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バニシング  作者: 島山 平
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第五章(5)

 五月二十二日、月曜日。

 山岸は一人きりの休日を過ごしていた。コンビニでのアルバイトは休みで、一人で家にいることにも飽きた。どれだけゲームのレベルを上げ、優越感に浸ったとしても、ふと顔を上げれば負け犬が一人いるだけだ。努力することから逃げ、自分の殻に閉じこもった男がいるだけ。考え始めたら止まらなくなる。山岸は出掛けることにした。

 春とはいえ、夜はまだ寒いくらいだった。午後七時半、新たな週が始まってしまった淋しさが漂っている。もっとも、山岸には曜日など大した差はない。土日だと客が多い、それくらいの違いだ。

 バイト先のコンビニとは違う店で買い物をし、ビニール袋をぶら下げながら歩く。煙草でも吸っていた方が似合うかもしれない。増税で金額が上がったこともあり、山岸は禁煙した。惰性で吸っていただけで、美味しいと思っていたわけでもない。歩いているとゴミ捨て場が目に入り、明日が燃えるゴミの日だったことを思い出す。帰宅したらもう一度捨てに出よう。朝は起きられる自信がない。

 アパートへの帰り道、前方から誰かが歩いてくるのに気付いた。一人言を話しているように見えたが、どうやらイヤホンを使って誰かと電話しているらしい。大声で話すわけでもなく問題ないが、どこか下品に感じた。きっと、山岸の価値観が古いせいだ。

 すれ違った際に、それが若い女であることを確認できた。まだ二十歳かそこらだろう。暗くてよく見えなかったが、なかなかに整った顔をしていたように思う。女っ気のない山岸の生活の中では、化粧をしていれば誰でも美人に見えてしまうのだが。

 歩調を緩め、それとなく振り返る。女は電話に夢中らしく、山岸のことなど気にも留めていない様子だった。そこら辺の雑草と同じ扱いを受けているような気分で、どこか惨めになる。それと同時に、あの女を手に入れたらどれほど愉しいかと考えた。灰色の生活が、一気に鮮やかになるのではないか。一度考え出すと、もう我慢ができなくなった。

 山岸は立ち止まり、女の後ろ姿を凝視した。見れば見るほど、魅力的な女に感じられた。服の上からでもスタイルの良さがわかる。最近の若い女らしく、必要以上に細い体つきだ。つまり、山岸の好みだった。

 ゆっくりと歩き出し、女のあとをつける。どこへ向かうのかも知らないし、何をどうすれば女を手に入れられるのかもわからない。だが、諦めきれなかった。心の底からうずいたこの感情を抑えることはできない。徐々に足早になり、女との距離を詰める。街頭に照らされてはいるが、周囲に人はなく、目立つこともない。気付いた頃には、山岸は全速力で駆け出していた。

 女の姿が目前に迫る。まだ電話をしているようだ。できることなら、最後まで気付かずにいて欲しい。だが、山岸が手を伸ばした途端、振り向きかけた女と目が合った。その瞬間に女の目から油断の色が消え、刺すような鋭さが宿った。

 山岸の手は女の肩を掠めた。女は瞬時に体を回転させたのか、ふらつく足取りで体勢を整えようとしている。追撃するしかない。抵抗される前に、女の声と動きを封じなければ。だが、山岸が女へ向かって飛び掛かった瞬間、聞いたことのないような声がした。それと同時に、山岸は地面に崩れ落ちた。勝手に開いた口から唾液が垂れる。体を起こそうにも、苦しみで思うように動けなかった。

 その直後、アスファルトの地面を見つめていたはずなのに、今度はそれすらも変化した。視界にはいくつかの建物が映り、そのまま世界がひっくり返る。見渡す限り、真っ暗な空が広がっていた。山岸はわけもわからず、目の前に飛んでいるいくつもの光に翻弄されていた。

 いったい何が起きたというのだ。女を襲ったはずなのに、まるで嵐のような衝撃を体中に受けた。プロボクサーに返り討ちにされたような気分だった。

「あ、もしもし。ごめんね」

 頭上から女の声がした。電話の続きを始めたらしい。

「大丈夫、なんか変なのに絡まれただけ。―――うん、怪我してないよ」

 呼吸が乱れた様子もない。友人とランチを楽しんでいるときのような口調だった。あの魅力的な女の正体は何だったのだ。

「警察呼ぼうかなーと思ってる。―――あはは! 兄さんの言う通り少林寺やっててよかったかも」

 『少林寺』女は確かにそう言った。なるほど、山岸が受けた衝撃はそういうことだったらしい。よりにもよって、達人のように舞う女を狙ってしまったのか。ようやく呼吸ができるようになりながら、山岸は後悔に包まれていた。

「ねえ、おじさん」

 まさか女の方から声を掛けてくるとは思ってもみなかった。痛みで声を出せず、山岸は目だけを女に向けた。

「相手を間違えたね」

 悔しいが、女の言う通りだった。一回り以上も下の女から言われると恥ずかしいものだ。諦めて瞼を閉じる。逃げ出そうという気も起きなかった。これだけダメージを受けた状態で、少林寺を究めたような女から逃れるビジョンはない。


 やがてサイレンが聞こえ、パトカーが到着したことを知らせる。山岸は地面に仰向けになったまま、人生がこんな形で終わることに驚いていた。負け犬なりに、もう少し粘れると思っていたのだが。

 それでも、不思議なことにどこかホッとしていた。これで、堕ちるところまで堕ちられる。腐りきった根性を叩き直すには、これくらいの荒療治が必要なのだ。山岸は、返り討ちにしてくれた女に感謝すらしていた。


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