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第四章 我が家

 メルキャップは薄い肌の白人で、ブロンドの髪をさっぱりと短く切っていた。もみあげから続くあご髭もブロンドで、瞳はグリーンで、とてもセクシーだった。背はさほど高くないが、がっちりと筋肉質で、全身を迷彩の作業着に包んでいた。

「オクタコム」

 メルキャップはゴーグルの男の肩に手をかけ、嵐のように猛々しく言った。

「君は正しい。我々は戦争をしている。それは、どうあってもきれいごとでは片付けられない」

 オクタコムはゴーグルの奥でニタリと笑った。

 メルキャップはすかさず付け加えた。

「だが、彼女の言うことも正しい。いかなる理由があろうとも、部下に手を上げてはならない」

 メルキャップはアヴィーの方に向き直ると、海のように穏やかに言った。

「ありがとう、クロートーチの整備士、アヴィー。君のおかげで、我々は早急に作業を切り上げ、戻ることができた」

 アヴィーは感激の眼差しでメルキャップを見上げると、敬礼をしてから去っていった。

 オクタコムはゴーグルの側面についたダイヤルを回し、アヴィーの後姿を嫌味のように追っていた。

「申し訳ありません。旗艦アーサー以下、我が搭乗機、スサノオを含め、四機を喪失。最も優秀な観測手、コルベットも失いました」

 フーマが報告した。壊れた右手で敬礼したまま、よどみなく言い切った。

 メルキャップはグリーンの瞳を輝かせ、フーマの肩を叩いた。

「詫びることは無い。スサノオの操舵手、フーマ。貴官の命は百隻の舟より重い。よく戻った」

「はい……!」

 フーマの目には感動の涙が浮かんでいた。

 メルキャップの視線がこちらに注がれた。とたんにアルスは、胸の奥がじいん、と震えた気がした。

 その場にいた全員が、指揮官の口から発せられる言葉を待ちわびていた。

 メルキャップは集会場にいた人々を一人残らず見渡して、その期待を一つ残らず吸い込んだ。ブロンドの髪を勇ましく揺らし、次のように言った。

「聞いての通りだ!彼女が我々の探していた救世主なのか、まだその確証はない。だが、この五百年!誰が人類を救出することができただろうか!?鈴鳴りの猛攻をかいくぐり、コロニーの守りを突破し、帰ってこられた者がいたか!?……いなかった!ただの一人も!」

 集会場はしいん、と静寂に包まれ、皆が皆、メルキャップの言葉をむさぼるように聞いていた。彼の言葉はハチドリの羽ばたきより早く浸透し、クジラの起こす波より大きく人々を包み込んだ。

「我々は一人の人間を救出し!そして、最も優秀な操舵手を失わなかった!その事実は揺るがない!この五百年で誰も成し得なかったことを、ついに実現したのだ!下を向くな、上を見ろ!宇宙(そら)に囚われた同胞を救い出せる日は、すぐそこまで迫っている!」

 一部で、そうだそうだ!という声が上がり、それに賛同してさらに多くの声が吠えた。

 メルキャップは重々しく頷き、片手を上げて応えた。

「私は!彼らは!みなの助けを必要としている!どうか今一度、人類救済のため、力を貸して欲しい!」

 人々はメルキャップの演説に拍手喝采した。口笛も鳴った。

 アルスの存在を疑っていた人たちも、十二分に満足した顔になった。

「持ち場に戻れ、義務を果たせ、メルキャップの手となり、足となり働くのだ!」

 オクタコムが指示を飛ばしても、みな嫌な顔一つしなかった。口々にメルキャップをたたえ、大人たちはそれぞれの持ち場に、子供たちは遊戯に戻って行った。

 人払いを終えると、メルキャップは静かに振り向いた。

「遠いところからよく来た。話を聞こう」




「私はメルキャップ。彼らを導いている」

 メルキャップは自らと、自らが作った要塞を案内してくれた。フーマとオクタコムは、黙って後ろをついてきていた。

 集会場を抜けると、洞窟はさらに巨大に広がっていた。アルスはその異質さと巧妙さに舌を巻いた。不思議の国に迷い込んだアリスのように、きょろきょろと首を回しながら歩いた。

 大地の一族の洞窟と、未来感溢れるコロニー、それらをごちゃごちゃに混ぜたような景色だった。

 高さが無い代わりに、横に広く、平たんな洞窟で、真ん中を貫く通路の周りに、岩肌をくりぬいていくつもの部屋が作られていた。壁の中には様々な機械が埋め込まれていて、赤や青のランプを光らせたり、真っ白な煙を吐き出したりしていた。

 大きな機械をいじる男たち、銃器のようなものを組み立てている女たち、集会場で走り回る子供たち。そこにフューラルコミュニケーターの姿はなく、ここではまだ、人は自らの意思で生きているのだと実感できた。

