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バニシング  作者: 島山 平
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第五章(1)

 五月十四日、日曜日。

 遼太郎の家で三人でお好み焼きを食べ、リビングで一夜を過ごし、自宅へ戻った。中川が洗濯や洗い物をしていると、玄関のチャイムが鳴った。昼間のこの時間、訪問者の予定などない。家に来るとしたら奈々恵か遼太郎のどちらかだが、二人とはさっきまで一緒にいた。宅配便でも届いたのかと思い、慌ててタオルで手を拭いて玄関へと向かった。

「わたしだけれど」

 扉の向こう側から届いた声に、中川は僅かに驚いた。すぐにカギを開けて扉を押すと、奈々恵が一人だけで立っていた。数時間前に彼女の家で見ていただけに、この訪問は意外だった。

「いらっしゃい。どうしたの?」

 自然と笑みがこぼれていた。奈々恵と会えるのは嬉しいに決まっている。曖昧な表情をしたままの奈々恵を歓迎し、洗い物の続きをすることにした。

「淋しくなった?」

「うーん、そうかも。洗い物してた? 早く終わらせちゃって」

 キッチンの様子を見て状況を察したのだろう。中川の背中にそう言い残し、奈々恵は一人でリビングへと入った。珍しいことを言うものだなと驚いたが、彼女を待たせるわけにもいかない。急いで洗い物を終え、奈々恵の元へと向かった。

「ごめんね、急に」

「いつでも大歓迎だって」

 ソファーで隣に腰掛け、奈々恵がやってきた意図を探った。どこか不安げな面持ちをしている。自宅では話せなかったことでもあるのだろうか。

「あのね、お願いがあって来たの」

「お金ならないよ。―――紅茶でいいよね?」

 飲み物の一つでも出してあげるべきだった。中川が慌てて立ち上がろうとすると、奈々恵の左手がそれを引き止めた。

「ハル、真剣な話なの」

「なになに」

 奈々恵の様子から、ふざけてはいけないような気がした。中川の想像以上に、彼女は思い詰めた顔をしている。

「ハルにしか言えないことなの。相談できないことなの」

「なんだろう。光栄だけどちょっと緊張するね」

「あのね、誰にも言ってないことがあるの」

「遼太郎にも沖先生にも?」

「そう。誰一人として言ってない」

 それだけ身近な人にも言っていない内容となると、中川にも想像がつかなかった。わざわざこの家を訪ねて話すあたり、さすがに軽い気持ちで聞くことはできない。ようやく、中川の中にも緊張が広がった。

「これを言うのはハルだけだと思うし、もう二度と言わない」

「まじめに聞く。ナナのタイミングで話して」

「ありがとね」

 奈々恵は僅かに口許を緩ませた。だがそれも一瞬のことだった。すぐに下唇を噛み、どこかよそよそしい口調で言った。

「ハル、わたしはあなたのことが好きよ」

「もちろんボクだって」

「大好きなの」

「同じだよ」

 雰囲気から、別れ話を切り出されるのかと感づいてしまった。奈々恵はこの瞬間、中川の傍から離れていこうとしている。どこで間違えたのだろう。奈々恵を傷付けるようなことをしてしまったのか。それに気付いてもいない自分の鈍感さが悔しく、中川は奥歯を噛み締めていた。

 だが、その後で奈々恵が口にした内容は、中川の想像を遥かに越えていた。いっそのこと、別れ話の方がマシだったと思うほどに。

「ごめんね」

「どうしたのさ」

 先程から、奈々恵は決して中川の方を見ようとしない。(かたくな)に手もとの一点を見つめ、振り絞るようにして話している。

「大丈夫、ゆっくりでいいよ」

「ありがとう」

 ようやく奈々恵は深く息を吸った。そして、隣にいる中川の方を向き、決意したような強い目をして口を開いた。

「わたしね―――妊娠してるの」

 彼女と見つめ合いながら、中川は夢を見ているような気分だった。それは彼女の言葉に現実味がなく、そして言われた経験もなく、頭の中で処理が追いついていないからだった。少し間を置いてから心の奥底まで言葉が沈むと、中川の視界が僅かに揺れた。

「それって・・」

 妊娠させてしまったのか。ようやくそれを理解し、中川は自分のとるべき選択肢を探った。瞬時にいくつかが浮んだが、一人で決めてよい問題ではない。どうしようかと思案していると、たたみかけるような奈々恵の言葉が続いた。

