プロローグ
廃墟に、ぱしゃんと水音が響く。
水溜りを踏み抜いた少女は構わず、闇の奥から吹き付ける熱風へと駆ける。
追手に捕まりかけて飛び込んだ暗い細道の後方に、水音はまだ立たない。
かなり引き離せたと思いながら、熱風に時々閃く涼しさに眼を細めた。
砂地から横道に入って以来、月明かりもない。
けれどもし、この先で道が開けるなら。
(月光で隠れる所が探せば、息を沈める時間すらあれば……帰れる)
風は徐々に涼しさを増す。
少女はペースを上げようとし、そこで背筋を粟立てた。
──間近の闇に、何かある。
近すぎる。
何も考える暇はなかった。頭を庇っただけで、只ならぬ気配に突っ込む。
束の間浮遊した小さな身体が、がくんと腰で引き戻された。
陶器が盛大に割れるような音が後から聞こえ、自分を捉えるものを咄嗟に押しやって少女は腕を振り上げる。針束を掴んだような激痛に意識が飛びかけるのを、震える手首を握り締めて耐える。
天まで聳えるほど巨大な金網がゆらりと撓み、そのほんの下方に吊り下げられている身体をどうにか丸めた。足が地面に付かない。全身が疼く……それよりも息が吸えない。
脂汗が額からとめどなく落ちて、足下の水溜まりを叩く。それを数えて暴れる心臓を宥め、むりやり呼吸するうち、再び澄んだ音がどこかで弾けて、反射的に頭を跳ね上げた。そして、そのまま絶句する。
予想通り、そこは確かに広場だった。確かに月も出ているが──
月に照らされる廃墟は凍りついたよう、その輪郭を飾るように浮遊する透明な雨粒はやがて底を一瞬虹色に煌めかせて落ち、輝く霧に溶ける。白い絹に似た流れは冷たく滑らかさに少女を撫で、滔々と暗がりへ潜っていく……まるで銀幕映画の一幕のような光景。さもなければ夢か。
瞬きもできない少女の顎から、水滴が滴り落ちた。
(すごく、きれい……だけど)
震えが止まらない。ここは、どこだ。少女は緩くかぶりを振る。振りながら、目前の絶景から視線を外せない。ただ、高い耳鳴りがする。
ココニイテハイケナイ──
吊るされた身体で後ずさる上空から、金属の破片が風を切って落ちた。
少女は瞠目する。包帯を巻いた背が精一杯反らされ、金網が折れ崩れる。
水溜まりに浸かった桃色の病衣が、みるみるうちに墨色に染まっていった。
❡
身体の中で熱と冷気がせめぎ合い、波のように引いては寄せる。
こつんと脚に何かが当たって重い瞼を上げた少女は、ぼんやりと交差する金網の向こうに目を眇め、跳ね起きた。肘を突き、途端に突っ伏す。
あの影は追手だろう。とうとう追いつかれた。
──けれどもう、逃げようがない。
わずかに頬を上げ、霞む眼で男を捉える。男は、少女の足元を顎で示し、踵を返した。気を抜かず見遣る足元に、月光に濡れた拳銃が無機質に光った。
(……ここまで、なのか)
病院を抜けてからずっと、瓦礫を超え、砂地も越えて追いかけてきた男すら、もう攫いも殺す気もない。つまり、自分はもうすぐ死ぬのだろう。
拳銃を凝視する少女は、力が抜けていく身体を冷たい水溜まりに預けた。
手術して間もない身体でここまで逃げた。生まれて十年の自分にしては頑張った。たとえここで死んでも、最後まで捕まらなかったと胸を張っていい。
そう、もし母に会えばきっと──きっと褒めてくれる、それだけのことだ。
なのに胸の底から泡のように、無数の囁きが浮かび上がる。鳥肌が立つ。
「…な…………止ま、るな……、…………止、……まるな……」
潰れた胸で細く息を吸う。渾身の力で呻いて、逢原茜音は手を伸ばす。
震える指先が水底の石に触れ、水溜まりに映り込んだ月が小さく揺れた。
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同じ頃、古びたホテルの窓辺にもう一人の少女が立ち尽くしていた。