 要塞の人々はみな、フーマと同じ浅黒い肌をしていた。アルスはすぐに、それがススや泥のせいなのだと気付いた。なぜなら、彼らの虹彩はだいたい鮮やかなブルーかグレーで、大きさが軒並み小さかったからだ。よくよく見れば、みな、絹のように白い肌を持っていた。五百年前のように、多種多様な肌色ではないのだ。

 平均身長も五百年前とは違った。冬眠中に自分の背が十も二十も伸びてしまったのかと、アルスが勘ぐるほどだった。大地の一族の大きな影に匹敵する大男もたまに見かけたが、片手で数えるほどだった。男も女も作業着を着て、子供たちはボロボロのリメイクを頭からかぶっていた。

「純粋な人類は珍しいかね?」

 メルキャップの声がして、アルスは慌ててきちんと歩きなおした。彼らは動物園のパンダではないのだ。

「はい、いえ……」

「笑えないことに、実際、珍しくなってしまった」

 メルキャップは深刻な顔で言った。

「ここには八千と五百の人が住んでいる。居住環境は……見ての通り、いいとは言えない。洞窟を広げるには限界があるのだ。現在の全長は約二十キロ、地下には有事の際のシェルターもある。だが、これ以上掘れば崩れかねない。ありがとう」

 メルキャップは道行く人に謝辞を述べた。彼はそうとうな人気者で、すれ違うたびに誰かに褒められ、感謝された。

「あなたたちが戦うのは、住処を広げるため?」

 アルスは人々の熱気に負けないよう、語気を強めた。

 なにせ、男たちはしきりに助言を求めてやって来るし、若い女性などはたいてい、きゃあきゃあ言いながらメルキャップを指さすのだ。

それもある(・・・・・)。五百年間、我々は太陽の下を歩くことはおろか、満足に拝むことすらできていない。コロニーの監視から解放されることは、地下に住む者全員が切望してやまない。だがね、アルス。私は、それよりもはるかに重要なことがあると思っているのだよ。それこそが、私が皆を導き、戦い続ける、唯一にして絶対の目的なのだ」

