表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バニシング  作者: 島山 平
32/36

第五章(4)

 帰宅し、一人きりの時間が訪れた。午後八時半。父親の姿もなかった。今もまだ、研究室にいるのかもしれない。中川から命を狙われ、息子にそれを防がれた。その二人ともに自らの罪を知られてしまっている。逃げ出してしまいたい心境だろう。

 リビングを見渡す。これまでずっと三人で食事をし、テレビを見てきた部屋だが、懐かしさなどどこにもない。薄っぺらい作り物の平和があっただけだ。遼太郎は、その裏に潜む事実に気付かず過ごしていた。あまりに愚かではないか。何を見て生活してきたというのか。

 ここにいるのが辛くなり、二階の部屋へ引き上げることにした。階段を上がりながら、決着をつけておくべき相手のことを想った。中川と同じ研究室の清水、彼女とは不思議な縁で繋がっている。その縁を断ち切るのか、繋ぎ止めておくのか、遼太郎は結論を出せずにいた。

 自室へ入り、答えを教えてもらうために清水に電話を掛けることにした。


「よお。遅い時間に悪いな」

『きみの方から連絡してくれるとは思ってなかったな』

「うん、俺も。挨拶くらいはしておいた方がいいなかって」

『自殺でもするの?』

「考えたけどやめとく。まだ仕事は残ってるから」

『ねえ、さっきから思わせぶりな言い方だけど、この電話の目的はなに?』

 清水は僅かにイラついた口調になっていた。それも当然かと思い、さっさと本題に入ることにした。

「清水はさ、俺のことが好きなんかじゃないんだろ」

『ふつう、そういうこと訊く?』

「俺に近付いた本当の目的がわかったんだ」

『・・・』

 清水の返事はなかった。それこそが、遼太郎の考えが正しいことを意味していた。

「お前のじいさんが逮捕されたのは、俺のせいだもんな」

『沖くん、きみの言っている意味がわからないわ』

「田所が誘拐されるのを防いだのは俺だ。あの校長は、お前のじいさんなんだろ」

 しばらく何も聞こえてこなかった。清水がどう返事をするのか迷っているようにも感じられた。だがその直後、あははは、と笑い声が届いた。

『そんなことまで調べたんだ。すごいね、沖くん。ストーカーじゃない』

「サンキュ。でもさ、俺と出会ったのは偶然だよな?」

『うん。さすがに私もきみに対してそこまで興味なかったもの。中川くんの友人ってことできみと知り合って、名前をきいてすぐにピンときたけど』

「じいさんが逮捕された事件に関わってた小学生、ってか」

『そうそう』

 清水はもう隠すことをやめたようだ。やけに楽しげな声で話している。これが、彼女の本当の姿なのかもしれない。

「俺に会ってみて、どうだった?」

『別に。復讐する気なんてさらさらなかったし、この人かー、くらいよ』

「もうちょい感動してくれてもよかったのに。でもまぁ、俺も謝ったりしねえぞ。あのじいさんは犯罪者だ」

『もちろん。裁かれて当然だわ。同い年の子を襲ったって知って、反吐が出るほどキモチワルかったし』

 うえええ、とわざとらしく声を出す。まったく、どこまで猫を被っていたのだろう。遼太郎にキスをしたときの彼女は、もっとしおらしかったというのに。

『たぶん世間のほとんどの人はきみに関心ないと思う。でも私は違うのよね。身内の汚れを暴いた同い年の男の子。出会っちゃったら話してみたくなるのは当然でしょ?』

「最初から言ってくれればよかったのに」

『言えないって。身内の恥は忘れたいんだから』

 声を聞いているだけで、清水の苦笑いが目に浮かんだ。

「たぶんだけど、そのうち俺とお前はなんでもない関係になるよ。だからこれが最後の電話だ」

『へえ、ロマンチックね。何かするつもりなんだ』

「あぁ。そっちの世界でも田所が襲われるなら、また俺がじいさんを逮捕してやるから」

『うん、よろしく』

「それじゃ、切るわ」

『あ、待って!』

 まだ用があるらしい。遼太郎は彼女の言葉を待っていたが、しばらく何も聞こえない時間が続いた。最後に愛の告白をするような女ではないはずだが。なにしろ、清水は遼太郎に想いを寄せてなどいないのだから。

