12.死と生を感じました
刺すように痛い冷気を感じた。
下を見据えていたリアが顔を上げると、ちょうど目線上に薄く、広く、円形の薄氷が形成されていく。陽の光を反射しながら輝くそれは、ボスと王国騎士の頭上だけでなく、落ちたダンジョンの半分以上を覆うように広がっていくことが分かった。
限界まで広がった薄氷は、電撃が走り抜けるように一瞬だけ中央から細かく青く輝くと、その身を崩し始める。極小の穴を大量に同時に開けるように崩れていく。
その下では、地面へと向かって自由落下をする霧雨のようなものがチラチラと光る。雫型ではない霧雨は、1つが髪の毛のような細さの氷の針だったが、リアはそこまで見えていなかった。
あれが、動きを止める何かだということだけ分かっていればいい。
リアは再び大地で激しく動き回る赤を捉える。
薄氷の全てが針となり、冷気と共に崩れ落ちて消えてしまっても、もうそこに意識が向くことはない。
ボスの薄緑色の体は相変わらず騎士達と遊びまわっている。その中を核は、同じ場所に留まることはなく、体の形を丸めた時には中央下部をぐるりと回り、蛇の形で移動する時には後ろから進行方向へ流れていく。規則性も何もないでたらめな核の移動に、騎士達は核を狙うことを早々に諦めたようだった。
あんなのをこんな離れたところから狙うなんて馬鹿げてる。
そう思いながら目線は赤を捕らえて離さない。外すかもしれないという不安は、絶対に外さないという意志で押しつぶす。
「『サーヅァカ』でそれは意志に従う」
呪文なのかも分からないまま『サーヅァカ』と呟くと、赤の移動と同期していた瞳に道が映った。
見えないけれど、視える。
右手の氷のペンから赤へと繋がる流れがあるのを感じる。細く、すぐに千切れてしまいそうな脆さの上に、リアの瞳だけがそれを繋ぎ止めている。
「『レイ』でそれは確定する」
リアは唇を舌で湿らせ、ごくりと唾を呑んだ。
針の霧雨は、ボスを中心として辺り一帯に降り注いだ。
個々は非常に薄く、弱い威力だ。そのため魔力の感知も難しく、気づかれることはない。目標の識別などはできず、無論、騎士達もろとも等しく平等に凍てつかせた。
極寒の攻撃に襲われた地上の者たちは、突然の第三者の介入に大混乱だろう。しかし、その氷の魔術でもって微動だにできないでいるはずだ。
だがあくまで凍っているのは表面上だけである。ボスは分厚い体が核を守り、騎士達も魔術耐性の高い鎧が守り命を脅かすことはない。それほど氷の針は弱く、時間稼ぎのためだけのものだった。
僅かな時間静止した地上で、ただ、その中を動く影が二つだけあった。
一つは狙いを定めた核。薄緑色の中で赤々とより激しく無規則に逃げ回る。
一つはひとりの騎士。針の霧雨を結界で防いだ男の視線が上を向く。
リアは道の上を滑らせるように氷のペンを投げた。力いっぱい腕を振り抜く必要はなかった。上手くその流れに乗せるために、どちらかというとそっと指を離した。
地上に真っすぐ落ちていく氷のペンは、自身に縦の光を纏うと、流れの邪魔にならないよう細く長く伸びていく。あっという間にそれは槍の形へと成長した。
そんな変化を感じながら、リアは狙った赤の動きを見据える。
ボスの体の端は早くも氷の魔術から持ち直し、そこから凍っていない部分の体を絞り出し始めている。核は氷の槍の存在を感じ取ったのだろう、槍の延長線上から逃れようと蛇行する。
近付けば近付くほど、道は千切れそうに進路を変えた。振り回される意志に、瞳に、驚くほど冷たい声が道標を示した。
――――逃がさない。
導かれるように、リアと核を繋ぐ道が確定した。
『レイ』
槍は光になって、凍った薄緑を通り抜け、赤い球体の中心を貫いた。
「…………ふ、ふぁ」
頭がくらりとして、リアは後ろに尻もちをついた。集中のあまり呼吸を止めていたようで、酸欠にゆらゆらと脳が揺れる感じがする。肺いっぱいに大きく息を吸って、吐いた。
「悪くない」