「目的……?」

「にぃぃぃいちゃぁぁぁああん!」

 アルスの疑問符は、甲高い悲鳴によって遮られた。

 要塞の奥から、小さな人影が土埃を舞い上げながら走ってきたのだ。一つではなく、三つも四つもあった。

 先頭にいるのは双子だった。二人とも、フーマをそのままちっちゃくしたような男の子だった。

「にいちゃん!」「にいちゃん!にいちゃん!」

 二人はフーマの膝に飛びついて、長兄を転ばせた。

「だー!待てって!こら!」

 フーマはかんかんに怒りながら顔をほころばせていた。オクタコムがわざとらしく咳払いをした。

「こら!兄ちゃんが困ってるだろ!」

 少し遅れてやってきたのは、双子よりも一回り大きいフーマだった。

「マディック!」

 フーマは上半身だけ飛び起きて、左手でマディックの頭を乱暴に撫でた。マディックが嬉しそうに顔を歪めたので、双子が抗議の声を上げた。

 男の子たちの到着から三十秒、きちんと歩いてやってきたのは三人の女の子だ。

 真ん中にいた女の子はアルスの腰くらいの背丈で、両手に妹を連れていた。少し大人びた様子で、フーマの到着にもどこか冷めた目をしていた。

 右手側の女の子はぼけっと自分の頬を搔いていたが、フーマの姿を認めたとたん、パッと手を離し、駆け出した。

「おにい!」

「おーっ!ロミ!」

 フーマはガパリと口を開け、サンタクロースのように朗らかに笑った。

「あっ!まって!クルもっ!」

 左手側の女の子が、姉に遅れまいと飛び出した。しかし、整地の行き届いていない洞窟で足をもつれさせ、盛大にこけた。要塞の中はとたんに泣き声でいっぱいになった。

「大丈夫?」

 アルスが起こしてやると、女の子はパタリと泣き止んだ。

 目をまん丸にして、おちょぼ口をぽかんと開けて、こちらを見ていた。アルスは彼女のお腹についた泥を払ってやった。

「誰……?兄ちゃん」

 聞いたのはマディックだ。やはり、ぽかんと口を開けていた。隣では双子も同じことをしていた。

 フーマは得意げに笑うと、ロミの頭を撫でながら立ち上がった。ロミはフーマの足にしがみついて、顔を半分隠してしまった。

「あの子はアルス。兄ちゃんを助けてくれたんだ」

 アルスは肺の中が暖かい空気で満たされ、血液が熱を持って巡るのを感じた。嬉しくなってフーマを見ると、彼も同じように目を輝かせていた。

「おにい、アルス……てんしみたい……」

 フーマの足に隠れたまま、ロミがポツリと言った。

 双子の間に電撃が走ったのを、アルスは見た。

「天使ぃ……?ふっ……はっはっはっ!あー、そうかもな、アルスはなぁ、遠いとおいところから来たんだ」

 フーマは足元のロミを見て、大きな声で笑った。

 マディックが顔を真っ赤にして黙り込み、アルスの目の前にいた妹は逃げるように兄たちの下へ駆けていった。

「てんし」「てんしだっ」

 双子は壊れたからくり人形のようにそれを繰り返した。

 フーマやその兄妹を見て、メルキャップは愉快そうに笑った。周りにいた人もみんな笑った。オクタコムですら、その仏頂面にほんのりと赤みをさしていた。

「君は一度、コロニーに収容されているね?そこで何を見た」

「それは……」

 アルスは口ごもった。

 メルキャップはもう笑っていなかった。グリーンの瞳は、刺すようにこちらを見ていた。

 彼の視線から逃れるように目をつむった。

 まぶたの裏にこびりついていた。

 美男美女しかいない世界。笑顔しか存在しない世界。完璧な世界。

 人の意志が、存在しない世界。

「あれは、牢獄です」

 口にするのもはばかられるほど、おぞましい。

「恐ろしいほど手入れが行き届いて、文句のつけようがないほど幸福な牢獄です」

 背後から忍び寄った暗殺者に寝首をかかれたとしたら。

 ひどく静かに、残酷なほど冷たく。

 その時人は、死んだことすら理解できずにこと切れるだろう。

 アルスの言葉を、フーマの兄妹は怯えたように見上げていた。

「その通り。あそこにいる人たちは、AIの言うことを信じて、AIの言う通りに日々を過ごす。そういう風に育てられる。個々の意思など認められず、生まれたその瞬間に、死ぬまでの道筋がすべて決められる。あれでは、生きたまま棺桶に閉じ込められているのと同じだ」

 アルスは合点がいった。

「それこそが私の目的だ。わかってくれたかな?」

 人が、人であるからこそ。

「コロニーに囚われた人々を開放し、在りし日々を取り戻す」

 人が、人であるために。

「人の尊厳を取り戻すために」




「えぇ~!兄ちゃんはぁ!?」

「兄ちゃんは大事な話があるの!すぐ戻ってくるから!」

 兄妹を代表して駄々をこねるマディックに、フーマが返したのは少しばかりひどい仕打ちだった。鋼鉄の扉をピシャリと閉めたのだ。

 アルスが招かれたのはこぢんまりとした部屋だ。メルキャップの執務室だそうだ。岩をくりぬいた部屋を、機械や鉄板で仕切っていて、部屋の奥だけ岩肌が露出していた。

「座ってくれてかまわないよ」

「はい……」

 アルスは壁際に立つフーマに助けを求めた。

 フーマが笑顔で頷いてくれたので、背負っていた白い袋を、目の前の机にそっと下ろした。

 机は固い金属製で、錆だらけだった。できる限りそっと置いたが、FO―01の亡骸は甲高い音を鳴らした。

 アルスは金属でできた椅子を引き、腰掛けた。座面まで金属だったから、お尻がひんやりとした。お行儀よくしなければ、と思い、両手を膝の上で重ねた。

 メルキャップは部屋の奥でごそごそやっていた。アルスの位置からだと、その背中で手元が見えなかった。彼の周りには、小さなベッド(これも金属製だ)や、壁際にめちゃくちゃに積み上げられた無線機があった。

「お待たせしたね」

 メルキャップの手に、錆びついたマグカップが二つ握られていることにアルスは気付いた。急いで白い袋を横の方にずらした。

「すまない、コーヒーしかなくてね……それは?」

「私を案内してくれたロボットです。最後は他のロボットから守ってくれて、それで……」

「なるほど、勇敢だったんだね」

 メルキャップは左手のマグカップをアルスの方に置き、右手の方はそのまま口元へ持って行った。彼がコーヒーの苦みとFO―01の悲劇、どちらに顔をしかめたのか、アルスにはわからなかった。

「さあ、いや、飲んでくれ。お口に合うといいが……」

 アルスは目の前に置かれたマグを両手でとり、すん、と匂いを嗅いだ。

 まだ子供だった彼女にとって、コーヒーという飲み物はそう何度もお目にかかるものではなかった。

 だが、あまりいい匂いではない気がした。

「質は落ちるだろう。昔と違って、満足のいく栽培はできていない。これは近くで野生化していたものだ」

 メルキャップは苦笑いしながらコーヒーをすすった。

「これは生きていくために必要なものではない(・・・・)。だが私は、人間は人間らしい生活をするべきだと思っていてね……つまり、文化的な。我々は動物ではない。自ら考え、自ら正しいと思ったことをする……そして、最高に無駄なことをして楽しむのだ」

「わかります……」

 アルスはマグから唇を離し、机の上に戻した。

「フーマからはどこまで聞いているのかな?」

 メルキャップはさっそく本題に入った。

 アルスは舌先がピリピリと痺れるのを感じた。コーヒーを飲むような気分ではなくなった。

「予言のことくらいです。『彗星と同じ百年の周期で、白き装束に身を包んだ少女が、虹の彼方より訪れる。彼女は――――人類を導く、救世主となるだろう』……あとは、コロニーの人たちを助けるために、代々戦い続けてきたって。それだけです……」

