6.また、なんですか?
呼び掛けた先には氷の壁があった。
「え、ええぇ」
リアは気の抜けた声を漏らす。
ちょうど洞の穴の部分に、まるで蓋をするようにぴっちりと氷が張られていたのだ。
これは、相当怒ってる……?
洞のある木の前から倒木をずりずりと離し、その氷の壁の前にリアは正座をした。
誠心誠意心を込めて謝って許してもらわないと、街の門が閉じられる前に戻れないし、今森の奥からモンスターでも現れたら絶対死んでしまう。
「トリムさん。聞こえていますでしょうか。大変遅くなり誠に申し訳ありません。私のミスでギルドで予想以上に時間を食ってしまい、こんな遅くになってしまいました。とても反省しています。お怒りは甘んじて受け入れる所存ですので、どうぞ開けてくださらないでしょうか」
真面目な声で、いつもより五割増し丁寧に謝った。
だがそれに返答はない。静寂が辛い。
だめか。いつもならしぶしぶ許してくれるのに。
「実は夜になると街の門が閉め切られてしまうそうなんです。それまでに入れないとこの森で夜を明かさないといけなくなりまして、さすればトリムさんの手をより煩わせてしまう可能性がございます。ここはなんとか飲み込んでいただいて、後ほど、十分お叱りは受けますので、なんとかぁー」
両手を地面につけて、頭も深々と下げた。
しばらく待ってみても返答はない。しーんとした静けさだけが漂う。
「……あのぉ、何か言ってくれませんか?」
こっちが一所懸命に謝っているのだから、せめて少しくらいは反応を示してほしい。
怒られるのも嫌には嫌だが、放置はとても悲しい。
「もしもーし」
いくら呼び掛けても返事をしてくれないトリムに、さすがに違和感を感じた。ここまで無視され続けるなんて今までなかった……わけでもなかったなと思い直す。
リアは膝立ちで洞のすぐ前まで来ると、氷の壁をノックしようとして、
「ほわっ」
拳にもわっとした抵抗を感じて咄嗟に引っ込める。
それから自分の手を見て、氷の壁を見て、頭を傾げた。
何かの勘違いかと思い再び手を伸ばすと、触れるか触れないかのところで、風に押し返されるような僅かな抵抗感が存在していた。
ただほんの少しだけなので、リアはそのまま力を込めて手の平で氷に触った。
途端、何かが自分の手に吸い込まれた感覚がして驚いたのもつかの間、氷の壁は細かい粒子となって崩れ、空気に溶けていく。
……これはアレだ、魔力だ。
すでに経験済みの感覚に心の中で得意気になる。
それはさておき、手をついて暗い樹木を覗き込むと、布の包みがはだけ、トリムが目を瞑っているのが見えた。
「なんだぁ、寝てたんですね。起きてくださーい。遅くなりましたがお迎えにきましたよ」
だが無視を続けるトリムに、疲れてたのかなあと唇をつきだしながらしばらく待ってみる。それでも、起きる気配がないので、リアは仕方なく両手を伸ばしてトリムを運び出そうとした。
「え」
トリムの頬に触れると、その硬さに驚き手を止めた。
言い様のない不安が生まれ、あっという間に心中を黒く染めていく。
また……?
リアは震えた心を叱咤し、固まった手を動かす。ゆっくりと、トリムの頬をなぞり、唇を指先でつつき、閉じた目蓋から下がる睫毛に触れた。もう一方の手で側頭部を撫で、髪の毛の流れのままに手の平を滑らせていった。
どこに触れても人である柔らかさが微塵もない。
それは、全てを止めたあの時と同じ。森の中で独りきりになった気がした、あの時と。
…………まだ?
