とある騎士の追随記録3
「ん?」
ジルニアは指先に焼けるような痛みを感じて視線を落とした。
手を開いてみると、昨夜の削り屑を挟んだ指の爛れた部分が大きくなっていることに気づく。指の腹にある黒くなったその火傷は、皮膚に染み込んでいくように一回りほど範囲を拡げていた。
迂闊に試してしまったことを後悔したが、耐えられない痛みでもないので任務後に治癒班に治してもらえばいいかと、とりあえず放っておく。また放置したことをどやされるだろうが、今日が決着の日なので後回しは仕方がない。
時刻は明朝。厚い雲の隙間から朝陽が存在を主張しており、辺りは明るい。天候読士によればしばらく雨は降らないらしいので、曇りのまま一日が終わるのだろう。
ディーテ村で各々散った騎士の調査と報告は、深夜のうちに副団長の元へと集められた。
ゼロ経由で解析を頼んだ、鎧に施されていた崩潰の魔術は、ジルニアの予想通り魔力以上に瘴気に反応するものであった。それも触れてすぐではなく、瘴気を一定量含んだ時点で突然発現し、跡形もなく崩れ落ちるのだという。魔術の発現後はそれ自体が崩潰し証拠としても残らない厄介な代物だった。実際のところ魔術と呼べるのかさえ現時点では明言できないと解析班は言っていたという。
また別の者の報告によると、同様の飾り彫りが施された武器類を代表の屋敷に運び入れたという運搬人の証言を得ることができた。一昨日のことであり、その後運び出された目撃情報は得られなかったので、希望的ではあるがおそらくまだ証言通りの部屋にその証拠があると思われる。
加えて、アコワーズが昨夜話した通り、代表のところへ運び込まれる予定の酒を、港の子供から手に入れ解析が行われることになっている。
ジルニアが持ち込んだ特異な魔術の痕跡があり、他の物証についても、ダンジョン挑戦者へ悪意ある行為が行われていたことは間違いないはずだった。
だがディーテ村代表を取り立てるための関係性としては弱く、もしこちらが把握できた物証と出入りしていた従者が切り捨てられ言い逃れされてしまえば、畳み掛ける材料がないのも事実だった。つまり崩潰の魔術が施された武器類や酒を屋敷から見つけ出し、現行犯で捕らえることが重要であった。
以上のことから、元々のルーイ達の潜入調査に加え、先ほどジルニア達に最終任務が下された――――合図を待っての代表の屋敷への強行突入だ。
逃した場合の事の重大性をもって弌刻団長を説き伏せ、物証の確保を前提に国王の認可をもぎ取り、他団の協力を得る手筈を整えた副団長の手並みは流石としか言いようがない。
ただ問題なのが、未だに聖女システィア・カランの居場所がはっきりと掴めていないこと。
代表の屋敷の、地下への入口と思われる扉の位置情報は得られた。現在のサルカ・カランが村の代表になる前に屋敷に勤めていたという老いた元従者からの話である。
代表の従者の出入りがある建物については、見張りがいたため等の理由で地下の有無を確認できていないものも含めて、候補は絞られてはいる。
つまり、好手ではないが時間の制約上、後は実際乗り込んで探り、助け出すしか方法がなかった。
まだ、生かされていれば、たが。
ルーイ達冒険者役は昼過ぎにディーテ村へ着き、そのまま代表の屋敷へと招かれるだろう。
彼らが証拠を確認後、突入の合図をあげれば、屋敷並びに他の出入りがある建物へと同時期に騎士団が乗り込む手筈となっている。聖女に関しては、王都から応援が向かっており物量にかまけたしらみつぶしとも言える。
聖女へ危害が加えられるリスクはあるが、時間をかければ逃亡や証拠の遺棄等、悪い方向へ事態が動く可能性もあり、この任務の最終決定もやむを得ないだろう。聖女といえど、貴族でも王族でもない彼女の命の優先順位は、高くはないのだ。
馬の嘶く声が遠くで聞こえ、やがて蹄の音とともに馬車が姿を現した。独特な色合いの小振りな二輪馬車は一目見て代表の屋敷へ向かうものだと分かる。