 メルキャップは壁際に立っているフーマを一瞥した。

 フーマはバツが悪そうにうつむいていた。

「フーマ」

 メルキャップはブロンドの眉毛を片方吊り上げ、壁際のフーマを呼んだ。

 フーマは、はい!と元気よく返事した。

「彼女がそうではないと、確信が持てない理由はなんだ?」

「いえ……その……私には判断がつかず……メルキャップにと……」

 フーマはハリネズミのように小さくなり、もごもごとつぶやいていた。一瞬だけ目が合ったが、すぐにそらされてしまった。

 代わりに目が合ったのはオクタコムだ。彼は、それまで一切合切黙っていたのに、水を得た魚のように意気揚々としゃべり出した。

「もし本物なら、よくやった燃える右手よ。五百年もの永きに渡る戦い……ついに我らは、救世主を手中に収めることができた!」

「オクタコム、その言い方はやめなさい。彼女はものではない。一人の人間だ」

 メルキャップはすぐにオクタコムをたしなめた。少し怒っているようでもあった。ゴーグルの下でニヤニヤと歪んでいた唇が、恥じ入るように真っ直ぐになった。

「もちろん、気になるところではある」

 手の中のマグカップをぐるりと回し、メルキャップは言った。

「今回の作戦で戻ってこられたのは彼だけだ。だが、彼の他に、七人の精鋭が出撃している。ハルート、ノイマン、ジグショー、ロッツ、ワン、ヴェンタック、コルベット……私は全員の名前を憶えているよ。命をかけた彼らに対する、最低限の礼だからね」

 アルスはだんだん、確信に近づいていくのを感じていた。

「だから聞きたい」

 それはやはり、重たいおもたい期待だった。

「君は、我々が探していた救世主なのか?」

 執務室にいた者全員が静まり返った。

 八千と五百分の希望、五千と五百のコロニーに囚われた魂たち。両肩に乗った重りに押しつぶされて、アルスは小さくちいさく背中を丸めた。

 真っ黒なコーヒーに吐き出すように、言葉を紡いだ。

「……ごめんなさい」

 メルキャップは何も言わなかった。

 きっと、失望しているのだろうと、アルスは思った。

 実際、オクタコムからは期待外れの冷気が漂っていた。

「私、わからないんです。コロニーでも似たようなことを言われて……」

 アルスは胸に手を当て、訴えた。胸の奥に刺さった、大きなおおきな氷柱(つらら)を溶かしていくように、誰に言えばわからない不安を、少しずつ、少しずつ告白していった。

「予言ってなんなんですか……?私、聞いたこともなくて……私は五百年前、ある人に助けられて、宇宙に逃がされました。それだけの人間です。私一人では、生きていくこともできない。そんな、ちっぽけな人間です。ここまで来られたのだって、全部フーマのおかげです。私は、それくらいの人間なんです」

「自分に悲観するのはやめなさい」

 メルキャップは人差し指をたて、厳しい口調で言った。

 そんなところを怒られるとは思わなくて、アルスはびっくりした。

「私は、フーマこそ、君なくしては帰ってこられなかったと思っているよ。君がいたからこそ、彼は諦めることなく、迷うことなく、ここまで帰ってきたのだ」

 メルキャップは子供に言い聞かせるように、一言ひとことを噛みしめ、しっかりと言った。

 壁際に立っているフーマが、猛烈に頷いていた。

 アルスは冷え切った心がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。

「いつの日か彼らと、コーヒーの味で意見を交わしてみたいものだ」

 茶目っ気たっぷりに言うと、メルキャップはマグに残ったコーヒーを飲み干した。

「救世主でないということを、君が謝る必要はない。恥じる必要も。みんなには私が説明するし、責任はすべて私にある。疲れただろう、まずはゆっくり休まなければ……オクタコム」

