第六章 もう一度、宇宙へ
地割れのような音を立て、シェルターの扉が閉じられた。
内部にはたくさんの三段ベッドや、大型の貯蔵庫、一兵卒では入ることの許されない電力室などがある。生き残った人は僅か数百名のようだ。そのほとんどが、大なり小なり怪我をして、地面に転がされている。何人かは手足を欠損して苦しんでいる。血の匂いが充満し、思わず顔をしかめたくなる息苦しさとなっている。
フーマはアルスの肩を担ぎ、端の方へ移動した。奇異の視線を、アルスは敏感に感じ取っているはずだ。少しでも、気の休まる所へ連れて行ってやりたかった。
「にいちゃん」
ハルマの声が聞こえた。少し岩が飛び出しているところがあって、その陰から手招きしていた。フーマは頷いて、アルスをそっと岩肌にもたれさせた。
「おぉ……マディック……」
マディックは生きていた。うつぶせに横たえられ、苦しそうに呻いていた。
驚いたのはその傷跡だ。作業着が見事にパックリと割れているのに、その下の皮膚が、まるで鉄を溶接したように、ぴったりとくっついているのだ。
「どうなってるんだ……?」
一直線についた傷跡をなぞると、マディックが芋虫のように身をよじって逃れた。
「いだっ!……痛いよ、兄ちゃん……!」
「あぁぁ、悪い、悪い……」
フーマは弟の背中から右手を離した。
マディックの隣に座っていたユーマを見ると、彼の左足もおかしなことになっていた。足首から先がなくなっているのに、血が一滴も出ていないのだ。
ぶるぶると震えてこそいたが、ユーマはしっかりとした表情でクルトの頭を撫でていた。クルトは、マディックに投げ飛ばされた時に頭をぶつけたのだろう、大きく腫れあがった額を押さえ、ぐすぐす泣いていた。
もう少し奥へ目をやると、ロミリーの膝の上で、ソルンが大泣きしていた。その泣き声を聞いて、アルスが思い出したように動いた。
「フーマ、これ……」
彼女がポケットから取り出したのは、銀紙に包まれたスティックだった。
フーマは泣きそうになりながらそれを受け取り、ロミリーの下へ持って行った。
「ロミ」
ロミリーの顔は涙と鼻水でベトベトだった。
当然だろう。
ロミリーがやりたかったのはお姉ちゃんのお手伝いだ。いなくなったお姉ちゃんの代わりなんて、嬉しくともなんともないはずだ。
「ソルにこれをやって。お腹がすいたら、ロミも食べていいから」
「……ゔん」
ロミリーは可哀そうになるくらい憔悴しきっていた。フーマは銀紙に包まれたスティックを渡し、その頭をそっと撫でた。
「ごめんなさい」
ポツリと、消え入るようにアルスが言った。
「私が来たから……私のせいで、みんな死んじゃった……!」
彼女はまぶたを固く閉じていたが、唇をわなわなと震わせていた。このまま、この世から消えてなくなってしまいたい。彼女の心はそう言っていた。
「みんな悲しんでる……苦しんでる……怒ってる……私が来なければよかったって、みんな思ってる……!」
アルスには人の姿が見えないはずなのに、いや、だからこそ、みんなの心がより深いところまでわかってしまうのだ。人々の感情が津波のように押し寄せ、鋲のように打ち込まれ、二度と外れることのない苦痛となって彼女を苦しめるのだ。
「君のせいではない」
海のように穏やかな声でやってきたのはメルキャップだ。クジラの鳴き声を聞いた時のように、お腹の奥がゆったりと震えた。
「でも……!」
「君を連れてくるように命じたのは私だ。こうなることも予測できたはずだった。全ては、私の甘さが招いたことだ」
メルキャップはぴしゃりと言うと、背負っていた何かをおろした。
白い袋に入っていたそれは、アルスを守ったロボットだった。開かれていた腹は元通りになり、穴だらけだったボディにはつぎはぎなれど、補修が施してあった。
「人は苦境に立たされると、つい、自分ではない誰かに、その責任をかぶせてしまうものだ。どうか彼らを恨まないで欲しい。今までも必死に生きてきたのだ」
アルスは両手をさまよわせながら受け取ると、白い袋をはぎ取り、その形を確認するように何度もなんども撫でた。
「……フューちゃん」
「約束だったからね、必ず、君のもとへ返すと」
フーマはメルキャップの仁義に感動した。
よく見ると、彼は右足だけでなく、頬や胸にも大きな切り傷をこさえていた。右足の傷以外は、まだ表面に血がにじんでいた。それほどの犠牲を払ってでも、アルスとの約束を果たしたのだ。
