とある騎士の追随記録4
風塵が巻き起こる中、ジルニアの頬を掠めたのは、ねっとりとした独特の不快感。体調を悪くするほどではないが、あまり気分の良い物ではない。どこかで感じたことのあるこの空気は、馴染まぬがゆえにすぐにはピンとこなかった。
「……う」
「きゃっ」
背後で倒れる音がして、やっと気づく。
近付きでもしない限り、このような場で感じることなどあり得ない淀んだ空気は、瘴気と呼ばれるもの。
そこにはダンジョン内にいるかと思わせる、いや、それ以上の瘴気が満ちていた。耐性のあるジルニアでも思わず顔を顰める程に濃いものであった。
「動ける者は倒れた者を離れた場所に運びなさい! これは瘴気だ!」
隣に立つ侍女長は応接室の中を見て青ざめている。ジルニアはそれを一瞥し、部屋の様子を見て躊躇いなく中へと踏み入った。
背後では多くの気配が近づいてきていた。騎士団がこの場へと到着したようだが、ジルニアは仲間に報告する余裕などなかった。
「ルーイ!」
床に伏せっている友人に呼びかけても反応はない。
広い部屋の中はより濃密な瘴気で、呼吸をするのでさえ憚られるほどだ。仲間達だけでなく、この屋敷の従者、護衛に雇われただろう傭兵、そしてサルカ・カランと思わしき男までもが倒れていた。
振る舞われていただろう食事は腐り、部屋の四隅にあった観葉植物は炭と化している。そしておそらく瘴気への耐性がなかったであろう従者数人は、全身の皮膚が黒く爛れ、明らかに死んでいることが分かった。
ルーイに駆け寄り抱き起すと、微かに呼吸をしていることを確認でき、少しだけ安堵する。
「ジルニア! この臭いは何だ!」
「瘴気です! 治癒班を呼んでください!」
意識のない友人を応接室から運び出そうとルーイの腕を肩に回した時、視界の隅に小さく揺れる赤いものが見えた。それは揺らめく炎のようにも見えたが、暖かみのある色とは異なり、赤黒くまるで酸化した血が燃えているようであった。
ジルニアが部屋から出ると同時に耐性がある騎士達が数人入り、倒れている仲間や屋敷の住人達を運び出していく。ジルニアはルーイを仲間に預けると再び応接室へと戻り、血の炎の元へ。
「……っく、これは何だ」
近付けば吐き気をもよおすほどのその炎が、瘴気の発生源だと特定するのは容易かった。副団長が言っていた、人工的に瘴気を生み出す実験、というものに直結することも。これが一体何なのかは全く分からないが、最も証拠になるものだ。
ジルニアは魔力を圧縮し小さく強い結界を張る。その瞬間瘴気が閉じ込められ、僅かにだが呼吸がしやすくなった。
ふっと息を吐き、すぐに眉を潜めた。
「先輩、結界術が得意な者をご存じないですか? 私がかけたものではこの……燃焼、の時の経過を止められないようです」
片手に乗るほどの小さい炎は、青白い結界に包まれた状態でもゆらゆらと燃え続け、よく観察するとその身を小さくしていく。
ジルニアの意図を汲み頷いた指揮権のある騎士は「ダタールを至急呼んでこい」と部下に指示し、ジルニアに状況報告を求める。証拠の保存と指導者と思われたサルカ・カラン達について簡潔に伝えると、屋敷内の対応は引き受けるからと副団長への報告を任された。確かに、制圧は完了したが、このような状況では解決したとは言い難いのでジルニアは了解した。代表がこのような状態であれば、指導者――黒幕は他にいるのではないかという疑惑に辿り着く。
そこへ若く小柄な騎士のダタールが「お呼びでしょうか」と現れる。騎士団の鎧は身につけず、黒衣と黒刀のみ帯刀しているので、彼はおそらく後方支援の人員なのだろう。
ダタールはジルニアに気づくと軽く目を見張り硬い表情で一礼する。手早く説明して後は任せるとジルニアは踵を返した。
塀の外に出ないと相殺陣が通信術具の音を遮るので、近い裏口から邸宅外へ出て風魔術で塀まで駆ける。
「ゼロさん、副団長へ繋いで。報告と次の指示を仰ぎたい」
『ご苦労。先に報告は聞いている。よくやった。君の合図で他の拠点にも突入させたが、聖女の保護報告は入っていない。サルカ・カランは取り押さえたのか』
ゼロを介さずに直接副団長が出たので、一瞬驚いたが気を取り直して「問題がありました」と応接室の状況と血の炎のことを伝えた。聖女の娘の手助けがあったことも告げ、できれば聖女の捜索に加わりたいと申し出る。
『分かった。屋敷へは私が向かおう。君は次の指示まで捜索の任で構わない』
