8.乗り越えた先に
「まだだ。リア、火石を」
「は、はい」
そういえばそんなこと言われていたな、と慌てて火石を取り出すと、トリムにグロイムの真上に向かって投げろと指示された。
フロアを出て振返って見ると、上部を放射状に凍らせているグロイムが、ぎこちない動きでにじり寄ってきている。なんだありゃと思いながら、火石を四つまとめて放った。
放物線を描いてグロイムの上に落ちるかと思われた火石は、ぴたりと動きを止める。すると、四つの火石は甲高い音とともに、それぞれが半分に割れた。さらにそれらが半分に割れる。続けて何度も何度も割れる。見えない鉄鎚で何度も打たれているようだった。
割れるほどの力が加わっているのに、自身を燃やしも破裂もさせない火石を不思議に思いながら見ていた。
あっと言う間に粉々になった火石は、球体状の膜の中でゆらゆらと渦を巻いている。
リアは貯水湖に突き落とされた時の空気の膜と同様のものだろうと予想していた。
あれがどうなるのかと、まじまじと見つめていると、球体はぎゅっと握りつぶされるようにひとまわり小さくなった。同時に、赤かった火石の粉は、チカチカとあちこちで光り輝き、所々黒くなっていく。二度、三度と小さくなって、最後は真っ黒な2センチ程の球体になった。
「トリムさん、あれどうするんですか」
何故だかあまりいい予感はしないなと、ちらりと返事のないトリムを窺う。
トリムは目を瞑り、苦しそうに表情を歪めていた。息を吐く隙間から、小さく言葉を漏らす。今までの余裕のある口振りと態度から一変したその様子に、リアは心臓がぞわりと撫でられたような不安に襲われた。
「トリム、さん? だい、じょうぶ?」
意図せず声が震えてしまう。それを聞いたトリムが口元を僅かに緩めた。
「……なんだ、その不安そうな声は。多少、使いすぎただけで問題ない。最後の締めだ、しゃんとしろ」
言葉が返ってきたことにほっと息を吐く。そして、にじり寄るグロイムを見据えて、まだすべきことがあるのだと気を引き締めた。自ずとトリムを抱く腕に力が入る。
「はい、何でも言ってください」
「逃げろ」
「はい! ……え?」
「全速力で」
「はえ?」
「早くしろ!」
理解できずにいると、怒気のこもった声で責めるように叫ばれたので、反射的に走り出す。
すると、部屋の中で宙に浮いたままだった黒い球体が、重力に従ってぽとりと落ちた。リアたちを追いかけるグロイムの上に乗ったまま、不安定な動きで右へ、左へところころ転がる。
そんなことなど露知らず、リアは脱兎のごとく走っていた。通路のカーブを曲がる直前に部屋からのそりと出てくるグロイムが視界に映る。
冒険者が来るのを大人しく待っているのだし、もしかしたら中ボスは部屋から出られないんじゃないかという密かな期待は裏切られ、唇を噛んだ。
通路の向こう側が見えないほどの巨体にずっと追いかけられながら逃げるということにでもなれば、スタミナのないリアには負けしかない。すがるように終わりを聞く。
「どこまで逃げればいいんでしょうか!?」
「あと三十秒だ」
「三十秒!? 経ったらどうなるんです!?」
「爆発する」
「ば!?」
あれか! とすぐに黒い球体に思い至り、ぐんと走るスピードを上げた。スタミナ温存などかなぐり捨て速さ重視の走り方に変更する。
下層へとつながる階段を飛び、ふわりと足の屈伸を利用し降り立つ。右手を地につけ、再び勢いをつけてスタート。
だが走り出したリアが顔を上げた先には、大きな影があった。
獅子に角を生やし蛇の尾を持つモンスター、キマイラ。武器があったとしても、リア一人では倒せないような強モンスターだった。
「ここで!? 空気読んで!!」