 オクタコムは何も言わずに頷き、鋼鉄の扉へ近づいて行った。

「フーマ、君の兄妹に案内を頼みたい。とりあえずは、君のところへ」

「え!はい!もちろんです!」

 メルキャップは深く頷き、アルスに向き直った。

「すまない。ここはあまり広くなくてね、君専用の部屋が用意できないのだ」

「いいえ、そんな……ありがとうございます」

 アルスは笑顔で頭を下げ、立ち上がった。

 FO―01を連れて行こうと、その亡骸に手を伸ばした時、メルキャップが伏し目がちに言った。

「アルス……もし君さえよければ、少し見せてくれないか。基盤が生きていれば、コロニーの情報が取れるかもしれない」

 アルスは一抹の不安とともにフーマを見た。

 フーマは左手をサムズアップさせ、頷いていた。

「わかりました……でも、約束してください。最後は必ず、私に返すって」

 アルスははにかんで、白い袋をメルキャップに渡した。自分の命を他人に預けるようで、とても緊張した。

 メルキャップは力強く頷いた。

「もちろんだとも。フーマ、代わりにここへ。君からも話を聞きたい」

「へっ!?オレですか?あっはい!すぐ!」

 一緒に出入り口に向かって歩いていたフーマが、ほとんど滑りながらその場で回転した。

 慌てたようにドアの外に顔を出して、そこにいるであろう弟たちに何かを早口でまくし立てた。

 アルスが外に出ると、兄妹たちがフーマを取り囲んでいた。

「うん!わかった!」

 一番大きなマディックが、合点承知とばかりにガッツポーズをしていた。

 アルスは愉快な気持ちになって、彼に笑いかけた。

「よろしくね」

 マディックは目をまん丸にして固まった。彼の中に芽生えた感情に気付いて、少し気恥ずかしかった。




「みんな、いい子にするんだぞ!」

「「「はぁい!」」」

 五、六歳くらいの子たちが揃って返事した。

「行くぞ!びゅうん!びゅうん!」

「あ!ずるい!にいちゃん!おれも!」

「おれも!」

 ちっちゃなフーマたちは我先にと走り出してしまった。後ろの方で、フーマが怒って拳を振り上げていた。

 小さな衝撃を感じて視線を落とすと、一番大きな女の子に、スカートのすそを引っ張られていた。

「おねえちゃん、こっち」

「うん、ありがとう」

 アルスはフーマやメルキャップに手を振って、子供たちについて行った。




 フーマの弟三人は早急に姿が見えなくなってしまった。アルスは妹三人に囲まれて、要塞の中を歩いて行った。

「それでね」

「うん」

「マディックがいちばんおにいちゃんなのに、ソルのおせわしてくんないの」

 歌うように話してくれたのは、ロミリーという子だった。そばかすが可愛い女の子だ。彼女はよく自分の頬をかいていた。

「だからね、ベルがぜんぶやったげてんの!」

 ロミリーは、見て欲しくてたまらない!という表情で自分の姉を指さした。

「そうなんだ、お姉ちゃんすごいねぇ」

 アルスはベルと呼ばれた子に微笑んだ。本当はベルーガと言うそうだ。勝気な目をした少女で、アルスの笑顔にも、つん、と鼻先を上げて応えるだけだった。

 彼女の両肩には、おんぶ紐がきつく食い込んでいた。巨大な白菜ほどある赤ん坊を、じっとこらえて背負っているのだ。健気な姿を見ているだけで心が苦しくなった。

「大丈夫?私が代わりにしょったげようか?」

 ベルーガは首を振って遠慮した。

「わたしじゃなきゃ、ないちゃうの」

 彼女は小麦色の髪を、頭の横で一つにまとめていた。それは、弟の顔にかからないようにするためなのだろう。おかげで、末弟は口からよだれを垂らし、くうくうと寝ていた。

「そっか」

 ちょっぴり残念な気分で、アルスは頷いた。

「ロミもおおきくなったら!ベルのおてつだいするの!」

「ん~!クルもするー!」

 ロミリーと、ロミリーよりさらに一回り小さいクルトが、競い合うように宣言した。

 ベルーガは妹たちにはニコニコと笑みを見せた。彼女がスカートの裾をずっと掴んでいることを、アルスは絶対に口外しなかった。




 洞窟の先は細かく枝分かれしていた。兄妹は上に登る道を選択し、アルスもそれについて行った。

 洞窟を抜けると、ささやかな台地に躍り出た。男の子たちは陽の光の中、無邪気に走りまわっていた。

 もちろん、青空もコロニーも見えていたから、アルスは心配になった。

 しかし、ベルーガにスカートを引かれ、渋々太陽の下へついていった。

「あっ」

 見上げてみてわかったのは、台地の上空に、薄っすらと幕のようなものが張っていたことだ。細長い、透明なプレートをいくつも重ねたような造りをしていて、アルスはそれが、自分たちが乗ってきた脱出ポッドの蓋と同じものだと気付いた。

 アルスはベルーガに引かれ、ふかふかの草地に腰を下ろした。

 妹二人は細長い野草を集めてきて、小さな手で器用に編み込んでいた。アルスのために冠を作ってくれるのだそうだ。

「ロミはねぇ」

 ロミリーはまた、歌うように言った。

「おおきくなったら、メルキャップのおよめさんになるの!」

「わたしも!わたしも!」

 クルトはなんだってお姉ちゃんと一緒がいいのだ。実際、二人は同じように髪を結っていた。ベルーガと反対の方向にサイドテールを作っているのだ。

「そうなんだ、でも、二人もいっぺんには難しいんじゃない?」

「ぅぅん!そんなことないよ!」

 ロミリーはイーッ、と黄色い歯を見せた。

「メルキャップはねぇ、いまはおくさん、六にんなだよ!」

「えぇっ!?そんなにいるの!?」

 アルスは腰を抜かした。妹たちの様子を微笑ましく思っていただけに、受けた衝撃はなおさらだった。五百年前にはなかった貞操観念だ。

 末弟を地面に下ろしながら、ベルーガが付け加えるように言った。

「みんな、メルキャップがだいすきなの。メルキャップのおかげで、おうちもおっきくなって、ごはんもたべれるようになったの。おひさまのしたではしれるのだって、ぜんぶメルキャップのおかげ。おんなのこはみんな、メルキャップとけっこんしたいっておもってるの」