「ありがとうございます」
裏門から離れると、頭上で低く深い音が鳴り響いた。いつのまにか薄暗くなった辺りは、暗雲が垂れ込んでいるせいだろう。乾いた空気に雨が降り出す気配はないが、替わりとでもいうように雷鳴が不気味に呻っている。今の季節は暖かいはずなのに、肌寒ささえ感じる。
塀の壁なりに走って家屋のひとつに向かっていると、小さい割れ目に気づいた。赤い壁に駆け寄り確認すると、雑草で見えづらい箇所に地面から三角状の穴が開いている。成人男性は無理だろうが、華奢な女性や幼子であれば通り抜けられそうな大きさだった。
おかしい……こんな穴が開いていたら任務前に知らされているはずだ。
よくよく見ると崩れ具合が真新しくも思える。念のためゼロに確認しようと通信術具に触れた時だった。
「う、うわあああぁぁぁぁ!!」
狭い路地の先から若い男性の悲鳴が聞こえた。
ジルニアは振り返り、すぐさま声の元へと向かう。人通りのない角を二つ曲がったところに、声の主であろう腰を抜かした男性がおり、そして――――真っ赤な鮮血が散らばっていた。
魔力を込めた黒刀を抜き、周囲を警戒しながら男性へと近づく。「大丈夫ですか」と声を掛けるとビクッと身をすくめた男性は怯えた目でジルニアと黒刀を見つめる。
「私は騎士です、あなたに危害は加えないのでご安心を。何があったか教えてもらえますか」
「おっ、俺は、何も……ただ、ここを通っただけで……何も……」
首を左右に振り、混乱した様子でそれだけ言った。その様子から本当にただの通りすがりだろう。
ジルニアは震える男性の肩を優しく叩き「大丈夫」と宥め、鮮血の主の姿を確認する。細い体つきと真っ赤に染まったワンピースを着ていることからどうやら女性のようだった。一目で分からなかったのは、口元から胸元にかけて、まるで中から傷付けられたようにズタズタに裂けていたからだ。
見るに堪えない有様だが、明らかに惨殺死体だ。ジルニアは注意を払ったまま、その惨たらしい死体に近付き、恐怖の表情で目を見開いている女性の顔を見て驚愕する。
「な……」
乱れた髪は元は肩で切り揃えられ、真っ赤に染まったワンピースは元は薄紫色の、代表の屋敷から出られるはずのない女性だった。
「……子供」
「え?」
少しだけ落ち着いた男性は、呟くようにジルニアに呼びかけた。
振り返ったジルニアは男の続く言葉を待つ。とても嫌な予感が心中を塗りつぶしていく。
「子供と、すれ違ったんだ……ここに来る直前……ここを、通ったはずなのに……」
「どんな……子供ですか」
気づけば喉がカラカラに渇いていた。ジルニアはごくりと唾を飲み込む。
男性はジルニアを見上げると、恐怖を瞳に宿し「笑ってたんだ」と言った。
「すれ違った時、笑ってた……銀の、髪の……女の子だった…………二人の、よく似た、女の子だった」
ジルニアは黒刀の柄を強く握り込み、冷静になれと自分に言い聞かせる。まだ何も分からない。確証も何もない。疑うことが正しいかさえ分からない。
ひとつだけ分かることは、レティアナは最も核心に近いところにいる。
通信術具に魔力を流し込み、声と気持ちを抑えて呼びかける。
「大至急副団長に伝えてほしいことがある」
そう告げるとゼロは何も言わず直接副団長に繋いでくれたようで、すぐに『どうした』と声が聞こえた。
「塀の外で代表と聖女の娘二人と思われる目撃情報を得ました。先程屋敷内で見た女性、おそらく代表夫人の惨殺死体の近くで、です。屋敷から西方……ゼスティーヴァの方角の人気のない路地です。人員をいただけますか」
「無論だ。すぐに向かわせる……くそ」
「確証はありません。目撃者の男性の保護をお願いします。私は先に追います」
いつも冷静さを欠かない副団長の悪態に、ジルニアはそれだけ言って通信を切る。黒刀を納め、サイファを使って高く飛び上がった。
屋敷のシンボルの頂上部より高い位置で、村の全体を見渡す。展望台で眺めた時より人々が非常に少ないのは、どんよりとした黒雲と、いたるところに見える黒点つまり騎士団の統制のせいだろう。
男性とすれ違った路地の先は、村の出入り口ではなくゼスティーヴァの方角だ。まさかダンジョンに向かっているのかと考え、すぐに頭を振る。その間にも建物は多くあり、そのひとつが目的地だと考える方が現実的だ。
目的地――――黒幕の仲間との合流地か?