アルスはメルキャップがいるであろう方へ頷いて、ロボットを後生大事に抱え込んだ。生来の友人と再会したように、晴れやかな顔をしていた。
「フーマ、彼女を頼むよ。私は、皆の様子を見てくる」
フーマは離れて行くメルキャップに頷いた。
しかし、アルスが待ったをかけた。ロボットにうずめていた顔を上げ、はっきりとした口調で言った。
「待って」
メルキャップは驚いたように振り向いた。
フーマも、驚いてアルスを見た。
アルスは目を閉じたまま、誰もいない虚空を見つめていた。
「フューちゃんの中には何があったの」
それは質問ではなかった。
明確に、答えることを要求していた。並々ならぬ彼女の決意だった。
フーマはメルキャップと視線を交わした。今のアルスには、何をしでかすかわからない危うさがあった。
「アルス――それは……」
「セプテージはまたやって来る……」
アルスはロボットを抱えたまま、よろよろと立ち上がった。バランスを崩したところを、フーマがすかさず支えた。
「ここに閉じこもっても、ずっとは守り切れない!あなたも見たでしょう!?」
アルスの切羽詰まった口調が、兄妹たちを震わせた。
フーマはアルスの腰に右手を添え、兄妹からそっと距離を置いた。唯一無傷だったハルマが、吸い寄せられるようについてきた。
「ハルマ、オクタコムに言って、包帯をもらって来てくれ」
フーマはこっそり耳打ちした。
ハルマはこくんと頷いて、救護所へ走って行った。その後姿が十分に離れたことを確認してから、メルキャップが口を開いた。
「彼は、セプテージに一番近いところにいた」
アルスの胸元に抱えられたロボットを見て、メルキャップはためらうそぶりを見せた。
しかし、目を閉じたアルスに見つめられ、その無言の圧力に押し負けた。
「彼の中にあったのはコロニーの内部構造だ。人類を開放するための方法も、あるように私は思う」
それを聞いた途端、アルスが顔を上げた。シェルターの天井を一心に見つめ始めた。
彼女が何を見ているのか、何を言い出すのか、フーマにはわかった気がした。彼女の腰から手を離し、何歩か後ろに下がり、肩を落とした。
「アルス――」
「私、もう一度宇宙にあがる」
慌てて名を呼ぶメルキャップを遮って、アルスは言った。
それは、フーマが一番恐れていた言葉でもあった。
「無茶だアルス。見てくれ、みんな傷ついてる。今すぐ飛んでいけるパイロットはいない。舟が無事かもわからない。せめて、けが人を癒す時間をくれ」
メルキャップは救護所に横たえられている人々を指して言った。オクタコムですら汗を流して走り回っている事態だ。それがとりあえずの説得でないことは、誰の眼にも明らかだった。
それでも、アルスは明確に首を振った。
「もう誰も死なせない。死なせたくないの。私一人で行く。私なら、セプテージの艦隊を突破できる!」
何かに追い立てられるように言うと、アルスは岩肌に左手をついて歩き出した。ロボットは右手だけで抱え上げていた。
フーマには見えた。彼女がたくさんの後悔を引きずって歩いているのが。ベルーガや、死んでしまった人たちの無念を引きずって歩いているのが。本当なら、背負う必要のなかったたくさんの責任を引きずって歩いているのが。
重たいおもたい影が、彼女の後をずるずるとついて行くのだ。苦しいだろうに、泣き出してしまいたいだろうに、彼女は歯を食いしばって、懸命に歩き続けるのだ。
メルキャップがすかさず肩に手をかけたが、アルスはそれを跳ねのけた。
「アルス!待ちなさい!アルス!……フーマ、彼女を止めろ!」
フーマはアルスを止めることができなかった。
フーマにはなかったのだ。彼女の苦しみを癒す言葉が。彼女の悲しみを慰める言葉が。彼女の怒りを鎮める言葉が。
自分勝手に目覚めさせておいて、彼女をここまで傷つけて、そしてまた、自分勝手に死なないで欲しいだなんて。そんなことを言える立場ではなかった。
目の見えなくなったアルスは、まともに歩くこともできない。岩でつまづき、転んでしまった。ロボットの胴体が点々と転がり、大きな岩に当たって止まった。
メルキャップが悲鳴にも似た声で叫んだ。
「フーマ!」
「アルス!」
自分の口から、彼女の名が飛び出した。
コロニーで初めて呼んだ時、同じように確信する前に喉をついて出た。ずっと先に決めた覚悟が、時を越えてやってきたのだ。ずっとそうだった。彼女に会った時から、ずっと。