「ハルじゃないの。ハルの子供じゃないの」

「ナナ」

 無意識に、中川は奈々恵の手を握っていた。確かな熱を持った奈々恵の手は、驚くほど落ち着いていた。それでも震えているのは、中川の方が原因だった。汗ばんだ掌は、奇妙なほどに感覚が研ぎすまされている。

「ごめんなさい・・・本当に、ごめんなさい」

「―――いつから?」

「ごめんなさい」

 両眼に涙を浮かべながら、奈々恵は中川から目を逸らさなかった。それが彼女なりの懺悔なのだと思った。自らの行為を認め、中川に許しを請う。今後のことは中川に判断をゆだねようとしている、そう感じた。

 だが、ここでもまだ、中川の考えは奈々恵の域に到達していなかった。

「いま、三ヶ月目」

「この質問をするのはすごく怖いんだけどさ」

 自分の発する声が震えている。中川は可笑しくなって笑ってみたが、それすらも上手くできなかった。

「―――誰の子なの?」

 奈々恵が哀しげに目を伏せ、再び互いに沈黙していた。答えてしまえば、奈々恵の浮気相手を知ることになる。中川の知り合いだったら、さらにこじれてしまうだろう。それでも聞かないわけにもいかない。こうなった以上、全てを知って判断したかった。―――そして、その瞬間は訪れた。

「お父さん」

 しばらくして、中川の全身に鳥肌が立った。彼自身がそれに気付いたのはさらに少し経ってからで、脳がパンクするほど感情がごちゃまぜになった。瞼を閉じ、歯を食いしばる。本能が、それを理解することを拒んでいた。

「ごめんね」

「・・待って」

「嘘じゃないわ。お腹にいるのは、お父さんの子供」

「やめろ!」

 奈々恵の言葉が、中川の全身を舐めまわす。嘲笑(あざわら)うかのような事実に、中川が保っていた理性は崩壊した。それがどういうことなのか、奈々恵はわかっているのだろうか。これまで毎日のように指導を受け、彼のような研究者になりたいと思っていた。その相手が、まさか―――。

「本当にごめんなさい。・・でも、ここからが本題なの」

 そう話す奈々恵は、もう覚悟を決めた顔をしていた。涙を浮かべながら、中川の目を見つめる。逃げ出すことを許さぬように、中川の選択肢を奪った。

「お願いがあって来た、そう言ったわよね」

 そんなことを言われた気もするが、はるか遠い昔にも感じる。これが現実なのか夢なのか、理解するのが怖かった。中川はただただ頷くだけだった。

「わたしを誘拐して欲しいの」

 この女は、どこまで振り回せば気が済むのだろう。愛している相手なのに、今は奈々恵のことが恐ろしくてたまらない。

「誘拐って・・どういうこと」

「監禁、って言った方がいいかな。あと七ヶ月、わたしを監禁して欲しい」

 計算し尽くしてあるのだろう。奈々恵の中に、確固たる想いがある。この願いを中川にきいてもらえさえすれば、自分の目的は達成されると信じている目をしていた。それと同時に、中川にも彼女の計画の一端が見えた。『七ヶ月』という時間が何を意味するのか考えた結果だった。

「―――その子を産みたいんだね?」

 中川の問いに、奈々恵はハッキリと頷いた。

「復讐なの、あの人への」

 中川は何も言えなかった。いくつもの感情が入り交じり、正解が何かすらわからない。奈々恵と協力して沖教授に復讐したい気持ちはある。だが、それは奈々恵の人生を大きく歪ませるものだ。彼女だけでなく、中川自身も。これまでのような生活は送れない。この地域で暮らすことだって難しくなるのではないか。奈々恵はそれを理解した上で、子供を産もうとしているということか。

「―――いいよ」

「ほんとに?」

「ひとまずうちにおいでよ。ボクにはもう一部屋あるし」

 幸か不幸か、はたしてどちらなのか。オタク趣味でもう一部屋借りていることが、こんなところで役に立ってしまうとは思ってもみなかった。

「ありがとう。・・ハル、わたしのこと―――」

 中川は両手を突き出し、奈々恵の言葉を遮った。それ以上言ってはならない。中川は何と答えてよいのか判断できないのだ。

 自分は奈々恵のことを恨むだろうか。おそらく、彼女は被害者だ。『復讐』という言葉が何よりの証拠だった。受け入れられる事実ではない。それでも、奈々恵を責めるのは筋違いというものだ。

 中川が狙うべきはただ一人。恩師―――沖浩輔教授だった。


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