ジルニアは再び頭を振る。まだ決まったわけではないのだ。レティアナの、あの強い意志を灯した瞳が嘘であったと判断できるものはまだ何もない。ただの似た少女達かもしれない。
そこまで考え、馬鹿みたいな言い訳を探している自分を嘲笑する。今それを考える必要はない。
見つけ出す。それだけだ。
それらしき二人の人影はここからでは見つけられない。方角が分かっているならその方面を探そうと近くの建物の屋根に降り立った。
ロクの報告書にあった従者の出入りがある建物にはすでに騎士団が乗り込んでいるはずだ。脳内で照らし合わせ除外していく。
サイファで何度も飛び移りながら、路地に視線を彷徨わせ、閉め切った建物を調べ、通りがかりの人々から目撃情報を探した。
子供の足ではそれほど早く、遠くまで行けるとは思えないのに、最初の男性以外に少女達を見たという者は誰もいなかった。
屋敷の近くにその目的地はあったのだろうか。いや、それならば人員を割いてくれているので騎士の誰かから報告がすでに入っているはず。そもそも相殺陣が施されている塀を崩し、代表夫人を人の手ではあり得ないような殺し方をしているのだ。常識で考えてはいけない。いや、少女達があの惨殺死体に関わっているとはまだ――、
「!?」
ジルニアは力が抜けるように地面へと落ちた。受け身を取り負傷はなかったが、立ち上がろうとしたところで膝をついた。考えないようにしていたつもりが、気づかぬうちに思考の坩堝に嵌っていた。そのせいで使用頻度を超過し魔力を使いすぎてしまっていたようだ。サイファは連続で何度も使用する魔術ではないし、魔力量が少ない者なら尚更だ。
全身の深いところに感じる魔力不足特有の倦怠感を引きずり、ジルニアは走り出した。
村の中心部からは大分離れたところに来てしまっていた。何故か人影はほとんどない。いくら騎士団がいたとしても一般人にはそう関係もなく、未だ夕刻だ。
疑問の先に行きついたのは、数刻前に感じたばかりの肌を撫でる不快感だった。
このあたりはディーテリンダルレイクが近いが、人の住む家屋もある村の中だ。昨日は湖の近くでさえこれほど濃い瘴気は感じなかった。
湖の方角から足早に駆けてくる鎧を着た男性を捕まえて尋ねる。
「この濃い瘴気は一体何ですか?」
「なんだ、にーちゃん、今日は赤の日だぜ? 観光なら明日にしとけよ。つっても近付けねえだろうがよ」
「赤の日?」
「知らねえのか? 赤の日の夜は特に濃くなるから俺らも休みになんだよ。最近は頻度が多いから飲み歩ける夜が増えて嬉しい限りだ、はっは」
そう言って男性は村の中心部にある酒場へと走っていった。
ジルニアは見上げる。薄暗い中でも堂々たる威厳を放つ黄金塔ゼスティーヴァ。何年も、何十年も前からあるダンジョンは、放つ瘴気に波があるのだろうか。
視線を下げると展望台が見えた。魔力の回復には時間を要するのでしばらくサイファは使えない。屋敷とゼスティーヴァの直線上にある展望台からならば、屋敷の方から捜索を進めているはずの他の騎士達とも合流しやすい。村からは多少離れているが、長い時間経過し、もはや見当もつかない少女達の目的地を高い位置から探してみるのも悪手ではないだろう。
雷鳴はおさまるどころか益々激しく喚いている。厚い雲で分からないが陽が沈む時刻は近く、そうなればより一層捜索は困難となる。
展望台に辿り着いたジルニアは、赤の日のせいか立ち入り禁止標示がかけられた、誰もいない展望台へと上がった。視線を向けると黒い仲間達は村の端近くまで迫っている。それでもなお、少女達も、聖女でさえ、発見したという報告は入らないのか。
「ゼロさん……まだ、見つかってないのかな……」
報告でも連絡でも指示を仰ぐでもない呼びかけに、自分で苦笑する。こんな無意味な通信にもあの真面目な彼はいつもどおり簡潔に答えてくれるのだが。
「……? ゼロさん?」
返答がない。魔術具の通信範囲にはまだ入っている。サイファが使えないほど消耗したとはいえ、魔術具は微々たる魔力で使えるほど効率化されている。言ってしまえば、死の淵でさえ、体が動かせずとも僅かに循環する魔力で使用可能だ。
「こちらジルニア・ラウカヴォフ。返答を求める」
耳元からは誰の声も返されない。騎士団の姿は目視できる。捜索の動きに変化はない。つまり彼らには問題なく通信ができているということ。
届かないのは、ここだけ?
