膝カックンの渡し
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、この頃は北から吹いてくる風が多いよねえ。北風が吹くのは西高東低の気圧配置ゆえ、仕方ないっちゃ仕方ない。地軸の傾きのせいで、厳密には北西よりの風になることが多いのだけどね。
方角って意識しないと、すぐにどちらを向いているか分からなくならない? どちらを向いているか、どこへ進むのかをはっきりさせるため、昔から干支、東西南北、数字などで僕たちは方角を探ろうとしてきた。自分たちにとっての敵、脅威がどちらからやってくるか、いち早く把握、共有しないと命取りになりかねないしね。
自然と、方角を巡った占いも用いられる機会が増し、現在でも根強く残っている。僕自身はあまりその手の八卦は信じない性質だったんだけど、クラスに凝っている子がいてさあ。それに巻き込まれてから、少し認識を改めるようにしたんだよ。
その時の話、聞いてみないかい?
僕たちのクラスにいた彼女は、毎日、登校する前にその日一日の、「鬼門」を調べてくる子だった。その方向へ進む時には、近くの壁や建物に背中をくっつけ、潜入捜査でもしているのかと思うくらいのすり足で進んでいく。
登下校中、校内でもお構いなしだ。更に授業中でも、その方角へ動かないといけない時には、先生に直談判もする。対応する先生は、声を荒げたりこそしなかったものの、明らかに不愉快そうな顔。僕たちにとっても、彼女の挙動は物笑いの種で、いざ始まると遠巻きに様子を見ながら冷笑を浮かべていたよ。
そんな彼女が、休み時間に教卓を占拠して僕たちに占いの結果を伝えてきた時も、僕たちは面白半分で聞いていたさ。
「今日の午後から、北北西に進む人は十分注意して! 危ないから、私がいつもしているようにやって欲しいな」
実際、その日の体育は体育館でのバレーだったけど、北北西に飛んで来たボールを彼女は追おうとしなかったら、ひんしゅくを買っていたっけね。
僕はというと、その日は欲しいゲームの発売日。帰りの時間が近づく午後には、授業なんざほとんど頭に入っていなくって、早くゲーム屋へ向かうことしか考えていなかったよ。
そのゲーム屋が、学校から北北西の方向にあることなんか、まったく意識していなかったんだ。
ホームルームが終わり、さっさと校舎を後にした僕だけど、門を出たところで見事に「膝カックン」を食らった。
ここ数ヶ月、クラスで流行っているいたずらだったけど、あまり頻繁に行うと相手に警戒される。そのため、いかに標的の虚をつくかが大きな課題になっていて、今回の手際は見事という他ない。「やられたなあ」と思いつつ、背後を振り返る。
誰もいなかった。少なくとも半径10メートル以内に、人の姿はなかったんだ。膝カックンを仕掛けて逃げたのなら、あまりに素早すぎる。
気のせいかと思ったけれど、学校の敷地を出てからゲーム屋にたどり着くまでの間にも、3回は膝を折られた。この時は後ろから歩いてくる別の人がいるけれど、僕自身が知らない相手ばかり。ちょっかいを出される間柄でもない。
不審に思いながらもお目当てのブツを手にすることに成功し、家へ帰る僕。それまでとは打って変わり、膝を折ることはほとんどなかったんだ。
それからも、彼女は教室でしばしば、アンラッキーな方角について僕たちへ通達してくる。僕はゲームを買った日以来、表向きは関心なさそうな態度を崩さないが、聞き耳だけはしっかり立てていた。
あの時から、僕は膝カックンの被害に遭うことが増えていたんだ。そのうえ膝を曲げんとする力は、どんどん強まっているように感じている。歩いている途中で、いきなり膝を90度近くまで曲げてしまう僕の姿を見て、忍び笑いを漏らされることもあった。
他人を笑うのはいいけど、自分が笑われることは耐え難い屈辱。それなりに気を張っていたけど、彼女ほど徹底的に逃げないなら、不可抗力は向こうからやってくる。
やはりこれも体育の時間だった。男女合同で行っていたバレーボールの授業中、その日の彼女が予告していた南東へ向けて、ライン際のボールへ滑り込もうとした僕の膝が、唐突に曲がった。
今回は膝カックンというレベルじゃない。「膝ズドン」だ。強く後ろから蹴り飛ばされる感覚と共に深く折れ曲がった膝は、そのまま尻や腰すらストンと落とした。尻もちを着くより早く、地面に触れた両膝が大きく音を立てる。
痛みはあった。だがそれ以上に、つい先ほどまで騒がしかった体育館が、膝を着いたとたんに、水を打ったように静まり返った気味悪さの方が、僕の心を強く捉える。
ちらりと周囲を伺った。先ほどまでこの場に詰めていた先生やクラスメートたちの姿がなくなり、そのためにできた空間には、見覚えのない子供たちが代わりに入っていた。
ボールを軽くトスしながら、ネット越しにパスし続ける彼らは、いずれも僕たちより年下に思えた。男女を問わず、一様に白いシャツと黒いサスペンダーでズボンを吊った姿。その足は何も身につけない裸足のままだった。
