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第五章 崩落

 目を覚ました時、そこはふかふかのほし草の上だった。

 台地の横に掘られた小さな洞穴には、内部にふかふかのほし草ベッドがしつらえてあり、一日中歩き続けたアルスを、あたたかく迎え入れてくれたのだ。

 辺りは暗くなっていて、今は、フーマの兄妹たちが、川の字になってぐっすりと眠っている。

 みんなを起こさないよう、こっそり台地に抜け出すと、すでに太陽は沈み、夜がふけていた。

 端の方まで歩いて行くと、空を埋め尽くすコロニーと、その陰に隠れるようにして光っている月が見えた。満月だろうか、三日月だろうか、アルスはその丸い輪郭を、諦めずに目で追い続けた。

 小さな虫が楽器のような音を鳴らし、時おり、遠くからフクロウの鳴く声もした。秘密の夜の演奏会だ。決まったリズムも、メロディーもないのに、五百年ぶりの音楽は、彼女に生きているという実感を強く与えてくれた。

「アルス」

 背後からやってきたのはフーマだ。

 彼はくすんだ灰色の作業着に着替え、左手に何かをもっていた。

「これ、ベルのおさがりだけど」

 アルスは目を輝かせた。

 それは紅い紐だった。粗雑な作りで、あちこちほつれていた。ゴム紐のように便利なものではなかった。自分で末端を結ぶ必要があるものだった。

 しかし、アルスにとってそれは、どんな贈り物よりも嬉しくて、価値のあるものだった。サンゴのように輝いて見えた。

 フーマがくれると約束してくれたものだ。

 フーマが、自分のためにくれたものなのだ。

「もとは……母さんが使ってたものなんだ」

 その事実は、重みとともに、海より深く、山より高い、彼の信頼を運んできた。

 アルスは宝石を受け取る時より慎重に、両手を伸ばした。

 紅い紐は、手の中で炎のように熱く燃えた。

「……ありがとう」

 アルスは贈り物を胸に抱き、感謝の言葉を述べた。

 月明かりの下で、フーマはくすぐったそうに笑っていた。

「オレ、メルキャップのところに行ってくるから」

「……うん」

 アルスは小さく手を振って、フーマの背中を見送った。




 フーマは洞窟の中を足取り軽く進んだ。

 今のフーマは無敵だ。

 なんだってできる気がした。

 今なら、コロニーにいる無数のロボットだって、全部一人で倒してやれる。

 そんな気分だった。

 意気揚々とメルキャップの執務室へたどり着き、鋼鉄の扉を叩こうと手を振り上げた。

「……んん?」

 フーマは顔をしかめ、ひんやりとした鉄に耳をつけた。

 要塞の入り口から聞こえてくる滝の音に混じって、聞こえるのだ。

 ネズミの足音より静かな、かすかな話し声が。

「わかっている。予定通りに」

 これはメルキャップの声だ。鉄板越しでも変わらない。聞いているだけで心穏やかになる、安心する声だ。

「私との約束を忘れたとは言わせない」

 もう一つは女の声だ。くぐもってよく聞こえないが、確かに女だ。

「誰がここでの生活を支えていると思って――」

「わかっている!」

 机を叩いたような音が聞こえ、フーマの体が跳ねた。壊れた右手が、図らずも戸に当たった。

 甲高い金属音が洞窟の壁や天井に反響し、滝の方に吸い込まれていくのを、フーマは頭を抱えて見ていた。

「誰だ!?」

 執務室の鉄戸が開き、メルキャップが飛び出してきた。

 その手には拳銃が握られていた。五百年前に失われたはずの、(いにしえ)の銃だ。メルキャップが蘇らせ、フーマたちの武器となった銃だ。まさかそれが自分に向けられる日が来ようとは、フーマは血相を変えて両手を上げた。

「す、すいません!ご婦人と取り込み中だったとは知らず……!」

 洞窟内の薄明りの下、メルキャップは激しい息遣いをしていた。途方もない長距離を、死に物狂いで走ってきたかのように、胸板が激しく上下していた。両の目がらんらんと光っていて、それを隠したいのか、左手がしきりに頬を撫ぜていた。

「……フーマか」

 ふうふうと深呼吸をして、メルキャップが絞り出した。

「いや、いい。どうした」

「いえ……メルキャップが、目が覚めたら来るようにと……その、右手を直してくださると……」

 フーマは一瞬、自分が指示を聞き間違えたのでは、と勘繰ってしまった。指揮官はそれほど取り乱していた。

「そうか……そうだったな……」

 うなされたようにつぶやくと、メルキャップは大きく息を吐いた。

 そして、銃を持っていない方の手でフーマの肩を叩いた。

「入りなさい」




「し、失礼します」

 フーマは泥棒のように抜き足差し足で歩いた。

 部屋の奥、無線機の手前側に、腹を開かれた藍色のロボットが見えたが、すぐに目をそらした。ベッドの方を見てはいけないと、強くつよく自分に言い聞かせた。

 メルキャップに促され、椅子に座った。彼が拳銃をテーブルの上に置いたから、気が気ではなかった。

「すまなかったな、驚かせてしまって」

「メルキャップにもあるんですね、その、ご婦人とうまくいかないときが」

 言ってしまってから気付いたが、甚だ失礼だった。

「あっ、いや……すいません」

 メルキャップは自虐的な笑みを見せた。彼の眼は骸骨のように落ちくぼんでいた。

「うまくいかないことばかりさ……だが、それが恋愛というものだ。時に不毛な戦争を起こし、講和条約の締結をさぐる……たいてい(・・・・)はこちらに非があるから、最後は無条件降伏を選択するしかないがね……フーマ、どうか君が大人になるまでには、仕事よりも、家庭を優先できるようにしてやりたい」

 フーマは礼とも謝罪ともつかぬ言葉をもごもごと述べた。

 なぜかメルキャップは安心したようだ。突然にため息をついて、ふっとブロンドを揺らした。拳銃を取り上げ、腰のホルスターに戻してくれたので、フーマも胸をなでおろした。

 メルキャップは代わりに、細長い眼鏡を取り出した。ヒビだらけの、年季の入った一品だった。

「さて、右手だったね、見せてみなさい」

 手招きされたので、フーマは壊れた右手を机の上に投げ出した。

 自分で見ても、かなり痛々しかった。

 黒いロボットに切り付けられたせいで、手のひらが真ん中でぱっくり二つに割れているのだ。油圧系をやられてしまったようで、銃身に変形させることはおろか、指の開閉すらできない。

