エピローグ
遼太郎が瞼を開けると、見慣れた天井が視界に広がった。喉が渇いている。目の周りが乾燥しているような気もする。遼太郎は体を起こし、すぐに、自分が何をしたのか思い出した。それと同時に胸が締めつけられた。
―――奈々恵を、殺してしまった。
全てをなかったことにするためには、こうするしかなかった。終わってみて、後悔などない。考え抜いた上での行動だったのだから。
この世界は、いったいどう変化しているだろう。急いで部屋中を見渡す。ざっと見た限りでは、過去へ戻る前と大差ないように感じた。部屋の中の空気が良い気もしたが、それは遼太郎の精神状態が影響しているのかもしれない。
家の状況を確認するために、一階へ向かうことにした。変化があるとすれば、一階のリビングだと思った。飛び跳ねるように階段を下りる。一階の明かりが見え、不思議な匂いがした。柔らかな空気に包まれ、僅かな熱気を持っている。
「あぁ、やっと来たか」
目に飛びこんできたリビングの様子に、遼太郎は思わず立ち尽くした。
「もう、遅いから冷めちゃったわよ」
食卓に着く父親と、キッチンに立つのは―――母親だった。写真で見たときよりも老けているが、間違いなく、遼太郎を産んだ母親だ。つまり、遼太郎の計画は成功したということになる。
「これって、晩ご飯?」
「当たり前でしょう。バカなこと言ってないで、食器出すの手伝ってよ」
母親に叱られるのが初めての経験で、遼太郎はふわふわした感情に包まれていた。なるほど、想像以上に幸せだ。
「お父さん、どれだけ言っても手伝ってくれないんだから」
「すまんな」
父親は新聞に目を落とし、わざとらしく笑っていた。あまり見たことのない表情だったが、悪い気はしなかった。
過去に戻り、奈々恵を殺したことで、母親は死なずに済んだらしい。そうであれば、おそらく父親が歪んでしまうこともなかったはずだ。確かめようがないが、遼太郎はそう信じることにした。無抵抗の奈々恵を殺すという罪を犯したのだ。代償として、都合よく考えさせてもらうことにした。
三人での食事が始まろうとしている。これまでも三人だったが、今とはメンバーが違う。奈々恵はいなくなり、母親が加わった。以前の世界を知っているのは遼太郎だけだ。自分の都合で存在を消してしまった奈々恵のことを、死ぬまで忘れてはならない。それが彼女に対するせめてもの償いだった。
食事の支度が終わり、母親との慣れない会話をしていたときだった。玄関から物音がした。両親はさほど気にする様子がないが、遼太郎には疑問だった。三人が揃っているのに、誰かが家へ入ってくる。チャイムを鳴らさないあたり、慣れ親しんだ者か。
箸を止め、廊下の方へ顔を向けた。誰が現れるのか考え、頭の片隅にとある(・・・)可能性が浮んだ。母親の腹の中で奈々恵を殺す前にも、ほんの僅かだけ希望を抱いていたものだ。
「ただいまー」
姿を現したのは―――奈々恵のような(・・・)女だった。
「あ、今日はオムライスか」
「ちゃんと手を洗ってきなさいよ」
「はーい」
女は廊下の奥へと姿を消した。遼太郎はこの事実に驚愕し、廊下を向いたまま固まっていた。そしてようやく全身に喜びが広がり、いつの間にか、無意識に涙を流していた。
「うわ! 何で泣いてるのよ」
リビングへ入ってきた女は、遼太郎をひと目見た瞬間に立ち止まった。彼女の言葉で自分が泣いていることを知り、遼太郎は途端に恥ずかしくなった。
「そんなに会いたかったわけ?」
「え、なに。遼太郎泣いてるの?」
母親が遼太郎の顔を覗き込む。慌てて目を擦り、「あくびだよ」とごまかした。
「まぁ、確かに今日変質者に襲われたからね」
「変質者! 大丈夫か?」
父親が大声を出し、女が笑って掌を振る。
「全然大丈夫。返り討ちにしてやったから」
「それは本当のことなの? 奈々恵が襲われたの?」
「うん、さっきね。急に飛び掛かってきたから、本気でやっちゃった」
ふざけたように表情を崩した女―――『奈々恵』は、両手を合わせて「いただきます」と口にした。彼女の名を聞いただけで、遼太郎は再び涙が込み上げてきた。まさか、本当に成功するとは。
「ねえ、奈々恵っていくつだっけ?」
「はぁ? 兄さん頭おかしくなったの? 今年で二十歳だけれど」
「そっか。おめでとう」
「何のおめでとう? どうしちゃったの?」
不思議そうに奈々恵が首を傾げた。遼太郎は笑顔でそれに首を振る。誰にも遼太郎の気持ちはわからない。だが、それでかまわない。遼太郎が殺した奈々恵だが、改めて、母親の腹の中で命を授かった。それが目の前にいる妹、二歳年下の『奈々恵』だ。
「お兄ちゃんね、奈々恵に彼氏ができて寂しがってるのよ」
「えぇ、シスコンは勘弁してよ。ハルくんならいいでしょう? 兄さんとも仲良いんだから」
「・・ははは!」
もう、我慢ができなかった。遼太郎は腹を抱えて笑った。なんということだ。結局、この世界でも二人はうまくいっているらしい。過去へ飛ぶ前に聞いた通り、中川は恋人の年齢にこだわりはないようだ。
「遼太郎、妹の恋を邪魔しちゃダメよ」
「しないって」
安心したように笑う母親を見て、遼太郎は気付いた。母親の首元に光るネックレスは、奈々恵がプレゼントしてくれたものとよく似ている。さすがは親子だ。好みも近いのだな、と思った。
「遼太郎もね、後悔しないような恋しなさいよ」
「母さんは後悔してないの?」
「うーん、どうかなぁ」
「・・・!」
母親の反応に驚いたのか、父親が喉を詰まらせたようだ。母親が笑いながら湯飲みを渡す。その二人を楽しげな目で見る奈々恵は、どこにも闇を抱えた様子などなかった。
「ごめんごめん。大丈夫、お母さんは後悔なんてしたことないから」
「・・すごいね」
遼太郎は素直に感心してしまった。たとえ嘘でも、後悔していないなど言えない。むしろ、後悔し、やり直したいことばかりだった。母親の強さを実感しながら、ようやく食事を始める。スプーンですくったオムライスを口にした直後、違和感を覚えた。
―――薄い。
「母さん、これ味薄くない?」
「うわ! 兄さんそれは言っちゃダメなやつだってー。ほらほら、お母さん怒ってるよ」
そのとき初めて、遼太郎を無言で睨む母に気付いた。どうやら、母親の料理があまり上手ではないことは共通認識だったらしい。知らなかったとはいえ、遼太郎は地雷を踏んでしまった。
「いいのよ、美味しくなかったら食べなくても」
拗ねたように食事を再開した母は、こんなやりとりにも慣れているのだろう。全てが新鮮に感じる遼太郎だけが、誰よりも幸せを実感していた。味の薄いオムライスも、具の大きさがバラバラなスープも、そのどれもが美味しかった。これまでに食べたどんな料理よりも、家族が揃った食事は幸せを運んでくれた。
遼太郎は涙を堪えながら、こっそりと醤油の瓶に手を伸ばした。
(終)




