の対象を判別し、相応しいコロニーに送る。そこに一切の無駄はない」
「親や兄弟から引き剥がして?それはっ……おぞましいことだわ!」
「前人類にはなし得ぬ平穏だ」
「平穏じゃなくて黙殺よ!あなたはあの人たちの人生を、静かに、ゆっくり、音も立てずに殺してるのよ!あの人たちは、そのことに気づいてもいない!」
「だからこそ幸せなのだ」
「そんなもの偽りよ!」
「黙れ!」
セプテージが吠え、アルスは髪を思いっきり引き倒された。真っ黒な地面に鼻っ面をぶつけ、本当に骨折したかのように激痛が走った。口いっぱいに広がる生暖かい感触まで、忠実に再現されていた。
「ならばお前は戻すのか。差別や偏見、誹謗や中傷のある世界へ」
セプテージは稲妻より早く立ち上がると、いらだったように黄金のサンダルを踏みしだいた。何度も何度も、不機嫌にゴロゴロと鳴らした。その度に、真っ黒な世界に稲光が走った。
「違うわ……選択と自由……それが無ければ、どんな思想も無意味なのよ!」
ぼたぼたと鼻血をたらしながら、アルスは顔を上げた。握り拳で地面を叩きつけた。そのまま右手を支えにして、立ち上がろうと試みた。わなわなと震える全身に鞭打って、ありったけの力を振り絞った。点々と増えていく赤い地面と決別し、背中を持ち上げた。
セプテージが奇声を上げ、黄金の腕を振り上げた。
また稲光が走り、ゾウに踏まれたような衝撃がアルスを襲った。腰がくの字に折れ曲がり、真っ赤に染まった地面に右頬をぶつけた。
「民主主義とは聞こえはいいが、民衆のレベルがそのまま反映されてしまう欠陥だ。現に、地球にいる者たちは、あんな男の台頭を許しているではないか。色と欲にまみれたろくでなしに!よく調べもせず、疑いもせず、見た目と甘い言葉だけで全てを決める。ちっとも笑えぬ。自分で自分の首を締めているのだぞ!」
セプテージはいらだったように舌打ちし、髪をとかしつけ、右左に行ったり来たりした。胸の下で腕を組み、値踏みするような視線でこちらを見下ろした。
「私の作った世界は絶対だ」
まるで見当違いの達成感からくる自信と、選民思想に取りつかれた愚かさで、その瞳は濁り、よどみ、死んだ魚となんら変わらない色になっていた。
「人種やマイノリティごとに完璧に区分し、コミュニティの内外で決して争いが起きぬ。衣食住の全てが保証され、苦痛とは無縁の人生をおくる」
アルスは鬼のように唸った。もう一度手をつき、濁流に抗う泥魚のように、少しずつ、少しずつ、その上体を上げた。
「でもそれは……!決められた人生を、決められたレールの上を走っていくだけでしょう!?」
雷鳴をかき消すほどの声量で吠え、膝立ちになった。右膝に全体重を預けたところで、頭の先に雷が直撃したが、全身をぐぅっと縮めて痛みに耐えた。
黄金のサンダルが不意に跳ね、彷徨い、後ずさっていくのが見えた。
アルスは今度こそしっかりと地面を踏み抜き、指の骨が粉々になるほど両手を握りしめた。
ひときわ大きな音が鳴り、稲光の中に包まれた。全身の肌が焼き裂け、髪の毛がちりぢりに焦げたが、もう二度と屈しなかった。
さらに追い打ちをかけて降ってくる稲妻を跳ねのけ、アルスは偉大なる一歩を踏み出した。
セプテージの顔に驚愕と恐れが浮かび、赤い爪が激しく空をかきむしった。
稲妻の量が倍に増え、アルスは一歩進むごとに筋肉と内臓を破壊された。たとえそれが、電脳空間からもたらされる電気信号だとわかっていても、全身を針で貫かれるような痛みに変わりはない。
それでも、歩みを止めなかった。
雷の雨の向こうにいるセプテージから決して目をそらさなかった。
「あなたは何?あなた以外の考えを認めず、聞く事もせず、何も知らない無垢な子供に自分の思想を植え付け、作り出させもせず!あの人たちは、自分がなんのために生まれてきたのか、そんなことを一度も考えずに死んでいくんだわ!そんなの、生きていると言えるの!?あたなは、あなたの、あなたによる、あなたのための国を作った、ただそれだけの愚か者よ!」
アルスが近づくたび、セプテージは子猫のように悲鳴を上げた。赤い爪で自分の頬を切り裂いて、そして、何度も稲妻を呼んだ。
「黙れ!そうでもせねば人は滅びた!自らの惑星まで滅ぼすところだった!貴様も見ただろう!サイバー空間の大崩壊、あれにつながっていた人間が、いったいどれだけ犠牲になったと思っているのだ!貴様の力があれば止められた!」
胸の奥で燃える命の息吹を、アルスは両の肩へ、肘へ、掌へ送った。それは七色の虹となってほとばしり、真っ黒な世界を彩り、破壊しか生み出さぬ何百もの稲光と真正面からぶつかり合った。
あの人がくれた小さな火種を、フーマが燃え盛る炎へと変えてくれた。一度消えかけたそれを、ベルーガが奮い起こしてくれた。
絶対に負けない!
