第一章(3)
五月六日、土曜日。
『学会発表お疲れ様会』と名付けられた飲み会の開始時刻は午後六時半だった。研究室内にはすでにほとんどの参加者が揃っており、現時点で二十四名。遼太郎はその中で微妙な気まずさを感じながら、隅のソファーに腰掛けていた。
今日の主役は、学会発表を終えた修士課程の先輩二人。それ以外には博士課程の者が二人、修士課程が六人、学部生が十三人いる。遼太郎と奈々恵が部外者で、教授陣の参加は沖教授だけらしい。准教授がいないことが救いだった。向こうからしても、教授の子供とは接しにくいだろうと心配していた。
「奈々恵から連絡あった?」
彼女だけがまだ到着していない。中川はスマートフォンを覗き込みながら、落ち着いた様子で頷いた。
「もう建物の下には着いてるみたい。心配しなくても大丈夫だよ」
遼太郎が心配しているのは、部外者である自分たちが遅れるわけにはいかないという点だった。奈々恵は時間にルーズなところがあるが、今日に限ってはギリギリセーフのようだ。
「中川くん、彼女さん来るよね?」
主役の山里という院生が待ちきれない様子で訊く。雑談混じりに中川が答え、そうしているうちに研究室の扉が開いた。
「失礼します!」
奈々恵が勢いよく飛びこんできた。階段を駆け上がってきたのか、息があがった状態で。
「ようこそようこそ。さあ、ソファーにかけて」
山里が喜びを隠そうともせずに奈々恵を案内する。何度も周囲に頭を下げながら、奈々恵が遼太郎の傍に腰掛けた。
「もっと早く来いよ」
「うるさいなぁ」
周囲に聞こえない程度の声でやりとりをする。
これで残るは沖教授だけとなった。研究室のメンバーもそれぞれの席に着き、開始時刻を待っていた。研究室のメンバーでは女性が二人だけ。修士の先輩が一人と、学部生が一人。遼太郎と同学年にあたる清水という学部生とは、遼太郎も何度か顔を合わせたことがあった。控えめで、空気を読めそうなタイプだ。きっと、普段から男社会の中で大切に扱われているのだろう。一方の修士生は、さすがに年の功か、緊張した様子はない。男になめられぬよう気を張っている雰囲気が見て取れた。それでも、決して関わりたくないようなタイプではないことも知っている。
「なんかちょっと緊張するなぁ」
「主役は先輩たちだし、俺たちはおとなしくしてればいいさ」
「わかってるけれども」
互いに目を向けることなく話す。奈々恵だって怒っているわけではないだろうが、どこかよそよそしさを隠せなかった。こうしてじっくりと顔を合わせるのも久々な気がする。家の中でも、必要最低限の言葉しか交わしていない。
「もう揃っているかな?」
扉が開き、沖教授が姿を現した。手にはシルバーのカップを持ち、サンダルを履いた普段どおりの格好をしている。
「待たせて悪かったね。始めようか」
その言葉を合図に、幹事が段取りよく会を開いた。挨拶もそこそこに各々が飲み物を手に取り、遼太郎たちもグラスを持ち上げる。学会発表を終えた二人を中心に、皆が乾杯を合わせた。
「今日はゲストも来てくれているから、ぜひみなさん色々質問してあげて下さい」
幹事の余計なお世話に苦笑いを隠しきれなかったが、とりあえずは受け入れられていることにホッとした。父親である沖教授も微妙な笑顔を浮かべている。嬉しさもあるだろうが、どこか気恥ずかしさを含んでいるのかもしれない。それも当然だった。
「お二人は双子なんですよね?」
それぞれが食事を始め、場が落ち着いてきた頃に声を掛けられた。院生の田崎という男だった。これまでにも何度か話したことはある。答えのわかりきった質問をするあたり、遼太郎たちの様子を伺ってくれているのだと感じた。
「そうなんですけれど、似てないですよねぇ」
「男女だとやっぱ違うんですね」
作り物の笑顔で答えた奈々恵に、田崎は照れたように微笑んだ。何も知らなければ、そして自分の双子の妹でなければ、奈々恵に惹かれてしまう気持ちもわからなくもない。残念なことに、遼太郎は微塵もそんな感情を抱いたことはないが。