「綺麗な切断面だ。何にやられた?」

 眼鏡の奥で、グリーンの瞳が細くなった。

「あのロボットの、色が黒いやつに。手が電動ノコギリみたいになってました」

 フーマは藍色のロボットを顎で指していった。メルキャップは一瞬、背後へ振り向いた。

「なるほど……だが、ロボットも悪いことばかりじゃない。エネルギーの問題が解決するかもしれない」

「本当ですか?」

「あぁ、配線をつなぎなおすついでに、試したいことがある。強度は申し訳ない。これ以上あげるとスムーズに変形できない」

 メルキャップは作業着のポケットから気が遠くなるほど細い工具を取り出し、機械の右手に差し込んだ。配線を一本一本をより分けながら、中を覗き込んでいた。

「いえ、とんでもありません。四本も指を貰いました。オレには感謝しかありません」

 フーマは深い恩義を感じていた。

 彼が命の限り戦うことができるのは、兄妹のために働くことができるのは、ひとえにメルキャップのおかげだった。コロニーいっぱいのトウモロコシをかけてもなお釣り合わないほどの恩が、彼にはあるのだ。

「それはこちらのセリフだよ、フーマ」

 眉間にしわを寄せながら、しかし、愉快そうに指揮官は微笑んだ。




 ンガウダが倒れた。

 見えることのない天を仰ぎながら、地面に倒れた。

 彼の頭に乗っていた鮮やかな鳥の羽が、色とりどりの雨となって祭壇の上を舞っていた。

 大地の一族は騒然としていた。大きな影は血を流して倒れ、身軽な影は上下に引きちぎられた。神官たちは八つ裂きにされ、彼らの懐からは、小麦色のスティックがぼろぼろと零れ落ちていた。あちこちで悲鳴があがり、誰もが救いを求めて祈り散らしていた。

 やったのは真っ黒なフューラルコミュニケーターたちだ。でこぼこの地面でも一本足で走り回り、巣穴を埋め尽くすアリの大群のように、大地の一族の聖堂を真っ黒に染め上げていた。彼らは寸分違わぬ正確さで、人々の息の根を止めていった。

 やがて、祭壇の下に、地面に這いつくばったまま、二度と顔を上げぬ人々の列が出来上がった。みな、救いを求めるかのように、祭壇に手を伸ばして絶命していた。

 その様子を、祭壇の上から見下ろす女性がいた。腰に当てた右手に、黄金の腕輪が光っていた。

 彼女は漂い始めた腐臭を鼻先ではじき、時おりあがる悲鳴にため息をついた。心底興味のなさそうな目で、洞窟の壁面を見上げた。

 壁から張り出した彫像が地に落ち、気位の高い声がした。

「やはり神を崇めたか」

 神経質なハープを奏でた時、きっと、同じような音がするだろう。

「そなたらが滅びるのは、神のせいか……?なかったのか?加護が……」

 セプテージはンガウダを見下ろし、その顔を黄金のサンダルで踏みつけた。ンガウダはうめき声一つ上げなかった。

「何年たっても人のせいにするばかり……いったいいつ、自らの足で進み始めるのだ」

 彼らの神を蹴り飛ばし、セプテージは去った。

「殺せ」

 配下のロボットに命じた。

「殺せ、一人残らず」

 失敗作だ。生き残りなどいらぬ。

 悲鳴の声が一気に三倍に膨れ上がり、あっという間に消えた。洞窟の中は水を打ったように静かになった。

 セプテージは目当ての物を見つけた。何かを塞ぐように立てかけられた、大きな丸岩の前まで追い詰めた。

 木の面をかぶった小さな影が、丸石の前で震えていた。背中の後ろに右手を隠し、ぶるぶると震えていた。

「そんなに怯えなくてもよいではないか」

 猫なで声で言うと、セプテージは黄金の腕輪を鳴らした。

「そなたには少し……教えて欲しいことがあるだけだ」

 小さな影が握っていたのは、キラキラと光る紫のゴム紐だった。




 アルスは草地に腰かけ、心地のよい虫の音色に身をゆだねていた。

 フーマからもらった紅い紐を口にくわえ、両手で髪を束ねた。指先を器用に絡ませながら、おさげの真ん中まで三つ編みを作り、紅い紐で縛った。左側にも編み込んだおさげを作ると、頭を振って出来栄えを確認した。

 草花が地面に沈み込む、柔らかな音がした。

 振り返ると、すぐ後ろに、目をくしくしとかいているベルーガが立っていた。

「ベルちゃん」

 小さな女の子が座れるように、アルスは少し右にずれた。

「目が覚めちゃったの?」

「うん」

 ベルーガは水飲み鳥のようにこっくり頷くと、アルスの隣にお尻をついた。

「アルス、きれい」

 彼女はまるで、人魚姫でも見つけたかのように、アルスのおさげを物珍しそうに見ていた。小さな手を伸ばして、ポンポンと弾ませもした。

「んふふ……ベルちゃんもやったげようか?三つ編み」

「ほんとう……?」

 ベルーガは目をキラキラさせた。生まれたての子犬のような可愛さだった。

「うん、おいで」

 アルスは自分の膝を叩いて呼んだ。

 ベルーガはその場でうずうずするばかりで、なかなか乗ってこようとしなかった。

「大丈夫、みんな寝てるよ。ほら、今だけ」

 アルスは唇の前で人差し指を立て、こっそりささやいた。

 ベルーガは安心したように笑い、アルスの膝に飛び乗った。

 その体は風船のように軽かった。




「にひひ、きもちー」

 手ぐしで髪をとかしてやると、ベルーガはきゃっきゃとはしゃぎ、両足をばたつかせた。アルスは時おり、彼女の耳の裏をなぞって、またある時は心を込めて頬を撫ぜてやるのだった。

「こら、動かないで」

 ベルーガは愉快な笑いが止まらないようだった。本物の妹ができたみたいで、アルスは嬉しかった。

「アルス、どこでみつあみ、おぼえたの?」

「どこだったかなぁ……」

 ささくれだったベルーガの髪を、少しずつ束ねながら。アルスはため息をついた。

「私の生まれた時代はね、ネットでなんでもできたの」

「ねっと……?」

「うん。大きなおおきな、海みたいな情報の塊があったんだよ。世界中の人はそこでつながってて、いつでもどこでも、お友達と会えたの……」

 それだけ聞くと、夢のような話だ。

 完全無欠の天国を作り出したのだと、当時の人類は沸いたそうだ。

 いつの時代もそうだ。大きな革新の陰に隠れた闇を、けっして人は見ようとしない。気付こうとしない。蓋をして、閉じ込めて。取り返しのつかない爆弾ができあがるまで、誰も触れないところへ隠してしまう。そうして起きしまった惨事や戦争を、アルスは知っている。