大通りのテラス席で朝食をとっていたジルニアが何とはなしにその馬車を眺めていたら、窓から顔を出していたルーイがちょうどこちらに目を向けた。ジルニアに気づいたのか笑顔になったので、はしゃいだ子供かと呆れながら水を一口飲む。
通り過ぎるのを見送った後、ジルニアは追うように人波を避け人通りの少ない路地へ。二階建ての宿屋の一室へノックもなしに入ると昨夜から合流した二人が椅子に座っていた。アコワーズはよっと片手を上げ、読書中のデミルは無表情で一瞥した。
二人の分のサンドイッチをテーブルに置き、窓へ近づいて屋敷を見やると高い壁が立ちはだかって中の様子は全く分からない。赤いシンボルと邸宅の屋根が見えるだけだった。
『待機を』
しばらくして、潜入組が屋敷に入ったと、通信術具からゼロの声が聞こえた。
後ろでパタンと本が閉じられる音がして、二人が立ち上がった。
ジルニア達は代表の屋敷への突入組だ。あとは合図を待つだけになる。
しかし、それから三十分近く経っても開始の連絡が入ることはなかった。
邸宅の見取り図との相違や見張りの目があって調査自体が難航しているのか、証言との食い違いやそもそも物証が見つけられないのか、あるいは別の問題でも発生しているのか。
ジルニアはひどく嫌な予感がし、こちらからの連絡は自粛させられている通信術具に呼びかける。
「すみませんゼロさん、ルーイ達からの合図は……連絡はある?」
『ない。当方からの呼びかけにも無反応だ。その件で弌刻副団長からジルニア・ラウカヴォフに繋ぐ』
「……はい」
どうやら嫌な予感は当たりそうだなとジルニアは顔を顰める。合図どころか報告さえ入れないルーイ達に、本任務の最終指揮権者である副団長が手をこまねいて見ていただけのはずがない。
『ジルニア、君の得意とするサイファで塀を飛び越え屋敷に潜入してもらう。証拠の発見、あるいは必要と判断した時に光線筒を使用し、突入を待て。光線筒および黒刀はイチから受け取れ、じきに着く』
「はい」
副団長の指示は、連絡が取れないルーイ達の替わりにジルニアが単独潜入し、開始の合図をとれということだった。
騎士団の剣である黒刀を持ち、通信術具ではなく一般人にも見られてしまう光線筒での合図となると、ジルニアの判断で全てが左右されてしまう。即ち、確固たる証拠の下の強行突入、聖女の命運、失敗すれば騎士団の名に泥を塗るかも含めて。
ジルニアの苦い顔にデミルとアコワーズが任務の変更を感じ取って目を細める。彼らにも追って連絡はあるはずなので、ジルニアはその視線に片手で返事をした。
『魔術具の音が届かない原因は、塀あるいは邸宅内に相殺陣が施され遮断されているからだろう。王城に匹敵する程の技術だが罪にまでは問えない。最悪、魔術は使えないものと思え』
「はい」
『優秀な君の話はよく耳に入る。期待している……悪いな』
副団長の詫言は、指揮権を持たない弌刻末端のジルニアひとりに重要任務を押し付ける結果になってしまったことに対してだった。そのうえで、ジルニア以上にこの任務の最適者がいないとの判断を下したのだ。
ジルニアはサイファ程度であれば詠唱文の省略を可能とし、加えて静音性が非常に高い。剣技、体術に関しても弌刻の中で上位に食い込むと噂されており、流れるような動きは暗殺者のようだと揶揄する声もあった。
決して魔力量が多くないジルニアが騎士団で生き延びるために身につけた技を、そんな小手先だけとも言える努力を、副団長に認められていた。それに場違いにも嬉しく感じ、なおかつ合図のタイミングを任せられる重要任務に気を引き締めた。
ドアが閉まる音に振り返ると、背後にイチが立っており、光線筒と黒刀を差し出す。ジルニアはそれを受け取って窓際まで行くと三人に振り返った。
「私は先に行くので、後は頼んだ。変更内容は」
「今入ったが、マジかお前、気を付けろよ」
通信術具から聞いたらしい変更命令に驚くアコワーズに肩を竦めて笑い、イチに視線を移す。
「イチさん、悪いけど」
と、途中でジルニアは言葉を切った。
