派遣社員マリコさんの憂鬱
パソコンの時刻が5時になるのを見計らい、マリコは急いで席を立った。
周りの女性たちも一斉に席を立つ。ここは派遣社員だけの島だ。
「お疲れ様でしたー」
顔に本日最後の笑顔を張り付かせ、マリコは流れる波に沿って静かに、できるだけ早足でフロアから脱出した。
会社の入ったビルを出ると、マリコはようやく歩調を緩めた。
(・・・・・・ふぅ)
毎日この時間になると、無意識にため息が出る。
5時以降になると、急に自分の居場所でなくなり、一刻も早く消えなければと、追い立てられている気がするのだ。
マリコは最寄駅で電車を降りると、家までの20分をゆっくり歩きだす。
別に急いで家に帰る必要もない。待っている人がいるわけでもないのだ。
(今日のご飯何にしようかな・・・。おなかすいてるし、簡単にしよっと)
頭の中で冷蔵庫の中をイメージしながら歩いていると、冷凍庫のご飯が切れていることを思い出した。
今から炊飯器でご飯を炊くとなると、夜ご飯にありつけるのは1時間後だ。
マリコは思わずため息をついた。
駅から家までの間にあるスーパーの前まで来た。ここを過ぎると家まではコンビニすらない。
(今日はまだ水曜日・・・。財布の中は1200円・・・)
マリコは頭の中で必死に計算を始める。
マリコは派遣社員である。給料は出勤日の量で多少増減するが、時給1200円なので、20日間働いた月で、給料は16万8千円だ。派遣になって5年間、ほぼ増えることなくこの給料で生活している。
給料の16万8千円のうち、家賃が4万8千円、交通費が2万円、奨学金が1万円なので残りの生活費は9万円だ。ボーナスはもちろんないので、この中から貯金もしなければならない。
マリコは月に1万円は絶対に貯蓄に回したいので、食費を一番切り詰めることにしている。
友人との交際費は別にして、一人で外で食事に使う分と自炊する分を合わせて、一週間に4千円までと決めている。
マリコは付き合いで外食する以外、ほとんど自炊でやりくりしているが、これが結構厳しい。
毎週月曜日に4千円を財布にいれて、一週間分の買い物をするのだが、今週はむしゃくしゃすることが多かったために最初にビールを三本買ってしまったことが響いて、ろくに食材を買えなかったのだ。
米も残りわずかだった気がする。卵もパンも切らしている。
まだ水曜日なので、今日あたり買い物しなければ、明日のお弁当も作れない。
お昼を外で調達することになれば本末転倒だ。
計算の結果、マリコはスーパーに足を踏み入れた。
財布の中身は1200円。マリコは携帯の電卓機能片手に、とりあえず800円分の買い物をする決心をする。
まだ会社が2日間残っている。コーヒー一杯分くらいのお金は残しておきたい。
(もやし2袋で22円、卵178円、食パン150円・・・)
ここまで考えて、米が買えないことに気付く。残りは450円だ。
見たところ、一番安い米でも1キロ700円する。やはり800円では無理がある。
マリコは考え直して、1キロ700円の米をつかむと、足早にレジに向かった。
有り金のほとんどをレジで払いながら、今日何度目かわからないため息がでる。
(今週もう150円分しか買い物できない・・・。やっぱり貯金用の1万円を今月はあきらめるか・・・)
ぐーぐー鳴るおなかを抱えながら、家に帰る足取りは重い。
そもそも、今月の生活がいつも以上に苦しいのは、結婚式に呼ばれているためである。
マリコは27歳だ。今年に入って、急に友人たちからおめでたい報告が続々と届くようになった。
マリコの給料で自分の裁量で使えるお金は、固定費から携帯代と公共料金を払うと、8万円弱になる。
そこから1万円貯金すると使えるのは7万円だ。
ここからご祝儀の3万円を払うと、4万円しか残らない。
祝日などで休みが増えると、さらに厳しくなる。
幸い先月は6月だったため、満額をもらえたが、日本はなぜこんなに祝日があるのかと恨めしくなる。
そもそも、なぜ結婚式のご祝儀は、正社員も派遣も同額でなければならないのだろう。
できることなら、私は食事はいらないのでご祝儀を1万円安くしていただけないか懇願したいくらいだ。
かつてひと月に結婚式に二回呼ばれた月は、どうしてもご祝儀が払えず、泣く泣く片方を欠席した。
マリコは東京出身で、大学まで地元から通ったため、顔も広い。
周りは余裕の表情でご祝儀を払っているのに、こんなに血のにじむような思いをしてご祝儀を払う自分がつくづく悲しい。
美容院でセットするお金が苦しいために、昨年から髪をショートカットにしている。
髪が短ければ、ヘアセットは自分でできる。似合うかどうかは重要ではないのだ。
アパートの前まで来た。
二階に上がる階段をのぼりながら、いつも以上に足が重だるいのは、わずか1キロの米を持っているせいではないことは分かっている。
財布の軽さと気持ちの重さは反比例するものだ。
家に入り、スーパーで買ってきた食材を玄関の隣にある冷蔵庫にしまいながら、マリコは時計を見た。
時刻は6時40分。
今から米を炊くと、晩御飯は7時半といったところか。
家に帰って、温かい食事ができていたら、どんなにうれしいだろう。