 フーマは一人、メルキャップの執務室に残されていた。

 緊張する。

 フーマにとってメルキャップとは恩師であり、父のような存在であり、また同時に、強い憧れの対象でもあるからだ。

 だから、ひどく緊張する。

 金属の椅子に腰掛け、膝を子気味に震わせた。

 アルスの残したコーヒーに、たくさんの波紋が浮かんでいた。それを見ていると、自分の不安までどんどん増えていくような気がした。

 メルキャップが戻ってきた。コーヒーを淹れなおしたのだ。フーマはより一層かしこまった。

「フーマ、まずはよく帰ってきた。繰り返しになるが、本当によかった」

「あ、ありがとうございます!」

 フーマはカチコチになって答えた。

 メルキャップは椅子の上で足を組み、腕を組み、手で口元を覆った。

「なぜ彼女に、本当の予言を伝えなかったんだ?」

 フーマはぎくりとした。額に汗がにじみ、膝の上に落ちた。

 メルキャップは刺すような目をしていた。喉がカラカラになって、まともに動かなかった。

「それは……」

 フーマの心臓が激しく動悸し始めた。誰かが体の中に入ってきて、激しく非難しているようだった。

 メルキャップは言った。フーマの息苦しさを見抜くように、厳しく言った。

「それは彼女が、本物の救世主ではないかと、そう思う節があったからではないのか?」

 フーマは瞳を閉じた。

 今でも脳裏に焼き付いている。現れては消え、現れては消える地球、はじけ飛んだ黒い棺桶、虹のような七色の光、力強い瞳、神も、仏も、運命さえも信じない、力強い瞳。

「オレは……アルスの力を見ました……アルスは、覚えてないみたいですけど……」

 消え入るような声で、フーマは言った。

 メルキャップは詳しく知りたがった。言葉こそなかったが、彼の目がそう言っていた。

 フーマは後ろめたい気持ちになって、明言を避けた。

「すごい力でした。人間があんな力を持っていていいのかって、不安になるくらいの……」



 ベルーガは弟の両手を握り、優しく揺らしていた。

 そして突然、思い出したようにつぶやいた。

「でもわたし、おにいちゃんのほうがすき」



「でも!」

 フーマは大声と共に立ち上がった。自分でもびっくりするほどの声量が出た。金属の椅子が出入り口の方へ転がっていって、鋼鉄の扉と激しく喧嘩した。

 メルキャップのグリーンの瞳を見ていると、くじけてしまいそうだった。

 それでも、心を奮い立たせた。

 フーマはもう一つ覚えているのだ。洞窟の中で、くしゃくしゃに顔を歪めているアルスを。生身で鈴鳴りを止めるほど強い彼女が、ロボットに涙するほど優しい彼女が、あんなに小さくちいさくなったのを。

「アルスは嫌がってました。自分が他と違うことを、死ぬほど嫌がってました……!あんなに怯えて、苦しそうで……いったい、どれだけひどい目にあったんだろうって……神様みたいな力を持っていても、アルスは女の子なんです。まだ大人にもなってない、一人の女の子なんです。オレたちが戦争の道具にしていい子じゃない」

 彼女にあんな顔をさせたのは誰だ。

 彼女をあそこまで追い詰めたのは誰だ。

 フーマの中にあったのは、名前も顔も知らない、五百年前の人々に対する怒りだ。骨の髄まで燃えるほどの、激しい怒りだ。

 人類の英知はどうした。手に入らないものなどなかったのではないのか。

 進化の絶頂にあっても人は、傷つけることをやめられないのか。

 ならば、退化の一途をたどる我らの行きつく先はなんだ。

「オレはアルスを死なせたくありません。できることなら、温かくて優しい世界に、返してやりたいんです……!どうかお願いです!アルスを戦場に……戦場にだけは連れて行かないでください!」

 気付いた時、フーマは机に両手をついて、メルキャップの顔にあと少しというところまで迫っていた。あと一言余計に喋っていたら、フーマはきっと、指揮官の鼻にかぶりついていたころだろう。

「すいません……オレ……」

 恥ずかしくなって、フーマは左手で頭をボリボリとかいた。

 メルキャップは笑わなかった。否定もしなかった。

「強くなったな、フーマ」

 彼が口にしたのは賛辞の言葉だった。

「君は正しい。我々は少々……予言に固執しすぎていたようだ。たった一人の少女に頼らねばならない時点で、負けを宣言したも同然だ。勝利とは、自らの手で掴み取らねば意味がない」

 フーマは驚いて飛び上がった。肝が冷えた。恐れ多くて死にそうだった。

 なんとメルキャップが、立ち上がり、手を差し出してきたのだ。

「ありがとう、スサノオの操舵手、フーマ。君は私に、大切なことを思い出させてくれた」



 弟をあやしながら、ベルーガは楽しそうに言った。

「おにいちゃんね、ベルにたくさんたべさせてあげるって、いつもたくさんごはんもってきてくれるの。ごはんはね、たくさんおしごとして、たくさんかつやくしないともらえないの。だからベル、いつかおにいちゃんのおよめさんになって、おにいちゃんをたすけるの」

