第五章(4)
帰宅し、一人きりの時間が訪れた。午後八時半。父親の姿もなかった。今もまだ、研究室にいるのかもしれない。中川から命を狙われ、息子にそれを防がれた。その二人ともに自らの罪を知られてしまっている。逃げ出してしまいたい心境だろう。
リビングを見渡す。これまでずっと三人で食事をし、テレビを見てきた部屋だが、懐かしさなどどこにもない。薄っぺらい作り物の平和があっただけだ。遼太郎は、その裏に潜む事実に気付かず過ごしていた。あまりに愚かではないか。何を見て生活してきたというのか。
ここにいるのが辛くなり、二階の部屋へ引き上げることにした。階段を上がりながら、決着をつけておくべき相手のことを想った。中川と同じ研究室の清水、彼女とは不思議な縁で繋がっている。その縁を断ち切るのか、繋ぎ止めておくのか、遼太郎は結論を出せずにいた。
自室へ入り、答えを教えてもらうために清水に電話を掛けることにした。
「よお。遅い時間に悪いな」
『きみの方から連絡してくれるとは思ってなかったな』
「うん、俺も。挨拶くらいはしておいた方がいいなかって」
『自殺でもするの?』
「考えたけどやめとく。まだ仕事は残ってるから」
『ねえ、さっきから思わせぶりな言い方だけど、この電話の目的はなに?』
清水は僅かにイラついた口調になっていた。それも当然かと思い、さっさと本題に入ることにした。
「清水はさ、俺のことが好きなんかじゃないんだろ」
『ふつう、そういうこと訊く?』
「俺に近付いた本当の目的がわかったんだ」
『・・・』
清水の返事はなかった。それこそが、遼太郎の考えが正しいことを意味していた。
「お前のじいさんが逮捕されたのは、俺のせいだもんな」
『沖くん、きみの言っている意味がわからないわ』
「田所が誘拐されるのを防いだのは俺だ。あの校長は、お前のじいさんなんだろ」
しばらく何も聞こえてこなかった。清水がどう返事をするのか迷っているようにも感じられた。だがその直後、あははは、と笑い声が届いた。
『そんなことまで調べたんだ。すごいね、沖くん。ストーカーじゃない』
「サンキュ。でもさ、俺と出会ったのは偶然だよな?」
『うん。さすがに私もきみに対してそこまで興味なかったもの。中川くんの友人ってことできみと知り合って、名前をきいてすぐにピンときたけど』
「じいさんが逮捕された事件に関わってた小学生、ってか」
『そうそう』
清水はもう隠すことをやめたようだ。やけに楽しげな声で話している。これが、彼女の本当の姿なのかもしれない。
「俺に会ってみて、どうだった?」
『別に。復讐する気なんてさらさらなかったし、この人かー、くらいよ』
「もうちょい感動してくれてもよかったのに。でもまぁ、俺も謝ったりしねえぞ。あのじいさんは犯罪者だ」
『もちろん。裁かれて当然だわ。同い年の子を襲ったって知って、反吐が出るほどキモチワルかったし』
うえええ、とわざとらしく声を出す。まったく、どこまで猫を被っていたのだろう。遼太郎にキスをしたときの彼女は、もっとしおらしかったというのに。
『たぶん世間のほとんどの人はきみに関心ないと思う。でも私は違うのよね。身内の汚れを暴いた同い年の男の子。出会っちゃったら話してみたくなるのは当然でしょ?』
「最初から言ってくれればよかったのに」
『言えないって。身内の恥は忘れたいんだから』
声を聞いているだけで、清水の苦笑いが目に浮かんだ。
「たぶんだけど、そのうち俺とお前はなんでもない関係になるよ。だからこれが最後の電話だ」
『へえ、ロマンチックね。何かするつもりなんだ』
「あぁ。そっちの世界でも田所が襲われるなら、また俺がじいさんを逮捕してやるから」
『うん、よろしく』
「それじゃ、切るわ」
『あ、待って!』
まだ用があるらしい。遼太郎は彼女の言葉を待っていたが、しばらく何も聞こえない時間が続いた。最後に愛の告白をするような女ではないはずだが。なにしろ、清水は遼太郎に想いを寄せてなどいないのだから。
『―――もし再会したらさ、今度は友達になろうよ』
彼女の言葉に、遼太郎は思わず笑ってしまった。やけに神妙な口調で言うせいだ。どこまでが彼女の本心なのかわからないが、悪くない提案だとは思う。