トリムの声が耳に入り、ふらつく思考で、なんだか機嫌が良さそうだとぼんやり思った。
「……せ、成功です、かね」
結果を見る前に意識が遠のいたので、リアはトリムに恐る恐る聞いてみた。
槍がボスの核に突き刺さる感覚は掴んだので、ぎりぎり避けたとしてもかすってくらいはいるだろう。核にダメージを与えられれば、モンスターの攻撃力はぐんと下がるはずだ。あとは騎士団に頑張ってもらうしかない。
「ああ、十分だ」
「……ですか」
結果を認められたようで、良かったとリアは胸を撫で下ろした。下の様子を見たかったけれど、却下を食らう。
トリムに倒してもらう気満々だったのに、まさかの自分で狙えと言われ、心の準備もさせてもらえないままお膳立てをされて、これで外したら許されない。無駄骨になった時のことを考えると正直プレッシャーがすごかった。
「すぐにこの場を離れるぞ。騎士の中に、どうやら俺の魔術から逃れた者がいるようだ。見られた可能性がある。凍った仲間を放ってすぐには上がって来ないだろうが、道なりに下りていけば確実に人目に付く。見られていた場合、塔の周囲にも待ち構えているはず……いや、風魔術でここに直接来ることも考えられる」
「……ふぇ、そ、れはどうしようもない……ですね。でも、共通の敵を倒す手助けをしたわけだし、そう無下に逃げることもないんじゃあ」
「敵の敵が味方にはならん。だいたい、地上に現れるはずのないボスがあの場にいる原因を問われたらどうするつもりだ。そんなところで俺が無駄に時間をとらせると思うか。早く持ちなおせ」
ダンジョンは折っちゃったけど、ボスのことなんて知らないし、不可抗力ですって言っても無罪放免にはならないよなぁ。
「……ふぁい……言ってみただけです、あと十秒だけください」
スーハーと深呼吸を繰り返し、よっこいしょと立ち上がって下から見えないよう奥に引っ込んだ。
「とりあえず反対側まで行くんだ」
「……とりあえず、そして道なりに下りて行かない方法をとるんですね?」
自分から面倒な方をお願いしたのだし、仕方ないとは思いつつ、どんな方法で下りるのかと想像するのが少し憂鬱である。
飛んだり浮いたりができないとなると、一番現実的なのは昇降機的なもので直下する方法だろう。
希望はゴンドラだがそんな安全な下り方があるなら、時間がかかる螺旋の道を行ったりしない。梯子あたりか、最悪滑り棒かなと予想しつつ、トリムを抱きかかえているせいで片手は塞がっているから中々危ない気がして、形状には折衝を試みようと思った。
速足で塔の反対側まで下りてきた。ここからならば、まだ騎士の視線も遮られるだろう。
「どんとこいやぁ!」
自分に喝を入れる。これから不安定な下り方をする恐怖の上塗りには、今は持ち合わせの気合しかない。
リアが指示を待っていると、少し下で離れたところに粒子のうねりができた。何故あんなところにと注視していたら、空中に円盤状の氷が形を成した。ちょうど、人ひとりが乗れそうな大きさだ。
「なんですか、あれ」
「あれの上に飛び乗るといい」
「あーなんだ、飛んだり浮いたりできないわけじゃないんですね。円盤に乗って空中散歩なんて中々素敵ですが、もう少し近くに作ってくれた方が乗りやすかったです。次からはお願いしまっす」
リアは要望もついでに言って、円盤の真上に降り立てるよう距離感を注意して空中に躍り出た。助走をつけるほど離れてはいないから、難しくはない。
「残念だが、あれは動かない」
「へ?」
右足が塔から離れた頃、そう言われた。すぐに左足が円盤の上に着き、膝を曲げて勢いを殺しつつ、右足も到着し、当然ながらリアの体重が氷の上に乗る。
「浮力もない」
円盤はかかった重力のままに、リアを支えきれずがくんと下がる。
「強度もない」
ビキッという嫌な音は、トリムの声をかき消し、円盤にひびを入れた。
「ほら、次はあそこだ」
真ん中から縦に割れた氷の先に、同じような円盤が生まれているのが見えた。すでに落下を始めている無防備な体は本能的に足場を求める。
死ぬ!!!!