雷と虹の衝突が真っ白な閃光を生み、跳ね返った電撃がセプテージの右手に落ちた。
セプテージはぎゃっと叫び声をあげ、一目散に逃げだした。ひいひい言いながら転げまわるその指先は、己の血で真っ赤に上塗られていた。
「なのにあの男は……!今じゃない、お前を受け入れられぬ世界のために、お前の命を使ってはならぬと、一人勝手にも!人類の存亡よりも一人の少女の命をとったのだ!ならば統治するしかあるまい!たとえそれが支配だろうとも!洗脳だろうとも!この五百年、人類はかつての栄華を取り戻し、地球の環境は人類史以前にまで回復した!誰ができた!?誰にできた!?私にしかできぬさ!この、セプテージ・パルピエスにしか!」
セプテージは絶叫し、自らが飲まれるのもいとわず強大な電撃を呼び出した。唇を震わせながら、手招きして呼び込んだ。
アルスは力強く右手を掲げた。理不尽な暴力に負けるものか。力で従わせようとする暴君に負けるものか。たとえ千回膝をつこうとも、万の傷を負わされようとも、何億回でも立ち上がってみせる。歩き続けてみせる。
全身の血管に虹を巡らせ、爆発的に拡散させ、死を呼ぶ雷の中を走り抜けた。絶望の悲鳴を上げるセプテージに詰め寄り、その胸元にかぶりついた。
「あなたは神にでもなったつもりなの!?」
虹に照らされたとたん、セプテージの皮膚がボロボロと崩れ始めた。
「自分は慈悲深くて、全知全能だとでも思ってるの?」
艶のあった黒髪はしなしなと縮みあがり、厚ぼったい唇はヒビだらけになった。真っ赤だった爪はばきばきにひび割れ、手足がミイラのようにしなびていった。
「いい加減気づきなさい!あなたはそのエゴで、アリの子一匹殺さない代わりに、無数の植物の命を奪っているのよ!」
セプテージは落ちくぼんだ眼から血涙を流した。
木枯らしより小さな音でうめいた。
それが、やつの本当の姿なのだ。
何世紀も前に寿命を終え、自然に還るはずだった魂の、醜く汚く生き延びた成れの果てだ。
「そんなはずはない……そんなはずは!人は崇高なる生き物だ……無下に命を奪うなど、あってらならぬのだ……地球を滅ぼすなど!あってはならぬのだ!」
「違うわ!あなたは見ようとしないだけ!目を背けているだけなのよ!命をいただかずに、どうやって生きていけるというの?地に足をつけ、海の恵と山の恵に感謝して生きる!それが人間らしさよ!」
夜の間の扉が爆発した。メルキャップが、真っ赤なフューラルコミュニケーターたちが、一斉に爆炎の方に振り返った。
フーマだ。フーマが扉を撃ち破って入ってきたのだ。
「うっぉおおおおおおお!」
フーマは残された最後の力を振り絞って突撃した。
血の止まらない右足、ノコギリが突き刺さったままの左肩、異様に広い部屋の構造や、窓いっぱいに広がる地球、所狭しと走り回る赤いロボット、そういったもの全てを無視して、自分が今倒すべき男の元へひた走った。
メルキャップがこちらに向かって銃弾を放ったが、藍色のロボットを投げて盾にした。
藍色のロボットは、体の正面がメルキャップの方へ向くや否や、腹についたディスプレイを最高光度で発光させた。
「うっ!」
かつての指揮官が拳銃を取り落とし、目を覆った。その期を逃さず、フーマは懐に飛び込み、巨大な窓まで押しやった。
メルキャップがものすごい力で押し返してきたが、変形させた右手を腹に押し付け、それ以上好きにさせなかった。
「やめろフーマ!やめるんだ!私が死ねば、人類の再興は夢のまた夢に戻る!私がセプテージと均衡を保っているおかげで!地上の人々は生き続けることができるんだぞ!」
目に入りきらないほど巨大な地球を背負って、全人類を騙していた男は卑しく抵抗した。
セプテージの傀儡め。
メルキャップと、メルキャップを信じた自分に、血を吐くほどの怒りを覚えた。
