第一章(5)
五月九日、火曜日。
遼太郎が研究室でレポートをまとめていると、スマートフォンに連絡が入った。中川からだと気付き、内容に目を通す。これから向かうと書かれており、そこに遼太郎の意志を確認する気はないことがわかった。
午後八時前。夕飯はまだだったが、中川が持ってきてくれることを期待していると、連絡から十五分もしないうちにやってきた。両手にビニール袋を持ち、それだけで歓迎してしまいそうになる。
「おつかれ」
「弁当? サンキュー」
「からあげとカツ丼、どっちがいい?」
「カツ丼で」
中川から袋を受け取り、言葉も交わさず五百円を渡す。これまでにも何度かこういったやりとりがあった。遼太郎が弁当を持っていく場合もある。
「誰もいないんだね」
「たまたまな。火曜は早く帰れって言われてるし」
「いいなあ、うちの研究室、そういうのないから」
沖教授の顔を思い浮かべると、確かにあの人がそんなことを言いそうにないと感じた。働けとは言わないが、休んでよいとも言わない。彼自身が働き続けている以上、それを見ている者はサボることが許されないのだ。
「で、何の用?」
「特にないんだけどね。調子どうかなって」
「普通だけど。それ嘘だろ」
「ボクの気持ちわかっちゃう? ナナと同じだね」
カツ丼に口をつけながら、中川の本心を探った。飄々(ひょうひょう)としているが、この男が用もなく研究室を訪れてくるはずがない。遼太郎にバレていることもわかっているはずだ。
「それ、ちゃんと着けてるんだね」
「・・あぁ」
中川の言葉が何を指しているのか察し、遼太郎は胸元のネックレスに触れた。約一週間前の誕生日に、奈々恵からもらったものだ。
「遼太郎のプレゼントも気に入ってるみたいだよ」
「そうなのか? 家で使ってるとこ見たことないけど」
「うん、だってうちに置いてあるからね」
「そういうことね」
中川の真っ直ぐな笑顔を見ていたくなかった。どことなく恥ずかしかったからだ。
「最近二人が微妙だったからさ、ボクとしては心配だったわけ。だから飲み会にも誘った」
「伝わってるよ。別にあいつとケンカしたわけじゃないんだけどな」
「でもなんか変だよね。これまでみたいに遠慮なく言い合うこともない」
「あぁ」
中川の言うことは正しかった。一ヶ月ほど前から、奈々恵との距離感が難しくなっていた。何が原因というわけではない。それでも、互いに遠慮し合うようなぎこちなさが漂っていた。
「しばらくはそれ身に着けておいてあげてね」
「こういうの嫌いなんだよな。動くと気になる」
「そう言わずにさ」
中川が困ったように笑った。
遼太郎はネックレスを指先で軽くはじきながら、奈々恵の選択を不思議に感じていた。彼女は小さい頃から宝石の類が好きだった。子供騙しの指輪や、ビー玉でさえ欲しがった。将来は高価な宝石ばかり買って借金まみれの生活になるのではないか、本気でそんな心配もした。だが、それをプレゼントしてもらえるなど、遼太郎は考えたこともなかった。がめつい彼女のことだ。自分のために買うことはあっても、それを自分に贈るなど。嫌ではないが、不気味に近い感覚だった。
「ナナが直感で選んでたよ」
「これを? へえ」
やはり、彼女の考えは理解できなかった。
「そういえばさ、また行方不明になっている人がいるの知ってる?」
「知らん。またってどういうこと?」
遼太郎の問いに、中川が呆れたように息を漏らした。
「覚えてない? 研究室の飲み会で、ナナと同じ学科の子が行方不明になっているって話があったでしょう」
「あぁ、なんか言ってたな」
「その子に続いて、英文学部の子もいなくなってるんだって。もう四日も」
遼太郎は全く知らない話だった。最初の一人、確か皆川とかいう女の件は思い出した。自宅にもアルバイト先にも姿を見せないらしい。だがしかし、それと今回のものが関係しているとは限らない。
「最初の皆川さんのご両親が警察に相談してる。まだ見つかってなくて、もう一週間も経つしね。で、それだけに今回の野田さんがいなくなって騒ぎになってる」
「俺の周囲では騒いでるやついないな」
「アンテナ畳みすぎだよ」
「無駄な情報は耳に入れない主義なんだ」
実際、遼太郎は二人目の件を知らなかった。研究室の中で話題にあがっていただろうか。忙しくて、誰もそんなことに目を向けている余裕はなかったはずだ。