「でも、ほんとは違ったの。なんでもできるって、思い込んでただけなの。クモの巣に引っかかったちょうちょと同じ。縛られて、窮屈になってただけなの……」

 アルスはベルーガの髪を三本により分けた。

「ネットは何も残してくれなかったよ。気付いた時には手遅れで、みぃんな、大事なことを全部忘れちゃってた」

「だいじなこと?」

 ベルーガが少しだけ首を傾け、こちらを見上げた。

 アルスはふと、手を止めて見入ってしまった。


『ねえ、どうしてみんな、私を避けるの?』 


 斜め下から覗き込むその姿が、まだこの世に悪意が存在することを知らない無垢な瞳が、かつての自分と重なったのだ。




『信じられない』『普通じゃない』『この前、猫と話してた!』『気持ち悪い』『おかしい、おかしい』『絶対におかしい』『異常だ』


『人間じゃない』


 アルスは逃げた。

 逃げてにげて、ゴミ溜めの路地裏で拾われた。

 

『やっと見つけた』『これで勝てる』『そんな小さなことを言うな』『そうだ、全人類をサイバー空間に移せる!』『最高だ』『完璧だ』


『まさに神だ!』


『ねえ、どうしてみんな、私を避けるの?』

 アルスはトレンチコートの背中に問うた。ところどころ擦り切れている、ボロボロのトレンチコートだ。飲み残したコーヒーのような匂いがしたが、アルスはこのコートが大好きだった。

『……それは、お前が特別だからだ』

 トレンチコートの主はしわがれた声で答えた。カラカラになるまで絞り切った雑巾を、さらにぎゅっと絞って出したようなしわがれ声だ。

 ボサボサの白髪と、サンタクロースになりかけの白髭をよく覚えている。あの人の見た目はとても怖いのだが、笑うと、とても優しいシワが顔を出すのを、アルスは知っていた。

『特別なのは、悪いことなの?』

 幼いアルスはきょとんと首を傾げ、斜め下からあの人を見上げた。彼女の背丈はまだ、その腰に及ぶほどだった。

『いや……いいことだ。ただ――』

 あの人は少し困った顔をした後、シワだらけの手でアルスの頭を撫でてくれた。

『――お前はみんなより、一歩速く生まれちまったんだ。だから……みんなついていけないんだ』

 アルスは嬉しくなって、撫でられたところを両手で叩きながら、一人でニマニマと笑っていた。

『そっか……でも、一歩なら……みんなすぐ、追いついてくれるかな』

 あの人はまた困った顔をした。コートのポケットに両手を突っ込み、うぅむ、と唸っていた。

『お月さま、知ってるか』

 唐突に、あの人は言った。

『うん』

 あの人に褒めてもらいたくて、アルスは間髪入れずに答えた。

 あの人は目じりを優しく曲げて、人差し指で空を指した。何度も指した。

『今は太陽で見えないが、あそこか――あそこか――あの辺の、どっかに浮いてるんだ』

『え?どこだろうねぇ』

 アルスはおでこに手を当てて、一生懸命お月さまを探した。残念ながら、明るい空ではその姿を見つけることは敵わなかった。

 あの人は愉快そうにぐっぐっと笑い、またアルスの頭を撫でてくれた。

『人類は……誕生してから何万年もかけて、あそこに偉大なる一歩を刻んだ。その間に、正義が生まれ、悪が生まれ、国ができた。何度も法が変わり、世界が変わり、そしてまた、新たな価値観が生まれた。たくさんの人を殺して、自然を犠牲にして、ようやくたどり着いた一歩だった』