既に詠唱文を唱えていたイチが「ソロウホロウ」と呟くとジルニアに二本の指を伸ばした。すると、ジルニアの姿が歪み、目視しづらくなる。ジルニアの不完全な魔術より潜入に特化した彼に施してもらう方が精度が高く持続時間も長い。
ジルニアは礼を言い、足元に風魔術を纏わせると窓際から飛び立った。
屋敷までの直線状にある家屋の屋根に一度足をつく。そして空気を破裂させて勢いを出し、風を生み出してあっという間に塀間際まで来た。石造りの細い家屋の壁に手をかけ、さらに風魔術を強く放つ。
放物線を描いて屋敷内に入るはずだったジルニアの体は、塀の真上を乗り越えた瞬間がくんと落ちた。
「サイファっ」
地面に着く直前、命令式を急いで組み立てて魔力と共に出力。勢いを殺して降り立ち、そしてすぐに木の陰に隠れた。
副団長の予想通り、魔術の発現をキャンセルさせる相殺陣が塀に施されていたようだった。せっかくイチにかけてもらったソロウホロウも無に帰した。ただの村代表の防犯対策としては明らかに行き過ぎている。
塀の中は大きな一階建ての邸宅が中央にあり、庭園は手入れが行き届き特に違和感は見当たらない。屋敷の入口に見張りの従者が立っているだけで、庭園には人の影がほとんどなかった。広い屋敷のわりには人数が少なく感じるが、邸宅内に控えているのだろうか。
ジルニアとしては動きやすいので、音と視線に気を付けながら人目を避けて邸宅に近付いた。出入口は巨大な両開きの玄関と、見張りのいる裏口のみで、窓から入り込むしかない。しかしどの部屋にも人の気配がする。こうなればひとりのところへ押し入り眠ってもらうしかないだろうと、強盗のような思考を噛み砕き飲み込んで、開いている窓の下へと来た。
カリカリとペンが走る音がする。小部屋の中の住人は物書きをしているようで、座っているならば御しやすいと音を立てず息を潜めて部屋へと滑り込んだ。
机に向かう銀髪を結った後姿はとても小さく、子供を気絶させる罪悪感に一瞬の躊躇が生まれた。
それが、ジルニアを救うことになる。
気配を消していたはずなのに振返った子供は――――昨夜、路地裏で出会った無表情な少女は、驚いた様子もなくジルニアをじっと見つめた。
「……やっぱり、変だなって思ったの」
「……何が、変だった?」
突然部屋に現れた侵入者に、少女は悲鳴を上げもせず、逃げる素振りも見せない。その動じない態度にジルニアも少女の言葉に問いかけてしまう。
「根拠はないわ。なんとなく変だなって思っただけ。だから、お兄さんの言ったことを信じたの。観光に来ただけなら、こんなところにいてほしくなくて。……いい人そうだったから」
少女は一度目を伏せ、すぐに視線を上げると感情の読み取れない瞳の中に強い意志だけを灯す。
「でも、違うのね。……私はレティアナ・シルフォード。ディーテ村代表、サルカ・カランの――娘よ。お兄さんがここを壊しに来たのなら、私は協力するわ」
凛とした声音で、そう言った。
ジルニアは少女、レティアナの告白に言葉を失った。
レティアナ・シルフォードという名は囚われた聖女の実の娘の名だと、ロクからの報告書にあったからだ。そんな渦中の人物であるのに、子供という理由で任務からは度外視していた。その浅はかさを恥じ、同時に目の前の少女に圧倒された。聖女の娘を名乗るに相応しい堂々たる振る舞いに納得もした。
だが冷静すぎる点においては理解しがたいもので、また強盗のような侵入者に協力するという言葉の真意も不明だった。
「君は、アウレファビアの聖女のお嬢さんだよね? 怪しい……自分で言うのも何だけど、怪しい男に協力する理由が分からないな」
「私のことを知っているの? なら、お兄さんは監査官……いいえ、その漆黒の剣は王都の騎士さまね。然るべき役割を持つ方で良かったわ。……でも、例えば、泥棒さんだったり、強盗さんだったとしても、盗み出して、ここを壊して、父さまを止めてくれるのなら、私は協力を惜しまないつもりだったのよ」
ジルニアは驚愕し、息を飲んだ。