両手を地についたアルスが、立ち上がる途中で振り向いた。不完全な動作だった。閉じられた瞳では、こちらの姿が見えないのだ。フーマの方向をきちんと捉えられておらず、また、彼女はその事実を知らずに聞き入っている。
「宇宙に行くのは止めない。でも、条件がある」
「フーマ!」
メルキャップが止めに入ったが、もはやフーマには関係のないことだった。
自分とアルスの間にだけ存在する見えない力が、彼にそうさせていた。人と人が、いつか必ずそうなる力。世界のどこにいても、不思議とつながっている力。燃えるようなエネルギーを生み出し、絶えることなく供給し続ける力。
その力に突き動かされるままに、フーマは宣言した。
「オレが操縦する」
その時アルスは、確かにフーマの方を見た。目が見えないにも関わらず、虹色の瞳でフーマを見た。
神も仏も、自らの運命さえも信じない、力強い瞳だった。
「君を連れてきたのはオレだ。だから、オレが責任をもって送り届ける」
アルスは手探りでロボットを掴むと、しっかりとした足取りで立ち上がった。
フーマの覚悟を見透かすかのようにじっと見つめ、そして、頷いた。
フーマははじかれたように動いた。
「こっちへ!」
右手でアルスの手を取り、シェルターの奥へと走った。正面の大扉とは別に、戦士が反撃に繰り出すための裏口や、緊急時の逃げ道、偵察のための出入り口がいくつかあるのだ。
「フーマ!待ちなさい!フーマ!」
少し後ろを、メルキャップの声が追いかけてきた。
フーマは迷うことなく進み続け、小さな鉄製の扉にたどりつくと、その脇についているレバーを左の脇で挟み、引きずり下ろした。
ギギギ、と大きな音を立てて、鉄の扉が少しずつすこしずつ地面にめり込んでいった。
「家族はどうするんだ。兄妹たちは」
「アルスの言う通りです。このままここにいても、全員殺される」
追いついて、なおも食い下がるメルキャップに、フーマは向き直った。指揮官の肩越しに、愛する兄妹を見た。
くぼんだ岩陰で身を寄せ合って泣いているロミリーとクルト、傷だらけのマディックの背中をさする、右足のかけたユーマ。大好きな姉を探してぐずっているソルン。そして、フーマの言いつけを守って、健気に包帯を持って帰ってきたハルマ。彼は、フーマたちの不在に気付き、あたりをきょろきょろと見渡していた。
フーマは決別にも近い声色で叫んだ。
「オレはこれ以上!家族が死ぬのを見たくない!」
ハルマが取り落とした包帯が、地面で跳ね、白い道となってころころと転がった。
「……にいちゃん?」
包帯の作る道を、ハルマはふらふらと彷徨うように歩いた。包帯は、フーマたちの元へ届くことなく途切れた。
「あいつらがいつか、心の底から笑えるように。思いっきり走り回って、腹いっぱい食べられるように……その世界を取り戻す」
「フーマ……」
メルキャップは観念したかのように口を半開きにしていた。グリーンの瞳が、寂しそうに陰った。
「にいぢゃん!」
ただならぬ雰囲気に気付いたのか、ハルマが悲痛な叫びをあげ、走り出した。その声に反応して、残りの兄妹も一人残らずこちらを見た。
軋んだ音が終わりを迎え、鉄の扉が、その姿を全て地面の中に隠した。
ぽっかりと空いた真っ暗な扉へ、フーマは右手を引いた。
「アルス、先に行っててくれ」
アルスは小さく頷くと、壁に手をついて歩いて行った。
「兄ちゃん……?」「にいちゃん?」「おにい?」
マディックが顔を上げ、ユーマが膝立ちになり、ロミリーが立ち上がった。
クルトはソルンを抱きしめ、ぎゅぅっと抱きしめ、唇をちぎれんばかりに噛みしめていた。
ハルマは包帯を踏んずけて転び、鼻から地面に激突した。泣き言も言わず立ち上がると、ずるむけになった膝をものともせずに走り続けた。
「にいぢゃん!!」
「大丈夫だ、ハルマ」
フーマはハルマに手を振った。
「心配するな、ユーマ」
ユーマに微笑みを向けた。
「ありがとう、ロミリー」
ロミリーに頭を下げた。
「綺麗になるんだぞ、クルト。大きくなるんだぞ、ソルン」
一番小さな二人には、健康と成長を願って言葉を贈った。
「頼んだぞ、マディック」
マディックには信頼と責任を。
「ごめんな、ベルーガ」
そして、ベルーガに心からの謝罪を。
「にいぢゃぁん!」
泣きながら走り続けるハルマを、涙の海の向こうに見送って。
