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バニシング  作者: 島山 平
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第四章(5)

 中学三年生の終わりが近付いた頃から、遼太郎は自室にひきこもるようになった。それまではどちらかといえば明るく、友人も多いタイプだった。それにも関わらず彼が自らの殻に閉じこもってしまった理由を、奈々恵は何も知らないままでいた。

 部活を終え、奈々恵が帰宅する。大抵の場合父親は仕事から帰っておらず、家の中には遼太郎がいることになる。義務教育を放棄しているわけだが、最低限の出席日数は足りているのだろうか。父親が大学の職員にも関わらず、息子は自宅警備員。なんとも皮肉なものだと思う。せめて、自分だけでも真っ当な生活を送らなければ。奈々恵を支えたのは、ただそれだけの想いだった。

 それでも、遼太郎のことを疎ましく思ったことはなかった。確かに友人からは、ひきこもりの兄について質問され、面倒な想いもした。教師からも、遼太郎は何を考えているのかと探りを入れられた経験もある。その度、奈々恵は無関心を突き通した。自分と遼太郎は違う。そう言い聞かせ、厄介な質問を風のように受け流すことにした。

 また、遼太郎はひきこもっているが、怠惰な生活をしているわけではなかった。家事全般をこなし、奈々恵が帰宅する頃には夕飯の下ごしらえまで完了していることが多かった。雨の日に洗濯物が干しっぱなしということもない。風呂掃除もトイレ掃除も、頼んだわけでもないのにやってくれていた。唯一心配していた勉学だが、彼は元々知能が高いのか、教科書を見ただけで全て理解できてしまうらしい。以前、奈々恵がふと数学の問題に戸惑っていると、リビングにいた遼太郎が正解を導いてくれた。これなら学校に行く必要はないかもしれない、そう思ってしまうほどに。

 夕飯は三人で食べることが多かった。その際、遼太郎はほとんど口をきかなかったが、奈々恵か父親のどちらかが質問すれば答えた。決して他人を拒絶しているわけではないことは伝わる。それが、奈々恵を安心させる最も大きな要因だったのかもしれない。

 遼太郎が家にひきこもるようになった正確な日にちは覚えていない。中学三年の秋が終わり、冬に差し掛かっていたはずだ。受験シーズンを迎えてプレッシャーを感じすぎてしまった可能性はある。遼太郎の学力をもってすれば、進学校の受験だって合格できただろう。けれど、彼は家から近い高校を選んだ。ひきこもっていながら受験をするというのも不思議だったが、遼太郎は奈々恵と同じ高校を受験し、二人ともめでたく合格することができた。これまでと同様、二人は同じ学校に通うこととなった。


 高校へ進学してからは、遼太郎はひとまずひきこもりを卒業したらしい。奈々恵と同じような時間に家を出る生活が始まった。仲良く登下校することなどなかったが、何も知らない者からすれば、遼太郎はひきこもりとは無縁の人物に見えたはずだ。チャラチャラしすぎず、地味すぎず、適度に若者らしい風貌をした遼太郎は、奈々恵の新たな友人からも一目置かれる存在だった。その一方で、彼は部活にも入らず、友人と遅くまで出歩くこともしなかった。授業が終わればまっすぐ帰宅し、以前と同じように家事をこなした。この頃には奈々恵もそれを手伝うようになっていたが、やはり、家の中でもそれほど会話が弾むことはなかった。

 ゴールデンウィークを過ぎた頃、奈々恵は遼太郎に訊ねてみた。なぜ中学三年の終わり頃、ひきこもるようになったのかと。

「別に深い意味はないよ。あのときしかひきこもりの経験なんてできなかっただろ?」

 そう答えた遼太郎は落ち着いた顔をしていて、ごまかしているとか、咄嗟の嘘をついているようには見えなかった。奈々恵は彼の言葉をそのまま信用したわけではないが、少なくとも、遼太郎はひきこもっていた頃に抱えていたであろう問題を解決できているのではないか、そう思っていた。