 アルスの頭を撫で終えると、あの人は顔の前で人差し指と親指の先を合わせ、Cの文字を作った。

『宇宙全体で見てみろ、地球と月なんてこんなだぞ』

『こんな?』

 アルスはすぐに真似をした。

『いいやもっとちっちゃい。こんなんだ』

『こんなのかな!』

 どれだけ指と指の間を小さくできるか、二人の間でしばらく勝負が続いた。アルスが勝つと、あの人は満足そうに笑った。

『そうだなぁ……いいかアルス、お前の進んだ一歩は、お月さまなんかよりもっと遠い。本当に、本当に偉大なる一歩だ』

 急に真面目な話が始まった気がして、アルスは黙って聞いていた。

『もしかしたらもう、誰も、追いつくことができないような位置に、お前はいるのかもしれない……すまねえな、俺はお前を、お前が死ぬまで、守ってやることができない』

 なぜあの人が謝るのか、アルスにはわからなかった。だって、アルスがみんなと違うのは、あの人のせいなんかじゃないのに。

『でもいつか、お前にも、生まれた理由のわかるときがくる。生きていて素晴らしかったと思える時がくる』

 本当だろうか、本当だろう。

 あの人はいつだって正直だった。

 あの人が嘘をついたことなんて、一度も無かった。

 だからアルスは、心の底から安心して笑うことができるのだ。

『せめてそこまでは……俺が橋渡しになりたいと思っている』

 大きくて暖かいあの人の手が、アルスは大好きだった。




「アルス?」

 瞬きすると、さっきよりも近い位置でベルーガが瞳を潤ませていた。

「大事なことって、なあに」

 絵本の続きをせがむように、ベルーガはアルスの膝をぺちぺちと叩いていた。

 五百年の残像を振り払い、アルスはにこりと微笑んだ。作りかけだった三つ編みをしっかりとよりなおし、コホン、と咳払いした。

「そう、大事なこと。ベルちゃんがお兄ちゃんのこと大好きとか、ソルンがベルちゃんのこと大好きとか、そういうこと」

「ソルン!」

 ベルーガは末弟の名を叫んだ。

 頭を動かさないように我慢したため、肩から下が踊り子のように揺れていた。

「そうかな、ベルのこと、すきかな」

「うん!ソルンはね、ベルちゃんと一緒にいると、お母さんのお腹の中にいるのと同じくらい、安心するって」

「ふぅぅん、へえぇ、えへへぇ」

 ベルーガは自分の頬をぺたぺたと叩き、ニマニマと笑っていた。

 その姿がとてもいじらしくて、アルスは思わず、目の前の小さな頭に手を置いた。

 あの人ほど大きくはないけれど、暖かくもないけれど、あの人がそうしてくれたように、彼女もまた、小さな女の子の頭を優しく撫でた。

「不便かもしれない。無駄なことが多いかもしれない。でもね、手間をかけてね、一生懸命してあげるとね、真心が伝わるんだよ」

 ベルーガは気持ちよさそうに目をつむって、コロニーたちに歓びの歌を贈った。

「大丈夫。私、逢えたよ」

 ベルーガの頭を撫でながら。

 もういないはずのあの人に向かって、アルスはつぶやいた。



「……メルキャップ」

 フーマは作業の邪魔にならぬよう、小声で話しかけた。

「どうした」

 グリーンの瞳を困らせながら、メルキャップは返事した。

「あのロボット……アルスの、何か情報は取れたんですか?」

「おぉ、それなんだがな……よし!できたぞ!」

 メルキャップは工具を握りこみ、手の甲でフーマの右手を叩いた。はじかれたパーツがバチンと元通りにはまり、フーマの右手は、以前にも増して綺麗に、強力になった。

「まずはこのロボットだが、かなり高性能な電池を積んでいた。そして、運のいいことに、電池は傷一つついておらず、まだ健在であることがわかった」

 メルキャップは細長い眼鏡を外し、折り畳み、作業着のポケットにしまった。

 ロボットの傍に近寄り、細長いチューブのようなパーツを取り出した。

「エネルギーを取り出せるようにした。このコネクターをつなげば――何十発でも、何百発でも、撃つことができる」

 フーマは右手を指さされ、手首を見た。そこには、小さな丸い穴が開いていた。

「それだけじゃない、ここからが本題だ」

 メルキャップはチューブのようなパーツを机の上に戻すと、鼻息を荒くした。何度もロボットを撫でた。彼が興奮を隠しきれなくなるのを、フーマは初めて見た。メルキャップはまるで、初めて恋をした男の子のように色めきだっていた。

「このロボットの中には――」



 希望の渓谷は今夜も静かだった。時おり、クロートーチの巨体が風に揺れる以外は。

 アヴィーは早番だったから、深夜にも関わらず起きていた。つり橋を何本も往復し、大事な舟に異常が無いかパトロールしていた。

 闇夜でも少しだけ目が効くのが、この時代の人間の特性だった。

 無論、アヴィーにとってそれはひどく当たり前のことだ。

 だから、懐中電灯や松明の類を持たず、コロニーと月の灯りだけを頼りに見回りを続けていた。

「くぁ……んむ」

 彼女はあくびをかみ殺し、岩の道へと戻った。もう一度最初から回ろうと、要塞の方へ歩いて行った。


「はい!できた!」

 アルスはベルーガの背をぽん、と押した。

 ベルーガは小さな悲鳴を上げて立ち上がった。

「ぅわ、ほんとう?ほんとう?ねえアルス、ベル、どーお?」

「んふふ、とっても可愛いよ、ベルちゃ――」


「――――えっ?」

 アルスは、クロートーチの整備士アヴィーは、自分の目を疑った。

 自分の作業着が、真っ黒に染まっていくのだ。

 色の始まりは胸だ。胸元がオイルをぶちまけたように染まっている。そこからじわじわと、首元へ、肩へ、お腹へと広がって行く。

 息ができない。

 どんなに呼吸しても、息が、空気が、漏れていくのだ。すり抜けていくのだ。

「ぅぅぅん……ぅぇぅぅん……ごゔっ!」


 胸に手をやると、何もなかった。


 背中まで貫通した。


 アルスは自分の胸を鷲掴みにして、その場に倒れこんだ。

「――――ぁはっ!?」

 何者かに胸を貫かれた。

「ぅぅぅぅううううう!うあぁぁぁぁぁあ!」

 経験したことのない痛みに嘔吐し、全身の毛穴から脂汗が噴き出した。

 ベルーガの顔がさっと曇り、彼女は、優しくも駆け寄ってきた。

「アルス、アルス……!?アルス!?」

「あっ……カッ……カカッ……!」

 自分の周りを、体の上を、真っ黒な何かが通り過ぎていく。踏みつけにしていく。おびただしい数で、希望の渓谷を真っ黒にしている。

 誰かに伝えなければならないのに、アルスはもう、いや、アヴィーはもう、声を出すことはおろか、生き延びることもできない。


 岩の道に、血の手形が点々とついていた。

 その後に続くのは、一筋の、しかしとんでもなく太い、血の流れだ。

「ゔ―っ!ゔーっ!ゔゔゔゔ―っ!」

 ロボットの軍団が通り過ぎた後、アヴィーは地を這って進んでいた。傷口からごぼごぼと血を吹き出しながら、歯を食いしばり、あらん限りの力で前進を続けた。

「めっ……めうかあぁっく――!」

 こと切れる直前まで、彼女は戦った。



 放て、警告の炎を。



 ゥゥゥウウウウウウウ!ウウウウゥゥゥゥゥゥ!

 サイレンを聞いた途端、メルキャップが目にも止まらぬ速さでホルスターに手をやった。

 フーマは鋼鉄の扉に突撃し、吹き飛ばした。

「――はぅっ!」

 嘘だ。

 噓だ。

 何かの間違いだ。

 これは悪夢だ!


 あのロボットたちは、コロニーにしかいないはずだ!


「敵襲うぅぅぅぅぅ!」

 喉が張り裂けるほどの大声で叫び、フーマは右手で応戦した。

 真っ白な閃光が洞窟内を照らし、やつらの正体を暴いた。

 滝の音をかき消すほどの大群が、真っ黒なロボットが、要塞を埋め尽くしていた。



「アルス!アルスぅ!」

 ベルーガに体を揺さぶられても、アルスは立ち上がれなかった。

 アヴィーの苦しみがなだれ込んできて、止まらないのだ。

 何十、何百もの痛みが流れ込んでいて、涙が止まらないのだ。

「アルス!おぎでよぉ!」

 ベルーガは泣き叫びながら、アルスの腕を引っ張っていた。

 その後ろに、茂みの中に、緑の光がともった。

 一つではなかった。大群だ。次々とともった。

 緑の光たち木を折り、草を踏みつけ、自然の唄をかき消した。

 茂みを乗り越え、不吉なモーター音とともに、どんどん近付いてきた。

「あ……はぁ……ぁあ……!ダメ……逃げてっ……ベルちゃっ……!」


 その瞬間、アルスはこの世の全てを呪った。

 

