第五章(2)
「やっぱ、ここなんだな」
中川に案内された場所は、彼の住むアパートからすぐ近くにある別のアパートだった。遼太郎も入った回数はそれほど多くない。中川が一人暮らしを始め、しばらくしてから借りたという物置だ。二部屋借りるためにバイトに精を出していた頃が懐かしい。
「奈々恵も、これがあるからお前に頼んだんかな」
「否定できないね」
二人でアパートの階段を上がる。
三十分ほど前、中川は沖教授の部屋で彼を殺そうとした。遼太郎が間一髪のところでそれを防ぎ、中川の殺意を沈めることに成功した。沖教授は自分が襲われた理由を理解したのか、二人の目を見ず、何もなかったことにすると約束してくれた。もっとも、警察に通報したなら、彼自身の罪も暴かれるのだ。遼太郎は中川を説得し、秘密の監禁場所へと案内させた。
「遼太郎、もしかしてきみは一度経験したの? ボクがあいつを殺した世界を」
「いや、残念ながら。さっきのは偶然だ」
階段の先を歩く中川が、疑うように振り返った。彼に向けて作り物の笑顔を見せる。嘘ではない。先程の場面は過去をやり直しにきたわけではないのだ。中川からどこにいるのかと連絡がきて、妙に胸騒ぎがしたため沖教授の部屋へと急いだ。その結果、ベストタイミングだったというだけ。
「でも、もしお前があの人を殺してたら、やり直してでも防いだだろうな。―――だから訊きたいんだけどさ、中川、本当はどうしたかったんだ?」
「本当は、って別に。あいつを殺したかったんだよ」
「嘘だろ」
遼太郎の言葉に、中川の脚が止まった。
「その気持ちは嘘じゃないと思う。でも、お前なら気付いてたはずだ。何をしたって、俺が変えられるってことに。それをわかっていながらあの人を襲った理由はなんだ?」
「・・そっちこそ、わかってるんじゃないの」
「なんとなくな」
「じゃあ、訊かないでよ」
鼻で笑い、中川は再び歩き出した。
彼の後ろ姿を見上げながら、遼太郎は苦笑いがこぼれた。やはり、中川は遼太郎のことを恨んでいるのだ。だからこそ沖教授を襲った。それが成功するにしろ失敗するにしろ、遼太郎の記憶に残る。どれだけ過去をやり直したところで、知ってしまった事実は消えないのだ。遼太郎にあの場面を見せる。それこそが、中川の復讐なのだろう。奈々恵が傷付いていることを知らず、防げなかった遼太郎への復讐に違いない。
「もう着くよ」
四階に上がると、中川が通路へと進んだ。突き当たりの一室が中川の物置らしい。趣味専用の部屋を借りるのは憧れなくもないが、通うには不便に思えた。エレベーターもないのでは、荷物運びも苦労するだろうに。
「ナナには言ってないから、びっくりするかも」
「サプライズプレゼントだな」
「どうなっても知らないよ」
中川が部屋のカギを開けた。扉を手前に引き、部屋の中の様子が視界に広がる。奥の部屋には電気が点いていた。
「入るよ」
中川が声を掛けながら靴を脱ぐ。遼太郎がその後ろで待機していると、ガラス扉の向こう側に人影が現れた。その扉が自然に動き出し―――そして、ようやく彼女に再会することができた。
奈々恵は口を開けたまま、唖然とした様子だった。中川と遼太郎の二人を何度も見る。「なぜ」と言いたげな表情をして、奈々恵は一人で立っていた。
「久しぶりだな」
「ナナ、ごめんね」
中川が申し訳なさそうに奈々恵の傍に寄る。拒むわけでもなく立ち尽くす奈々恵は、ようやく落ち着いたように微笑んだ。
「全部、バレちゃったのね」
「俺って天才だからさ」
「バカのくせに」
見つかったことで喚き散らすかとも覚悟していたが、遼太郎の杞憂に終わった。開き直ったのか、奈々恵が奥の部屋へと手招きした。中川は相変わらず叱られることに怯えるような顔をして、俯いたまま歩き出した。遼太郎も靴を脱ぎ、監禁部屋へと進んだ。
「お菓子なんてないから」
「別に求めちゃいないさ」