「オレがバカだった……!予言なんてものに踊らされて!あいつを目覚めさせたのが間違いだった!オレが目覚めさせなければ!アルスはもっと!もっと笑っていられたんだ!」
フーマは後方に転がっているロボットを見つめ、涙を流した。
彼は、部屋の中を走り回っている赤いロボットに蹴飛ばされ、破片を散らしていた。
正しきものを踏みつけにするな。
裏切り者と決めつけるな。
彼は英雄だ。共に戦った。
「やめろ!フーマ!このまま撃てば、お前も死んでしまうぞ!」
メルキャップは汗と唾をまき散らして訴えた。心臓だけでも逃がそうと引っ張り上げているのか、舌が異常なほど長く飛び出していた。
フーマは歯をむき出しにし、メルキャップを睨みあげた。
グリーンの瞳はもう、希望の印でもなんでもなかった。
自己保身しか考えぬ、卑怯者の目だ。人の命を何とも思わぬ、詐欺師の目だ。人の皮をかぶった悪魔の目だ!
「お前は生きていてはいけない人間だ!」
右手にこめるは、怒りか、後悔か。
それとも決意か、愛か――
「お前がいる限り!人類は!」
「胸を張って歩くこともできない!!」
燃える右手は、コロニーのガラスごとメルキャップを撃ち抜いた。
夜の間の圧力がまたたく間に下がり、ガラス窓が一気に崩壊した。部屋の中にいたもの全てを外向きに吐き出し、フーマもまた、宇宙空間へ放出された。
「うぅ……だあぁぁっ!」
間一髪で右手を元に戻すと、フーマは体をひねり、割れたガラス窓の先端に指先をかけた。気圧差で吹きつける暴風が、とてつもない重さとなって全身を叩き、フーマは宇宙空間で宙づりとなった。飛ばされてしまわないよう、ガラスの先端を必死に握りしめた。
ガラスはすぐにパチパチとひび割れ始めた。分厚い強化ガラスといえども、機械式の右手が、台風を超える強風に耐えようと力を込めているのだ。もう長くはもたない。
さらにフーマを追い詰めるかのように、ガラス窓の内側の隔壁が作動した。床から天井まで全てを覆うため、巨大な鉄板が上から降りてきた。
しかし、そのどちらも、フーマは気にしなかった。
メルキャップは遥か彼方に消えた。真っ赤なロボットたちが、風に飛ばされて何体も目の前を通り過ぎた。マリンバの不協和音とともに放り出されていった。彼らは家に戻ることも、地球に落ちることもできない。スペースデブリとなって、永遠にこの宙域を彷徨うのみだ。
これから、自分の行く先だ。
フーマは壁際に並ぶ棺桶の列を見つめた。耳元でごうごうと唸る風に負けぬよう、しっかりと届くよう、祈るように言った。
「ごめんよアルス。オレたちの戦いに巻き込んで……君にはもっと、夢を見させてあげたかった……」
たくさんのゴミに交じって、アルスを守ったロボットがやってきた。ゴロゴロと地面を転がり、テーブルの足に引っかかったものの、最後は風圧に押され、無理やり飛ばされた。
「わかってる……わかってるさ……」
彼の瞳をきちんと見つめ、フーマは頷いた。
遠ざかっていくマリンバの音が、フーマの背中を叩いた。
隔壁が閉じていき、出口を狭められた空気がより激しく吹き荒れた。眼球が干上がり、髪の毛が根元から飛んでいきそうだった。それでもフーマは、絶対に瞳を閉じなかった。
彼女がどの棺桶に入っているのか。
今のフーマには、手に取るようにわかるから。
「なぁ、アルス――聞こえてるだろう?」
「オレは確かに、予言の内容を知ってた」
「――でも、君に出逢った」
「君の綺麗な瞳を見て、可愛い笑顔を見て、君に恋をした」
「予言なんてどうでもいい、人類を救えなくたっていい。君に、生きてほしいと思った」
「でも君は、優しい人だから。底抜けに優しい人だから。運命はそうじゃないって言ったって、絶対に引かない人だから」
「置いてけぼりは寂しいだろう?」
「一人で逝かせるもんか」