コートの片面に3人ずつ立つ彼らは、お互いにスパイクを打つ様子を見せない。それでもときどき、きわどいボールが帰ってくることがある。
ひとりが先ほどの僕のように滑り込もうとして、転んだ。そちらを見ていた僕には、その子がコケる時に、親指が床との間に挟まれて、ねじれたのがはっきりわかったよ。少なくとも、ねんざはしているはずだ。
なのに彼はすくっと立ち上がり、転がったボールを手に取って、ネットの向こうへと投げ返した。親指がねじれたまま、痛がる様子を見せず平然とコートへ戻っていく姿に、ちょっと鳥肌が立ったよ。
僕は立とうとしたけど、ふくらはぎが釘で打ち付けられているかのように動かない。どうにか持ち上がるのは両膝までで、そこからいくら力を入れても、膝と床の距離がわずかに開くだけ。じょじょに痛みと重さが増し、また床へ「どん」と音を立てて膝を着いてしまう。
また目の前が一変した。僕は授業中の体育館に戻ってきていたんだ。同じチームの子のひとりが、僕の肩に手をやって「大丈夫か?」と声をかけてくる。もうふくらはぎから重さがなくなり、今度は簡単に立つことができた。
だが、膝に痛みが残っている。そのことを告げてコートを出た僕は、スコアボード近くの椅子へ腰かけた。時を同じくして、なぜか転がっていったボールが見当たらないとみんながざわつき始めて、代えのボールが使われたっけね。
するとほどなく、はす向かいの女子のコートでもいったんプレイが中断。コートの外に出た子が、まっすぐ僕の方へ歩いてくる。
例の予報をしてくれる子だ。背中からは先生が戻るよう呼び掛ける声が聞こえたが、彼女はそれを無視。僕の耳元へ口を寄せると、「放課後に校舎裏まできて」とささやき、自分の入っていたコートへ戻っていく。
言われた通りに校舎裏へ向かった僕は、待っていた彼女に促されるまま、膝をついてから見た先ほどの光景を説明。聞き終わると苦々しい顔になり、あまり面白くない事態であることが察せられた。
「不幸中の幸い、っていうのかな。近くにボールが、その子たちの遊び道具があって良かったわ」
彼女の話によると、僕が見た子供たちはいずれも鬼門の方角からやってきた、人ならざるものらしい。普段、僕たちが彼らを認識できないのは、異なる世界にいるためらしい。通れる道も一方通行で、彼女が告げている方角は、その日の彼らがこちらへ向かってくる方向を指すらしい。
彼らはこちらの世界を、常に観測している。そして波長が合いそうな存在を見かけると、どうにか自分たちの世界とつなげようと働きかけてくるんだ。僕の場合は、それが膝カックンだったというわけ。
僕が膝を床についた瞬間は、世界がつながる合図。膝の音そのものが「門」の働きを成す。あの時、僕は彼らの世界へ引きずり込まれていたらしい。同時に、彼らは僕の近くにある遊び道具になりそうなものを引き込んだ。
彼らのいる場所は、こことは時間の流れが違う。だからボールがいきなり消えたように見えたのだという。
「下手なことをすると、大事になるかもしれない。しばらくは私の占い、ちゃんと聞いて守ってね」
そう告げて去っていく彼女だったけど、まだ僕は半信半疑だ。それに彼女の話してくれた南東は、僕の家のある方角。避けるわけにはいかなかった。
でも、それからさほど時間を置かず、僕は彼女の危惧した事態に直面する。
家まで数百メートルまで近づいた、ブロック塀に挟まれる路。僕が向かいから来る、犬の散歩中と思しき男性をかわそうとした瞬間、またも「膝ズドン」。話を聞いてからずっと足に力を入れていたというのに、それが何の意味も持たない強い力で、膝をつかされた。
僕は目を見張る。幅5メートルの道の両脇に、体育の時間に見た白いシャツに黒いサスペンダーをつけた子供たちが、瞬く間にずらりと並んだ。やはりお互いにトスをしながら受け渡すことを繰り返すが、今度はボールじゃなかった。
一番手前側で二人の子供の間を、アーチを描きながら行き来するもの。それは犬の散歩をしていた男性の頭だったんだ。僕がかわそうとした時と変わらない仏頂面のまま、彼らのトス練習に付き合わされている。更によく見ると、奥へ続くのは男性の腕、足、連れていた犬の頭部、胴体……もろもろのパーツが彼らの遊びへ付き合わされている。
スプラッタな印象は受けなかった。血は出ておらず、水音や肉が弾む音など「生」の感覚を感じなかったからだ。ばらしたマネキンのパーツのような印象で、不気味さの方が勝ったよ。
やはりふくらはぎは持ち上がらず、僕はもう一度、膝を上げて着きなおした。あの子たちは消えたけど、今度はあの散歩していた犬と男性も、戻ってはこなかったんだ。
翌日から、僕の近所に住んでいる男性が行方不明になったという町内放送があったけど、発見されたという連絡は、ついぞ聞くことはなかったんだ。