ただひとつ違うのは、どれだけ待っても何も変わらないこと。
リアは心に忍び寄る黒い手を振り払う。膝に乗せたトリムの頭部を包み、じっと見つめた。
遅くなったことを怒っているから……これは、我慢比べなんだ。
あれは何もかもが突然だった。
突然止まり、そして突然何事もなく話し出した。だから今回も、何も問題はないはずなのだ。
「……トリムさん……起きてください」
あの時と同じように呼びかける。
不満そうに、起きていると返事が返ってくるはずなのに、聞こえてくるのは自分の心配性な音だけ。
脈打つ鼓動が、耳障りだ。
「……何度でも謝るので、まずは話し合いましょ」
反省を声に乗せて精一杯お願いする。
大きな溜め息を吐かれて、呆れられながらも話を聞いてくれるはずなのに、その瞳が開かれることはない。
震える声も、手も、全部気のせいだ。
「……私、これ嫌いなんです……いい加減、怒りますよ」
居直って静かに怒声をあげる。
長引いた自分を棚に上げて責めれば、正論で叱られるはずなのに、反応は何もない。あれも怖かったが、今よりずっと、マシな怖さだった。
そうであるはずなのに、そうでなければ、何なのだ。
それはまるで――――。
「ねえ! ……起きて…………っお願い」
凍えているように、吐く息が途切れ途切れになる。
トリムを抱き上げ、胸に抱き締める。陶器のように硬く、金属のように冷たい。重さだけが同じで、温かさも、呼吸もない。
それはまるで、死んでいるように。
「………っあ、ぅ……」
小刻みに首を振る。
冷えた指先は緊張のせいか、抱えたものが冷たいせいか分からない。振り払ったはずの黒い手は、あっという間にリアの心を包み込む。そして、その不安はひとつの答えを導き出した。
脳裏に過る、数時間前の言葉。
――――命にかかわる、重要なこと。
話があると、長くなる話があると言っていた。どんな話なのかちっとも分からない。分からないが、それのせいなんだ。なんであの時話してくれなかったのか。どれだけ長くなってもちゃんと聞いたのに。こんなことになるなら、何を差し置いても一番に聞いたのに。
なんで、すぐに話してくれなかったんだろう。
なんで、すぐに戻らなかったんだろう。
なんで、なんで――――いつも遅いんだろう。
「ねえ……起きてよ」
強く、強く抱き締める。苦しいと、痛いと、不満げに声をかけてくれることだけを期待して。
しゃくりあげる音が邪魔をして、小さい声を聞き逃しているかもしれない。堪えて、歯を食い縛っても、隙間から漏れ出す嗚咽が煩くていらいらする。
簡単なことに躓いて、ちょっとしたことも上手くいかなくて、自分の体さえ思い通りにならない。
いつも気付いた時には手遅れで。
また、ひとりきりになるのか。
また、あの想いを繰り返すのか。
また……?
「……っがう」
違う。
まだ、違う。
リアは顔を上げる。
分からないだけなんだ。まだひとりぼっちになったかは分からない。なら、まだできることはあるはずなんだ。
堪えるのは諦める。不安と後悔ばかりがせめぎあって前に進めないからだ。
鼻をすすり上げ、滴り落ちる雫は流しっぱなしにする。視界を邪魔する時だけ袖口で拭った。
胸元の動かない恩人は何の変化もない。
きっと、魔術に詳しい人なら分かるかもしれない。特に人を癒し、人の魔力の流れを診ることができる者。
システィアに助けを乞うのがいいだろうか。
リアは頭を振る。
このまま時間の経過と共により悪化する可能性もある。自分が戻ってくるのが遅くなったからこんなことになっているはずなのだ。そんなに時間をかけられない。
なら、とシスティアに貰ったペンダントを取り出す。傷を負った訳ではないが、できることは何でも試そうと、その透明な球体を頬に押し当てる。
コツンと硬い音がした。それだけだった。
歯を食いしばって立ち上がった。
ギルドへ行こう。それしか、誰かに頼るしか方法はない。思い付かない。
多人数に知られてしまうだろう。だが、もうどうしようもない。アークに事情を話せば、きっと彼は無闇に騒ぎ立てたりせず、協力してくれる。話せば、分かってくれる人だ。責められるかもしれないが、それは甘んじて受け入れよう。
意を決して歩き出したすぐに、それは現れる。
「最っ悪……」
また、最悪なタイミングで邪魔が入る。
邪魔者は黒と灰色の斑な毛並みを揺らして、リアを捉える。そして獰猛な牙を見せ、真っ赤に染まった口元を歪めた。
魔狼は、確かに嗤っていた。
昼にトリムが倒したものより倍はあると思われる巨大な魔狼は、今しがた何かの命を奪ったばかりの有り様だった。
滴り落ちる口の血を一舐めし、不気味な嘲笑を浮かべてリアに悠々と近付いてくる。まるで注意を払わないその足取りは、正しく獲物の力量を把握しているのだろう。
呼吸を忘れ、後ずさるリアを意に介することなく、タタッと軽やかに魔狼は跳んだ。
巨体の影が夜空に映る。ただ見上げることしかできなかったリアは、暗い中にスローモーションのように近付く血塗れの牙と爪を視認する。痛そうだなぁと思った。
瞬きの直後、重い衝撃がリアを襲う。
地面に背中から打ちつけられ、圧し潰される感覚に耐え何とか身を捩る。両腕と頭を丸め込み、トリムを包むように体を丸くした。無意味な抵抗だとは分かっていても、痛みへの恐怖に身を強張らせた。
「…………?」
ずっしりとした重さに呼吸が苦しい。だが、ただ苦しいだけだ。
肉を刺し、骨を砕く激痛がいつまで経っても訪れない。
おそるおそる目を開けて首を動かしたが、覆いかぶさる巨体が僅かな光さえも遮り、暗闇しかなかった。