リアは浮遊感に耐えながらキュッと唇を閉じた。
*****
「驚いた。また騒ぎ立てるかと思っていたが、やればできるではないか。えらいえらい」
やけに楽しそうにトリムが褒めてくれる。こんなに明るい声は初めて聞いた。
リアは震える手で生えている草を握りしめて、大地の偉大さに涙していた。
母なる大地よ、あなただけが私に安寧と平穏をもたらしてくれるのですね! 感謝します! 大地に感謝を! 安定感万歳!
「くっ……!」
「なんだ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです。私は何度死を覚悟したらいいんですか」
膝をついたまま顔を上げたリアは、こちらを見ているトリムを恨めしそうに睨む。
幾度となく円盤に飛び乗り、僅かに勢いを殺し、割れて落ちることを繰り返した。落ちる恐怖に気を取られたらミスを起こしそうで、声も出せず、景色も極力視界に入れず、ただ円盤だけを目指して全身を動かした。とんでもない集中力を要した。
途中からは割れて落ちた場所に円盤を作ってくれず、落下前に自分で飛び移らないと届かない場所に円盤が生み出されるようになった。おかげで、ダンジョンから離れた位置にある森にまで飛距離は伸びた。鬼畜かと思った。
森の上空に入って結構すると円盤さえ生み出してくれなくなり、木の枝や蔦に掴まりながら、最終的に草の上に滑り落ちた。悪魔かと思った。
「死なせるわけがないだろう。俺はリアができる範囲のことしかやっていない。予定以上の結果を成したのだから、誇っていいぞ。触ったことも使い方も知らないユヴェルの槍をあれほど上手く扱えるとも思っていなかった。純粋に称賛に値する。ダンジョンから出るのも、騎士団の目から逃れるのも、これだけ早いと随分と楽だな。本当によくやった」
「…………私が、そんな上辺だけの褒め言葉に、絆されると思わないでください」
先の一件があったからなのか、リアをフォローする発言がポンポン飛び出してくる。
無茶なことをしても、褒めたら何でも許す単純な奴と思われたら心外である。ここはびしっと言っておく必要があった。
「嬉しそうだな」
「台無しだちくしょう! トリムさんは楽しそうですね!」
「ああ、期待以上だった」
ふふんと尊大な良い笑顔である。
一方リアは、眉間に皺を寄せ、にやけた頬に、歯を食いしばり、表情が迷子になっている。
しばらく視線が交錯していたが、表情筋がつってきたリアは、ふしゅると溜息と一緒に感情を逃がした。ごろんと仰向けになって「もーいいです」と木漏れ日に目を細くする。
「やっとダンジョンから出られたので、この綺麗な空気に免じて許しましょう。でも、あんな高いところを心の準備もなく駆け落ちる経験は二度とごめんです」
「そもそも、勘違いして説明する前に飛び出したのはリアだろう」
「……はい、そうですね……早とちりな私のために、次からはできれば指示の前に説明をお願いします」
「善処しよう」
寝ころんだまま「わぁい」と棒読みで両手を万歳する。
森の空気は、僅かに湿っていて草木の匂いが濃い。ダンジョンの中の空気もわずかに湿り気を持っていたが、もう清々しさが全然違う。肺がいっぱいになるほど息を吸った。
ああー! 生きている!
穏やかな自然に触れると生を感じて、途端に実感が湧く。
目を閉じると、風に吹かれて揺れる葉の隙間から差し込む光が、瞼の裏を赤と黒に斑に染める。自ずと森の音も耳に入り、枝が揺れる音か、小動物が走る音か、鳥が羽ばたく音か、想像をしながら聞き入った。