『―――もし再会したらさ、今度は友達になろうよ』

 彼女の言葉に、遼太郎は思わず笑ってしまった。やけに神妙な口調で言うせいだ。どこまでが彼女の本心なのかわからないが、悪くない提案だとは思う。

「次はちゃんと好きになってくれてもいいぞ」

『それはきみ次第だね』

「あと、唇のケアはしとけよ。カサカサだったらガッカリするから」

 清水の息を呑む音が聞こえ、すぐに罵声が飛んできた。

『うっさいなあ! さっさとどっか行ってよ』

「おう、またな」

 遼太郎は通話を終えた。過去を変える前に、清水との関係をハッキリさせることができたのは満足だ。彼女の言う通り、今度は友人になってみたいと思わせてくれる女でもあった。

 ―――さて。

 最後はやはり、中川だろう。彼にはとんでもなく迷惑をかけた。それに、これからやろうとしていることは、ある意味では中川に最も影響を与えてしまう。

 椅子に座り直し、姿勢を正す。中川の番号をプッシュし、彼が出るのを待った。

『はい』

「おつかれ。奈々恵と一緒か?」

『違うよ。一人で歩いてる』

「そっか」

 二人は最後の時間を過ごせないかもしれないな、と思った。

「訊いときたいことがあって」

『ねえ、遼太郎。きみにはやるべきことがあるでしょ。電話なんてしてる場合じゃない』

「お前とは話しておきたくてさ、それで―――」

『じゃあ、切るね』

「おいおい! 待てって!」

『・・なに』

「わかった。手短にするから」

 全てを(さら)け出してから、中川は人が変わったように感じる。失うものは何もない、そんな心境なのだろう。

「お前さ、奈々恵のどこが好きなんだ?」

『やっぱり切っていい?』

「マジメな話だって。人を殺せるほど好きなんだろ。どこがいいんだよ」

『答えたくない。遼太郎こそ、ナナのために必死になってるけどさ、シスコン?』

「ちげえよ。俺とあいつは一心同体だから、放っておくわけにはいかないってだけ」

『ボクも同じようなものだよ』

 ようやく中川の本音が聞けた気がした。遼太郎は何も言わず、彼が言葉を続けてくれるのを待った。

『どこが好きとか、そんなこと考えたこともないよ。一緒にいたいって思うから頑張って仲良くなっただけ』

「ふーん」

 悪くない返事だと思った。

『そんなこと訊いてどうするわけ?』

「いや、別に。じゃあ最後にもうひとつだけ。お前さ、年下ってアリ?」

『バカなの? アリもナシも、ボクにはナナがいる』

「いいから教えてくれよ。奈々恵がいなかったとしたら」

『―――まあ、アリだと思うけど。そもそも年齢とかあんまり気にしないし』

「そっか、サンキュ」

 それならば大丈夫かもしれない。遼太郎は密かに安堵していた。

『何の質問だったわけ?』

「こっちの問題。忘れてくれ」

『ナナのこと助ける気になった? さっさとやってよ』

「おう、任せろ。またな!」

『うん』

 中川の方から電話を切った。

 これで、遼太郎にやり残したことはない。思い残すことなく、奈々恵を救いにゆける。

 これまでに、いくつもの過去をやり直した。そのどれも、誰かの人生を歪めるか、奈々恵を別の意味で不幸にしてしまった。父親が奈々恵を襲う理由、その時期はわかったのだから、防ぐのは簡単だと信じていた。だが、世界はそうシンプルではなかった。

 奈々恵が傷付くことなく、父親が彼女に手を出さなくすればよいだけなのだが、そんな都合のいい方法はないと諦めていた。だからいっそのこと父親を殺害してみても、それも無意味だった。となれば、父親が奈々恵のことを襲おうと思わなくすればよいのだ。そのためにどんな方法があるか、遼太郎は考え続けた。父親は、母親を亡くしたことで歪んでしまった。では、母親が亡くならなければよいのではないか。

 遼太郎は立ち上がり、本棚の上に置かれた写真立てを手に取った。二人が生まれる前、両親が並んで写っているものだ。どこかへ旅行に行ったときのものらしい。まだ若い父と、それに寄り添う母親がいる。写真の右下には日付が記載されている。昔の写真は、必ずこういった文字が入っていた。一九九一年、十月三日。それが何を意味するのか考えたとき、遼太郎は答えに辿り着いた。遼太郎と奈々恵の誕生日は、一九九二年の五月四日なのだから。

 そもそも、母親の死因は何か。遼太郎たちを出産した際に亡くなっている。双子の出産は、一人の子を産むよりもリスクが高いらしい。母体の負担が高まるからだ。そして、父親が奈々恵を襲うのは、妻を失っているから。その母親が亡くなったのは、遼太郎と奈々恵を出産したから。―――では、双子を出産しなければどうなっていただろう。母親は無事に出産を終え、自身の体力をとり戻す。母親が亡くならなかったことにより、父親が歪むこともなくなるのではないか。