届かないのではない、遮断されているのだ。これは、代表の屋敷の時と同じ、相殺陣。
ジルニアは展望台から駆け下りる。この場所は調査する必要がある。まずは相殺陣の範囲から出てゼロに連絡を取らなければならない。
「――――なぁんだ、先回りされちゃったぁ」
展望台の吹き抜けに、鈴の音のような軽やかな声が響いた。
それは可愛らしい声音だったが、何度も反響した展望台の中で不気味な笑い声に変わっていく。
ジルニアは心臓を掴まれたように息を詰まらせ、階段の上から入口に立つ小さな二つの影を見つめた。
「あれぇ? お兄さんひとりだけ? ……それなら、どうにでもなるかな」
くすくすと笑う少女は、片方だけ。レティアナと手を繋いだ、レイラと呼ばれていた少女。
ジルニアは背中を走る悪寒に冷や汗を流す。夜中路地で会った時とも、屋敷内でドア越しに感じた気配とも、全く異なる威圧感。およそ幼い身に余る、殺意。
「……君は何者だ」
「知る必要はないんじゃないかなぁ」
常人ではないことははっきりしていた。呼吸さえ憚られる緊張感の中、ジルニアは掠れた声で問う。
「ユーグス、か」
「……それ、誰が言ったの?」
刹那、ジルニアの目の前で光が弾けた。
隠そうともしない殺意に神経を尖らせていたおかげで、ジルニアは咄嗟に後ろに跳んでそれを避ける。黒刀を抜き、続けて襲ってきた光を切ると、破裂した光の針が鉱糸帷子を突き破りジルニアの肩と腕を切る。
「ぐっ」
「反射神経いいねぇお兄さん。渾身の一撃、二撃だったのに。でも何回切れるか――っ」
切れた言葉に視線を下げると、少女達は繋いでいた手を離していた。
ジルニアは息を吐き、僅かに回復した魔力を確認し、小さく序説を唱える。
「何をしているの。どうしてそんな魔術が使えるの。お兄さんを、どうするつもりなの」
レティアナの声は、いつものように淡々としているようで、だがそこには確かに熱を持っていた。
それは、怒り。
殺気はレイラからのみで、レティアナからは怒りは感じても異様な気配はなく普通の少女のそれだった。だが、レティアナとレイラは血は繋がっていないまでも異母姉妹である。レイラの異状さに関係性がないとは断言できない。
ジルニアは少ない魔力を隅々まで意識して詠唱を続ける。銘をシズという、前面だけを守る強固な結界だ。
「大丈夫だよ、すぐに終わらせるから、レティはさっきみたくちょっとだけ目をつぶっていてくれる? そうしたら母さまのところに連れて行ってあげるから。その後は、ボクのお願いを聞いて?」
「嫌よ。母さまに二度と会えなくても、私は目を閉じない」
「……どうして? 今までもずっと、見て見ぬふりしてきたじゃない。なんとなく分かってたよね? 父さまがどんなことしてたか」
「っ……ええ。だから、今は見るのよ。レイラが何をするつもりなのか、答えてくれないのなら、見て、決めるわ。それで酷いことをするのなら、止める」
レティアナの答えにレイラは一瞬言葉を失った。けれどすぐに微笑みをたたえてレティアナに手を差し出す。
「ごめんね? いじわる言ったね? レティは悪くないよ。ぜーんぶ隠してた父さまが悪いんだよ。ボクだってお兄さんに酷いことするつもりなんて全然ないんだ。だから、ね? 目をつぶってて」
「嫌。……レイラ、本当のことを言って? ……信じさせて」
レティアナの声からは怒りが消え、最後の言葉は空虚に響いた。願いが込められていたが、それは所詮願いでしかなく、真実とは程遠いものであった。
「……うーん、じゃあもうここはなくなるし嘘はやめるね。ボクのこと嫌いにならないでね?」