 アルスはベルーガの横顔を見つめた。

 まだ十歳にもなっていないのに、彼女の肌はざらざらだった。一番大きな弟――やんちゃな男兄弟を先導して走りまわっているマディックを見ると、彼も、男の子にしては線が細かった。

 フーマから弟へ、弟から妹へ、妹はさらに弟へ……きっとそうやって、彼らは助け合って生きているのだ。フーマの言っていたことが、今になってようやく、本当の意味で心に染みた。

「できたーっ!」

「わたしも!」

 ロミリーとクルトが、ほとんど同時に叫んだ。ロミリーの手には立派な草の冠が、クルトの手にはぐちゃぐちゃになった草の塊が握られていた。

「わあ!すごい!見せてみせて!」

 アルスは二人の女の子を分け隔てなく褒め讃えた。

 二人は目をキラキラさせて、出来上がった冠を持って来た。

「はい!あげゆ!」

「クルも!クルのも!」

「わっ、くれるの?ありがとう!」

 アルスは首をすぼめて、二人の手が届くようにしてやった。ロミリーの草冠は見事にぴったりのサイズだった。クルトの分はその内側に引っかかるようにして乗った。

「うふふ……どうかな?」

 バランスを取りながら頭を傾けると、ロミリーとクルトは大はしゃぎで喜んだ。

「すごーい!」

「アルス!おひめさまみたい!」

 遠くで走り回っていたマディックが、騒ぎを聞きつけて立ち止まった。彼を追いかけていた弟たちがその背中に激突した。

 しかし、誰一人泣き泣き言や文句を言わず、みな、惚けた顔でアルスの方を見つめていた。

「うーあー!」

 末弟のソルンがよちよちやってきて、小さな口を一生懸命動かしていた。アルスは膝を叩かれた。

「なあに?」

「あるちゅ!うーあ!」

 彼の心は、アルスのことが大好き、と言っていた。

「ありがと!」

 アルスは嬉しくなって、ソルンの脇下を持ち上げて抱きしめ、膝の上に座らせた。

 それを見て、マディックと遊んでいた双子がにわかにざわつき始めた。

「あー!ソルンずるい!おれも!」

「おれも!アルスのひざがいい!」

 慌てたのはマディックだ。顔を真っ赤にして地面を踏み鳴らした。

「お前ら!勝手に終わらせるな!」

「あー!マディック、アルスのことがすきなんだ!」

「きゃー!」

 ロミリーとクルトが電光石火でからかった。双子も便乗してからかいだした。

 マディックは耳まで真っ赤にして暴れ出した。

「違うし!別にアルス!好きじゃないし!」

「えぇー、そうなの?寂しぃー」

 アルスは兄妹と一緒になって笑った。膝の上でソルンもヴェへへ、と笑っていた。

「おいおいなんだよ、楽しそうだな!」

 後ろから懐かしい声が聞こえた。

 兄妹だけでなく、アルスまで胸躍った。

 左手に白い袋を持ったフーマが、洞窟の入り口でニカッと笑っていた。

「兄ちゃん!」

「「にいちゃん!」」」

「「おにい!」」

 ベルーガとソルン以外の全員が飛びつき、フーマはもみくちゃにされた。

「おわっ!ちょっ!待てってお前ら!」

 服を引っ張られ、頬をつねられ、髪を引っこ抜かれても、フーマは嬉しそうにしていた。エネルギー溢れる子供たちに負けぬよう、白い袋を高々と掲げて叫んだ。

「はいはい!これ、な~んだ!」

 幼い兄妹は白い袋にくぎ付けになり、フーマの上で彫像のように固まった。

 フーマはニタリと口をひん曲げ、物語の主人公のように胸を張った。

「おいしい食べ物と、綺麗な水だ!いい子にした子だけがぁ……?」

 兄妹たちはとたんに口をつぐみ、借りてきた猫のように大人しくなった。横一列に並んで、すました顔で気をつけをしていた。

「よし!ごうかーく!」

 フーマはたっぷり、十分に溜めた後、祝砲と言わんばかりに袋を放り投げた。

 兄妹たちは右往左往して着弾点を探ったが、一番大きいマディックに軍配が上がった。

「あぁ!」

「にーいーちゃーん!」

「ずーるーいー!」

「こらこら!ちゃんと分けて食べろよー」

 ぎゃあぎゃあわめき始めた兄妹たちに、フーマは釘を刺していた。

「ほら、兄ちゃんが言ったろ!じゅ!ん!ば!ん!」

 マディックの偉いところは、きちんと下の弟たちを並ばせて、順番に配っていることだった。

 それを見て安心したのか、フーマはほっとした表情でこちらに来た。

「ごめんよアルス、疲れてるのに」

「んーん、みんな可愛くって。あっ、見てみて!貰ったんだよ、これ」

 アルスは軽やかに弾みながら、頭の草冠を指さした。

「おっ、ロミリーだなぁ……?クルトはまだ、うまく作れないから」

 フーマはアルスの頭に手を伸ばし、塊の方を拾いあげ、手の平で転がした。小さなかけらは、指先で優しく払ってくれた。