フーマは漆黒の闇に足を踏み出した。
誰もいなくなった希望の渓谷で、岩肌の一部がぐらぐらと揺れていた。
内側から押しているのか、引いているのか、いずれにせよ、地震のそれとは違う揺れ方だった。
バキョン!と音を立て、岩にカムフラージュされていた隠し戸が開いた。岩の形をした蓋は穴の中に吸い込まれ、代わりにフーマが顔を覗かせた。
「よし」
やったぞ!ともう少しで叫んでしまうところだった。
フーマは努めて冷静に、もう一度周囲に敵がいないか確認した。
希望の渓谷は静寂に包まれていた。
ここではあまり戦闘が行われていないのか、ロボットの残骸は一つも転がっていなかった。
右手で地面を掴み、自分の体を引き上げた。岩肌をくりぬいてできた道に躍り出た。作業着についた泥をパッパと払っていると、警報装置のあたりにいる人影が目に入った。
レバーを握ったまま息絶えている友人に、フーマは小さく敬礼した。ありがとう、と言うのは、命をかけた彼女に失礼な気がした。
「ふーまぁ……?」
穴の中から、不安そうなアルスの声が登ってきた。
「大丈夫、誰もいない」
気休めのウソなんて、もうほとんど意味がないと知りながら。
それでもフーマは、アルスにだけは微笑みかけ、右手を差し出した。先にロボットを受け取り、地面に置いた。そして、そよ風になびく白百合のような手を、優しく握り、引っ張り上げた。
「わぁっ!」
修復された右手は、フーマが予想したよりもはるかに強いパワーを秘めていて、アルスの体をミサイルのようなスピードで連れ出した。
「よぉっとと……」
彼女の柔い腕で体を押される格好となり、フーマは崖の淵まで追いやられた。右足の踵で踏ん張った。幸い、谷底へ落ちていったのは小石や砂粒だけだった。
「あぁ……びっくりした……」
アルスは真っ赤に染まった胸元をほっとなでおろしていた。
「ふふっ……なんだか、調子がいいみたいだ」
右手をガシガシ動かして、鼻と鼻がくっつきそうな距離でフーマは笑った。鼻息で前髪を揺らされると、アルスはくすぐったそうに笑っていた。
「フーマ……左手、ごめんなさい」
ひとしきり笑った後、アルスはしょんぼりと言った。
フーマは動かなくなった左手を掲げ、星の光でよく見えるように、何度かひっくり返した。
「メルキャップが言っただろ、アルスのせいじゃない」
アルスが納得できないようだったので、もう一押し付け加えた。
「大丈夫、またメルキャップが直してくれるよ」
「もちろんだとも」
「うわっ!」
「きゃあっ!」
突然聞こえてきたメルキャップその人の声に、二人の若者は肝をつぶした。アルスはフーマに飛び着いてきたし、フーマはアルスを抱きしめた。バランスを崩し、一瞬、谷底を流れる小川が視界に入った。気がする。戻ってこられたのは奇跡だ。
「二人だけで、どうやってコロニーの中を行くつもりだったんだ。彼の中身を見たのは私だけだぞ」
メルキャップは小さな穴から這い出てきて、、作業着についた泥を払っていた。
フーマは心臓をバクバクさせ、口をパクパクさせた。
「み――みんなは?」
「心配はいらない。オクタコムには私の持つ全てを伝えてある」
「ご婦人は?」
「半分はもういない。もう半分にも生きていて欲しいのは、フーマ、君と一緒だ」
メルキャップはホルスターから拳銃を引き抜くと、遊底を引いて薬室に弾を装填した。
クロートーチはそのほとんどが無事だった。無傷のまま、渓谷を流れる風にギイギイと揺れていた。
「なんで落とさなかったんだ……?」
アルスの手を引きながら、フーマはクロートーチの群れに首を傾げた。
「おそらく、我々を全員殺してしまうつもりだったのだろう。アルスの力は、奴らにとっても計算外だったということだ。油断せずに行こう」
進行方向に注意深く銃口を向けたまま、メルキャップが言った。
つり橋の真ん中までたどり着くと、フーマはクロートーチの船体を見上げた。鉛筆のように細長い舟は、お尻についた三本のかぎづめを太いつたに引っかけ、谷底へ真っ逆さまにぶら下がっている。
フーマはアルスの手を離し、すべすべとした船体を叩いた。一部がパカリと開き、小さなレバー現れた。右手でレバーを握り、ゆっくりと引いた。
ルルル……、と優雅な音で、船体の一部が回転した。コックピットへの入り口が現れた。
「アルス、捕まってて」