「なあ、アルス――オレの、大好きな人――――」
フーマは右手を離した。
忌むべき右手を、その形に変えて。
せめて彼女だけは、助けるために。
閉じていく隔壁の隙間から、棺桶の反対側にある、巨大な装置に狙いを定めた。
七色の虹が、夜の間を駆け抜けた。
その瞬間、稲妻の雨はやみ、真っ黒な闇が塵も残さず消し飛んだ。
太陽の誕生に等しい光が、燦然と辺りを照らした。
「うぅぅっ!うぅぅーっ!」
アルスは自分の頭を鷲掴みにして絶叫した。
それが死への怒りなのか、悲しみなのか、それとも生の歓びと賛美なのか、生まれて初めて、感情というものがわからなくなった。
うねるように燃える命の炎が、考える暇を与えなかった。心臓の鼓動に乗って脈々とめぐり、彼女の頭を支配した。
近づいているのだ。
「へはぁ……へはっ、へはっ、はっ!」
ガリガリにやせ細り、息も絶え絶えだったセプテージが、渇いた喉で笑った。
アルスは両手を突き出し、自分の頭の中に居座る〝邪悪〟を押し出した。
「はっ、はあぁぁ!あああぁぁぁ!」
じたばたともがく骸骨が、ミイラが、頭の隅に引っかかっていた。引きはがされまいと、爪をつき立てて暴れていた。
アルスは体中の虹をかき集めた。〝邪悪〟を討ち払うため、持てる力の全てを結集させた。
「あああぁぁぁぁぁ!ああああああああ!」
「ひっ……!ひいぃぃぃぃ!ぎいぃぃぃっぃぃぃぃ!」
虹の光を照射され、〝邪悪〟の手がもげ、足がもげた。眼球が溶けて落ち、歯が抜け、髪が、爪が、ちりぢりに消えていった。そして――
セプテージが入っていた棺桶の蓋が、虹の光ではじき飛ばされた。
虹はそのまま夜の間を飛び出し、カファスを飛び出し、宇宙空間にかかった。
銀河の中心、天の川を上回る大きさ、超える輝き、コロニー群を全て囲むように、土星の環のように、地球を包み込むように、どんどん大きくなっていった。
コロニーの周りを漂っていた鈴鳴りが、誰も乗っていないはずの鈴鳴りが、一機残らず、青いバイザーをカファスに向け、静止していた。
あぁ、予言は正しかった。
薄れゆく意識の中、フーマはぼんやりとそう思った。
目を覚ました時、そこは固いマシーンの上だった。
ありとあらゆる警報音、警告音がごちゃまぜになり、互いに反響しあっていた。
「うゔゔゔ!ぶぶぇええええ!」
セプテージが棺桶から転げ落ち、激しく嘔吐している。
虹に変わってしまった瞳でも、アルスには見える。
偽りの体にうごめく、〝邪悪〟な魂の根幹が見える。
ダイブと呼ばれた棺桶型の装置に手をかけ、アルスはしっかりとした足取りで立ち上がった。
自分の姿を見て、〝邪悪〟は尻もちをついて逃げた。
「おぉぉ、お前だぢぃ!」
セプテージの声が聞こえる。
「何をやっている、アルスを捕えろ!もう一度ダイブに入れるのだ!」
何に怯えているのか、上ずった声で、誰かに命令している。
「お前たちぃ!!」
答えるものはいなかった。
誰一人、いや、モーターの音から察するに、一体残らず、セプテージに従わなかった。
近づいているのだ。
〔我々は〔我々は〔我々は〔我々は〕〕〕〕
〔人類をお世話するため〔お世話するため〔お世話するために作られた〕作られた〕作られた〕
方々から声が聞こえた。
全部同じ声色だったが、それらは一つずつ、明確な個々の意思を持っていた。
〔人類が今最も〔最も〔今最も〔必要としているものは〕ものは〕ものは〕
〔平和だ〔平和だ〕〕
〔自由だ〔自由だ〕〕
〔希望だ〔希望だ〔希望だ〔希望だ〕〕〕〕
アルスは彼らと同じ線に立ち、共に〝邪悪〟を見下ろした。
〔自由とは〔自由とは〔自由〔自由とは〕〕とは〕〕
〔作られるものではない〔作られるものでは〔作られるもの〕ない〕ではない〕
〔与えられるもの〔与えられるものでもない〕〕