「沖先生って、家ではどんな感じなんですか? やっぱり厳しい?」
「いえ、ただの優しい父親ですよ。怒ってるとこ見たことないし、家でも仕事してるだけですし」
「二人がどう思っているかわからないけど、先生の仕事量って半端ないんだよ。どこにそんな時間があるんだって思うくらい」
「正直、俺たちは父の研究の内容も理解してません。それくらいの希薄な関係なんです」
院生に囲まれた沖教授を眺めながら、遼太郎は本音を口にした。嫌いではないが、実際、父親の仕事内容には触れずに過ごしてきた。その方が互いに楽だったのだ。
「先輩はどんな研究をされてるんですか?」
「大したもんじゃないよ。ナノファイバーってわかるかな。すごく細い繊維なんだけど、その中に色んな機能を持たせる研究。導電性とか」
「うーん、やっぱりよくわかりません」
奈々恵が用意していたように笑った。田崎も伝わるとは思っていなかったのだろう。しつこく説明することもなかった。
そんなやりとりを、他のメンバーが遠目に眺めていた。部外者であること、沖教授の子供であること、奈々恵が女性であることが理由だろう。皆、興味を持たざるをえないのだ。その視線がそれほど自分には向いていないことも、遼太郎は重々承知していた。
「父の専門もナノファイバーなんですよね」
「そう。多機能性ナノファイバーって言って、製造法の違いによって異なる性質を持つものを作り出せるんだ。その製造方法を確立したのが沖先生なんだよ」
遼太郎は頷きながら、父親の横顔を覗き見ていた。家で見ている限り、どこにでもいるおじさんにしか見えない。それなのに、こうも偉大な人物だと口にする者もいる。どれが本当の父親なのか、遼太郎にもわからなかった。
「それだけ凄い技術があるのに、どうして世の中に広まってないんですか?」
「ひと言でいえば、コストだね。効果は認められているし、世の役に立つのも間違いない。でも、今はまだ製造コストが高すぎて誰も買ってくれないんだ」
「なんかもったいない話ですね」
他人事のように言う奈々恵に、田崎は頷きながら付け加えた。
「そこらへんを解決することができたら、僕たちの研究成果はもっと認められるはずなんだけどね。ついでに論文も受理されやすくなって、卒業しやすくなるのに」
最後の部分が彼の本心のように感じられた。楽しみながらも研究に苦労している姿が浮んで見えた。
「そういうのって、先輩方が考えることなんですか?」
「え?」
「えっと、コストとか。大学って研究するところですよね。実際に売れるかどうかっていうのは企業が考えるものだと思ってました」
奈々恵の言葉に、田崎がわかりやすいくらい顔を輝かせた。よくぞ言ってくれた、そんな言葉が顔に出ている。
「みんなが奈々恵さんみたいに理解のある人だったらいいんだけど」
「まぁ、わたしは人文学部なので、先輩方よりも世の中の役には立ちにくいと思いますけれど」
田崎も困ったように苦笑いを見せた。否定できないのが可哀想だった。
しばらくの間研究室のメンバーと談笑し、食事も進んだ。特別な余興があるわけでもなく、アルコールでどんちゃん騒ぎをするわけでもない。平和な食事会を満喫していた頃だった。
「楽しんでる?」
ソファーで沈黙していた二人を心配したのか、中川が近付いてきた。右手にポテト、左手にはピザを持っている。細身で小柄な彼には似合わない絵面だった。
「意外とな。なによりただ飯はありがたい」
「今回の会費、沖先生のポケットマネーだから。きみたちにも影響あるかもよ」
「げ、かんべんしてくれ」
当の沖教授はデスクの傍で学生と議論を白熱させている。抱えている研究テーマについて相談しているようだ。
「ナナもつらくない? 嫌だったら帰ってもいいんだからね」
「大丈夫。みなさん優しい。やっぱりバカがいないといいね」
「腹黒いこと言っちゃダメだよ」