 ベルーガの体が宙を舞った。


 風船のように軽かった彼女は――大きな放物線を描き――一瞬、そのまま空へ飛んでいってしまうのではないかとさえ思った。

 コロニー群と、その背後にいる月に、見守られているのではないかと思った。

 あぁ、そんなことはなかった。

 アルスの願いは届かなかった。

 フーマの妹は、決定的な音と共に墜ちた。

「あぁ……」

 情けないことに、こんな事態になって始めて、自分の手足が動くのだ。

 わけもわからないまま、近づいてきたロボットを跳ね飛ばし、アルスは駆け寄った。

 顔を近づけると、ベルーガは耳と鼻から血を流し、変なリズムで呼吸していた。

「ベルちゃん……ベルちゃん……ベルちゃん!」

 名を呼ぶと、ベルーガはくんくんと頷いた。変な方向に曲がってしまった右手を懸命に動かし、ポケットへと差し込んだ。

「アルス……これ……ソルン……」

 出てきたのは、銀紙に包まれた食料だった。彼女が、自分の分を我慢してまで、弟ソルンのために取っておいた食料だった。

「おなか、いっぱい……たべ……」

 アルスはベルーガの手を握り、力いっぱい頷いた。

「うん……うん……!」


 ベルーガは心地よさそうに笑い、目をつぶった。


 自らの半身がもがれるほどの痛みを、魂が張り裂けるほどの悲しみを、彼女は初めて知った。

 血が湧きたつほどの怒りと、存在すら許せぬ憎しみに、彼女は初めて支配された。

 どんな闇よりも重たい感情が、アルスの心臓を握りつぶした。骨を全て焼き尽くした。呪いの言葉が、絶叫へと姿を変えて放たれた。

「うあああああ!あああぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!」

 アルスの背中から七色の虹が噴き出した。天女がまとう羽衣のように波たち、衝撃波となって台地を襲った。

 周囲に集結しつつあったフューラルコミュニケーターが、ベルーガの命を奪ったフューラルコミュニケーターが、一体も残さず灰燼と化した。



 吹き飛んでいく残骸を飲み込むように、次々とロボットが飛び込んでくる。

 フーマはもう一度撃つ。二度、三度と撃つ。

 焼け石に水だ。まるで足りない。

 要塞のあちこちで悲鳴が上がっていた。

 集会場から逃げてきた人たちが、フーマの目の前で腕を引きちぎられ、首を折られ、死んでいった。

「メルキャップ!」

 フーマは指揮官を振り返った。鉄の扉を盾に、古の銃で応戦していた。

「フーマ!家族を連れてシェルターに行け!アルスを守るんだ!」

「メルキャップ!でも!」

 死の軍団はもうそこまで迫っている。決断しなければ自分が死ぬ。自分が死ねば、誰が兄妹を守る?

「あのロボットを失うわけにはいかない!行け!」

 メルキャップは鬼の形相で執務室へ戻って行った。そのすぐ後に、黒いロボットが猛烈な勢いでなだれ込んで行った。

 フーマは踵を返し、兄妹の下へ走った。狭い洞窟をひた走り、上へ上へと昇った。


 そして、目に飛び込んできた情景に、言葉を失った。


 アルスが宙に浮かんでいた。


 背中から、虹を生やして。


 彼女の影が落ちるところには、小さな女の子が横たわっていた。

「ベルっ……?ベルぅ……」

 最愛の妹を、その可哀そうな姿を認めたとたん、フーマは、自分たちが襲われていることも、アルスが人間でなくなってしまったことも、全部忘れてしまった。

 粉々になったロボットの残骸を蹴散らして、声一つ上げないベルーガの下へ駆け寄った。

 ベルーガを撫でてやると、彼女は、髪の毛一本ほどまぶたを開いた。

「ベルっ……!」

 フーマは妹の頬をこれ以上なく優しく撫でた。

「大丈夫だ……兄ちゃんがついてる……兄ちゃんがついてるからな……」

 少しでも不安にならないように、逝ってしまうその時まで、痛みや苦しみに支配されないように、フーマは声をかけた。

 しかし、ベルーガは優しい子だった。

 違う、違うと首を振るのだ。

「ア……アル……ス……」

 その視線の先を、フーマも見上げた。

 見えたのは、アルスの白い足だけだった。後は全部、視界いっぱいが虹で埋め尽くされていた。どんどんどんどん、人のいる世界から離れて行っているようだった。

 フーマは最後の口付けをすると、妹に誓った。

「わかった……!わかった任せろ!兄ちゃんに任せろ……!」

 何度も頷いた後、ベルーガの頭をそっと寝かせた。

 妹に背中を叩かれ、我を忘れた少女に飛びついた。

「ああぁぁぁっ!」

 虹に触れたとたん、左手が焼けるように熱くなった。それでも、意地で食らいついた。

 フーマが肩にぶら下がっても、アルスはぐんぐん上昇していって、台地の上に張られた目くらましの屋根を突き破った。

 上空に出ると、いよいよこの世の終わりのような光景が広がっていた。

 天から見下ろすコロニーたちから、巨大な箱舟が四つも降りてくるのだ。鈴鳴りのようにのっぺりとした、長方形の舟だ。一番短いところでも、数キロはありそうな大きさだ。死が夜を飲み込んで、その真っ黒な色のまま降ってきたのだ。

 アルスが両手を掲げると、空気が異常な振動を始めた。

 フーマは身震いした。

 わかるのだ。

 人智を超えた何かが、フーマの想像を超えた何かがやってくる。


 次の瞬間、箱舟が虹に貫かれた。


「うわっ!」

 フーマの見ている前で、一隻の箱舟が爆発、炎上した。太陽に近づきすぎたイカロスのように、炎をまとって落ちて行った。

 アルスは右手を別の箱舟に向け、虹を放った。

 箱舟はまた爆発した。

「アルス……アルス!」

 アルスの頬を叩いた時、フーマはもうダメだと思った。

 冷たいのだ。まるで死んでしまったかのように。

「アルズぅ……!」

 彼女の瞳は、あんなに優しい色をしていた彼女の瞳は、虹彩や瞳孔の境目がなくなり、七色の虹が、オーロラのようにうごめくだけになっていた。

 アルスはまた両手を振り上げた。空気が振動し始めるのを感じて、フーマは眼下のベルーガに目をやった。力を貸してくれと、妹に祈った。強くつよくアルスを抱きしめ、すがるように叫んだ。

「もうやめろ!やめるんだ!アルス!お前、そんなんじゃないだろ!」

 行かせるもんか。行かせるもんか絶対に。フーマは固く決意していた。たとえ命を懸けてでも、心優しい女の子を人に戻すのだ。アルスの両手から虹が飛び出しても、決して諦めなかった。


