3話
ネブリナのセーヴェルに対する評価を目にして、スティーリアはフレッドとはじめて会った頃のことを思い出した。
学園に入学し、当時は沢山いたはずの同学年の生徒に紛れて同じ教室内にいた、銀髪の少年。同じ空間で学ぶようになってすぐに、彼は自分たちとはどこか違うと薄々察してしまった。
授業は退屈そうで、試験も実技もできて当たり前。気がついたときには、彼は上の学年の教科書のみならず、図書室にある難しそうな専門書を読破していた。
教師たちがフレッドに本来の学年で学ぶことよりも遥かに高度な授業を放課後に受けさせるようになったのは、入学して一年も経たない頃だった。
そんな周囲から突出した少年のことを、スティーリアは別世界の存在のように思っていた。会った当初のみならず、つい最近まで。
我が道を行く少年はほかの生徒とほとんど関わろうとせず、スティーリアとも例外ではなかったのだから。
それなのにどうして、彼はいきなり告白してきたのだろう。
まったく交流がなかったわけではないし、学園で学び生活していた数年で何度か用事があって言葉を交わしたことはあった。けれどこれといって、好かれるようなことをした覚えはないのだが。
スティーリアがいつものように学園生活を送り、下級生たちの世話で振り回され空回りするのを、フレッドは冷めた目で見ていただけだ。
告白される覚えはない。いままで親しくもなかった。
ならばなぜ、フレッドが機嫌よく話しかけてきて、注意に対して嫌な顔をしなくなったことを、スティーリアはほんの少し快く思っているのだろう。
そんな考えが頭に浮かび、宿題は終わったが予習復習は集中できずにスティーリアは教科書を閉じた。
夜の寮の自室にひとりでいると、考えごとの沼にはまってしまう。室内は狭いが生活するのに必要なものが収まっていて、静かな空気に満ちていた。
校舎と同じく石造りの重厚な建物は、ほかの部屋の音を通さずに、勉学にいそしむべき学生には魅力的な静寂をもたらしてくれる。入学してからずっと悪くないと思っていた環境が、不意に不安を掻き立てるもののように思えてしまった。
談話室に行けば誰かいるだろうか、と腰を浮かせたとき、ふと首に下げている首飾りが目に入った。
「あれ……」
魔道具であり学生証も兼ねている首飾りには、透明な丸い宝玉がついていた。そう、透明だったはずだ。
それなのに宝玉の中心はかすみがかったように曇っていた。驚いて目の前に持ち上げると、かすかに目を凝らさなければ見えない細い線が走っているように見えた。
「ひび……?」
掠れた声で口にして、首を左右に振って首飾りを室内着の中にしまった。見てしまったことを否定するように、なかったことにするために。
だがだんだん焦りが込み上げてくる。首飾りはこの学園の学生である証。それが本来の透明さを失ってしまった。
入学と同時に渡されて何年も経つから、経年劣化したのか。いや、この学園が支給する魔道具が十年も経たなうちに劣化するはずもない。授業で使う魔道具も、年季が入っていそうに見えても魔力の結晶部分は輝きを失ってはいないのだから。
扱いが悪かったのだろうか。だがスティーリアは丁寧に扱っているほうだ。
低学年の男子たちなんて扱いは手荒で、落としたり投げたり遊びに使ったりが日常茶飯事だ。それなのに割れたりひびが入ったりしたなんて話は聞かない。
ならば、なぜ。そして、いつから?
普段学園にいるときはほかの生徒と同じく制服の上着の中に入れているから、気づかなかった。いままでと同じ状態であることを、露ほども疑っていなかった。
――どうしよう。
こんなことになるなんて、学園の生徒失格だ。停学、退学といった言葉が脳裏に浮かんでは消える。
胸の奥に重りを落とされたような気分で、不安が膨れてどうしようもなくなり、スティーリアは寮の自室を飛び出した。
廊下は走ってはいけないから、早足でせかせかと進む。防寒着を羽織る余裕もなかったので、廊下の寒さが肌に突き刺さった。
ネブリナは体調が悪かったから、もう寝ているかもしれない。談話室。面白い話をしてくれそうな下級生はいるだろうか。だが見回りの教師と顔を合わせたら、平静でいられる自信がなかった。
教師がいたら適当にごまかして部屋に戻ろう。そう決意して談話室の扉を開けると。
「おや」
「あ……」
薄い青の瞳と目が合った。
談話室に唯一いた生徒は、フレッドだった。図書室から借りてきたのか、分厚い本を手にしている。
「どうかしたのかい? お化けでも見たような顔して」
酷い顔をしていたのだろうか。フレッドは心配そうな顔でそう言った。
「……ううん、別に」
「その格好じゃ、寒かっただろう。暖炉に当たるといい」
「そうね、ありがとう」
談話室に設置されている暖炉の手前にある椅子に腰を下ろす。身体が少しずつ温まっていき、宝玉を目にして凍りついてしまったかに思えた心も溶けていくようだった。
ふたりしかいない談話室は静かだが、暖炉の火がはぜる音や同じ空間に誰かがいる気配があるおかげで、自室にいたときのような不安や焦りは再発しなかった。
しばらくして、フレッドが声をかけてきた。
「なにかあったのか?」
「そう見える?」
「寝巻きのまま来ていたら、特大の悪夢でも見たのかと思うところだ」