フーマは、アルスの手につり橋の欄干を握らせると、自分はその欄干に足をかけ、コックピットへ飛び乗った。細長い舟は、フーマ一人分の衝撃でも前後に揺れた。
右手で点火ボタンを探し、押した。ギュウゥン、とエンジンがうなりを上げ、外部の映像が映し出された。モニターに光が灯り、コックピットの様子が照らし出された。
「へへ……」
くたびれた椅子、錆びついたボタンやスイッチ、ボロボロの操縦桿。このクロートーチは、スサノオと同じように年季が入っていた。懐かしい、我が家に帰ってきたような安心感だ。フーマは表面の禿げたヘッドレストを何度も撫ぜ、上唇をなめた。
ヘッドレストをぽんぽんと叩き、フーマは外に顔を出した。
「アルス!」
フーマの声を聴くと、アルスがくっ、と顎を上げた。
「先にロボットを貰おう」
フーマがロボットをシートの上に置いている間に、メルキャップが拳銃をホルスターにしまい、アルスの腰を抱え、欄干の上に持ち上げた。
「オッケー、大丈夫……」
アルスの足が欄干にきちんとかかったのを確認して、フーマは音頭をとった。
「行くぞ……いっち!にぃ!さん!」
アルスはしっかりと欄干を蹴飛ばし、フーマは思いっきり右手を引いた。
「よし、そのまま後ろの席に、こっち……」
フーマは、アルスが狭い船内で頭をぶつけてしまわないよう、彼女の頭を右手で押さえながら、観測手の席に案内した。
「ベルト、しめるからな」
フーマは両肩から伸びるシートベルトを、腰元にあるアタッチメントに差し込んだ。ゆるみが無いか確認し、最後に、白い袋を彼女の膝に乗せてやった。
「フーマ、ありがと」
アルスは目をつむったまま、つぶやくように言った。
舟が大きく揺れ、フーマは反射的に天井を手で押さえた。メルキャップが乗り込んできたのだ。
「どうしましょうか、その……」
「飛ぶのは君の方がうまい。君がつけ」
メルキャップは迷いなく言うと、操縦席の左下に身を縮めて収まった。
「私は左手の代わりを務めよう。指示してくれ」
「エンジンチェック」
「チェック」
フーマの号令を元に、メルキャップが観測手用のモニターを覗き込む。
「各油圧系、チェック」
「チェック」
右の操縦桿をフーマが、左をメルキャップが、それぞれ少しずつ押し引きした。頭上で鋼鉄のリングが僅かに回転し、船体が大きく揺れた。
「ミサイル発射口、機関砲、チェック」
「チェック、異常なし」
メルキャップが再び観測手の座席に顔を伸ばし、点呼に応えた。
「艦橋、チェック」
「チェック……ダメだ、反応がない」
観測手のキーボードをいじっていたメルキャップがかぶりを振った。
「吹っ飛ばすします…………っはぁ~」
発進前の運行点検を終えると、フーマは大きくため息をついた。
自分は、自分たちは、今から〝死〟へと漕ぎ出してくのだ。
もちろん、今までの任務だって、アルスを迎えに行くときだって、いつもその覚悟はしていた。
ただ、行き先のわからない旅は生まれて初めてだった。行きつくことができるのかもわからない、あてのない旅は。
「大丈夫」
首筋に息がかかる。
「私たちなら、たどり着ける」
フーマはニヤリと笑い、右手を耳の後ろに振り上げた。彼の右手首には、黒くて細長いチューブのようなものが差し込まれていた。それはアルスの膝にいるロボットにつながれていて、右手の入れ墨に黄緑の光をもたらしていた。
小さな手が手探りでやってきて、ぎゅっ、と握りしめてくれた。フーマは固く強く、その手を握り返した。
「よし!」
フーマは操縦桿に手を戻し、両足のペダルを交互に踏みこんだ。
スラスターが爆音を上げて唸り、渓谷の洞穴から大量のネズミが、近くの森からはたくさんの鳥が逃げ出した。
操縦桿を磨くと、そこには小さな字で〝Hercules〟と刻んであった。
みんなそうだ。フーマたちの舟は。
「合図とともにターンオーバー!」
英雄の名を刻んで、人類のために散ったのだ。
「ハーキュリーズ!発進する!」
フーマが右の操縦桿を、メルキャップが左を目一杯引くと、三本のスラスターが外向きにひっくり返った。引っかかっていたつたからすり抜けて、ハーキュリーズは真っ逆さまに落ちていった。
右足のペダルを踏みぬくと、三本のスラスターが火を噴いた。ハーキュリーズの先端は小川の表面をなぞったところで止まり、フーマは背中から踏みつぶされたような衝撃に襲われた。
強烈なGに抗いながら、フーマはメルキャップに合図した。メルキャップも歯を食いしばりながら、右手を伸ばし、フーマの代わりに操縦桿を握った。