 この考えに至った当初、遼太郎は自分が死ぬことを選んだ。だが、そこには一つだけ問題があった。万が一、また奈々恵が不幸な目に遭ったなら。それを助けられる者はいない。少なくとも、これまでのように過去をやり直す者はいないのだ。それならば、遼太郎が選ぶべき道とは―――。

 両親の写真を見つめていると、自然と涙がこぼれてきた。雫が写真の上にぽとりと落ちる。水滴のようなそれが、両親の間に確かに存在している。

 『過去に戻る』という力の辿り着く限界はどこにあるのだろう。それはおそらく、遼太郎の始まり、つまり、母親の腹の中にいたときではないのか。人間として成立し始めた瞬間は、間違いなくそこだ。そうであれば、遼太郎は母親の腹の中へと戻ることができる。そして、隣の部屋には奈々恵がいるはずだ。双子なのだから、すぐ隣で眠っていなければおかしい。

 奈々恵の真の望みとは何だったのか。彼女は決して口にしてくれなかった。彼女の考えは、おそらく遼太郎とは違う。この選択をしてしまった遼太郎を恨むかもしれない。そんなことは望んでいないと、叱られるかもしれない。

 それでも、彼女は言ってくれた。『リョウを信じてる』と。そのおかげで、遼太郎は自分の信じた道を進むことができるようになった。奈々恵を救うことに繋がると信じ、母親の胎内へと戻る。その場所で―――奈々恵の命の灯を消す。

 遼太郎は写真を胸元へ引き寄せた。抱きしめるように両手で包み込み、瞼を閉じた。どうか、この罪が奈々恵を救ってくれますように。彼女を殺し、両親の歪みを消し去りますように。

 全ての罪は遼太郎自身が背負う。誰にも責め立ててもらえない完全犯罪だ。誰一人、遼太郎の行為を知る者はいない。いつまでも、遼太郎が死ぬまで一人で背負わなければならない。そして、奈々恵のことを愛し続けると誓う。遼太郎は、奈々恵を救うために殺しにゆく。

 涙を拭うこともせず、遼太郎は最後の祈りを捧げた。


 目を開けることができない。無重力のような、ふわふわとした感覚に包まれている。ここはどこなのだろう。柔らかな温もりが全身を包んでいる、そんな気がする。

 遼太郎は手を伸ばした。何かに触れると同時に、自分の腕の非力さに驚いた。全力で力を込めればバラバラになってしまいそうなほど、遼太郎の体は脆かった。固まりきっていない粘土のように思えた。

 不思議なことに、目を開けなくてもわかることがある。自分が一人きりではないこと。そして、別の誰かと繋がっていること。この安心感は何だろう。恐ろしいほどの優しさに包まれ、まだ泣くことなどできないのに涙が溢れそうだった。―――すぐ隣に奈々恵がいる。まだ自我を持たぬ奈々恵が、遼太郎とともに母親の胎内にいる。遼太郎の最後の旅は成功している。

 もう一度手を伸ばし、壁の向こうにいる奈々恵を確認する。体のどの部位に触れているのかはわからなくとも、奈々恵の存在を確かに感じられた。こんなにも小さく、無防備な奈々恵を、遼太郎は―――。

 間違いなく、神にも許されぬ行為だ。他人の命を根本から奪うなど。負けるはずのない勝負に挑む自分を、奈々恵は許してくれるだろうか。彼女は何も教えてはくれない。話すこともできず、殺されることに抵抗もできない。

 それでも、遼太郎は心を決めた。自分が何をしにきたのか考えるまでもない。奈々恵を、自らの手で消し去るのだ。他の誰にもやらせない。罪を背負うのは遼太郎だけでよいのだから。

 遼太郎は両手を伸ばし、壁の奥にいる奈々恵の頭の辺りに触れた。遼太郎の手はまだ人の形を形成していない。この手で彼女の首を絞めることはできそうもない。

 それならば―――。

 遼太郎は、まだ形の曖昧な両手で壁に触れた。向こう側にいる奈々恵の存在を確かめるように壁をなぞる。罪悪感に押し潰されそうになり、それを振り払うかの如く全身に力を込めた。―――そして。

『待ってたよ』

 聞こえてきた言葉は、遼太郎の妄想だったかもしれない。だが、最後のスイッチを押すには十分な力があった。

 遼太郎は心を殺し、両腕で思い切り壁を押し続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