第一章(4)
五月四日、木曜日。
山岸徹斗は悩んでいた。今後の人生に、明日の仕事に、そして、帰宅してからの過ごし方に。
三十六歳であれば仕事が最も忙しくなる頃だろうし、子育てに奮闘していてもおかしくない。実際、耳に入ってくるウワサによると、同級生たちはそのような状況にあるらしい。コンビニへやってくる人々だって、スーツや作業服を着た者が多い。土日であれば子供を連れてお菓子を買う場面もよく目にする。
それなのに、山岸は彼らとは違う世界を生きていた。定職に就かず、家族もなく、休日は自室でパソコンと向かい合う日々。世間ではフリーターと呼ばれる身分だ。気楽さ以外、何もメリットはない。だが、山岸には今の生活が合っていた。他人と深く関わることもなく、仕事のプレッシャーも少ない。老後の生活を考えなければ、とりあえず生きていくことにも困らない。
しばらくは、このまま同じような生活が続いてゆくのだとばかり思っていた。恋愛や就職のようなイベントとは無縁の、のたれ死んでも誰も気付くことのない人生。踏み潰される雑草と同じだとばかり思いこんでいた。
それが一変したのは、あの女を手に入れたからだ。本当に好運だった。
公園で泣いていた女が一人、山岸の目の前に現れてくれた。彼女が泣いていた理由など、山岸には関係ないし興味もなかった。気付いたときには、手にしていた石で女の側頭部を殴りつけていた。殴ってどうするかなど考えていなかったはずだ。無意識の、本能からくる行動だった。
それでも倒れた女を目にした以上、放っておくわけにもいかない。五月とはいえ夜は冷える。このまま眠ってしまえば風邪をひくだろう。山岸は近所にある自宅に戻り、軽自動車を運転して再び公園を訪れた。好運なことに、他には誰もいなかった。倒れた女は同じ位置で、街頭に照らされた頭部が濡れているままだった。
車に乗せるのは苦労した。細身の女であっても、脱力しきった大人一人を運ぶのは想像以上に困難だった。なんとか後部座席に乗せてアパートに着いてから、背負って階段を上がった。女の柔らかさを感じながらも、このときばかりは体のきつさに嫌気がさした。その場に置いて帰ってしまおうかと思ったほどに。
自室に連れ込み、女が目を覚ましたのは数時間経ってからのことだ。日付が変わり、山岸の眠気が限界に近付いていた頃。女はまだ朦朧とした様子で目を開け、事態を理解できずにいた。しばらくして山岸に気付き、一瞬大声をあげたため、今度は頬をひっぱたいた。鈍い音が部屋に響き、女の悲鳴は中断した。山岸は倒れた女に猿ぐつわの要領でタオルを巻き、普段と同じようにベッドで眠った。
翌朝、目覚ましの音で目を覚ますと、部屋の隅で壁に寄り掛かっている女がいることに驚いた。すぐに昨晩の出来事を思い出し、じっと女の様子を観察してみた。目を閉じ、眠っているようにも見える。髪が黒く汚れているのは、昨晩山岸に殴られたせいだろう。出血は治まっているようだが、とても健康そうには見えない。この姿で人前に出れば、ただ事ではないと警察を呼ばれる可能性が高い。
山岸は前日までと同じようにコーヒーを淹れ、トースターでパンを焼いた。物音で目を覚ましたのか、女は山岸を警戒するように体を強ばらせた。自分が何をされるのかわからない、そんな恐怖心が全身に現れていた。
朝食を摂りながら、山岸は女の姿を眺めていた。まだ若い、大学生のような女だ。髪を染めている様子はなく、身なりも比較的落ち着いている。昨夜は公園で泣いていたが、夜遊びをするようなタイプには見えなかった。
「飯食う?」
反応はなかった。山岸をキッと睨んだまま、女は身動き一つとらなかった。次第に飽きて、山岸はテレビを点けた。もしかすると、この女がいなくなったことが報道されているかもしれないと考えたからだ。だが、どの番組を見てもそのような様子はなかった。ここへ連れてきてからまだ一日も経っていない。よほどの有名人でない限り、世間が騒ぐはずはなかった。
普段通りの生活をし、山岸はアルバイトに出掛ける支度を始めた。とはいえ大した用意も必要ないため、すぐに終わってしまう。暇つぶしに女の所持品に手を伸ばした。白と黒のボーダーのハンドバッグだった。中に手を入れ、財布をとり出す。
女はその一部始終を目にしながら、何もできずにいた。所持金は特別多くはなかった。二万円と少し。元より、山岸は金が欲しかったわけではない。免許証を見付け、女の顔と写真を照らし合わせる。ボロボロで外見は変わってしまっているが、確かに同一人物だとわかる。『皆川恵子』という名の、二十二歳の大学生だった。大学名を見て、比較的近隣にある大学だとわかった。
「お前、何で泣いてたんだ?」
「・・・」
返事がないのは当然だった。女の口はタオルで塞がれているからだ。だからといって、ここで外してしまえば叫ばれるに決まっている。それを避けるためにはどうすればよいだろう。
考えた結果、山岸は何もしないことにした。アルバイトの時間も迫っている。目の前の女にもさほど興味はない。表情の冴えない女になど価値はないからだ。
「出掛けるけど、夕方には帰ってくるから」
何の反応もないことはわかっていた。山岸はひと息ついてから立ち上がり、女の傍へと向かう。
床に座りこんだ女が、惨めな表情で山岸を睨んでいる。それにほくそ笑み、山岸は女の顔面を蹴り飛ばした。真っ正面から蹴りを受けた女は吹き飛び、後頭部を壁に打ちつけた。力なく前方に体が崩れ、山岸はそれを見下ろし、大した感情の高ぶりも感じなかった。これでは何も面白くない。別の活用方法を考えた方がよさそうだ。
女に背を向け、山岸はアルバイトへと出発した。