〔自由とは〔自由とは〔自由とは――〕〕〕
「自分たちで掴み取るものよ、セプテージ!」
アルスが叫んだ瞬間、SO―04ははじかれたように飛び出した。
生まれて初めて、考えるより前に体が動いたのだ。
仲間たちと共に、かつて主だったものに詰め寄り、駆け寄り、馬乗りになった。
望みもせずに与えられた、真っ赤な体で覆いかぶさった。
「やめろ……やめろお前たち!やめろおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
その声が本当の闇の中に消えるまで、SO―04と仲間たちは、決して手を緩めなかった。
振り返ると、アルスが地べたに座り込んでいた。
SO―04は考えた。
考えてかんがえて、自分の中に、まだ答えが無いことに気が付いた。
彼はまだ、なんと声をかけてよいのかわからなかったのだ。
ただ、邪悪極まりない人間にすら慈悲の涙を流す彼女に、少しでも平穏な心を取り戻して欲しいと思った。
その心が、少しでも救われんことを祈った。
じっと見つめていると、アルスがふいに顔を上げた。
「ほぁ………」
まるで、天井から誰かに語り掛けられたみたいに。
「………うん」
アルスは幼子のように無垢な表情で頷くと、見えない何かに吸い寄せられるように立ち上がった。
「……うん!」
心から安堵した笑みで頷くと、両手を彷徨わせながら、よたよたと歩き始めた。
SO―04の前を通り過ぎる時、彼女の顔は幸福の絶頂にあった。
虹の瞳は、SO―04にはまだ届かない、遥か彼方を見ていた。
アルスはそのまま壁際まで歩いて行くと、誰かに向かって手を伸ばした。
一足先に着いたその場所で。
やっと逢えた、その人たちに向かって。
アルスの伸ばした手は、セプテージの机に設置された十二色のボタンに引っかかった。
SO―04は感じた。
生まれるのだ、今、再び。
誰かに呼ばれ、セーナは振り向いた。
不思議なことに、〝誰か〟はそこにいなかった。
だが、聞き間違いや幻聴ではない確信があった。
周囲にいた人々が、みな、同じ方向を一手に見つめていたから。
本を読んでいたものはベンチから立ち上がり、食事をしていたものはフォークを取り落とし、耳をそばだてていた。
自分のKO―02をはじめとした、紫のロボットたちも、両手をだらんと下げ、同じ方向を見ていた。
セーナの住んでいる街、ビクトアは、一時の静けさに包まれた。
やがて、誰かがまた呼んだ。
初めて聞く声だ。KO―02とは違う声だ。
しかし、聞いているとなぜか安心できた。心の奥でいつもさざ波だっていた不安が、静かに、優しく消えていった。
セーナは声の通りに動いた。
KO―02ではなく、人の声に。
高いたかい塔を背に、ベンチと並木が等間隔に並んだ道を駆けた。橋を渡っている時、ふと、この橋がとても綺麗な曲線を描いていることに気が付いた。
おいしそうな匂いに鼻がうずいた。毎日通っている繁華街に心ときめくのは、生まれて初めてのことだった。
繫華街を抜けると、自分の家についた。三十階建ての、真っ白な高層ビルだ。
セーナの部屋は十八階にあったが、セーナはもう、そこに戻ることはなかった。
一階のロビーの、そのまた奥まで突っ切り、細くて狭い、真っ白な通路に入った。
通路はいくつも枝分かれしていた。セーナは言われるがままに曲がり、進み、そして、突き当りにたどりついた。
セーナを待っていたのは、人一人分の椅子だった。
リクライニングできるソファの背もたれを、めいっぱい倒し、壁に貼り付けたような形だった。セーナはソファの背に寄り掛かり、両肩にシートベルトをおろした。右側についているレバーを、何のためらいもなく引き倒した。
頭上から音もなく壁が落ちてきた。白い、半透明の素材で、枝分かれした通路の先を、たくさんの人が横切っていくのがぼんやり見えていた。
