3.早く起きてください!
酷く乾いた砂が風で舞い上がり、蜃気楼のように視界を歪めている。その一面橙の景色に、ぽつぽつと三つだけ動くものがあった。
一つは金髪が眩しいスラッとした青年。息を乱すこともなく、足をとられることもなく、砂上を難なく歩いている。
彼が引くのは背に黒い箱を乗せたラクダ。砂漠の生き物は慣れた環境に弱音など吐くはずもない。少ない水でも長距離を移動できる優秀な子だ。
そして少し離れた位置に、薄着でふらふらと歩く少女。上体は前屈みで、両腕が重りのようにぶらさがって今にも倒れてしまいそうな足取りだった。
青年と少女には距離があった。さくさく歩いていた彼はふと足を止め、くるりと背後を振り返る。
「リーアー! ほーら、頑張って走れー」
「……………………」
先程から定期的に呼び掛けられる声に、初めは返事をしていた少女も、今では反応を示すことさえない。
優しいと思っていた青年には、何を言っても無駄だと分かったからだ。そんな抵抗に体力を割くくらいならば、ただ黙々と距離を進めることが唯一の、生存手段。
……――――許さない。
と、心の中で恨み節を生首に叩き付ける。彼は今、ラクダの箱の中ですやすやと眠っていることだろう。少女がこんな死にかけていることも知らずに。
*****
遡ること半日。
抽象的な指示の後、口を閉じてしまったトリム。リアはにじり寄る嫌な予感を気のせいだと思い込もうとしていた。
「あの、鍛えておけってどうゆう……トリムさーん? 寝ちゃった?」
「ねえ、聞いた!? 今の!」
返答はもう期待できず、リアは困惑したまま、何故かテンションの高いアーサを見る。頬を僅かに紅潮させたアーサはリアに詰め寄ってきた。
「まあ……具体的には全く分かりませんけど」
「そっちじゃなくて! 僕のことを呼んだよね!」
「呼びましたね……?」
アーサが何を言いたいのか分からず首をかしげた。
「名前で! 初めて!」
そう言われむーんと目を閉じる。記憶を辿れば、確かにトリムはずっと「勇者」と言っていたかもしれない。名前(正しくは愛称)で呼んだことは、なかっただろうか。
「そういえば、アーサって呼んだことなかったですっけ」
「ないよ! リアはずっとリアなのに」
「お前とか、馬鹿とかも、あるけど……」
呟いた言葉はアーサの耳には入っていないようだった。
リアは最初から名前で呼ばれていたので特に思うところはないが、よくよく思い返してみれば、自分以外の特定の人の名前を呼んでいた記憶はない。敢えて呼ばないようにしていたのか、特に意味はないのかは今のところ分からないが、アーサに対して心境の変化があったのだろう。
何だろう、親密度……いや、貢献度かな?
信用は全くされてなかったことが判明したので、多分そうだろう。最初にゼスティーヴァの結界の檻から救いだしたことから、せいぜいアーサに勝っていたことはその貢献度くらいだ。
「勇者って呼ばれ方は好きだけど、なんかこう……な、仲間って認められた感じがするよね……!」
「……そうですね」
私はずっとアーサって呼んでたけどね。
態度の違いに仄かな切なさを感じつつも、恋する乙女のようなソワソワした様子に無粋なことは言わないでおく。アーサの想いの差か、と考え、より悲しくなったのでもう触れない。
「よし、頑張らなきゃ!」
「はい。でも大人しくしとけとも言われてるので、ひとまずは落ち着きましょ」
喜びにこのまま飛んでいきそう(比喩表現)だったので、リアは苦笑しながらアーサを宥めた。
「あ、ごめん。そうだね、僕が指導しなきゃいけないのに。それじゃあまずは、体力の底上げかな。トリムさんも危惧していたことだし」
「…………え?」
「大丈夫。僕が先生に教えてもらってた時と同じようにすれば、リアも強くなれるよ」
屈託のない笑顔のアーサは、いつもより五割増しにキラキラさせながらリアに手を差し伸べた。
*****
鍛えろ、という言葉は、正しくアーサに伝わった。尚且つ、期待されていると感じた彼は必要以上にやる気に満ち満ちていた。
