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バニシング  作者: 島山 平
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第四章(6)

 五月二十二日、月曜日。

 奈々恵が姿を消してから、一週間が経過していた。中川はこの一週間、自分がどう動くべきか考え続けていた。誰よりも奈々恵の幸せを願ってきた自信があるし、それはこれからも同じだ。彼女が苦しんでいるとするなら、それを救ってやるのが自分の役目だと思っている。そして、彼女が望むことがあるならば、手伝うつもりでいる。

 ―――だが。

 自宅で一人で考え続け、漠然とした答えに辿り着いた。それは、奈々恵を傷付ける者を排除するというシンプルなものだった。それができるのは、どうやら中川だけらしい。遼太郎は奈々恵のために何度も過去をやり直し、救おうとしている。それでも、現状を見てみればどうだ。奈々恵は遼太郎の前から姿を消した。世間で女子学生が襲われる事件は続いたままだ。遼太郎がそのうち正解に辿り着くとして、それはいつだ。その方法で本当に奈々恵は救われるのか。何しろ、奈々恵を傷付けてきた犯人が誰なのか、中川は知ってしまった。誰一人として信用はできない。だからこそ、最後の手段を選ぶことにした。


 研究室でやらなければならないことは山ほどある。どこにゴールがあるのかもわからないのが研究だ。その分、時間の使い方は人それぞれ自由でもある。沖教授は特に指定しないし、研究成果さえ出していれば文句は言われない。奈々恵が姿を消してから、中川は休みがちになった。今日だって夕方になるまで大学へ行くことはなく、一人きりの時間を過ごした。こんな機会は、もう二度とやってこないかもしれない。

 午後七時過ぎ。そろそろ都合のいい時間だろう。中川は最後の晩餐を済ませ、大学へ向かうことにした。道中、遼太郎に連絡してみると、彼は研究室にいることがわかった。それも悪くない。中川にとって、比較的好都合だった。

 工学部棟に着き、三階にある研究室を目指す。ずる休みをしていたお詫びとして、他のメンバーに差し入れを買っておいた。ビニール袋を右手で持ち、古びた階段を上がる。

「おや、今日も休みだと思っていたよ」

 頭上から声が届き、それが沖教授のものだとすぐに気付いた。タイミングが悪いな、そう思いながら中川は顔を上げた。

「お疲れさまです。すみません、少し体調が悪くて」

「大丈夫かい? それならもう休んでしまってもよかったのに」

 踊り場で立ち止まり、沖教授が心配そうに中川の顔を覗き込む。中川は嘘がバレるのが嫌で、思わず顔を伏せた。

「すみません、もう大丈夫ですから」

「そうか、それならよいが」

 沖教授は上の階に行っていたらしく、中川と同じ三階の廊下を進んだ。突き当たりには学生たちの研究室があるし、その手前には教授の部屋がある。決して広くはないが、蔵書に囲まれたあの部屋が中川は嫌いではない。

「あ、差し入れ買ってきたんです。先生にもあります」

「悪いねえ、体調悪いのに気も遣ってもらって」

「いえ」

「どうだ、コーヒーでも淹れよう」

 沖教授が部屋のカギを開けている間、中川は迷っていた。一度研究室に顔を出してからの方がよいだろうか。だが、ここで誘いを断るのも不自然だ。

「失礼します」

 結局、中川は教授室へと足を踏み入れた。こうなった以上、計画通りにいかないことを覚悟した。そして、ある意味では好都合のシチュエーションでもある。沖教授に訊いておきたいことがあった。

「先生、奈々恵さんのことどう思いますか?」

「どうっていうのは」

 ポットでお湯を沸かす準備をしながら、沖教授の表情は真剣なものだった。娘が行方不明なのだから、安らかな生活を送れるはずはない。

「どこで何をしているのか、わからないままですから」

「うん・・。当然心配している」

 沖教授はソファーに腰掛け、中川に向かいの席を促した。

「警察に任せるしかない。そう理解していても、自分は何もできないのかと嫌になるよ」

 背もたれに背中を預け、深いため息とともに瞼を閉じた。それが彼の本心であることが伝わる。中川や遼太郎と同じように、沖教授もまた、奈々恵を救いたくて仕方がないはずなのだ。―――だが。

「先生、奈々恵さんの身に何が起きているのか御存知ですか?」

「どういうことだい? まるできみは知っているような口ぶりだね」

「いえ、そういうわけじゃないんですが・・」

 中川は言葉に詰まり、ごまかすように視線を逸らした。その仕草も、沖教授からは同情すべきものに見えたらしい。

「誰にだって秘密の一つや二つはある。当然なんだ。だが、奈々恵はおそらく事件に巻き込まれてしまっている」

 後ろでポットがボコボコと音を立て始めた。

「それはあまりに残酷だし、許されることではない。奈々恵に限らず、異常者に襲われていい理由なんてないからね」

 憤りの混ざった口調になっている。それを本人も自覚したのか、沖教授はわざとらしい笑顔を見せた。

「まあ、それぞれができることをするしかないか」

 そう言うと沖教授は立ち上がり、壁際のラックからマグカップを二つ取り出した。「インスタントしかないけど」と口にしながら粉をカップに注ぐ。ポットが激しい音を立てるのを聞きながら、中川は感情を抑えるのに必死だった。