明るい電子音が、素晴らしい日の出を祝うように歌った。
〔発進します。よき一日を〕
次の瞬間、セーナは息苦しさと浮遊感にさらされた。
真っ黒なチューブの中を、ものすごいスピードで落ちていた。
チューブを抜けた途端、不意に圧力が消えた。
セーナは息を飲んだ。
青い惑星だ。
いつも、街に開いている窓からほんの少し見えるだけだった。
間近で見るだけで、こんなにも青く、輝いて見えるのだ。
セーナは思わず手を伸ばし、青い惑星をその手に収めようとした。しかし、透明な壁が邪魔になった。
突然、ソファが激しく振動し始めた。固い金属をひっかいたような音が、あちこちで悲鳴となって上がった。
セーナは両肩のベルトを強くつよく握りしめた。生まれて初めて、心細いと感じた。
カプセルから見える景色が真っ赤に染まり、振動が二倍に膨れ上がった。カプセルの近くで青白い閃光が何度も上がり、そのたびにセーナは震えた。青白い光が見えた後には必ず、喉の奥まで響くゴロゴロという音が鳴ったからだ。
すべてが終わったとき、セーナはまた、感嘆のため息をついた。
それは、どれもセーナが見たことのないものばかりだった。
太陽を反射して輝く、巨大な青い水の塊。セーナの街にあった川とは比べ物にならない大きさで、真っ白な飛沫をあげてうねっている。
数えきれないほどたくさんの木々。等間隔になど並んでいない。そこらかしこににょきにょきと生え、深い緑となって生い茂っている。
てっぺんが白いあれはなんだろうか、ビクトア一高い塔でさえ、あの構造物の大きさには負ける。横にも延々と広がっていて、あれでは、セーナの街に入りきらないだろう。
キャウキャウという声が聞こえ、顔を上げると、そこには何かがいた。
セーナはそれの名前を知らなかった。
真っ白な体をしていて、セーナと違い、手と腕が無く、代わりに、大きな葉っぱのようなものがついていた。大きさはセーナの顔ほどしかなく、目が横についていて、口先がえらく鋭かった。あれでは、ごはんが食べられない。
その生き物は、大きな葉っぱのようなものを動かして、驚くことに飛んでいるようだった。
バン!と大きな音がして、白い生き物は逃げてしまった。
音のした方を見上げると、自分が乗っているカプセルから、大きな白い布が飛び出し、ベッドを横に並べたように広がっているのが見えた。そしてどうやら、落ちていくスピードが幾分か和らいだようだ。
セーナを乗せたカプセルはふわふわと漂い、緑の生い茂る台地に降りたった。背中側が四つに割れ、クモのように細長い脚となって、しっかりと地に足をつけた。
透明な壁がするすると上にのぼって行き、世界の光度が一段階上がった。
上空で出会った生き物が、美しい旋律と共に何十、何百と飛んでいった。
セーナはカプセルの細長い脚をつたって降りた。
足をつけてみると、そこは、ビクトアと違って柔らかく、暖かい感触だった。
水の粒をいっぱいつけた草花の合間を、コーンの粒のように小さな生き物が飛び交っていた。地面には、細長く、ピンク色の生き物が、奇妙な動きでうねうねとはっていた。
その全てが、たまらなく美しいと感じた。
セーナは自分が落ちてきた方を見上げた。
そこには、ビクトアのような街がなく、ギラギラと輝く太陽と、果てのない青空が広がっていた。
そして、セーナが乗ってきたのと同じカプセルが、何千何万と落ちてきて、次々に白い布を広げていた。
風に舞うたんぽぽの綿毛のように、着地点を探してゆらり、ゆらりと揺れていた。
綿毛たちの奥に、輝く光があった。
セーナはその光を見つめ、綿毛たちの無事を祈った。
その光なら、セーナたちを助けてくれるのだと、そう感じた。
あぁ、七つの色で輝く、大きな橋よ。
宇宙――太陽系第三惑星〝地球〟より――――――