「ベルが呼んでるぞ!戻ってこいよおぉぉぉ!」


 引きずり下ろすように力をこめたとたん、アルスの肩からふっと力が抜けた。我に返った彼女の瞳が、地上のベルーガにそそがれ、後悔と贖罪の色がさしたように見えた。

 放たれた虹は大きくそれ、箱舟の上角に直撃した。

 バランスを失った箱舟は、残っていたもう一隻に衝突し、二隻は一緒の塊になって落ちて行った。

 虹は全て消え去り、アルスの体から揚力が失われた。

 フーマは還ってきた女の子を守るように抱きしめ、ベルーガの隣へ落ちた。

「ぐわっ!……うぅぅ」

 左手が燃えている。二人分の体重の下敷きになったせいでもあるが、おそらくそれはだめ押しにすぎない。

 あの虹に触れたところが、真っ赤に腫れ上がり、皮が全部逆剥けていた。骨がきしむように痛み、握ったり開いたりができない。

「アルス……アルス……!」

 アルスは苦悶の表情を浮かべ、死んだように固く目を閉じていた。フーマは右手でアルスの肩を掴み、その体に這い上がった。左胸に耳を当てると、かすかに鼓動していた。

 喜んだのもつかの間、振り向くと、ベルーガの亡骸の周りに、五人の兄妹が呆然と立ち尽くしていた。

 双子は「おねえちゃん、おねえちゃん」と口々に叫び、ベルーガの体をゆすった。クルトはまだわからないのだろうか、姉の顔に抱き着いて、髪を引っ張って、必死に起こそうとした。

 マディックは魂が抜けたように、死んだ妹をただただ見つめていた。

 姉に代わって、ぎゃんぎゃん泣きわめくソルンを抱きかかえているのはロミリーだ。まだ小さな彼女は、何度もなんども弟を抱えなおしながら、何度もなんども鼻先を(そら)に向けるのだ。

「マディック……マディック!」

 フーマは叫んだ。涙を飲み込んで、心を鬼にして叫んだ。

 一斉に生まれるオタマジャクシのように、黒い箱舟の残骸から、無数の小さな翼が飛び出していくのだ。空一面に展開し、こちらに向かってくるのだ。

「みんなを連れてシェルターまで走れ!」

「ベルは……?」

 マディックが唇を震わせているのが、フーマには見えた。

 黒い、コウモリのような舟が何千と飛んできて、腹からまがまがしいかぎ爪を覗かせていた。それが機関銃の銃口であることが、フーマのいる位置からでもはっきりと見えた。

 ベルーガだけではない、マディックも、ロミリーも、ユーマもハルマもクルトもソルンも、みんながハチの巣にされてしまう未来が見えた。

「ここにいたらみんな死んでしまう!頼む!クルトを連れて行ってくれ!」

「ベルは!」

「行くんだマディックうぅ!」

 マディックは悔しそうに歯を食いしばり、姉の亡骸からクルトを引きはがし、双子の尻を蹴った。ロミリーは泣きじゃくりながら、末弟を抱えて走り出した。

 兄妹たちとすれ違いざま、ソルンが今までに聞いたことのない大絶叫で泣いているのがわかった。ロミリーの肩越しに、大好きな姉に、必死に手を伸ばしていた。

 フーマは吠えた。

 空を埋め尽くすコウモリたちに吠えた。

 無力な自分に怒り、何も知らずにだんまりを決め込むコロニーに怒った。

 引き金を引きさえしなければ、無実でいられると思いあがった人間どもに怒った。

「平和なふりしやがって……」

 コウモリたちの機関砲が回り始める。誰も乗っていないのはわかっている。それでもフーマは、その銃口を睨みつけずにはいられない。

「お前たちの事情なんっか知らねえよ……!」

 アルスを抱きしめる右手に力を込めた。無意識の敵意から守るように抱き寄せた。

 それが彼女の心を壊したのだ。フーマたちの生活を、ベルーガの命を奪ったのだ。

「黙ってても明日が来るくせに、なんで遠い世界の出来事みたいにオレたちを見下ろすんだ!お前たちが捨てた地上(地球)で!どれだけの苦しみがのたうち回っているのか!知ろうともせずに生きるなぁぁ!」

 放たれた銃弾に抗うかのように、フーマは叫んだ。右手に残された最後の一撃を放った。白い閃光と黒いコウモリがぶつかり合い、台地の上空で巨大な火球となった。右手一本でアルスを抱え上げ、ベルーガに背を向けた。

 置いてけぼりは寂しいだろうに、それだけはするまいと決めていたのに。

 迫りくる銃弾から逃げることしかできない。

 まだ生きている兄妹たちを守らなければならないと、アルスを死なせてはいけないのだと、そう言い訳してここから去ることしかできない。

 フーマはアルスを引きずりながら、シェルターにつながる洞窟に飛び込んだ。その直後、銃弾の雨が、ベルーガの体もろとも台地を消し去った。

 それだけでは飽き足らないのか、コウモリの腹がパックリと二つに割れ、あの、真っ黒なロボットが卵のようにぽろぽろと産み落とされた。

 ロボットたちはたった一輪のタイヤで着地すると、人が到底歩けないような岩肌を走破し、登ってきた。

 双子が駆け寄ってきて、アルスの両足をそれぞれ持ち上げてくれた。フーマは足を速め、シェルターへと向かった。すぐ後ろを、モーターの音が追いかけてきていた。

 人一人がようやく通れる抜け道を、フーマと兄妹は死に物狂いで走った。

 追いつかれたら最後、命乞いも許されずに殺されるのが目に見えていた。

 地下深くへ潜ると、生き残った人々が今まさに集まっているところだった。何本も枝分かれしている洞窟から、次々に現れた。無数の穴は、一つの大きな入り口に続いていた。

 ここがシェルターだ。滝の裏にあった集会場が六つは入る大きさだ。岩盤の上につぎはぎの鉄板を張り合わせ、強度を上げている。入り口には機械仕掛けの扉が仕込まれており、一度閉じられてしまえば、クロートーチのミサイルでもびくともしない。

「閉じろ!閉じるんだ!」

 シェルターの入り口でオクタコムが叫んでいた。まだ続々と逃げてきているのに、シェルターの扉を閉じようというのだ。

 理由は明白だ。巨大すぎるダンゴムシのように、いくつもの穴からロボットが飛び出してきたのだ。フーマたちの後ろからも、当然来た。

 そこら中で血しぶきが上がり、頭や手がボールのように跳ねまわった。

 シェルター前はパニックに陥った。

 我先にと入っていく人々は、自分が生き延びることで精いっぱいだ。無我夢中で手足を振り回している。フーマの兄妹も巻き込まれ、クルトを抱きかかえたマディックが鼻血を流し、ソルンを抱きしめたロミリーが転げた。双子もアルスの両足を取り落としてしまい、フーマはアルスと一緒に地面に落ちた。