空いた右手を変形させながら持ち上げた。狙うは舟をぶら下げていたつた、その根元だ。全身が鉛のように重たく、右腕も例外ではない。フーマは歯を食いしばりながら、開けっ放しにしていた出入り口へ右手を向けた。今の照準は斜め下の小川だ。
「んぐぐぐぐ……!ターンオーバー!」
合図を元に、アルスがボタンを押した。メルキャップが両足を懸命に伸ばし、コックピットの内側に張り付いた。
視界が左に180度回転し、今度は体が座席に押し付けられた。
斜め上の視界が目に入った瞬間、フーマは右手の砲を撃ち抜いた。
崖の先端が爆発し、つたの先端が焼き切れた。
右手の入れ墨が一本消え、点滅しながら再度灯った。
フーマはメルキャップから右の操縦桿を奪い返し、目一杯前に押し出した。スラスターをつなぎとめていた鋼鉄のリングが滑り落ちてきて、開け放たれた扉の前を通り過ぎた。
ハーキュリーズは小川の水を全て蒸発させ、炎の尾びれをまとって飛び立った。
降りかかってくるつたが船体を揺らしたが、フーマは巧みなペダリングで推進力を保って見せた。
カムフラージュの葉を突き抜け、渓谷の上空に出た時、英雄の船出を祝福するかのように、鳥たちが美しい羽音で合唱した。
眼下では、奇妙な角を持ったガゼルたちが、一目散に走り去っていく様子が見えた。
開け放たれた扉からオレンジの光が差し込んできて、コックピットの中を温かさで満たした。
夜明けだ。
地平線の向こうから、太陽が偉大な姿を現していた。
空をびっしりと埋め尽くすコロニー群でも、生命の源たる炎を遮ることはできないのだ。
ガゼルの群れの足下に、コンクリートや鉄筋の名残が見て取れた。
遠く、フーマとアルスが降り立った台地が、かつて人類が作り出した巨大な構造物のなれ果てであることを明らかにした。
それらを飲み込んでなお、青々しく伸びる自然の底力よ。太陽を跳ね返す朝露のきらめきよ。大地を震わす動物たちの生命力よ。
フーマは突然、この世の全てが輝いて見えた。神々しいまでに美しいと思った。かけがえのない、素晴らしい世界に自分は生きていた。
「夜明けだ」
そうつぶやき、レバーを引いた。
ディスプレイがせりあがってきて、陽の光を幾分か落とした。
「……行こう!」
アルスが力強く言った。
フーマとメルキャップは操縦桿を今一度前に押し、ロックボタンを押した。操縦桿はフルスロットルで固定され、ハーキュリーズは重力の井戸から抜け出すための加速に入った。
メルキャップはコックピット後方に押し付けられ、苦しそうに顔を歪めていた。
フーマもアルスも、見えない力に押しつぶされ、手を差し伸べることすらできなかった。
次第にディスプレイの映像が真っ赤に染まってゆき、建付けの悪い座席がガタガタと揺れ始めた。分厚い雲を切り裂き、その、さらに上へ――――
やがて、エンジンの爆音が聞こえなくなり、炎が煌々と闇を照らし始めた。
フーマは重力から解放され、あれだけ痛んでいた左手が、不思議と楽になった。
メルキャップがクラゲのように漂い、フーマの左隣に戻ってきた。
しばらく、舟の中には計器やセンサーの電子音だけが響いていた。
「フーマ」
メルキャップが頭上を指さした。
一定の間隔で並び、ぴったり同じ速度で回転しているコロニーたちの一基を指していた。
「あれがカファスだ。我々が向かう先だ」
カファスは、一見して他のコロニーと見分けがつかなかった。
しかし、そこが目的地であるということを、敵が教えてくれた。
シャン、シャン、シャンシャン……どこからか聞こえる鈴の音だ。
カファスの周囲を回るコロニーから、おびただしい数の鈴鳴りが湧き出してきたのだ。一つ一つのコロニーから、数千ずつの単位でやって来た。編隊も規則性もない。とにかく数を増やし、折り重なり、分厚い黄金の帯となって、あたりの宙域を圧倒的な物量で埋め尽くした。鈴鳴りの大群はギラギラと太陽光を反射し、ディスプレイが幾度となく光度を調整した。センサーはジャラジャラとやかましく鳴きわめき、もはやその役目を果たさなくなった。
「ミサイル、全砲門を開け」
フーマは静かに言った。メルキャップがアルスの頭上から潜望鏡を引き下ろし、トリガーを握った。
「迎撃……!」
三発のミサイルが飛んでいき、黄金の塊に着弾した。