「次はちゃんと好きになってくれてもいいぞ」
『それはきみ次第だね』
「あと、唇のケアはしとけよ。カサカサだったらガッカリするから」
清水の息を呑む音が聞こえ、すぐに罵声が飛んできた。
『うっさいなあ! さっさとどっか行ってよ』
「おう、またな」
遼太郎は通話を終えた。過去を変える前に、清水との関係をハッキリさせることができたのは満足だ。彼女の言う通り、今度は友人になってみたいと思わせてくれる女でもあった。
―――さて。
最後はやはり、中川だろう。彼にはとんでもなく迷惑をかけた。それに、これからやろうとしていることは、ある意味では中川に最も影響を与えてしまう。
椅子に座り直し、姿勢を正す。中川の番号をプッシュし、彼が出るのを待った。
『はい』
「おつかれ。奈々恵と一緒か?」
『違うよ。一人で歩いてる』
「そっか」
二人は最後の時間を過ごせないかもしれないな、と思った。
「訊いときたいことがあって」
『ねえ、遼太郎。きみにはやるべきことがあるでしょ。電話なんてしてる場合じゃない』
「お前とは話しておきたくてさ、それで―――」
『じゃあ、切るね』
「おいおい! 待てって!」
『・・なに』
「わかった。手短にするから」
全てを曝け出してから、中川は人が変わったように感じる。失うものは何もない、そんな心境なのだろう。
「お前さ、奈々恵のどこが好きなんだ?」
『やっぱり切っていい?』
「マジメな話だって。人を殺せるほど好きなんだろ。どこがいいんだよ」
『答えたくない。遼太郎こそ、ナナのために必死になってるけどさ、シスコン?』
「ちげえよ。俺とあいつは一心同体だから、放っておくわけにはいかないってだけ」
『ボクも同じようなものだよ』
ようやく中川の本音が聞けた気がした。遼太郎は何も言わず、彼が言葉を続けてくれるのを待った。
『どこが好きとか、そんなこと考えたこともないよ。一緒にいたいって思うから頑張って仲良くなっただけ』
「ふーん」
悪くない返事だと思った。
『そんなこと訊いてどうするわけ?』
「いや、別に。じゃあ最後にもうひとつだけ。お前さ、年下ってアリ?」
『バカなの? アリもナシも、ボクにはナナがいる』
「いいから教えてくれよ。奈々恵がいなかったとしたら」
『―――まあ、アリだと思うけど。そもそも年齢とかあんまり気にしないし』
「そっか、サンキュ」
それならば大丈夫かもしれない。遼太郎は密かに安堵していた。
『何の質問だったわけ?』
「こっちの問題。忘れてくれ」
『ナナのこと助ける気になった? さっさとやってよ』
「おう、任せろ。またな!」
『うん』
中川の方から電話を切った。
これで、遼太郎にやり残したことはない。思い残すことなく、奈々恵を救いにゆける。
これまでに、いくつもの過去をやり直した。そのどれも、誰かの人生を歪めるか、奈々恵を別の意味で不幸にしてしまった。父親が奈々恵を襲う理由、その時期はわかったのだから、防ぐのは簡単だと信じていた。だが、世界はそうシンプルではなかった。
奈々恵が傷付くことなく、父親が彼女に手を出さなくすればよいだけなのだが、そんな都合のいい方法はないと諦めていた。だからいっそのこと父親を殺害してみても、それも無意味だった。となれば、父親が奈々恵のことを襲おうと思わなくすればよいのだ。そのためにどんな方法があるか、遼太郎は考え続けた。父親は、母親を亡くしたことで歪んでしまった。では、母親が亡くならなければよいのではないか。
遼太郎は立ち上がり、本棚の上に置かれた写真立てを手に取った。二人が生まれる前、両親が並んで写っているものだ。どこかへ旅行に行ったときのものらしい。まだ若い父と、それに寄り添う母親がいる。写真の右下には日付が記載されている。昔の写真は、必ずこういった文字が入っていた。一九九一年、十月三日。それが何を意味するのか考えたとき、遼太郎は答えに辿り着いた。遼太郎と奈々恵の誕生日は、一九九二年の五月四日なのだから。
そもそも、母親の死因は何か。遼太郎たちを出産した際に亡くなっている。双子の出産は、一人の子を産むよりもリスクが高いらしい。母体の負担が高まるからだ。そして、父親が奈々恵を襲うのは、妻を失っているから。その母親が亡くなったのは、遼太郎と奈々恵を出産したから。―――では、双子を出産しなければどうなっていただろう。母親は無事に出産を終え、自身の体力をとり戻す。母親が亡くならなかったことにより、父親が歪むこともなくなるのではないか。