 沖教授は、奈々恵の置かれた状況を理解していない。何も知らないのだから当然、そんな生易しい言葉を掛ける気は微塵もなかった。なにしろ、奈々恵が姿を隠した本当の理由は―――。

「奈々恵が帰ってきたら、今度はみんなでご飯でも食べにいこうか」

 その言葉が、最後の一線を越える引き金となった。

 中川の頭の中で何かがプツリと切れる音がした。ポットのお湯をカップに注ぐ沖教授の背中が目に入る。中川は意識することなく立ち上がり、テーブルを回り込んだ。中川の動きに気付きかけた沖教授の背中を、全力で蹴り飛ばした。

 沖教授は蹴られた勢いのままテーブルにぶつかり、置かれていたカップやスプーンなどが音を立てて床に散らばる。ひどい音が耳に残ったが、中川はそんなことを気にする余裕などなかった。ポットが落ち、中の沸騰したお湯がこぼれ広がる。倒れた沖教授の腕にもかかり、悲鳴のような短い声を挙げた。

「あんたは!」

 中川はうつ伏せの沖教授に飛び掛かり、胸ぐらをつかんで引き起こした。

「自分が何をしたのかわかってんのか!」

 返事など必要なかった。中川は感情に任せて沖教授の顔面を思い切り殴り飛ばした。右手にジンジンとしたものを感じる。だが、奈々恵が受けた傷はこんなものではない。沖教授はひどく混乱した顔をして、自分がなぜ殴られたのか理解していなかった。中川の暴行を受け、怯えた様子すら見せていた。

「もう何もかも終わりだ」

 中川は興奮で震える脚に力を入れ、ゆっくりと立ち上がった。中川から距離をとろうと後ずさる沖教授を見下ろす。なんと滑稽な男だと(さげす)んでいた。

 雑にやりすぎたことを反省する。だが、この男を目にし、冷静でいろというのが無理だった。中川には、そんなことできるはずがなかった。ポケットに手を入れ、用意していた物を取り出す。刃先を見た途端に沖教授の両眼が見開いた。自分が何をされるのか理解したように。

 もう、何も言葉はいらなかった。

 中川は一歩ずつ彼に近付き、手にしたナイフに力を込める。この男が、全ての元凶だったのだ。奈々恵を傷付け、この状況を作り上げた。沖教授は、なぜ中川に襲われるのか、最後まで理解しないままかもしれない。たとえそれでもかまわない。中川は目の前の男に復讐することしか考えていなかったからだ。それさえ叶えば、後はもうどうなったってよかった。

 壁に背を当て、逃げ場がないことを悟ったのか、沖教授は騒ぎ立てている。その言葉は中川には届かない。彼の中で暴れ回る感情が、目的のためだけに体を動かしていた。沖教授を殺す、それだけが、中川の体を動かしていた。

 ついに最後のスイッチが入り、中川は手にしたナイフを振りかぶった。そして、右手を思い切り振り下ろしかけた―――そのときだった。

「中川!」

 その声に無意識に体が反応し、ナイフは沖教授の腕を掠めた。中川がさっと振り返ると同時に衝撃を受け、左肩からソファーへ倒れ込んだ。

「やめろ、中川」

 体勢を整えようとしていると、ぶつかってきた男が馬乗りになるような形で中川に覆い被さった。

「それを離せ!」

 目の前にいるのが遼太郎だと知り、中川はやり切れない想いになった。彼はなぜ、自分の邪魔をするのか。同じ目的だったはずなのに、沖教授を守ろうとするのはなぜだ。

「どけ―――よ!」

 中川は思い切り腕を振り払い、遼太郎から逃れようとした。それでも彼はしつこく腕をつかみ、気が付いたときにはナイフを離してしまっていた。

「父さん、離れてて!」

 振り返ることなく遼太郎が叫ぶ。仰向けの中川からは沖教授の様子が見えなかった。おそらくは部屋の奥へと逃げている。それはつまり、中川の目的―――復讐が叶わなくなるということでもある。

「お前らしくないミスだな」

「・・どいてよ」

「本気で父さんを殺すつもりなら、その前に消しておかなきゃいけないやつがいるだろ」

 彼の目を見ているうちに、遼太郎の言わんとしていることをようやく理解した。そんなことわかっている。中川だって、遼太郎が過去をやり直すことができるのだと知っているからだ。だが、この胸に溜まりきった感情は、そんな正論では拭いきれなかった。