女の自分ですらそう思うのだから、料理が苦手な男の人が、結婚相手に家庭的な相手を求めるのももっともだ。
マリコは得意というほどではないが、料理自体は嫌いではない。
愛している夫のためならば、おそらく食事も掃除も頑張ってやる女のはずだ。
ただいい出会いに今まで巡り合えなかっただけなのだ。
今の生活を変えられるなら、この際好みの相手でなくてもいい。
高収入の男性を求めるほど、調子に乗ってもいない。自分に価値観が似ていて、優しいおだやかな男性ならば、マリコは頭を下げてでも結婚したいと本気で思っている。
米を炊飯器にセットすると、買ってきたもやし半袋と、冷蔵庫に残っていたキャベツをフライパンで炒め始める。冷凍庫に少しだけ残っていた豚小間肉も投入して、適当に塩と調味料で味付けをする。
頑張って作ったところで空しくなるだけだ。使える材料も限られている。
料理らしいものを作ろうとすると、それだけ食費もかかると気づき、ここ一年ほどは、スーパーで安い食材を買ってから、お弁当に入れられそうなものを、一度に多めに作ることを心掛けている。
この炒め物も、4つにわけて、1つは今から食べる分として皿に移し、残りの3食分は分けて冷凍庫へ入れる。
このような簡単なおかずが冷凍庫にたくさんストックしてあるので、朝は彩りを考えながら2、3個解凍して、お弁当箱に詰めるだけだ。
卵焼きも同様に作って冷凍し、ご飯が炊けるまでに家計簿をつけようとしていると、電話が鳴った。
「お疲れ様ー、今大丈夫?」
電話の相手は、2つ年上の姉、ユリである。
「お姉ちゃん、久しぶり。今家だからいいよ」
「ちょっとさー、聞いてくれる?この間話してた男、さんざん好きだ好きだ言ってきたもんだから、仕方なく付き合ったってのに、今日になって、やっぱり付き合うのは無しでお願いしますって言ってきたんだよ?!会社の後輩だから無視するわけにもいかないし、私も今後やりにくくなるのは困るから、『そうだねー、私も何となく合わないかもなって思ってた』とか軽い感じで返したけど、こっちが付き合う気になったら急に態度変えるってどういうことっ!???」
マリコはまたか、と思いながらも、姉の話を黙って聞くことにする。
「やっぱり付き合ったりしなければよかった。だから会社で恋愛沙汰は嫌なんだよ。まさかそいつが周りに何か言いふらしたりは無いとは思うけど、うまくいかなくなってもそのまま二度と会わないってわけにはいかないし、そいつが別の女と話してるのを見るとやたら腹が立つし」
「・・・・・・。」
「私の貴重な2か月を返してほしいわ。あいつとうつつを抜かしてる間に、日本でいったい何人のまともな男が結婚して戦線離脱してしまったかと思うと、ほんっっとに時間がもったいなかったわ!!!」
「・・・お姉ちゃんは、その人のこと好きになっちゃってたの?」
「正直に言うと、好きになろうと努力してたって感じかな。3歳年下だし、仕事は私より明らかにできないし、顔もそんなにタイプじゃないから、もし私がフリーじゃなかったら付き合ってなかった。・・・でもさ、付き合う前までは、私のこと好きなんだなって態度を前面に出してくれてたし、ほかの男たちみたいに、私を腫物でも触るみたいに扱わなかったし、あぁ、この人と付き合ったら幸せなんじゃないかな、大事にしてくれるんじゃないかなって、ついついガードが緩んじゃったの。馬鹿だよねぇ、いつもいつも」
「・・・お姉ちゃんが懐に入らせる男なんて最近では珍しいよね。いつもは、別れても傷つかないように、適度に距離感持って付き合うのに。付き合ってすぐ別れるのはよくあるけど、今回は続くんじゃないかなってちょっと期待してたよ」
「傷口に塩を塗りこまないでくれる?私だって、好きで何人も彼氏をとっかえひっかえしてるわけじゃないんだから。ただ、今回はいつもとタイプが違って油断しただけ。次は相手に隙を見せないように、主導権を握って付き合うことにするわ!!あんたも、家と会社の往復だけじゃなくて、なんか楽しいこと探しなさいよ?じゃあまたね!」
言いたいことを言った後、ユリは急いで電話を切った。
マリコは、自分と違って美人で頭のいい姉を尊敬している。大好きな雑誌の仕事をして、趣味も多く毎日楽しそうだなー、といつも思う。
ユリとは幼いころからとても仲が良く、だからこそ、今回の彼氏との別れ話は、平気なふりをしているが実は姉がとても傷ついていることに気付いていた。
けれども、姉が自分に弱みを見せないこともよく知っている。姉は、心を許した相手にも、あまり本心を打ち明けないのだ。
幾度となく彼氏はできるが、大体は1年以内に破局している。マリコは、姉の性格を本当に理解してくれる人が現れたらいいのにといつも思っているが、姉が付き合い始めてしばらく経つと、今回のような別れたコールがかかってくるのだ。
ピロピロと音がして、炊飯器の米がようやく炊けた。
マリコは急いでご飯をよそうと、すっかり冷めきったおかずと一緒にテーブルに並べて食べ始める。
(お姉ちゃんの10分の1でいいから、相手がいたらなぁ・・・)
悩んでいる姉に申し訳ないと思いながらも、マリコは自分には絶対に手の届かない場所でキラキラ輝く姉が、うらやましくてたまらなかった。