「待て!」

 口に入った砂粒を吐き出しながら、鋼鉄の扉にフーマは叫んだ。

「まだ人がいるんだ!閉じるなぁ!」

 オクタコムと目が合った。しかし彼は、ゴーグルのせいにしてフーマから目をそらした。外道め!という言葉は、ロボットたちの鳴らす電動ノコギリの音にかき消された。

 そんな中をやって来た。

 まるで散歩でもするかのように、優雅な足取りで来た。

 フーマは釘付けになった。

 厚ぼったい唇をグミのようにゆがませ、黄金の腕輪をジャラジャラと鳴らし、血のように赤い爪の先に、紫の髪留めを握っていた。

 バタバタと倒れていく人が、まるで背景のように見えた。女の周りだけ、空間が歪んでさえいた。


「見つけたぞ」


 ぞっとした。

 目の前で命が奪われていることなど、微塵も感じさせない声色だった。

 人としての心を前世に置き忘れてきたのか、そんなことまで感じた。

「お前がぁ……!」

 フーマははじかれたように飛び起きた。ふつふつと湧きあがる怒りで、気が狂いそうだった。シェルターに逃げ込むのも忘れ、黄金の女にむき出しの敵意をぶつけた。

「よくもベルを殺したなぁ!」

「おぉ、お前の役目はもう終わったぞ。よくやった、あとは下がっていなさい」

 女はまるで見当違いな賛辞を述べた。直接胃を撫でられたような不気味さと不快感だった。フーマは二の句が出てこなかった。

「アルスやアルス、そんなところで何をしている」

 女はフーマの怒りにてんで無頓着だった。対岸の火事よりも他人事だった。閉じていくシェルターの扉にも、シェルターに逃げていく人々も、それを追うロボットも、一切合切を無視してアルスに視線を注いでいた。

「どうした、そんなものではないはずだ。足りぬのか?血か?苦しみか?あと何人殺せば、お前は本性を見せるのだ?」

「アルスは人間だ!化け物みたいに言うなぁぁ!」

 フーマは激怒の炎を吐き出した。アルスが一番嫌がっていたことを口にした。それだけで、女の首をねじ切ってやりたいほどの殺意を覚えた。自分の体を壁のごとく大きく広げ、女の視線からアルスを隠した。

 ここにおいて初めて、女はフーマという存在に腹を立てた。大きくため息を吐き出し、黄金のサンダルで地面を踏みしだき、血のように真っ赤な爪で頬をかきむしった。

「そうだ人間だ。類稀なる人間なのだ。だから迎えに来た」

「ふざけるな!お前たちなんかにアルスは渡さない!」

「お前たち(・・)ではない!()だ!私が貴様らを生かしてきたのだ!」

 女の爪が自らの胸に突き刺さった。やつは自分で自分の心臓を鷲掴みにし、生と死を超越した、己の存在価値のみを叫ぶのだ。

 望むところだ。フーマは声を張り上げた。

「違う!オレたちを導いたのはメルキャップだ!」

「神の次はカリスマか?うんざりだ!そうやって貴様らは、どれほどの歳月を無駄にした!」

「無駄なことなんか一つもない!みんなが命を懸けてきたから、今の生活がある!」

「不幸を叫べば助けてもらえると、手前勝手な理屈を述べるな!」

 女はブルドッグのように頬を震わせた。

「反吐が出る!少し手を差し伸べてやっただけで、すべてを許されたと勘違いする愚か者め!やめだ、やめだ、やめだやめだ!」

 今や、女は半狂乱になっていた。漆のように艶のある黒髪を振り乱し、腕輪をやかましく鳴らした。それに呼応するかのように、残りの穴全てからロボットが湧き出した。湯水のごとく湧き出した。女の周りを真っ黒い濁流となって埋め尽くした。あっという間にロボットと人間の数が逆転した。

「貴様にも犠牲をくれてやる!それでいいだろう!」

 バラバラにほつれた黒髪の間から、女が狂気の目を覗かせた。


「死ぬことが名誉なら!」


 ボグッ、という音でシェルター前が揺れた。

 フーマの骨まで響いた。

 ロボットの目が、一つ残らず真っ赤に染まった。

 右の方で人を切り刻んでいた一体が、赤のカメラをこちらに向けた。フーマは瞬きするより早くアルスの両脇に手を差し込み、後ろ向きに引っ張った。

「くそっ!」

 無我夢中で地面を蹴ったが、空回りするばかりで進まない。近づいてくるロボットと、閉じていくシェルターの両方に、フーマは悪態をついた。

「うおぉぉぉぉぉぉ!」

 最後の抵抗と言わんばかりに、フーマは雄たけびを上げた。

 黒いロボットは意に介さず走り続け、手の先についた電動ノコギリの回転数を上げた。

 フーマは刺し違える覚悟で右手を振り上げた。


 小さな穴の一つから、メルキャップが飛び出してきた。


 メルキャップは左の肩に機関銃をぶら下げ、右肩にバズーカを構えていた。左ひざで着地するやいなや、寸分たがわぬ狙いで砲弾を撃ち出した。腰にぶら下げていた手榴弾を引きちぎるように握ると、今しがた自分が出てきた通路に向かって投げた。

 フーマの前髪がノコギリに切り裂かれた瞬間、その持ち主たるロボットがバズーカの砲弾に弾き飛ばされた。後ろに控えていたたくさんの仲間に着弾し、共に大爆発を起こした。

 遅れて手榴弾が炸裂し、酸素を求めて通路から炎が上がった。ロボットの破片と爆炎を背に、指揮官は堂々と立ち上がった。

「来た!メルキャップが来た!止めろ!止めるんだ!」

 指揮官の姿を見て、オクタコムが騒ぎ立てた。シェルターの扉が、人一人分の隙間を残して止まった。

 五体のロボットが一斉にこちらに振り向いた。殺している最中のものは、虫の息になった人間を放り投げて振り向いた。束になって襲い掛かってきた。

 メルキャップが機関銃を放り投げた。

 フーマは右手を伸ばしてそれを掴むと、歯が欠けるのもお構いなしに、口でコッキングレバーを引いた。後ろの方で、メルキャップがバズーカに新たな砲弾を詰めているのが見えた。

「うわあぁぁぁあ!」

 フーマは機関銃を真横に薙ぎ払った。ロボットたちのノコギリがアルスに届く前に、できる限りたくさん撃った。穴だらけになったロボットは、細長い腕をめちゃくちゃに振り回しながらのたれうち、息絶えていった。撃ち漏らした一体は、メルキャップが仕留めてくれた。フーマは爆片に顔を背けた。