「遼太郎、どうしてボクの邪魔をするの」

「こんなことしたって、何も意味はないからだ」

「あいつが―――あいつがナナを傷付けたんだ」

「わかってる」

 静かな口調で答える遼太郎の、心の奥を覗いてみたかった。彼はどこまでを知り、父親が何をしたのか知っているのだろうか。中川はそれを訊ねてみたかったが、本心を教えてもらえるとは思えない。この状況が、彼の気持ちを表していた。

「落ち着いてくれたか?」

「無理だね。一秒でも早くあいつを殺したい」

「もしそんなことしたって、俺が全部やり直すぞ。今日お前が父さんを襲うことはわかったんだ。俺ならそれを防げる」

 遼太郎の落ち着いた言葉が、中川の感情を(えぐ)っていく。そんなことを言うためにここへきたというのか。綺麗事など、今の中川には届かない。

「ねぇ、遼太郎」

「ん?」

「過去をやり直したんじゃないの? どうしてナナはまだ不幸なままなのさ」

 中川の問いに、遼太郎は哀しげに眉を歪ませた。すぐに答えることはなく、部屋を沈黙が包んだ。

「遼太郎、彼を抑えててくれ。警察を―――」

「うるせえ!」

 目の前の遼太郎が、沖教授の言葉に敏感に反応した。聞いたことのないような大声をあげ、沖教授の動きを止めた。

「―――俺が助けにきたと思ってるなら、それは間違いだよ。父さん、俺も全部知ってるんだから」

「遼太郎、何を・・?」

「それについては後にして。―――中川、この件は俺に任せてくれないか」

 遼太郎の目を見ていると、切実な想いが伝わってきた。父親を許すことなどなく、本当は中川と同じことをしたいのだと。だが、彼はまだ理性を保っている。中川のような手段に出ることはなく、まだ奥の手を隠しているようにも見えた。

「どうするつもりなのさ。ナナを救う算段はついてないんでしょう?」

「いや、一つだけ考えがある」

 遼太郎が嘘をついているようには見えなかった。彼の振り絞るような口ぶりが、『一つだけ』という言葉に意味を持たせていた。

「そのために、中川に頼みがあるんだよ」

「・・頼みってのは?」

「奈々恵に会わせてくれ」

 その言葉を耳にしたとき、中川にも理解することができた。遼太郎は、奈々恵がいなくなった真相を完全に把握している。誰が、何のために彼女を誘拐しているのか。そして、奈々恵はなぜ誘拐されているのかを。

「遼太郎、奈々恵がどこにいるのかわかるのかい・・?」

「父さんは黙ってて。俺も、気を抜いたらそこのナイフで刺してしまいそうだから」

 遼太郎が凄むと、沖教授はひるんだように固まった。それきり、余計な口を挟むことはなかった。

「奈々恵はまだ無事なんだろう? 一応、どこにいるのか見当はついてるんだけどさ」

「・・ボクは知らないよ」

「もう隠さなくていい。なんなら、俺は全部を知ることができるから」

「その力、ずるいよね」

「ほんとにな。申し訳なくなるよ」

 中川に抵抗する気がないと悟ったのか、ようやく遼太郎の表情から緊張の色が薄まった。困ったように苦笑いを見せる遼太郎は、中川の知る彼そのものだった。昔から見てきた、親友の顔だった。

 奈々恵は、遼太郎を信じて行動した。中川は悔しかったが、やはり家族とはそういうものなのだろう。赤の他人では踏み入ることのできない絆が、そこには存在する。だからこそ、沖教授のしでかしたことを中川は許すことができず、殺してしまうことにした。彼を殺して、自分も―――。それが逃げに等しい行為だと知りながらも、中川には耐えられなかった。

 だが、遼太郎は違うようだ。中川にはできない方法で、奈々恵を救ってくれるのかもしれない。彼を信じることが、奈々恵を救うための最後の希望となるらしい。

 ソファーで仰向けになりながら、中川の頬を一筋の涙が伝った。瞼を閉じると、奈々恵と過ごした楽しかった思い出が蘇る。彼女の笑顔も、笑い声も。遼太郎の愚痴を楽しげに話す彼女の様子も。自分一人では彼女を救うことができなかった。悔しいが、認めざるを得ない。奈々恵を救えるのは、遼太郎だけだ。

「いいよ」

 瞼を開け、涙で滲んだ視界に遼太郎を捉える。

「もう、いいよ」

 遼太郎の表情は、はっきりとは見えなかった。安堵しているのか、怒っているのか。どちらにしろ、中川は、彼を奈々恵の元へ案内することを決意した。


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