 遼太郎と二人きりの時間を当たり前に考えていたある日、キッチンに立つ遼太郎が口を開いた。

「最近この辺りで起きている事件、知ってる?」

「事件?」

 ソファーで膝を抱えるようにして座っていた奈々恵は、顔だけで振り返った。キッチンで食器を洗っていた遼太郎は奈々恵を一瞥して頷いただけだった。

「何だっけ、殺人事件とか起きてた?」

「違う。小さな女の子が誘拐される事件」

「え、そんなの起きてるの? わたし何も知らないんだけれど」

 奈々恵は姿勢を正し、遼太郎に正面を向けた。本当に初耳で、自分よりも遼太郎の方が詳しいことが意外だったのだ。

「誘拐ってのは間違ってるかもしれない。ただ、女の子が姿を消してるのはほんと」

「何人? どこの子?」

「二人。市内の小学生らしい。俺も人づてに聞いただけだから曖昧だけど」

「ふうん。なんか不思議な感じ。遼太郎はその犯人がわかるの?」

「まさか。でも気になる。田所のこともあるしな」

「・・うん」

 一瞬、奈々恵は遼太郎の言葉を理解できなかった。『田所』という名を聞いたのが久しぶりで、記憶の中の誰と一致するのか探すのに時間を要したからだ。

「襲われた子も、美希ちゃんと同じような年頃?」

「らしい。小学校低学年だっていうから」

 表情を変えずに言うが、遼太郎の内心が穏やかではないことくらい、容易に想像できた。その証拠に、彼は意識して丁寧に食器を洗っていた。

「いなくなった子たちは見つからないの? なんていうか、どこかで発見されたりとか」

「遺体も見つかってないらしいよ」

 ぶっきらぼうに言う遼太郎は、田所のことを思い出しているのだろうか。奈々恵たちが小学二年生だった頃、クラスメイトの田所美希が姿を消した。そして、その一週間後に市内の用水路で遺体となって彼女は発見された。それが原因で、遼太郎は特に心に傷を負った。田所のことが大好きだったのだ。

「でも急にどうして?」

「いや、何か知らないかなって思っただけ」

 遼太郎は蛇口の栓を締め、布巾で手を拭いた。夕飯の片付けも終わり、翌日は土曜日。これからが最も楽しい時間帯となる。今日の映画は何だったか、奈々恵は思い出すことができなかった。

「うわさでは、若い男が目撃されてるらしいんだよね」

「え?」

「だから、二人の小学生を誘拐したやつ」

 ソファーに腰掛け、遼太郎が気怠そうに言う。若い男というのは、もしかすると自分たちと同年代を指すのではないか。奈々恵は頭に浮んだ疑問を解消することができず、つい口を開いた。

「同じ学校の人が犯人だったりしたら、なんかイヤだなぁ」

「可能性としてはありうるんじゃねえのかな。今時、学生が犯罪をしでかすことは珍しくもなんともないし」

「まあね」

 相槌を打ちながら、奈々恵の心境は穏やかではなかった。なぜ遼太郎は平然とそんなことを口にするのか。それが不明で、奈々恵には理解できない遼太郎の想いが隠れているような気がするのだ。つまり、遼太郎がひきこもっていたのと同様、閉ざされた秘密が見え隠れするような。

「それじゃ、わたしも狙われないように注意しないとな」

 わざとらしく軽口を言ってみたが、遼太郎は鼻で笑って返事をするだけだった。


 翌日の土曜日、家の中は朝から奈々恵一人だけだった。父親は仕事の関係で出張しており、遼太郎は買い物に出掛けると言っていた。彼が朝早く家を出るのは珍しいため、行き先を訊ねたくなったが、何とかこらえた。そこまで何でも筒抜けに話す間柄でもないという気がしていた。

 特に用はなかったため、奈々恵は久しぶりに落ち着いた休日を過ごすことにした。大抵の家事は遼太郎が済ませてくれている。時間を持て余し、自分の部屋を大掃除することにした。布団を干し、窓のサッシを雑巾で拭く。面倒で避けてきたことも、いざやってみると楽しくなってきた。時間を忘れ、部屋中を満足いくまで掃除し終えたときには、昼の十一時を回っていた。

 昼食をどうするか悩んでいた頃、玄関のチャイムが鳴った。友人が突然家を訪れることはほとんどなく、出るかどうか迷った。居留守をしてしまえば、どんな面倒事にも巻き込まれることはない。訪問販売や宗教の勧誘だったら、無意味な時間を過ごすことにもなる。けれど、結局、奈々恵は応対することにした。それがどんな結末を招くのか、深く考えることもなく。

 玄関を開けると配達員の姿が見えた。宅配便でも届いたらしい。一度扉を閉じ、チェーンロックを外してから再度扉を開ける。事務的なやり取りをし、配達員から段ボールを受け取った。大きさはさほどでもない。重みも奈々恵が苦労せず持てる程度のものだった。宛先を見ると遼太郎の名前がある。通販で何か買ったのかもしれない。中学三年生の頃にひきこもるようになってから、遼太郎は何度かこういう買い物をしていた。