奥の部屋は物で溢れかえっていたが、ほとんどは中川の私物だった。彼のコレクションが壁一面を囲み、奈々恵の荷物はそれほどないのかもしれない。こんなところであとどれくらい過ごすつもりなのか。遼太郎には、暇で気が狂うとしか思えなかった。
「お前、世間を騒がせてること自覚してるんだろうな」
「うん。でも、わたしを本当に心配している人には迷惑かけてないつもり」
奈々恵がどういうつもりで言ったのかわからないが、遼太郎は呆れて何も言い返せなかった。いったい、どれだけ心配させ、苦労させれば満足なのか。ここへ辿り着くまで、遼太郎がどれほど回り道をしたのか。
「ねえ、ハル。悪いけどリョウと二人きりにさせてくれない?」
奈々恵の提案に、中川は無言で頷いた。静かに動きだし、遼太郎の傍を通り過ぎる。一人で玄関へと向かい、やがて、部屋の外へと出ていった。
「さてと。何か飲む?」
「いらねえよ。楽しい話をしにきたわけじゃないしな」
「だね」
奈々恵が座椅子に腰掛け、椅子を示す。遼太郎はおとなしく従うことにした。
「クイズです。わたしがここにいる理由はなんでしょう!」
「急になんだよ」
「さあさあ」
「・・お腹の子を出産するため」
「何のために?」
「父さんへの復讐」
「やるねえ」
楽しそうに笑顔を見せる奈々恵は、何を考えているのだろう。もう隠すことをやめたようだが、この先の行動は読めない。この世界での出来事は、遼太郎にとっても初めてだからだ。
「じゃあ次ね。あの人からレイプされるようになったのはいつからでしょう」
「お前さ、もうちょい言葉を選んでくれないかな」
「これでも選んでるよ? もっとハッキリ言ってあげようか」
「やめろ。―――高校一年生の冬頃から」
「すご! そこまでわかってるんだ」
「天才だって言ったろ」
「過去をやり直せるっての、本当なんだ」
「中川から聞いたんだな」
奈々恵は満足そうに歯を見せて笑う。屈託のないその表情が、妙に腹立たしかった。遼太郎の知らないところで、二人の間にどんなやりとりがあったのか。自分だけ遠回りさせられているような気分だった。
「この状況さ、回避できなかったのかしら?」
「できたよ。でも、幸せにはなれなかった」
「えっと、色々過去を変えてみたってこと? それでも上手くいかなかった?」
「あぁ。これでもお前のために必死こいたんだ」
「ありがと。信じてたよ」
「ふざけてる場合かよ」
奈々恵のペースに引き込まれている。遼太郎はそう感じながら、抵抗することをやめた。なにしろ、こんなくだらないやりとりですら久しぶりで、正直楽しかったからだ。それに、こんな会話は今日で最後だ。
「せっかく二人だけになれたし、全部話してよ。どんなことしてくれたのか」
「お前、楽しんでるだろ。他人事みたいな顔しやがって」
「あれ、違ったっけ」
「そのうちぶん殴るぞ」
「リョウにだったら、殴られてもいいよ」
この勝負は分が悪い。遼太郎は溜息を漏らしながら、冷蔵庫へ向かうことにした。緊張が解け、喉が渇いていたことを思い出した。
「わたしコーラね」
「妊婦らしいもん飲んどけよ」
「どんなのよ、それ」
冷蔵庫の中には、食材や飲み物が十分に備えてあった。奈々恵が出掛ける必要のないよう、中川が補給しているのだろうか。尽くしすぎている現状に、中川への申し訳なさで涙が出そうだった。
部屋へ戻り、テーブルに二人分のコップを置く。小さく手を挙げる奈々恵の体を見ても、妊娠しているかどうか判別できなかった。三ヶ月ではその程度らしい。
「中川には全部話してるんだよな」
「全部っていうのがどこまでを指すのかによるけれどね」
「あいつがどんな想いで動いてるか、さすがにわかってるよな」
「うん。感謝してる、これは本音」
こんなときだけ真剣な顔をする。中川も厄介な女に絡まれたものだと同情しながら、遼太郎は自分の経験した世界を話すことにした。