黒刀は確かにジルニアが着ている私服に不釣り合いな立派なものだが、ジルニアの言葉と黒刀だけで王都の騎士と見破った洞察力。さらに、父さま――ディーテ村代表の悪事を認識している口振り。
その上で協力を名乗り出るということは、咄嗟についた嘘か――――待っていたかだ。その小さな身ではどうすることもできないであろう現状を打破する機会を。
少女の言う、壊す、は物理的なものではなく、真実を暴きこの環境を壊してほしいということだろう。
ジルニアは唾を飲み込み心を落ち着けた。遥かに年下の少女より冷静さを欠いてどうする。いや、それすらも見くびった感情かもしれない。
人の真意という明確な答えが得られないもので判断する場合、思考に思考を重ねても、一瞬で直感に従っても、結局どの選択肢を掴むかは本人の自由意思である。信じたいと、思ってしまった。
ジルニアは少女を、レティアナの瞳の強い意志を選ぶことにした。
「……そうか、分かった。協力はありがたい。俺は……私は、王国直属騎士団弌刻ジルニア・ラウカヴォフ。君の父上サルカ・カランの行いの見極めと、聖女システィア・カランの救助が任務だ」
「かあ……さま……の?」
レティアナの目が見開かれた。出会って初めて、感情を露にした瞬間だった。その驚きようにジルニアは違和感を感じる。
「どこにいるか知ってる?」
レティアナはゆっくりと俯き、首を振った。
「公にはこの屋敷の私室で療養していることになっているけれど、以前その部屋を覗いた時は誰もいなかったわ。…………も、もしかしたら、お兄さんの、その任務は……果たせない、かもしれないの」
俯いたまま途切れ途切れに紡ぐレティアナの声は消え入りそうで、震えていた。
ジルニアは酷なことを聞いている心持ちになりながら「どうして?」とできるだけ優しく問いかける。
「母さまは、不治の病……だったから……もう、いないかもしれないの……父さまが気を遣って、隠しているのだと……思うわ」
その言葉に、ジルニアは胸が詰まる思いに襲われた。
聖女の娘であるレティアナさえ居場所を知らない。長い間会うことができていない。死んだと思わせるほどに。
レティアナの前にしゃがみ、目線を少女と合わせたジルニアは、肩に優しく触れる。
びくりと身をすくませたレティアナは躊躇いがちに顔を上げた。その表情は堪えているようで、だが瞳が潤むことはない。
「聖女……システィアさんは、生きているよ。彼女に呼ばれて我々はこの村に来たんだ。地下に囚われていると、本人の言葉で」
「……ほん、と、に?」
頷いたジルニアに、レティアナはぐっと食いしばって咄嗟に下を向いた。一息吐いて顔を上げた時には表情はなく、そして淡々と告げた。
「なら、ここではないわ。地下の倉庫には備品と、たまにどこからか仕入れてくる鎧とか、そんなものしか置いていないし、私も何度も出入りしているもの。私が知っていることなら何でも答えるから……母さまを、見つけてくれる?」
僅かに揺れる瞳がジルニアを見上げる。
「うん、勿論だよ。じゃあその倉庫の場所を教えてほしい。確実な証拠を押さえれば、仲間も合流できるから皆で探すよ。……あと、先程この屋敷に招かれたはずの冒険者はどこにいるか知ってる?」
「証拠なら精製器がある部屋を押さえるのが一番だと思うわ、それと招かれた方たちは応接室にいるけれど……その方たちも騎士なの? ……だとしたら……あの子に見抜かれているかもしれない」
「あの子?」
精製器という単語も気になったが、それ以上に不穏な意味合いが含まれていた言葉をジルニアが聞き返した時だった。
「レティ」
聞き覚えのある声音が、ドアの向こう側から響いた。
「……」
その声を聞いたレティアナは、ジルニアの耳元に顔を寄せた。気づいたジルニアも顔を横に向けると、レティアナは片手を添えて声を潜めて話す。
「応接室はここを左に出て右に曲がって真っ直ぐ行ったところ。すぐ分かるわ。精製器はその隣の部屋。地下へは裏口が近いのだけれど、分かるかしら?」
ジルニアは頷く。