「いいじゃないか、似合ってるぞ、アルス」

「うふふ、ありがと」

 ベルーガが静かにアルスの下へやってきて、末弟を抱きあげた。そして、つん、と鼻を高く上げ、マディックの配布列へ向かっていった。

「ベル?」

 塩っ気たっぷりの態度に、フーマは小さく肩をすくめた。

 アルスは、マディックが握っている白い袋を指した。

「ねえ、あれ、どうしたの?」

「オレが持ちだせなかった分だよ、メルキャップがくれたんだ。褒美だって……!いやー!よかった!あんなにしんどい思いしたのにさあ!なんにもなかったら凹むじゃんか!」

 フーマは溜まっていた肩の荷を振り落とすかのように体を膨らませ、大の字になって草地に身を投げ出した。

 アルスは目を細めてその様子を見ていた。

「うん、よかったね」 




「食いもんが少ないんだ」

 アルスの斜め前で寝っ転がり、雑草をむしりながらフーマが言った。

 二人は、台地の端っこの、岩肌が少しくぼんだ部分に移動していた。日陰になっていて、ゆっくりすることができるのだ。

 兄妹たちは太陽の光の中で、仲良く一列に座り、チーズケーキのようなスティックをむしゃむしゃとほおばっていた。

「森の中か、洞窟の中にしか畑をつくれない。燃料だって、畑と同じ、ちょっとばかりの地熱を、じわじわためていくしかないのさ」

 ベルーガが自分の膝に乗せたソルンに、スティックを小さくちぎって渡していた。本来なら全部、ベルーガの分なのに。彼女がソルンのスティックに手をつけず、大事にだいじにポケットにしまったのを、アルスはしょんぼりしながら見ていた。

「石油とかは?五百年たってるなら、私の時代から、ちょびっとでも増えてないの?」

 アルスは斜め前のフーマを見下ろした。そのせいで、ソルンの水を奪った双子が、マディックに成敗される瞬間を見逃した。

「こら!喧嘩するな!」

 弟たちを怒鳴りつけるため、フーマは上半身を振り子のように振って起こした。

「ったく……。掘れるところもあるけど、一度にたくさん運べない。それに、深く掘れば掘るほど、岩盤が固くなるんだ。掘るためのエネルギーのほうが多くなるんだって」

「そっか、大変なんだね……」

 アルスは膝を手繰り寄せて抱えた。

 その時、ふと、ポケットの中に入っている重みに気が付いた。

 アルスは砂漠の中でオアシスを見つけた遭難者のようにはしゃいだ。よかった、これは、大地の一族に取られずに済んだのだ。

「ね!フーマ、これ!フーマに貰った分、余ってたから」

 アルスは銀紙に包まれたスティックを差し出した。

 しかし、フーマは、静かに首を振った。

「いいよ、アルスが食べて。オレはもう先に食べてきたから」

 フーマの背中からはウソの匂いがした。優しいやさしい匂いだった。

 なんて素敵な人なのだろうと、アルスは思った。

「私も」

 だから、自分もウソをつくことにした。

「私も食べきれないの。だから食べて」

 アルスは両手で優しく、包み込むように、フーマの顔を抱きしめた。

 フーマの肩が不意に跳ね、滝のように汗を流し始めた。フーマの顔の覗き込むと、彼は固く目を閉じていた。

 アルスはそのまま、優しい少年を自分の胸に抱いた。

「私を宇宙(そら)に逃してくれた人が、教えてくれたんだ」

 フーマの頭をなでながら、アルスは思い出話をした。

『これは別に、泣かないでとか、そういうことじゃない』

 それはアルスが、まだ五百年の眠りにつく前の話だ。

『泣いてもいい』

 行き場をなくし、頼れる人をなくし、あてもなく電脳世界をさまよっていた彼女に、差し伸べられた唯一の手だ。

『人間いつか、苦しくて、悲しくて、泣きたいときがくる。そのときは泣いていい。君は一人じゃない』

 運命に絶望し、泣くことすらやめてしまった彼女に、あの人が教えてくれたことだ。

『君の涙を受け止めてくれる人が、必ずいる。今は――俺で我慢かな』

 あの人がそうしてくれたように、アルスは、優しくやさしく、フーマの頭を撫でた。

「だから大丈夫だよ、今は私で、我慢してもらうしかないけど」

 ちょっぴり笑顔をまぜて、頬を撫でた。

「フーマは頑張ったね、大変だったね、お腹もすいたでしょ」

 大丈夫だよとおまじないをこめて、その額にキスをした。

「だから、泣いていいんだよ」

 つもりにつもった悲しみが。

 心の奥底、うぅんと深いところに固まった悲しみが。

 今ようやく、にじみ出した悲しみが。

 少しでも薄まりますように、減りますように。

 アルスはそう願って、フーマを抱きしめた。

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