そんなに取り乱しているように見えたのだろうか。一瞬頬が熱くなるが、今更だ。スティーリアは溜息を吐き出した。
「悩みがあるなら溜め込まないほうがいい」
話してみろというよくある助言ではないのが、フレッドらしかった。
「惜しいね。恋人だったら抱きしめて慰めてあげられるのに」
そんな冗談とも本気ともつかない言葉に、スティーリアは微笑みをこぼした。
ここが恋愛を禁止されていない学園でなかったら、こんな風に優しく支えてくれる相手のことを好きになっていたのだろうか。
「ねえ、聞いていい?」
「答えられることならなんなりと」
「どうしていきなり告白したの?」
一拍置いて、返事があった。
「好きになったからに決まっているだろう」
「それよ。あなた、集団の中にいる生徒を軽蔑するように見てたじゃない。わたしはその中心にいたわ。そんな人間を好きになるとは思わないんだけど」
他人の顔色を窺い、自分の利益のために人とつき合う。友人を作る。小集団の中でも発言力や力が強い人たちの中にいようとする。
集団の中にいるということは、そうしたことを日常的かつ恒久的にやるに等しい。そしてそれを嫌い非合理的だと断じる人間がいることも、理解している。
いまの学級には、集団を作るほどの人数はいなくなってしまったけれど。
「確かにそうだね。最初は苦手に思っていた」
フレッドはあっさりと認めた。予想していたことなのに、否定的な言葉を本人から直接言われ、スティーリアは俯きかける。でも続けられた言葉で顔を上げた。
「けれど君を気にかけるようになって、気づいた。君は僕にないものを持っていることに。明るくて前向きで、面倒見がよくみんなに笑顔を振りまいている。いいな、と思った」
率直に賞賛され、スティーリアは顔が熱くなるのを感じた。気恥ずかしい、照れくさい。
どうして彼は、こんなに淡々と自分の気持ちを言えるのだろう。スティーリアはそれを聞くたびに、どうしたらいいかわからなくなっているというのに。
「だから僕は、君と共にこの閉じた学園から出たいと思ったんだ」
「閉じた学園、ね」
塀に囲まれ雪に閉ざされた、一年中冬の気候が続く場所。寒い気温、冷たい空気の中、生徒たちは学園で勉強に励む以外の選択肢は存在しない。
ここから出るときは、それに足る知識と技能を身に着けたときだ。そのとき晴れて卒業となるらしい、のだが。
ふと思い至ったことがあり、スティーリアは眉をしかめた。
「どうかしたかい?」
「うん。フレッドって頭いいのよね。難しい研究をしていたり、いままでより効率のいい術式を開発したり」
成績がいいだけのスティーリアとは違う。ほかの生徒とやっていることに差がありすぎる。その功績は教師や校長も認めるほどなのだ。
「お褒めに預かり光栄だな」
当然のように肯定されるが、事実なのでつっこむ気にもなれない。
「だったらどうして、まだ学生なんてやってるの? さっさと卒業して、錬金術師として研究でもなんでもすればいいじゃない」
「できるものならそうしたいね。ああ、ひとつ言わせてもらうけど」
肩をすくめ、フレッドはスティーリアを恭しく指し示してから言った。
「君ももうとっくに、この学園で学ぶべきことは学んでしまっているよ」
「……どういう意味?」
「いま教えられていることは、最低限の知識と技能の上に位置するものだ。まあ学んでおいて損はないが、術師としてやっていく中で覚えていけばいいことでもあるかな」
「嘘。この学年で学ぶことって、そういうものだったの?」
「学年、ね」
立ち上がって暖炉の傍に来ていたフレッドは、相槌と共に顔の角度を変える。眼鏡に暖炉の炎が反射して目元を隠した。
「もっと下の学年でも、消えてしまった生徒は何人もいる。残った生徒は彼らのことを忘れてしまうがね。なら、学年区分や最高学年なんてものになんの意味があるのだろう」
同じ年の、同時期に入学した生徒を集めた集団。そんな答えは、きっとフレッドは望んでいない。
答えに窮して黙りこくったスティーリアに、フレッドは微笑んだ。
「ごめん、いきなり妙なことを言って。そのうちわかるときが来るよ」
「そういうものなの?」
「ああ。僕の想いを受け入れてくれたら、詳しく説明してあげるよ」
「なっ、なんでそうなるのよ!」
いきなり顔を近づけてきたかと思うと耳元で囁かれ、スティーリアは飛び上がった。椅子から立ち上がり、小走りで扉に向かう。扉を開け、フレッドを振り返った。
「話し相手になってくれたことは感謝するわ。でもね、人をからかう暇があったら明日に備えてさっさと寝たほうがいいんじゃない?」
「心外だな。すべて本気だが?」
「ああそう。もう……おやすみなさい!」
「おやすみ、スティーリア。いい夜を」
談話室に来る前とは別の意味で混乱したスティーリアをよそに、フレッドは平然と手を振っていた。
その様子が腹立たしかったが、不安な気持ちはどこかへ行ってしまっていた。フレッドのおかげだろうか、と自室に帰ってから思った。
想いを受け入れられたら、いままで反発するしかなかったフレッドの言動に対しても素直になれるのだろうか。
けれど、それは学園の決まりに反しているのではないか。
どうしたらいいか、スティーリアにはわからなかった。