 リビングへ置いておけば、遼太郎が帰宅したらすぐに気付くだろうと思った。特に気に留めることもなかったのだが、自分の部屋を掃除したことが関係しているのか、リビングの中に大きな段ボールがあることが気に掛かった。仕方なく、二階にある遼太郎の部屋まで運ぶことにした。どうせ、大した重さでもない。

 階段を慎重に上がり、肘を器用に使って扉を開ける。遼太郎の部屋に入るのは久しぶりだ。入るなと言われているわけではない。けれど、奈々恵自身がそうであるように、部屋に誰かが入るのは不快に感じるかもしれない。互いに思春期なのだ。様々な種類の問題がある可能性はあった。

 久しぶりに入った遼太郎の部屋は相変わらず散らかっていたが、不思議だったのは、カーテンが完璧に閉じられていることだった。今日は天気が良い。昨日だってそうだったのに、遼太郎は外の光を取り込もうとしていなかった。ここにもひきこもりだった頃の名残があるのだろうか。多少疑問に感じつつ、奈々恵は段ボールを机の上に置いた。


 このとき、すぐに引き返せばよかった。そうすれば、遼太郎が密かに動いていた計画を知ってしまうこともなかったのだ。


 デスクの椅子に腰掛け、部屋全体を見渡す。遼太郎は部活に入っているわけでもない。幼い頃から特別好きな趣味もなかったはず。部屋の中は散らかっているが、デスクに置かれたパソコン以外、奈々恵の興味を惹くものはなかった。こんな場所にひきこもり、彼は数ヶ月間も何をしていたというのか。目的はなく、単純に外界と関わりたくなかったという可能性はある。

 そういえば、昨日遼太郎は、小学生が姿を消している事件について口にしていた。おそらくそれは、彼が田所美希の事件をいつまでも引きずっているという証だろう。当時、世間を騒がせたし、奈々恵とも同じ学年の子だった。トラウマになるのも不思議ではないが、今回の事件はあれと関連があるのだろうか。

 ふと気になり、事件について調べてみたくなった。幸か不幸か、目の前にはパソコンがある。基本的な使い方くらいは奈々恵にだってわかる。検索履歴が残ってしまうが、上手いこと消しておけばよいはずだ。家の中にはもう一つ、父親のパソコンがあるが、そちらは今持ち出されている。そんな言い訳をしながら、奈々恵は遼太郎のパソコンを立ち上げた。

 フォン、という控えめな音を立て、デスクトップが起動した。すぐにインターネットを開き、事件について検索してみた。奈々恵たちの住む地域に限定して調べてみると、確かにいくつかの項目があった。小学二年生と三年生の女子生徒が行方不明になっているらしく、どちらも市内の小学校だった。奈々恵たちが通っていたのとは別だったが。

 いくつかのページを見て、大した情報はつかめていないということだけわかった。どこもそれらしい内容を記載してはいるが、結局、犯人に繋がる証拠はないらしい。おそらくは再び事件が起きる。必然的に、犯人がつかまるリスクが高まるように感じた。

 検索をやめ、ページを閉じてからも、奈々恵は立ち去る気分にはならなかった。こうして目の前にパソコンがあると、つい漁ってしまいたくなる。それが酷く下品な行為であることは自覚していたが、欲求に打ち勝つことはできなかった。

 デスクトップに並ぶフォルダを開いてみる。学校で使用するための資料だったり、音楽のフォルダもあった。奈々恵が心配していたような部類のものはなく安心する(かたわ)ら、若干残念にも感じた。遼太郎の人間らしい部分を見たかったのだが、ここでも上手く隠されている。けれど、その中にある一つのフォルダを何気なく開いたとき、奈々恵の背筋が伸びた。

 フォルダにはいくつかの写真が入っており、開かずとも、小さな子供の姿が確認できた。数十枚はあるだろうか。嫌な予感がしながらそれらを確認していくと、全身に鳥肌が立った。

 ―――まさか。

 信じられなかった。保存されていたのは、小学生と思われる少女を撮影した画像だった。その多くは全身が写り、身動きが取れないように縛られているものもあった。全裸でベッドに寝かされているものもある。映画やドラマでしか見たことのないような、本能的に嫌悪感を抱く代物だった。それと同時に、これが遼太郎のパソコンに保存されている意味を考えてしまう。こういったジャンルが好きなのかもしれないと思いつつ、ただそれだけであるはずがない。最近この辺りで女子小学生が失踪している。そして、奈々恵の視界には同じような年齢の少女の姿。この間に関係性はないと言いきれる者はいるのか。