 累々と重なった死体の山の中で、まだ動き続ける兄弟の姿があった。

 マディックは獣のように唸りながら、鼻血をぼたぼたと落としながら、クルトを片手で抱きかかえ、もう片方の手で双子の一人、ユーマを引きずっていた。ユーマは泣きながら右足だけで歩いていた。もう一人のハルマは、ロミリーと一緒にソルンを抱え、ロボットの猛追から逃げていた。

 黄金の女に目を戻すと、なんと、女は笑っていた。ほくそ笑んでいた。赤い爪で自分の腕を叩き、頬を叩いていた。

「マディィック!」

 フーマは声の限り叫んだ。

 マディックのすぐ後ろで、黒いロボットが電動ノコギリを振り上げたのだ。メルキャップが腰のホルスターから素早く拳銃を取り出し、放った。ロボットは一瞬だけ体勢を崩したが、すぐに直立し、再びノコギリを回転させ始めた。

「うっ!」

 メルキャップがうめき声をあげ、その場に膝をついた。指揮官は歯を食いしばり、迫りくるロボットに鉛玉をぶち込んでいた。右足から、滝のように血が流れ落ちていた。

 マディックは両目をぎゅっとつぶると、クルトをシェルターの方へ投げ飛ばした。そして、両手でユーマの手を握ると、その場で踏ん張って、弟を放り投げた。

「やめろおぉぉぉ!」

 その背中に、電動ノコギリが振り下ろされるのを、フーマは為すすべなく見ていていた。

 ところが――


 ――突然、左手が大きな力で引きずり込まれる感覚に陥った。


 フーマがそう感じたのは、ほんの一瞬だった。

 彼女の後頭部を見つめた時には、既に、虹に視界を奪われていた。

 洞窟中を地の底から震わすほどの衝撃が走り、爆発と見紛うほどの破壊が起きた。かっ、と目を見開いたアルスが、両手からまばゆい虹を放ったのだ。シェルター前が七色に染まり、その場にいたロボットは残らずはじけた。おもちゃのビックリ箱のように、中身のネジや配線をそこら中にまき散らした。

 虹は瞬く間に消え失せ、アルスの頭が、誰かに殴られたかのように跳ねた。白いワンピースの、その胸元が血で真っ赤に染まった。フーマは、左手が生暖かいものにびっしょりと包まれたのを感じた。

 マディックはその場に倒れ伏し、メルキャップは青い顔をしながらも、黄金の女に拳銃を向けた。

 女は顔の前に手を掲げ、虹の眩しさから目を背けていた。

 その手がゆっくりと降ろされた時、禍々しい瞳が姿を現した。暴力的な生命力で溢れかえっていた。頬が老婆のようにしわだらけになり、舌がヘビのようにチロチロと伸びた。

 女は感激の嵐に支配されていた。

「はあぁぁぁあぁぁぁ……えっへっへっへっへっ……はっはっへっへっへっ……やった!やったっ!」

 だらしなくよだれを垂らし、舌なめずりしながら笑うその姿に、フーマは激しい嫌悪感をもよおした。女の中に渦巻く傲慢さが初めて見えた。ぶくぶくと太り、肥大化した野望は、人類史上の悪人を全て集めても釣り合わないだろう。

 メルキャップが銃を放つと、女は醜い獣のように素早く動いた。

「うひひ!やったっ!やったぁっ!うひひひひ!うひひひひひひ!」

 小さな穴の一つに飛び込むと、ケタケタと笑いながら四本の手足で登っていった。黄金の腕輪のジャラジャラという音が、ありえない速度で遠ざかっていった。

「追うな!オクタコム!けが人の手当てを急げ!」

 メルキャップの声でフーマは我に返った。急いでアルスの顔を覗き込むと、彼女は何度もせき込み、口に溜まった大量の血を吐き出していた。

「んっ……んんっ、んん……ベルちゃっ……ベルちゃん……」

 うわ言のようにアルスは繰り返していた。まるで、名前を呼べばベルーガが飛んでくると期待しているかのように。

 フーマはやりきれない思いで彼女の頬を撫でた。自分だけは泣くわけにいかないと、奥歯を噛みしめて言った。

「アルス……ベルはもう……いないんだ……ベルは……」

「ああぁーっ!あぁーっ!」

 アルスが突然叫び、フーマは突き飛ばされた。

 尻もちをついたフーマが見たのは、両手で顔を押さえ、足をバタつかせながら苦しむ彼女の姿だった。

 アルスは、半分だけ三つ編みになったおさげがちぎれそうになるほど、頭を振り乱していた。

「アルス!どうしたんだ!アルス!アル――」


 フーマは言葉を失った。


 アルスの瞳がまた、虹と同じ七色に輝いていたから。


「見えない……見えない……何も見えないよぉ……フーマぁ……!」

 アルスはわんわん泣きながら、両手をさまよわせていた。

 虹の力が、彼女の中の何かを、永遠に戻らないところまで壊してしまったのだろうか。

 今や、瞳から流れ落ちていく粒まで、病的なまでにカラフルな色をしていた。

 フーマは膝から崩れ落ちた。恐るおそる右手を伸ばし、彼女の手を取った。野兎のように震えるアルスの手を、優しく、優しく包み込んだ。


 何が救世主だ。


 何が予言。


 そんなものに踊らされて、彼女を目覚めさせた結果がこれか。

 彼女を苦しめること以外に、自分に何ができた?

「大丈夫だ……大丈夫……大丈……っとぇ――ごめんな……ごめんなぁ……」

 声をかすれさせながら謝った。絶対にこぼすまいと閉じたまぶたが、焼けるように熱くなった。フーマは、声をかすれさせながら謝った。

 アルスはたがが外れたようにびーびー泣いた。

 彼女の手がむさぼるように伸びてきて、背中をかきむしるように抱きしめられた。

 それでも、フーマは痛いとも苦しいとも言わなかった。ベルーガを死なせてしまったという彼女の後悔が、人ではなくなってしまうという彼女の恐怖が、痛いほどよくわかったから。

 フーマは彼女の背中を優しく撫で、優しく叩き、少しでも安心できますようにと祈った。

「誰か……!手を貸してくれ!」

 フーマはシェルターに向かって助けを求めた。

 誰もが恐れおののいていた。

 シェルターから出てきた人たちは、けが人の救護も忘れ、アルスのことを凝視していた。人ならざる姿となった彼女を、まるで怪物でも見るかのように、怯えた表情で見つめていた。

 フーマは叫び出したいのをぐっとこらえた。

 お前たちも一緒じゃないのか。

 その言葉を、腹の奥深くに飲み込んだ。

「行こう、アルス……大丈夫だ、オレがいる」

 たとえ、もう見えなくたって。フーマはアルスに笑いかけるのだ。

 置いてけぼりは寂しいから。

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