表面で起きた爆発が、豆粒のように小さく見えたから、敵がいかに強大であるかがわかった。合成された爆発音も、耳をすませなければ聞こえないほど小さかった。
黄金の粉が吹雪のように舞い、すぐ、より大きな黄金に飲み込まれた。
フーマは操縦桿を握る右手に力を込めた。
「迂回する。なんとかして、背後に――」
「そのまま進んで」
アルスが唐突に言った。
フーマは操縦桿を握りしめたまま振り向いた。
「二人で、まっすぐ進み続けて」
アルスは目をつむったまま、とても浅い呼吸を繰り返していた。
フーマはアルスから鈴鳴りの大群に視線を移し、またアルスを見た。肺の中で誰かが暴れまわっているのを感じた。彼女を止めたいのか、自分が不安なのか、ぐちゃぐちゃになってわからなくなった。
メルキャップが困惑した表情でやってきて、左の操縦桿を握った。
「全速力で」
アルスの声には不思議な力があった。まるで帆をはらませる風のようにやってきて、フーマの背中を押すのだ。彼女に促されるまま、フーマとメルキャップは操縦桿を前に押し倒した。三つのスラスターが今一度光度を上げ、ハーキュリーズは加速した。
黄金の塊はあまりにも巨大で、当初は、こちらが近付いているのかすらよくわからなかった。しかし、近づくにつれ、ジャラジャラという音は着実に大きくなり、視界の端いっぱいまで黄金で埋め尽くされていった。
フーマはディスプレイを下から上まで見渡した。どこを見ても鈴鳴り、鈴鳴り、鈴鳴り……もはや逃げ場はない。黄金の壁に向かって、一直線に進んで行くのみ。
端の方の鈴鳴りが、徐々に進路を変え、大きな風呂敷を折りたたむように、ハーキュリーズめがけて収束し始めたその時、
アルスが両手を突き出した。
途端に、表面の鈴鳴りが一斉にめくれあがった。
ガラス細工のように細かく砕け、黄金の花びらがそこら中に飛び散った。
外の景色を映すディスプレイには、奇妙な色の線が入ったり消えたりを繰り返していた。カメラは捉えることができず、モニターは再現することができなかったのだ。彼女が生み出した虹の力を。彼らには見えないのだ。ハーキュリーズが虹をまとい、黄金を切り裂いて進む勇猛果敢な姿が。
鈴鳴りは次から次へと破壊され、次から次へとやってきた。当初はハーキュリーズにぶつかる前に全てを破壊できていたアルスだったが、消耗戦が長引くにつれ、鈴鳴りの物量に押され始めた。
「ごふっ!……くふぅ……」
「アルス!」
振り返ると、アルスが苦悶の表情を浮かべ、滝のように鼻血を流していた。
鈴鳴りの破壊が間に合わなくなり、ハーキュリーズと目と鼻の先ではじけ始めた。バラバラになった黄金のつぶてに襲われ、船体が激しく揺れ始めた。
「ダメだ!もう持たない!」
「コロニーだ!コロニーの中に飛び込むんだ!太陽風が無ければやつらは飛べない!」
メルキャップが左の操縦桿を引いた。それを見て、フーマは右の操縦桿を一番前まで押し出した。ハーキュリーズは左下にきりもみ回転しながら落ちて行った。
「うぅ……!うゔ―っ!」
アルスが激しく頭を振り乱し、観測手用のキーボードにぼたぼたと鼻血が落ちた。
「フーマ!」
メルキャップが潜望鏡に飛びついた。フーマはシートベルトを外すと、左の操縦桿に飛びつき、左脇で挟み込んだ。
「うおおぉぉぉぉ!」
メルキャップが砲門を開いた。一秒間に二周、六発。各スラスターの先端から銃弾が放たれた。アルスの力と相まって、進行方向の鈴鳴りが一気にはじけ飛んだ。黄金の輝きがけたたましい瞬きとなって襲い、ディスプレイが激しく点滅を繰り替えした。フーマはぎゅっと目を細め、歯を食いしばって耐えた。
ついに黄金が途切れ、視界が開けた。目の前に近づいていたコロニーの蓋に向かって、メルキャップがミサイルを放った。
後ろを振り返ると、ぽっかりと穴の開いた、黄金の壁が目に入った。壁の表面が波たち、空いていた穴をあっという間に埋めてしまった。そして、ものすごい速度でこちらに向かって手を伸ばしてきた。
コロニーの壁が爆発し、ジャラジャラという音の合間に細切れの爆発音が鳴った。フーマは船体に鞭打って爆炎の中に突っ込んだ。鈴鳴りは一斉にひるがえり、コロニーの表面を舐めるようにして飛んでいった。その姿も、隔壁に閉ざされて見えなくなった。
「はあ……はあ……」
荒い息遣いのまま、メルキャップが左の操縦桿を握った。いつの間にか、ハーキュリーズのエンジンがものすごい音で船体に響いていた。