「止まるな!」
氷の弾がリアを追い越し、キマイラの前足に着弾、胸元までを凍らせた。
怯んで止まりそうだった足が、トリムに後押しされて進む。とはいえ、リアの体など簡単に引き千切られてしまうほどのキマイラの強力な一撃を知っているので、武器もなく無防備に突っ込んでいく恐怖はどうしようもない。
縦に細くなった瞳孔がリアを睨む。怒りが伝わってくる口元は赤々として、恐ろしく獰猛だ。怖くて瞳に涙が浮かぶ。
と、音にならない衝撃がリアの体を背後から突き抜けた。
爆発したのだと理解した。
キマイラがリアから視線を外し、階段の奥に気をとられる。その隙に、凍ったキマイラの腹の下へと滑り込み抜けようと、
全身が粟立つような悪寒が駆け抜け、振り返りかけた先に、目を焼き尽くすほどの光が見えた。
死への恐怖を忘れそうな程の明るく激しい光。自分はこれに包まれて消えるだろうと本能で感じた。走馬燈さえ過らない一瞬で、リアは腕の中を無意識に抱き込み、守るように光に背を向ける。
*****
頭をふんわりと優しく撫でられ、リアは目を開けた。視界に映る人達を見て、寝てしまってごめんなさい、と申し訳なさそうに小さく謝る。
まだ寝ていていいよ、と撫でてくれた人は微笑み、その暖かい手のひらをリアの頬へと移す。くすぐったさを覚えながらも、リアもその人の手を遠慮がちに包み、頬を寄せた。
幸福感に包まれ、ずっとこうしていたいと思う。大好きな人の大好きな手、だった。
――――だった?
不安を覚え、見上げると、皆は笑顔のままだった。それなのに何故かとても遠く感じた。
どこかに行くの、と起き上がって尋ねると、皆は以前のようにリアの頭を撫でたり、頬をつついたり、肩を軽く叩いたりして、離れて行く。
私も連れて行って、と同じ言葉を言った。そうしたら、彼らは嬉しそうに手を差し伸べてくれるはずだった。前と同じように。
――――同じ、じゃない。
困ったように笑い、僕らはもう行くね、とそれだけだった。
――――そっか……。
消えていく背を見つめながら、リアは伸ばした手をゆっくりと下ろした。
再び目を開けると、真っ青な空が眩しくて、思わず目を細めた。瞼の隙間から見える蒼穹は、どこまでも澄んでいて、天国へと繋がっている気さえした。
彼らはもう行ってしまったんだろうと思うと、胸にぽっかり穴が空いてしまったことに気づく。ずっと暗くじめじめしたところにいたから、胸の空洞が分からなかっただけで、こんな爽やかな空気があるところでは誤魔化しようもなく、悲しく、辛かった。
大きく息を吸って胸に空いた穴から気持ちを吐き出していく。視界が滲んでいたけれど、元々青一色しかないのでさして気にならなかった。
「…………疲れたなぁ」
あの人はまだ寝ていていいよと言ってくれたし、もう少し休んでもいいだろうと瞼を閉じる。溢れ出る雫は、ひとり残った自分からの、彼らへのせめてもの手向けだと、拭うことはしない。記憶に想いを馳せると、ほんの僅かだけ穏やかな気持ちになった。
「約束は……守るから……少しだけ……」
ゆっくりと呼吸を繰り返すと、滲み、重く溜まった感情が溶けていくようだった。どれだけ目を瞑っていたか分からないが、深く眠りにつくことはなかった。ただ思い出に浸り、心地よく温かい空気を堪能していた。
そんな微睡みに水を差すように、冷たい風が頬を撫でた。
はっと目を開けると、青空に白い雲がかかっていた。薄く漂うような雲は、目の前を素早く通り過ぎていく。さらに今まで静かだったはずなのに、激しい風の音が耳を打つ。
「え? な……ここ、どこ?」
上体を起こすと強風が髪を攫い、頬に打ち付けてきて地味に痛い。髪を耳にかけて、周囲を見回した。