否、必要以上というよりは異常だった。
まずはラクダへの搭乗は却下される。自分だけ楽をするのに後ろめたさを感じなくもなかったので、まだ納得できる。
だがしかし、準備を終えると、アーサは「まずはジョギングからだね」と言った。
アーサの言う、体力の底上げが始まったのだ。全てを持ってみるみる小さくなっていくアーサの後ろ姿に、ひとりぽつんと置いていかれる不安に駆られたリアは、やむなく走り始めた。
トレーニングに砂漠を走るとか馬鹿じゃなかろうかと思いつつ、ただでさえ長距離走の苦手なリアは早々にへばる。膝を地面に付け肩で息をしていると、アーサが戻ってきたので安堵した。
一瞬だけ。
リアの休憩は、転んだ幼子を立たせるように持ち上げられ、あっと言う間に終わる。リアが驚愕の表情で見つめていると、汗一つ滲んでいないアーサは未だ輝かしい笑顔で「まだまだ」と言った。
最初だけだと思っていたが、そんなことはなかった。何度も「まだまだ」と繰り返された。
さすがの暑さにコートの上は脱ぎ、腰のベルトでベロンと留められている状態。万歳をした上着はずっと諸手を上げて降伏しているというのに彼にはまるで見えていない。
リアの飲み水が尽き、生命の危機を感じたのでそれを主張すると、アーサは自分の水袋を渡した。たぷたぷだった。口をつけていないから、と笑う。
あんなに和ませてくれた笑顔が、まさか恐怖の対象になろうとは。
休憩は立ち上がらされるまでの一分弱のみ、あとはエンドレス。もう膝を地に付けない方がなんとか体力の消耗を微妙にでも防げると、現在。
やがて、ガチで走れなくなったので、姿が見えなくなろうが追いかけることはしない、できない。歩みを進めているだけでも自分は偉いと思う。そして諦めてくれないアーサが先程から走らせようと呼び掛けている。
辛うじて言葉を発せていた時にこんなことをいつまで続けるのかと聞いた。返ってきたのは、限界を越えるまでという答え。
到達可能な範囲が、限界というのではなかろうか。越えてしまったら、生死に関わるのではなかろうか。
なんでも、アーサを鍛えたという先生の教えに則っているのだという。そうして毎日限界を越えたからこそ、今の強さが手に入ったそうだ。その先生とやらは、とんだ脳筋野郎だ。
さすがにリアでも分かる。彼の強さは努力だけでは絶対ない。才能と素質と素直さが異常なアーサだからこそ生み出された化け物じみた強さと体力だ。脳筋野郎は、そんな化け物を生み出してしまったと自覚はあったのだろうか。いや、そんなことより、アーサは普通じゃないということを教えなかったのが、最も罪深い。アーサ的に、これは普通だったのだ。
だが一番の恨みの対象は、そんな化け物を監督することもなく、普通である自分を鍛えさせようとしたあの生首野郎だ。許さない。絶対に謝らせてやる。
そんな恨み節を吐いていると、突然体が軽くなる。理解できず瞬きを繰り返すと、気付けば体は砂漠に突っ伏していた。
意識はまだあった。ただ体がぴくりとも動かない。
アーサが駆け戻ってくる気配があった。何度もされたように持ち上げられるが、足に力が入らない。
「あれ?」
あれ、じゃない……。
声が出ない。
リアは正しく限界を越えたことを理解した。即ち、死にかけているのだ。
「リア? 寝ちゃ駄目だよ、起きてー」
寝ているのではない。むしろこのまま永遠の眠りにつきそうである。
「どうしよう、この後のトレーニングがまだ」
これ以上に何かするつもりなの!? と驚いた勢いで、ついにリアは意識さえ手放した。
*****
鼻と口を塞がれた。
「ごばぁ!?」
それに全力で抗うと、痛みと一緒に空気が体に入ってくるのが分かった。代わりに、体内に浸入しようとした液体を吐き出す。
「ごほっ、えほっ…………え? え、な……?」
呼吸を繰り返し意識を取り戻すと、軽い抵抗感に気付いた。熱せられた体をじんわりと冷やしてくれている水に、ぼやけた頭もはっきりしてくる。
そこは湖だった。