 他に写真はないのか。遼太郎のパソコンにこれらが保存されている理由は何か。奈々恵が夢中でマウスをクリックしていると、背後の扉が開く音がした。

「何してるの?」

 声の主が誰か、奈々恵は瞬時に理解した。そして、振り向くことができなくなった。どんな顔をして彼を見ればよいのだ。自分のしていることは酷く滑稽(こっけい)で、彼にとって不都合なはずだ。

「奈々恵、何を見てる?」

 遼太郎がすぐ傍にいる。奈々恵は画面から目を離せず、顔を上げることもできなかった。悲痛な表情でこちらを見つめている少女と目が合う。きっと、奈々恵も同じような顔をしているはずだ。

「人のパソコンを勝手に見るのは歓迎できないな」

 遼太郎はパソコン画面をそっと閉じた。奈々恵の右肩に手を添え、優しく引く。

「・・ごめん」

「うん、大丈夫」

 遼太郎は相変わらず落ち着いた口調をしている。まずいものを見られているはずなのに、どうしてこうも慌てる様子がないのか。奈々恵は初めて、彼の顔を見上げた。

「あの写真さ、誰なの」

「わかんないよ。あんなの保存した覚えないから」

「・・・」

「奈々恵は何も見てないよね?」

 淡々と話す遼太郎に、奈々恵は恐怖すら覚えた。ここで奈々恵が見なかったふりをすれば、彼は許してくれるのだろうか。もし、行方不明になっている少女二人に、遼太郎が関与しているとしたら―――。奈々恵は自分のとるべき行動がわからなかった。

「プリン買ってきたから、冷蔵庫に入ってるよ」

「・・ありがと」

 奈々恵は遼太郎から目を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。逃げるような素振りを見せれば、遼太郎から何をされるかわからない。できる限り、穏便に部屋から脱出したかった。逸る気持を抑え、全身をヒリヒリした感覚に包まれながら、奈々恵は歩き出した。ゆっくり、ゆっくりと、遼太郎に背を向ける。

 扉へ向かって一歩ずつ進んでいたが、奈々恵はやはり我慢できずに立ち止まった。瞼をぎゅっと閉じ、言葉を絞り出すようにして言う。

「遼太郎は、犯人なんかじゃないよね」

 振り返ることはできず、震える脚で立ったまま言った。遼太郎の返事はない。物音もしない。奈々恵だけが、真っ暗な世界に取り残されたかのように思えた。

 だが、直後、全身に激しい痛みを感じた。自分の体が倒れかけていることを知り、無意識に体勢を整えようとする。ベッドのフレームに手をつき、状況を確認しようと顔を上げた、その瞬間だった。

 再び衝撃を感じ、奈々恵の体は吹き飛ばされた。背中に柔らかなものを感じる。視界には天井が広がっている。ベッドに仰向けで倒れていることを理解した。急いで体を起こそうとするが、何か影のようなものが目の前を覆った。

「奈々恵」

 遼太郎と向かい合う形になっている。両手を奈々恵の体の傍につき、遼太郎が馬乗りになるような形になる。

「俺が犯人だって言ったら、どうする?」

 遼太郎は感情を失ったような顔をしていた。怒っているわけでも、焦っているわけでもない。淡々としたその表情に、奈々恵の中の何かが刺激された。怖い、無意識にそう感じていた。そして、遼太郎は確実に事件に関与している。犯人かもしれない、そう思わせるものがあった。

「・・どいてよ」

「駄目だ。質問に答えて」

「知らない」

「どうして俺があんな画像を持ってるのか、考えればわかるよね」

 奈々恵は答えられなかった。わかっている。答えは一つしかないではないか。遼太郎が少女を襲い、撮影したに違いない。その子たちが発見されていないというのは、どこかへ監禁しているのか、それとも・・。

「どいてくれないと大声出すわよ」

「意味がないことくらいわかってるくせに」

 ふっと小さく微笑み、遼太郎は奈々恵の両眼を真っ直ぐに見つめた。

「黙っててくれるよね?」

「どいて!」

「そうじゃないと、俺も困るからさ」

「遼太郎!」

「あぁ、そうだ―――」

 何かを思い出したように、遼太郎から力が抜けたように感じた。そして、何気なく呟くように、彼は訊いた。

「奈々恵もさ、処女なの?」

 体の奥から沸き上がる熱の正体が何か、奈々恵は考えることもできなかった。


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