思案した間の後、そう前置きしたレイラは、レティアナにとびきりの笑顔を向けた。無邪気にしかみえない表情は、ただの子供のようでいて、人を惑わす悪魔のようでもあった。
「レティはボクと一緒にここを出るんだ。最後に母さまに会わせてあげる。そしたらばいばい。それを邪魔しようとする人がいたら、殺さなきゃいけない。それはしょうがないよね?」
「……私が一緒に行くなら、誰にも何もしない? 母さまにも……会わないでいいから」
「ううん、どっちにしても外さなきゃいけないから、我慢しなくてもいいよ。ボクは直接何もしないけど、ここは埋めなきゃいけないから、皆死んじゃうよ。嫌われたくないから、先に言っておくね」
レティアナは息を呑み、後ずさりしてレイラから離れた。困ったようにしょうがないなあと笑うレイラが一歩レティアナに近付いた。
「シズ!」
階段から飛び降り、結界を展開する。レイラは片手を向けて光の魔術を放つが、ジルニアの結界がそれを阻む。光の針の攻撃を掻き分け、レイラの真上から横へと黒刀を薙いだ。
人を断った感触はなく、ジルニアは地面へと着地する。その勢いを殺さず、地面と平行に跳び、レティアナを抱き去った。展望台の出入口から離れ、風のように走ると背後から殺気が迫る。
振り返りざま黒刀で光を弾き、結界と腕でレティアナを庇う。見やるとレイラは入口に立ち竦んだままで追ってくる様子はなかった。
結界の保持に神経を使いながら、レティアナを地面に下すと、すぐさま通信術具へと呼びかける。
「展望台だ! 対象は、くっ」
光の矢がジルニアの頭部を狙って放たれ、結界を突き破って掠めて行く。まさか破られるとは思わず、一瞬判断が遅れたジルニアは頬から耳にかけて裂け、ぼたぼたと血が吹き出した。通信術具は壊されてしまったが、きっとゼロは分かってくれるだろう。
レイラが踵を返し展望台の中に入って行った。
少女達の会話は聞こえていた。レイラが何かを、ディーテ村全体に危害を及ぼす何かをしようとしていることは明らかだった。そして彼女の異常な光の魔術を見て、不可能だと一笑に付すことなどできない。ならば、止めなければならない。
動き出すジルニアを止めたのは、まるで全てを見守る夜空のように澄んだ、紺色の双眸。だが深い悲哀を灯したその瞳は闇へと落ちていくようでもあった。
ふとジルニアは昨日話した呪い師の言葉を思い出す。厚い雲に覆われ、空には星が見えない。
それは、星が消える夜。
掴まれた服の裾を優しく外し、「すぐに仲間が来るから大丈夫」と手を離そうとすると、レティアナは首を左右に振った。
「足手まといなのは分かるわ。けれど、レイラは私だけは殺さないと思うの。どんなことでも、盾にだってなるから、お兄さんに協力させて。……あの子は私の家族だから……絶対、レイラを、止めなきゃ」
少女の言葉は全てが正しかった。足手まといになることも、レイラが唯一殺そうとしていないことも、身を挺して盾になることさえも、偽りは何一つなかった。
レティアナはいつだって嘘に身を染めず、何に対しても真摯だった。真実を見抜く瞳は持っていても、家族でも、夜道で出会った初対面の男でも、信じてしまう哀れな少女だった。
「……危険だ、システィアさんとも……」
絞り出した言葉は、その先を紡げない。
少女の申し出を受けるのならば、自身で言った通り盾としての役割を果たそうとするのを止められないだろう。ただレティアナの想いの為に連れて行き守るだけの余裕はジルニアにはなく、またディーテ村は危機に瀕している。
きっとレティアナはレイラの魔術から文字通り身を挺してジルニアを守ろうとする。そして光の矢は、結界を破り幼い体を容易く貫く。
レティアナはゆっくりと首を振る。