「レティ? いるんでしょ? 父さまが呼んでいるよ」
「裏口の目の前の部屋に地下への扉があるわ。母さまのこと、お願い。……ごめんなさいレイラ、今行くわ」
レティアナが離れ鍵を開けたので、ジルニアはドアの裏に隠れると、少女はすがるような瞳を残して出ていった。彼女にそっくりなレイラを連れて。
レティアナが去った後、ドアの向こうに人の気配がないことを探り、僅かに開けて確認。左手の通路の突き当たりは右に曲がっていたので、道なりに進めば応接室とやらに着くのだろう。
物陰はなく部屋はいくつかあるようだが、この際身を隠す必要性もないなと思う。証拠がある部屋に辿り着ければどうせ光線筒で侵入者の存在を露にしてしまうのだから、道中で少々乱暴なことになっても致し方ない。
レティアナの言葉を全面的に信じることになるが、偶然侵入された部屋にいただけで流石にああも偽りの話ができるとは思えない。勿論ジルニアが信じたい気持ちが優先していることは自覚していた。
通路の端の辺りを堂々と歩いていると、従者の仕事着であろう上下生成色の服を着ている二人組が向かいから来る。一礼して通り過ぎ、特に騒がれることもなく角を曲がる。
その先には何人かの従者が物を運んでおり、ジルニアを一瞥しただけで仕事を続ける。
このまま何事もなく応接室まで行けるかとも思ったが、そう上手くいくはずもなく。
「そこの方! お待ちくださいませ!」
背後から呼び掛けられたジルニアは走り出し、足元に魔力を練る。塀を越えた時のような霧散していく感覚はなかったので、そのまま風魔術を使い一気に人々の頭上を飛び越えた。
視線の先に他とは一線を画する立派な扉が見えた。おそらくレティアナの言った応接室だろう。となると、隣の部屋に証拠が眠っているはず。
ジルニアは「グ・ヴェル・ナ・ローレ」と序説を唱え、音に魔力をのせる準備を始める。
光線筒で仲間に知らせてもその間に証拠を持ち出されたり壊されたりしたら元も子もない。精製器というくらいだから道具であることは分かるが、数も形状も大きさも不明なので手を出された場合必ず阻止できる自信はなかった。
「銘をライズとし、寄与を称述する。己の地が基点なり」
現場の保存のためにもいつでも結界を展開できるようしておくべきだ。そして長時間の結界の保持には、ジルニアの多くない魔力量では強固に固定化するべく詠唱を必須とする。
「我が息と骨を報いに、空に纏い万物を退け、時に留まり万象を断て」
「誰かその人を止めてください!」
後ろで怒号が飛び交っている。犯罪者まがいの自分の逃げように苦笑する。
「命ある者、害成す業、変遷を生む全てを拒絶せよ」
応接室を通り過ぎ、隣の部屋のドアノブに手をかける。当然ながら鍵がかかっていたので、黒刀を抜き躊躇いなく壊した。
「真との交わりをもって実と成れ」
「やめなさい! 誰か! 旦那様にお知らせして!」
悲鳴に近い叫び声と共に突然ドアが開け放たれたので、中にいた白い服に身を包んだ男達は驚愕の表情で固まっている。
部屋の中には赤と透明の液体が入ったいくつかの瓶と、ガラス製の円柱状容器と管が繋がれた精製器と思わしきものが台の上に置かれていた。
それを見たジルニアは確信を持って、魔術を展開する。
「ライズ」
白く細い稲妻が、ジルニアを中心として球体状に広がり、消えた。結界の一種である雷等の三属性を持つライズは、防御以外にもこういった結界内の状態保存としても有効に使える。
部屋にいた男達はジルニアが放ったライズに部屋の隅に押しやられ身動きがとれず、近付いてきた従者は稲妻に拒まれ足を止めた。
「この場に無理に入ろうとはしないでくれ。君たちには窮屈だろうが、抵抗しなければ危害は加えないと約束する」
部屋の隅で恐怖に顔を強張らせている男達にそう告げる。反抗する様子も見せず怯えているので、ただ命じられてしているだけのようだ。
ジルニアは黒刀を構えて入り口で立ち往生している従者達を制し、同様に人々を避けてサイファで駆け抜け、裏口の前の部屋のドアを開ける。中に入り地下の扉を見つけこじ開けると、鎧と武器が整然と並んでいるのが確認できた。