「ナナもけっこう気にしてるよ。皆川さんのことは知らない仲でもなかったみたいだし。ボクとしては、ナナが変な事件に巻き込まれないかって心配してる」
「ほう」
「何か知らない?」
「知るわけないよな。そんな事件について初耳なくらいだから」
「だよね」
知っていたと言わんばかりの中川の表情だった。
「みんな大袈裟じゃないか? 皆川さんが行方不明なのは確かに危ないっぽいけど、それにしたって」
「だってさ、この大学の学生が二人もいなくなったんだよ? 心配するのも当然でしょう」
「まぁ、そうだけど・・」
気持ちはわからなくもないが、遼太郎にはまだ他人事だった。テレビの中の事件と同じだ。そのうち犯人が見つかり、三日もすれば忘れ去られるものではないか。
「ナナが事件に巻き込まれないように、遼太郎からも言っといてあげて」
「いや、それは約束できないな」
「ダメだよ、頼んだから。弁当買ってきてあげたでしょう」
「金は払ってるだろ」
中川は勝手に話を終え、遼太郎も仕方なく納得したふりをしておいた。まじめすぎるってのも考えものだな、そう思いながら、カツ丼を勢いよく頬張った。
「そういえばね、清水さんが遼太郎と話したがってたよ」
「誰だっけ」
「うわ、本人にそんなこと言わないでね」
「お前が言わなきゃ伝わらんさ」
遼太郎がとぼけていることは中川も理解している。それ以上責め立てることはなかった。先日、中川の所属する研究室で飲み会があったが、その際清水に再会した。遼太郎は特別な出来事はなかったように記憶していたが。
「どうする? 会う機会でも作ってあげようか」
「お前、そういう役回り好きなんだな」
「うん、嫌いじゃないよ」
清々しいほどの笑顔で言われると困ってしまう。遼太郎だって清水のことは嫌いではないが、何の感情も抱いてはいなかった。話すだけならば問題ないが、わざわざ時間を割いてまで会いたいとは思っていない。
「ま、聞かなかったことにしとくよ」
「えぇ、清水さんに何て言えばいいのさ」
「俺がニブいってことにしといて」
「後悔するよ、きっと」
「悪いけど、これまで後悔なんてしたことないんだ」
中川は呆れたように表情を歪めた。それすらも見なかったことにし、遼太郎は目の前のカツ丼に集中した。
自宅に帰り、ベッドで寝転んでいると、遼太郎はそれを思い出した。比較的身近にいる人物が姿を消しているが、こんな出来事は初めてではない。そういえば、過去にもクラスメイトが失踪した事件があったではないか。
確か、小学二年生の頃だった。仲の良かったクラスメイト、田所という少女が、放課後帰宅することなく姿を消した。学校中が大騒ぎになったし、集団登校を義務づけられたはずだ。そして、一週間後、少女は田んぼ脇の用水路で発見された。姿を消した日に身に着けていた格好のまま、命を落とした状態で。
なぜそれを忘れていたのだろう。遼太郎だってひどく落ち込んだはずなのだ。当時、田所という少女に想いを寄せていた。子供ならではの淡い恋愛だったが、好きだったことは間違いない。まだ幼い遼太郎の心が、その出来事に蓋をしていたのか。
ベッドから起き上がり、タンスの奥にしまい込んでいるはずのものを漁る。小中高の卒業アルバムなどがどこかにあるはずだ。捨てた覚えはない。それが出てくれば、記憶の中の少女がいなくなった事実を確かめられる。
ようやく小学校の卒業アルバムを見付け、懐かしさを感じる暇もなくページをめくる。六年三組、それが遼太郎のクラスだった。出席番号六番の場所に幼い頃の遼太郎が写っていた。歯を見せるほどの笑顔が眩しい。こんな頃があったのか。
他のクラスの面々も確認する。そして―――やはり、どれだけ探しても、田所という少女はいなかった。小学二年生で事件に巻き込まれ、両親はどこかへ引越したのだろうか。それすらも思い出すことができない。
アルバムの別のページをめくっていると、二年生のときの集合写真が出てきた。確か、合唱発表をした際のものだ。こんなものまで写っていたのか。こうして見返すのは何年ぶりだろう。
写真には二百人程の二年生が写っていた。遼太郎自身を発見するのに一分ほど掛かり、九割以上の者は名前を思い出すことができなかった。当然、亡くなった田所の顔も。この中にはいるはずだ。このときは事件に巻き込まれていないのだから。
彼女はなぜ、誰に殺害されたのか。その死因も、犯人も、何も解明されていないままなのかもしれない。
何が引っ掛かるのか、遼太郎はいつまでもその写真から目を離すことができなかった。