「私は、母さまに会いたいんじゃないの、母さまに胸を張って会いたいの――――父さんと、そう約束したから」
ぐっと、息が詰まった。少女の決意は、ジルニアの胸を貫くものだった。
子が母を求めるだけの当然の望みを押し殺し、アウレファビアの聖女に恥じない自分であるために、自らの命をも懸ける信念がある。亡き父との約束を優先し、村の人々の命を優先し、その身を費やすことを躊躇わない。
幼くも、高潔な――――真に聖女たる少女。
ジルニアは疑い、悩んだ自分、そして力不足のあまり少女を利用しようとしていることを恥じた。
だがその汚い自分を飲み込み、人命を天秤にかけ、選ばなければならない。
――――私は、騎士だ。
免罪符などではない。
ジルニアが生きる為に負った、決意だ。
「……ありがとう。絶対に、止めるよ」
絶対に守るという、優しい嘘はつかなかった。
レティアナは頷き、しゃがんだジルニアの首に両手を伸ばした。
再び展望台に戻ったジルニアが中を覗くと、誰の気配もなく、かわりに建物の地面の中央に丸い穴が空いていた。地下へと続く階段が見え、まさかと悪い予想が頭をもたげた。
暗い底からは、ごと、ごと、と何かを引きずり上げる音が響いてくる。レイラが消えた展望台の中だ、彼女なのは間違いない。
ジルニアは黒刀を構えたまま、その姿を見て、息を飲んだ。
「……か、あ……さま……」
レイラと共に現れたのは、階段から引きずり上げられたのは、探し求めていた聖女システィア・カランその人だった。
予想があった時点で、レティアナの目を塞いでおくべきだった。ジルニアは最も後悔する。
レイラに掴まれた銀髪は乱れ薄汚れており、痩せ細った華奢すぎる体は少女の力でさえ運べるほどに軽いのだろう。みすぼらしい服をまとった体は目立つ怪我はないものの、その表情はやつれ、途切れ途切れの呼吸は苦痛でしかないようだった。
「おかえりぃ。戻ってきてくれると思ってたよ。レティは母さま大好きだもんね。ほら、母さまだよ? 最後のご挨拶させてあげるから、こっちにおいでレティ」
レイラはシスティアの頭を脇に抱え、一歩ずつ歩み寄ってくる。
ジルニアはレティアナを抱いたまま動けないでいた。何故ならシスティアの首もとにあてられた銀のナイフが判然と輝いていたからだ。
今この場で聖女を引きずり出してくる理由など一つしかない。先の会話からも、彼女が何らかの起爆剤の役目を果たすことは想像に固くない。今にも切り裂かれそうな喉元から鮮血が溢れだした時が、レイラが言っていた「皆死んじゃう」時なのだろう。
「早くおいでよ、そんな汚いガキから離れてさ」
その言葉と共に光の矢がジルニアの腕を狙ってきたので、黒刀で弾き飛び退く。狙いは確実にジルニアだけで、レティアナが怪我を負わないように広範囲に破裂させる光の魔術は使ってこない。
展望台からずるずると這い出す少女は、異様な光景であるのに平然と笑い、もはや人ではない。
ジルニアは黒刀を強く握り、僅かにレティアナを抱く腕に力を入れる。そんな懺悔を受け入れるように、少女も強く抱きつき「お願い」と小さく呟いた。
重心を落とし、息を吐く。
怒りか冷静さかよく分からない感情は全て黒刀に流し、刃は鋭さを増していく。
思考は止める。
不必要なものは遮断する。
ただ、盾で防ぎ、刃で討つ。
そして、
――――星が消えた空に、閃光が走った。
補足。レティアナは家族の言うことを信じていたかったんですが、真実を知って、信じたかったという自分の望みを優先したことを激しく後悔し、さらには酷い状態の母親を見て、胸を張って会うことを諦めてしまいました。そんな本編の心情の経緯がこれでした。
そして、やっと来た爆発!