口許で人差し指を立てて中川が言う。何年前の仕草だと指摘する者はいなかった。
「わかってる。女は愛嬌だもんね」
「それって偏見だよな」
「そう? けっこう核心を突いた言葉だと思うけれど」
「女のお前に言われたらどうしようもないな」
「ま、人ぞれぞれ役目があるわけだしね」
プラスチックのカップを両手で持ち、呟くような奈々恵の言葉だった。そうかと思うと、「そういえばさ」と続けた。
「最近、うちの学科の子が一人行方不明なんだって」
「誰?」
「皆川さん。たぶん二人ともわかんないと思う」
遼太郎が中川の顔を伺っても、やはり何も知らない様子だった。
「行方不明ってどういうこと? 家に帰ってないの?」
「うん。もう大人だし、そんなに特別なことでもないけれどさ。水曜日から帰ってないらしくて、実家暮らしだからご両親が心配してるっていうウワサ。もう三日も経つしね」
「そんな話きかないね」
「事件でもないし、学科が違ったらそんなもんだろ」
遼太郎は特に気にも留めなかった。つまるところ彼氏の家にでも泊まっているのだろう。家に連絡せず大学も無断欠席というのはバカバカしいが、大騒ぎするほどのことではないのも確かだ。
「ただね、バイトにも出てないんだって。そういうことする子じゃないから、どうしたんだろうって心配はしてる」
「身代金とか要求されてるわけじゃないんだろ?」
「たぶんね。事件性はないと思う」
「どうしたの? 何か事件起きたの?」
同学年の清水が近寄ってきた。男だらけの中にいることに疲れたのかもしれない。遼太郎は同情し、テーブルの上の菓子類を彼女に近付けた。
「ありがとう。―――身代金って聞こえたけど」
「わたしと同じ学科の皆川さんがどこにもいなくてね。どうしたんだろうって話してたの」
「あ、なんか噂は聞いたかも。サークルの子が人文学部で、皆川さんと同じなの。連絡しても返事がないって気にしてた」
「やっぱりちょっと変なんだよね。事故とかに遭ってなければいいけれど」
「そうなってたら、俺たちにはどうしようもないな」
遼太郎の余計なひと言は、奈々恵の鋭い視線に串刺しにされた。
「同じ大学の同級生が事件に巻きこまれたと思うと、何か怖いよね。ボクたちも他人事じゃないのかもしれない」
「どこにでも変な奴はいるからな。案外身近に犯人がいるかもよ」
「怖いこと言わないでよ」
清水が目を細めて言う。冗談にしても品がなかっただろうか。そもそも、皆川という学生が事件に巻きこまれたとは限らない。
「皆川ってどんなやつ?」
「まじめな子。講義も前の席で聞いてるし、ルールはちゃんと守ります、みたいな。でもけっこう友達は多そうだったよ」
「彼氏は?」
「さあ。いるって話は聞いたことないかな」
奈々恵もそこまで詳しくはないのだろう。曖昧な情報しか口にしない。
「連絡もつかないってのは不思議だな。親が心配する気持ちもわかる」
「ボクだったら、ナナがいなくなったらすぐに警察に相談するよ」
「ありがと」
「そういう会話、俺の前でしないでくれる?」
「嫉妬しなくてもいいのに」
遼太郎は溜息を隠そうともしなかった。親友と双子の妹が交際している。あまり考えたくはないが、二人の親密な関係を見せつけられるのは複雑だった。決して嫉妬ではないが。
「お前らの今後がどうなろうと、俺は無関係だから」
「一緒に住んでもいいんだよ?」
「ありえないって」
中川の提案には心底うんざりした。男女の双子というものがどういう感情を抱き合っているのか、この男は何も理解していないらしい。できることなら関わりたくないものなのだ。
「みんなー、ビンゴやるよー!」
院生の急かすような声が届いた。飲酒が禁止された飲み会となると、実施されるゲームにも限りがあるようだ。
「さあ、真剣勝負だね」
何にそれほどやる気があるのかわからないが、中川は目を輝かせて立ち上がった。遼太郎も、諦めてこの場の雰囲気に呑まれることにした。