魔狼の下にいることは確かだが、それ以外がどういう状況になっているのか分からない。生物とは異なり、剛毛の先に冷えた肉の感触がある。それは動かず、重さを増していく。
牙の餌食から一旦は避けられたことだけ把握したリアは、片腕を伸ばし、体を引きずって出口を目指す。長い時間をかけ、やっとのことで重さから上半身を這いずり出した。
太股まで逃れた状態で座り、振り返って魔狼の様子を見る。
ぐでっと全身が弛緩した巨体からは、首が切り取られていた。切断面は滑らかで、血が吹き出した様子もない。視界の隅に、斑な色の何かが落ちている。
だがリアはその何かを確かめるよりも、目が釘付けになっているものがあった。
魔狼の背中から突き出た、透き通った刃。
首を失うだけでは止まらない生物に害成すものに対し、正しく命を刈り取る行為。
それは正確に核を貫いたのであろう、氷の剣。
そして、
「……戻ったか」
「っ……あぁうぅ」
いつも通りな落ち着いた声音に、リアの口からは変な声が漏れた。
弾くように指で髪先を揺らした。あれほど硬く冷たかった腕の中には、温かさが戻っている。
震える唇を僅かに開き、言葉を紡ごうとするも何かがつっかえている。何だろう、早く話したいのに。
そんな密かに四苦八苦しているリアを差し置いて、何回聞いたか分からない深い溜め息を吐き、トリムが話し始める。
「……随分と遅かったようだが、一体」
「ひぅっ、ぅう、うああああぁぁぁぁとりむああああぁぁぁぁ」
つっかえたものは、あまりにも簡単に取り払われた。
栓が抜けたように、溢れる涙も声も止めることはできなかった。恐怖が拭い去られた安心感に、トリムを抱き締め、ひたすら泣き喚いた。
その間にも何か言っていたようだが、自分の抑えることのできない声で聞き取れない。困った、また怒られてしまう。でもどうしようもない。
違った。
今度は、違ったんだ。
……そっか。
一時感情だけを出し尽くした後、涙と鼻水でずるずるになった顔を二の腕で拭いた。そして鼻をすすり上げ、まだまだ流れる涙はそのままに、トリムと向き合った。困ったような、呆れたような、複雑な顔でリアを見つめ返す。
「……いつになく、騒がしいな」
「さ、騒がしくも、なりますよっ……こわ、こわかった」
何とか絞り出した言葉に、トリムは再び小さく溜め息を吐く。
それすらも今は嬉しい。駄目だ、馬鹿になっている。
「確かに危ないところだったが、危ないところだからこそ気付けたというのもある。お前がこれほどまでに遅くなければそもそも……いや、まあ…………悪かったな」
言っていることがよく分からず、潤んだ瞳のまま首を傾げてトリムを見つめる。
何故トリムが謝るのか。何に対してなのか。謝らなければならないのはリアの方なのに。
落ち着いてきた涙を瞬きで落とし、いそいそと姿勢を正す。
「遅くなって、ごめんなさい。色々とあったんですが……私が遅くなったせいでこんなことになって、ごめんなさい。すごく、怖かったです……でも、生き返って、良かったです。本当に」
「………は? 生き返る?」
一瞬の間の後、訝しげに問われる。
「あ、死んだわけじゃないですもんね、すいません。つい、びっくりしちゃって。どこか悪いとこないですか? 大丈夫ですか?」
普段と変わらない様子に安心していたが、リアには分からないところで不調を来しているのかもしれないと、上体を動かしてトリムをぐるりと見回す。
「問題はないが…………怖かったと、言ったよな?」
「? はい、とっても。……ずっと、返事がないのは、怖いです」
トリムは眉間に皺を寄せたまま言葉を失った。それから、気まずそうに視線を逸らし「そうか」とだけ言った。珍しい表情だった。
その頃には涙も止まり、袖でもう一度拭い取った。
「お昼に言ってた、命にかかわることなんですよね? 話してください。私にできることだったら、何でもしますから」
今は問題なくとも、いつまた襲ってくるか分からない不安に、リアは真剣な眼差しで伝える。だがトリムは口を開こうとしない。まだ何かあるのかと心に黒い影が忍び寄った時だった。
「……まずは場所を変えよう。戻ってきたのだから、登録証とやらは手に入れられたんだろう?」
「はい、そこは大丈夫です、が……時間がないんじゃないんですか? 今聞かせてください」
何故か後回しにしようとするトリムに食い下がる。昼の既視感に、ぎゅっと拳を握り、揺れ動く瞳で見つめる。
一瞬だけ視線が交錯したが、瞬きと同時にトリムは目を伏せた。
「時間がないのは事実だが、すぐにどうということではない。いつまでもこんな場所にいてもしょうがないだろう。再びモンスターが現れんとも限らない」
「そう、なんですか? ……でも、私が遅かったから動けなくなってたんじゃないんですか? 早い方が」
「それについても話す」
リアの焦燥感溢れる言葉とは対称的に、トリムは冷静に遮った。
何かが違う気もする。自分が思い違いをしている可能性にも気付く。
「でも」
「くどい。大丈夫だと言っている」
だが、いつまたあの状態になるか全く分からない不安から、気持ちばかり焦るリアは少しでも早く聞きたい。
二の句を封じられ、リアは黙ったまますがるように見つめ続けたが、ここでは話すつもりはないようだった。
大丈夫って言うなら、大丈夫なんだろうけど……。
嘘は言わないトリムの言葉を信じて、渋々了承するしかなかった。
シリアスは長引かせません。
それにしてもよく泣く主人公。