辺りは緑に囲まれた、透き通った綺麗な湖。一枚一枚が広い葉の隙間から降り注ぐ陽光が、風にさざめく水面に反射して、あちこちにスポットライトを生んでいる。見たこともない風光明媚な景色に、つい現実を忘れた。
「ここは……天国?」
「オアシスだよ。リアの顔がすごく熱くなっててびっくりしたよ。熱があったなら言ってくれれば休んだのに。リアは頑張り屋さんだね」
「ちげぇ」
的外れすぎる発言に、幻想的な光景から一気に現実へと引きずり落とされた。暢気な声の主に、不満が思い出される。
普通の人の限界というものを力説しなければまた殺されかけると、声のした方を睨むと半裸のアーサの顔が間近にいた。
「な、にょっ、ぶぷぁっ」
そこで初めて抱かれている状態に驚き、思わず両手で押し退けたら水の中に落ちた。
まずい。泳げないのに、と混乱に両手足をばたつかせ、再びの生命の危機を感じる。苦しさと恐怖に頭の中が占領されたと思えば、強い力で両腕が掴まれ、持ち上げられた。
「足つくよ?」
「…………はい」
立てました。
胸あたりの中々の深さで少し怖いが、川やゼスティーヴァでの時のような濁流があるわけでもない。冷静になれば情けない様に恥ずかしさが込み上げてくる。
というよりむしろ、落ち着けば落ち着くほど怒りへとシフトしていく。決死のトレーニングもだが、何より直前の行為。最初に溺れかけた原因は明らかにアーサによるものだろう。
「……何で水の中にいるんです?」
「熱くなってたから冷やそうと思って」
「ざ、雑すぎる! 意識ない人を水の中に放り込むなんて何考えてんですか!? もう絶対にしないでください!」
「水は飲んだから起きてるのかなと」
「多分それ生存本能!」
悪びれた様子もなく笑うので、カッとなって拳を繰り出すが、軽く受け止められる。こ憎たらしい。
「てか何でそんなカッコなんですか。優雅に水浴びでもしてたんですか。服着てください」
怒りは収まらないが、目の毒なアーサにリアは視線を逸らして唸った。何故か上半身裸で正に水も滴るという状況。正直目のやり場に困る。
「うん。ちょっと急いだからね、汗かいちゃった」
「ほんとに水浴び!? 私が死にかけてた時に! 服着て!」
「え? 死にかけてたの? なんで?」
きょとんとした表情で首を傾げたアーサに、今まで守ろうとしてくれてたことと今回のギャップに驚く。
アーサは意識を失った仲間をどう捉えていたのだろう。トレーニングが直接的な原因で倒れたのではなく、先の言葉から体調が悪かっただけとでも思ったのか。あり得ないでしょうが。
ただアーサの優しさに期待していた点は悪かった。トリムの指示にやる気満々で結果で応えようとしているだけと思い、手加減はしてくれるはずと信じていた。実際はそうでなく、常識的な範囲が分からなかったということだったのだ。
普通をよく言って聞かせなきゃ、危険。
「あのですね、アーサのトレーニング方法は世間一般では生死に関わるほどの辛さなんですよ。限界を越えたら人は死んでしまいます。誇張でなく、死んでしまいます」
リアの言葉を聞いたアーサはそこで初めて驚いた顔を見せた。
「……そう、なんだ。リアは身体も弱いんだね……分かった、気を付けるよ」
「いや私は弱く」
ん? 待てまて。
心外な勘違いに思わず否定しそうになったが、そう思われていた方が安全ではないかと気付いた。リアは体力がないだけで何か違うが、アーサに対してはもうそれでいい。要はこれ以上の無理難題を押し付けられなければいいのだ。
「はい、分かっていただけて幸いです。なのでもう鍛えるのはやめましょう」
「え? それは駄目だよ、トリムさんに言われたんだから。リアは弱いからこそ、普通に強くならなきゃ。大丈夫。進捗は下方修正して、ゆっくりと、確実に、鍛えようね」
そこには今朝見た出発前と何も変わらない笑顔があった。
根本をどうにかしないと、逃れられないと知った。
熱中症にはお気をつけください。
三章の1話を多少修正してます。