光線筒を取りだし筒の底を打ち付ける。すると強く真っ直ぐな光が伸び、それが真上に向くよう床に置いた。屋根程度であれば光線筒の光は突き抜けて外の仲間へと届く。
取り押さえようと大柄な男が数人襲いかかってきたが、黒刀は仕舞って体術でいなしつつ詠唱する。こちらにもライズをかけておけば、後回しにしていたルーイ達の元へとやっと向かうことができる。
任務の最優先は当然だが、これだけジルニアが騒ぎを起こしたのに応接室からルーイ達が出てこないのは、その場にいないか、――――動けない理由があるか。
悪態を吐きたくなる。何が白馬の王子のように助けに行くだ。
一度通った道を戻ると、通路の真ん中に厳しい顔をした壮年の女性が立っていた。
「衛士を呼びましたから貴方が捕まるのも時間の問題ですよ。大人しくこの場から動かず、あの魔術を早く解除なさい。このような狼藉、屋敷を預かる者として許しません。一体何が目的なのですか!」
ジルニアは歩みを止めないが、その女性は一歩も引かず睨む。背後の若い従者が真っ青な顔で「おやめください侍女長」と呼びかけている。
「無礼は承知のうえだ。私の目的が分からないのならば、サルカ・カラン代表を呼びなさい。後に衛士と共に騎士団も来るだろう。あなたが上の者ならそれまで皆が下手に動かないよう指示を出してくれ。私も怪我をさせたいわけではないし、後々不利になるのはあなた方だ」
「なっ……何を……。旦那様はお忙しいのですよ……!」
侍女長の横を通り過ぎ、その後ろに控えていた他の従者達は波が引いていくようにジルニアに道を開ける。
ふと、従者の纏う生成色ではなく、薄紫色が視界の隅に入った。視線を向けると、肩で切りそろえた髪型の薄紫色のワンピースを着た女性と目が合った。その女性は怯えた表情でじりじりと後退すると、踵を返し静かに去っていく。彼女は何かを知っているようだが、騎士団がすでに屋敷内に突入しているだろうことを考えると、掻い潜り逃げ出すことは不可能だ。それよりも今は、
「おやめなさい! 何をするつもりです!」
応接室のノブに左手を伸ばすと侍女長がはっとしてジルニアに駆け寄ってくる。我が身を挺して止めようとするなんて、随分と仕事熱心で勇敢だなと内心感心する。
扉に触れた瞬間、弾かれる感覚がした。当然開くこともない。
ノブに手をかけたままのジルニアの腕を侍女長が掴むと、彼女の身を案じた小さい悲鳴が後ろで上がった。
けれどジルニアは振り払うような真似はせず、侍女長の緊張で強張った顔を見る。
「ここは応接室に結界を張るのか?」
「は? ……そのようなことは……」
「サルカ・カラン代表はこの中にいるんだな? 何をしている」
「そっ……そのようなこと、お話しする必要はありません」
ジルニアがノブから手を離し、黒刀を抜くと、侍女長は「ひっ」と声を漏らして後ずさった。
素早く黒刀を扉に滑らせたが、押し返され刃が届かず傷ひとつつかない。その様子にジルニアは眉根を寄せる。
騎士団の黒衣、黒刀は王国の崇高なる魔術技師が手を掛けた逸品である。その刃は木製どころか、石製の扉さえ太刀打ちできるものではなく、刃こぼれとも無縁だった。
遠くの方で騒ぐ人声や物音が響く。侍女長や従者達はその音に戸惑い、ジルニアと通路の奥を交互に見て、不安そうに様子を窺う。
「到着したようだ。あなた方は大人しく騎士団の指示に従いなさい。それと、危険だから離れて」
すっと息を吸い、魔力を黒刀に流す。刃に施された陣を介し、何倍にも鋭さが増幅されていく。
踏み込んだジルニアの姿と、黒い軌跡を視認できた者はこの場にはいなかっただろう。結界が破られる時特有の、甲高い弾けるような音を響かせ、扉はその役目を終えた。
説明ばかりが長くなってしまいました。
ちなみに、レティアナのシルフォードは死んだ父姓です。養子になったわけではないですが、レティアナは代表を父さまと呼びます。