フーマとメルキャップは、スラスターの先を微妙に動かし、コロニーの中心を貫く、真っ黒いパイプに沿って飛んだ。
「なんだ、ここ……」
フーマは顔をしかめた。
それは、コロニーの情景にではない。中心部にそびえ立つ数百メートルもの塔も、そこから伸びる美しい橋も、橋を渡った先にある何千というビルも、きっちりと区画整理され、一分の隙も無い大都市を形成していた。
フーマが違和感を覚えたのは、ここの住民たちだ。
コロニーには男がいなかった。たったの一人もだ。
オレンジのつなぎを着た人々は、例外なく美女なのだ。
彼女らは二人一組になって、紫色のロボットを一台従え、水辺で散歩をしたり、繁華街で食べ歩きをしたりしていた。
「女性ばかりだな」
メルキャップも思案顔でコロニーの様子を見ていた。
「んっ……んんっ……」
「アルス……!」
フーマが振り返ると、アルスがちょうど、観測手用のキーボードから顔を上げるところだった。キーボードはもう、彼女の血でびたびたになっていた。
操縦桿をメルキャップにあずけ、フーマは、右腕の作業着を彼女の鼻に優しく押し当てた。
「バカにっ……してる……!この人たちは、普通の社会では生きていけないって……そう決めつけて、一か所に集めてるんだわ!」
アルスはフーマの腕に顔をうずめ、ぶるぶる震えながら言った。彼女には見えているのだ。ここにいる人たちが、いかに偽られた世界で暮らしているのかが。
フーマはとたんに、彼女たちがとても可哀そうに思えてきた。女性たちはみな、上空を飛ぶハーキュリーズを不思議そうに見上げ、指さしたり手を振っているのだ。何も知らず、幸せそうな顔をして。
「フーマ、もうすぐ突き当りだ」
メルキャップの声で、フーマは操縦席に戻った。
「カファスは向こう側だ。コロニーの外壁を破壊すれば、一気に鈴鳴りが押し寄せるだろう。最大加速で突っ切ろう」
「了解、コロニーを脱出と同時に、主舵20,上げ角40――アルス、もう無理しなくていいからな」
アルスは返事をしなかった。
フーマは大丈夫だと自分に言い聞かせ、操縦桿を握りなおした。
コロニーの側面についている蓋に向かって、ミサイルが放たれた。フーマはミサイルの尾を追いかけていった。大きく空いた穴が、隔壁で閉ざされる前に。爆炎の中を通り抜けた。
隔壁が閉ざされ、炎がしりすぼみに消えた。
代わりに虚空に現れたのは三本足の舟だ。
名をハーキュリーズ。人類が飛ばした、最後の英雄――
ジャリン!と鈴の塊が鳴った。コロニーの周囲を漂っていた鈴鳴りが、一斉にこちらを向いたのだ。
「大丈夫だ……」
フーマは加速を続けた。
頭上から降ってきた鈴鳴りが、小鬼のような銃口から何万発もの銃弾を浴びせた。
ハーキュリーズの船体が何度も悲鳴を上げ、たくさんのディスプレイが死んだ。
「大丈夫だ!」
フーマは叫んだ。
センサーは鈴の音を遮断し、耳をつんざくほどの警告音でコックピットから脱出しろとはやし立てた。
特攻を仕掛けてきた鈴鳴りが船主に激突し、ハーキュリーズは大きく左に傾いた。フーマは操縦桿に頭をぶつけ、眉間を切って出血した。
舟はでたらめに回転しながら、カファスに向かって進んで行った。アルスもメルキャップも、次々に方向の代わる遠心力に囚われ、動けずにいた。
「うぅぅぅぅ!」
歯抜けになった映像、ぐるぐると回る映像、その中でも、鈴鳴りが迫って来るのがわかる。
フーマは潜望鏡に食らいつき、とにかくたくさんのミサイルを放った。付近にいた鈴鳴りを八機吹き飛ばし、そして、壁際のボタンを叩いて壊した。
ハーキュリーズは、最後のターンオーバーをした。
「うああああああああ!」
ターンオーバーが舟の回転を相殺した瞬間、フーマは操縦桿にかぶりついた。両膝でペダルを踏み抜き、右手と左肘でレバーを前後左右に動かした。
天才的なスラスターの操作により、めちゃくちゃに動き回っていた舟の回転が止まった。その機を逃さず、最大加速をかけた。
エンジンが限界を超え、火を噴いていた。それでも緩めなかった。
もう、フーマに還るところはない。
慌てた鈴鳴りの軍団が突っ込んできたが、捨て身で突き進むハーキュリーズには追いつけない。
優雅に回転を続けるカファスに向かって、矢のように駆けていく。
「メルキャップウゥゥ!ばんっざあぁぁぁぁぁぁい!」
その命の全てをかけて。
ハーキュリーズはカファスにたどりついた。