窓ガラスに映る自分の影が切り取った、雑居ビルがひしめく夜景。ぼんやりと眺める視界の左上からじんわりと広がる赤い染みに、またかと眼を閉じた所に声がした。
「もう四日経つ。そろそろ食べないと、本当に死ぬぞ」
振り返ると、机の端に夜食を置いた男が部屋を出るところだった。
陽気だった誘拐犯の部下は、四日前に首領を亡くして以降全く喋らない。いつもは冷えた盆を黙って下げ、新しい盆を置いていくのみだったが、今日はドアノブに手をかけると低く付け足した。
「いいか。一時間以内に食べておけ。不破さんがお前を助けた以上、必ず生きてもらう」
閉まった扉に鍵が掛かる。
少女の視界がふいに歪み、ぱたぱたと足元に落ちた。
「……私が死んだ方がよかったのに……、どうして」
瀕死の傷も瞬時に治す秘薬、ソルスティス。
不破はその製法を知ろうと少女を攫い、けれど銃撃から少女を庇って即死した。不破の人となりを見、秘薬を託せると見定めたばかりの少女は盾になろうとしたが、気づけば部下に匿われて宿を転々としている。
窓に置いた五指が力なく下がった。なぜ、自分の方が生きているのか。
既に感情は枯れて、砂のように抜け落ちていく。それでもいつのまにか、ガラス越しに赤煉瓦の壁を垂直に降下する影を視線が追っていた。三階へ潜る動きは優美なほどだが、野上翠那は自分に言い聞かせる。
(もう危険を見つけなくていいの。ソルスティスをこの世から消したら、私は死ぬ。その後のことに関わる必要なんて、ひとつも無いから)
翠那はそうして窓辺を離れかけ、瞠目した。赤煉瓦のビルの屋上に、破れた看板がある──あれは、知人の住むビルではないのか。
『私、ここの二階に住んでるの。三階は探偵所。イイ赤煉瓦でしょ?』
記憶の中で、制服のような出で立ちの樢森衣和が微笑んで振り返った。
❡
樢森衣和は変わった雑誌記者だった。
関わるなと言えば助けてきたし、名を呼ぶなと言うと愛称を付けてくる。
追われる所を目撃された夜には絶交を告げたのに、翌日も現れた彼女は翠那を連れ出して、赤煉瓦のビルを背に盛大に頭を下げた。
『記事にするのはやめたよ。でも、追われてるならココは覚えてて。三階の探偵所で夜中だって匿えるし、のっぴきならない事情があっても、私の友人なら色々は訊かれない。すっかり疲れちゃったり、どうにもならない日はいつでもおいで。ささやかに歓迎するよ』
そう言って照れたように笑った彼女とは、今も細い繋がりがある。もう会う気はなかったはずが、三階の窓を出た影がするりと二階の窓に消えていく。
(背の荷が減ってる……物取りでもない。一体どういう)
窓辺を離れ、夜食の隣に古い端末のキーボードを寄せて独自OSを呼ぶ。
樢森衣和とNR探偵事務所の調査を命じると、『本日四時に爆破予定』と即座に返った。現在時刻は午前三時四十三分、爆破まであと二十分もない。
爆発物の詳細を見ながら衣和へ連絡しようとした途端、画面が暗転した。
──推奨しない。お前は、誰にも影響を与えない消失を望んでいる。
翠那は思わず、OS──クインティリスが浮かべる白い文字に息を詰めた。
──彼女はお前を公開しようとした。仲間七人にも秘密を漏洩する気か。
助ければ責任が伴う。
片鱗も残る。考えれば身が竦む……クインティリスは確かに正しい。
もう二度と悲劇を起こさぬよう、人知れず秘薬を葬ったら命を断つ。
けれど、だからといって誰かが死ぬのを見過ごすのか──本当に?
一秒が遠のいていくような感覚。机に両手を突く。
硬く眼を閉じたまま、歯を食いしばって結論を絞り出す。そのままキーボードを引き寄せて一気に打ち込んだ。
『クィン、私はソルスを葬って死ぬよ。でも誰かが死ぬと解っていて見過ごすのだけはどうしても嫌』
食い入る様に見つめる画面で、送信が終了する。翠那は一瞬頭を下げた。
「ありがとうクイン──止めてみせるよ、必ず」