この考えに至った当初、遼太郎は自分が死ぬことを選んだ。だが、そこには一つだけ問題があった。万が一、また奈々恵が不幸な目に遭ったなら。それを助けられる者はいない。少なくとも、これまでのように過去をやり直す者はいないのだ。それならば、遼太郎が選ぶべき道とは―――。
両親の写真を見つめていると、自然と涙がこぼれてきた。雫が写真の上にぽとりと落ちる。水滴のようなそれが、両親の間に確かに存在している。
『過去に戻る』という力の辿り着く限界はどこにあるのだろう。それはおそらく、遼太郎の始まり、つまり、母親の腹の中にいたときではないのか。人間として成立し始めた瞬間は、間違いなくそこだ。そうであれば、遼太郎は母親の腹の中へと戻ることができる。そして、隣の部屋には奈々恵がいるはずだ。双子なのだから、すぐ隣で眠っていなければおかしい。
奈々恵の真の望みとは何だったのか。彼女は決して口にしてくれなかった。彼女の考えは、おそらく遼太郎とは違う。この選択をしてしまった遼太郎を恨むかもしれない。そんなことは望んでいないと、叱られるかもしれない。
それでも、彼女は言ってくれた。『リョウを信じてる』と。そのおかげで、遼太郎は自分の信じた道を進むことができるようになった。奈々恵を救うことに繋がると信じ、母親の胎内へと戻る。その場所で―――奈々恵の命の灯を消す。
遼太郎は写真を胸元へ引き寄せた。抱きしめるように両手で包み込み、瞼を閉じた。どうか、この罪が奈々恵を救ってくれますように。彼女を殺し、両親の歪みを消し去りますように。
全ての罪は遼太郎自身が背負う。誰にも責め立ててもらえない完全犯罪だ。誰一人、遼太郎の行為を知る者はいない。いつまでも、遼太郎が死ぬまで一人で背負わなければならない。そして、奈々恵のことを愛し続けると誓う。遼太郎は、奈々恵を救うために殺しにゆく。
涙を拭うこともせず、遼太郎は最後の祈りを捧げた。
目を開けることができない。無重力のような、ふわふわとした感覚に包まれている。ここはどこなのだろう。柔らかな温もりが全身を包んでいる、そんな気がする。
遼太郎は手を伸ばした。何かに触れると同時に、自分の腕の非力さに驚いた。全力で力を込めればバラバラになってしまいそうなほど、遼太郎の体は脆かった。固まりきっていない粘土のように思えた。
不思議なことに、目を開けなくてもわかることがある。自分が一人きりではないこと。そして、別の誰かと繋がっていること。この安心感は何だろう。恐ろしいほどの優しさに包まれ、まだ泣くことなどできないのに涙が溢れそうだった。―――すぐ隣に奈々恵がいる。まだ自我を持たぬ奈々恵が、遼太郎とともに母親の胎内にいる。遼太郎の最後の旅は成功している。
もう一度手を伸ばし、壁の向こうにいる奈々恵を確認する。体のどの部位に触れているのかはわからなくとも、奈々恵の存在を確かに感じられた。こんなにも小さく、無防備な奈々恵を、遼太郎は―――。
間違いなく、神にも許されぬ行為だ。他人の命を根本から奪うなど。負けるはずのない勝負に挑む自分を、奈々恵は許してくれるだろうか。彼女は何も教えてはくれない。話すこともできず、殺されることに抵抗もできない。
それでも、遼太郎は心を決めた。自分が何をしにきたのか考えるまでもない。奈々恵を、自らの手で消し去るのだ。他の誰にもやらせない。罪を背負うのは遼太郎だけでよいのだから。
遼太郎は両手を伸ばし、壁の奥にいる奈々恵の頭の辺りに触れた。遼太郎の手はまだ人の形を形成していない。この手で彼女の首を絞めることはできそうもない。
それならば―――。
遼太郎は、まだ形の曖昧な両手で壁に触れた。向こう側にいる奈々恵の存在を確かめるように壁をなぞる。罪悪感に押し潰されそうになり、それを振り払うかの如く全身に力を込めた。―――そして。
『待ってたよ』
聞こえてきた言葉は、遼太郎の妄想だったかもしれない。だが、最後のスイッチを押すには十分な力があった。
遼太郎は心を殺し、両腕で思い切り壁を押し続けた。