崩れた石造りの壁には見覚えがある。記憶よりは明るい場所なので違和感が勝つが、ダンジョンの中で見た壁だ。頭上は空。この強風と雲の近さから、ここは屋上なのだろうかと首をかしげる。
左手にくすぐったい感触がして視線を移すと、長い黒髪がなびいて、リアの指に触れていた。見えるのは後頭部で、顔は向こうを向いていて、ぴくりとも動かない。
穏やかだった心地が波打つ。どくどくと聞こえそうな程、心臓が痛い。
「トリムさん」
返事をするように黒髪が再びリアの手の甲に触れた。リアは手を裏返し、トリムの髪をひと房だけつまんでちょんちょんと引っ張る。
「トリムさん」
反応がない。
風の音が強く、聞こえないだけかもしれない。そう自分を奮い立たせ、左手を軸にトリムの顔を覗き込もうとしたら、肘からかくんと力が抜けた。そのままぶしゃっと地面に顔を打ちつけ、鼻にツンとくる鉄臭い痛みにもんどりうつ。
両手で鼻をさすって、ふと気づくと目の前にトリムの顔があった。相変わらず彫刻のような顔だなと思いつつ、恐る恐る両手を伸ばしてトリムの両頬に触れ、暖かさを感じてほっと息を吐く。そのまま引き寄せ、自身も顔を近づけて呼吸を確かめると、落ち着いた繰り返しに眠っているだけだと分かった。
「もー、驚かせないでくださいよぉ」
最初の時と同じ、魔力の回復をしているのだろう。あんなに苦しそうだったし、きっと無理をしたんだろうなと、ぼんやり思う。
安心からか、急速に眠気が襲ってきた。さっきはずっと目を瞑っていても眠りにつかなかったのに一体どういうことだと、自分の体が分からなくなる。
ま、いっか。考えるのは後回しにしよう。
トリムが魔力を回復している間に、自分の体力も回復させなければならないし、と早々に理由をつけて欲望に従うことにした。うとうとと、抗えない瞼の重みに、最後に目の前で眠る恩人の顔を見て自然と笑顔がこぼれた。
「……よかったぁ」
*****
むずむずとせり上がってくるものがある。ミミズが這うように襲ってくるそれに従えば、穏やかな時間の終わりだと分かっていた。だがそれ以上に、抵抗せず、思い切り従った方が気持ちが良いことも知っていた。
リアはもちろん後者を選んだ。
「ぅ……っぶしゅ」
不発だ。もっと思い切り出したかった、と不満が残る表情でリアは目を開けた。
暗い、が真っ暗闇ではない。空から降る星明りに照らされて、目を慣らせばある程度は見えるようになるだろう。
そんなことより、目の前に光る二つの緋色に全身が強張った。
この体勢になった経緯をじわじわ思い出し、直前の自分の生理現象に冷や汗をかく。
「お、はよう、ございます……?」
すっと瞳が細められたのを確認した瞬間、勢いよく起き上がり、手際よくかつ最小限にトリムの顔を袖で拭き、土下座をした。
「申し訳ありませんでした! 不可抗力だったんです!」
「何故……あんな体勢で寝ていた」
「ちょ、ちょっとした事故で! 決してくしゃみをぶっかけるためではないのです! 悪意はないのです!」
トリムは、明らかに聞こえるような大きい舌打ちをすると、眼光鋭くリアを睨みつける。
「起きてみれば眼前で阿保面を見続けさせられ、いくら呼びかけても涎を垂らしたお前は一向に起きる気配もなく、しまいには鼻水をかけられた俺の気持ちが分かるか?」
「鼻水までは出てないです。唾くらいです」
「あ?」
「ひぁっごめんなさい!!」
ヤバい。思いのほか怒ってらっしゃる。
ちょっとした訂正さえ許されない空気に、リアは額を地面に擦りつけ、怒りが収まるのを待った。
冷たい風が頬を撫でたのは、結界が消えたからです。主人公主観なので、補足すいません。