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バニシング  作者: 島山 平
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第四章(4)

 年が明け、世間は静けさを保ちながらも騒ぎ出す支度を始めているようだった。奈々恵は自宅でこたつに潜り込み、テレビの特番をぼうっと眺めていた。遼太郎は朝から友人と共に出掛けるらしく、さっさと家を飛び出していった。こんなに寒い時期によく外出する気になるものだと感心する。父親は、相変わらず自室にこもりきりだ。

 昨年の十一月頃にポストに届いていた手紙は、あれ以降届くことはなかった。悪戯の犯人が飽きたのか、受け取った父親が密かに対処したのか。どちらにしろ、奈々恵自身には影響のないことだった。唯一気になるのは、父親があの手紙を読んだにも関わらず、奈々恵たちに何も話さなかったことだ。そのせいで、父親が秘密を抱えているという証拠になりうるのではないかと思えてしまうのだ。

 みかんの皮を剥きながら、温かいお茶を飲みたくなったが、こたつから出ることが億劫だった。遼太郎がいれば動いてもらえるのに、今日に限って出掛けてしまった。タイミングの悪さを恨みながら、奈々恵は諦めてこたつから出た。

 お湯を沸かし、急須にお茶葉を入れていた頃だった。二階の父親の部屋から物音がし、階段を降りてくる気配がした。父親の分もお茶を用意した方がいいだろうかと思案していると、父親がリビングに顔だけを覗かせた。

「ナナ、お父さん少し出てくるね。夕飯までには帰ると思うから」

「わかった。元日から仕事?」

「いやいや、さすがにね」

 父親は穏やかに笑ってみせたが、彼には祝日など関係ないことを知っている。働く場所が違うだけで、部屋の中でも論文を書き続けているくらいだ。

「あ、そうだ。帰りにケチャップ買ってきてくれる? もうすぐなくなりそうなの」

「覚えていたらね。可能性は十五パーセントくらいかな」

「えぇ・・、お願いしたからね」

 困ったように表情を崩し、父親は「じゃ」とだけ言って歩き出した。本人の言うように、おそらく買って帰ってきてくれることはない。余計な期待は自分を苦しめるだけだ。仕方なく、奈々恵は後で近所のスーパーに行くことを決めた。

 

 正月特有の特番を流しながら身支度を終え、奈々恵は窓の外を眺めていた。雪は降っていないが、昨晩の残りが地面を白く染めている。庭の樹々も雪を被り、化粧をしているようにも見えた。外へ出ることが億劫だったが、どの店でもセールをしているに違いない。そう思うと、ほんの僅かだけ出掛ける気力をとり戻した。

 テレビを消し、リビングから出たところで、奈々恵はふと二階を見上げた。今は家の中に一人しかいない。父親が帰ってくるのは夕方だと言っていた。―――これはチャンスかもしれない。

 そう思うと、奈々恵は自然と階段を上がっていた。二階にある父親の部屋を覗いてみることにしたのだ。三度目に届いた手紙を隠している可能性はある。それ以降のやりとりだって残っているかもしれない。父親の部屋の扉を開け、中へそっと入る。

 相変わらず、物の少ない整頓された部屋だ。奈々恵や遼太郎の部屋よりも、はるかに作業に向いている。奈々恵も意識しているとはいえ、片付けが面倒で散らかってしまっている。もっとも、遼太郎の部屋はさらに物で溢れ、いつ掃除したのかわからないほどだ。それに比べれば、奈々恵の部屋は比較的綺麗だった。

 父親がいつも座っているデスクに腰掛ける。ノートパソコンは閉じられ、卓上にはマウスとカレンダーしかない。まずは引き出しの中を漁ってみることにした。どの引き出しにもファイルがあり、論文や大学の資料が挟んである。見ても内容はわからないが、本棚に並ぶタイトルと似たようなキーワードがある。

 いくつかのファイルをとり出し、パラパラと捲ってみた。模式図や英単語が並んでいる。けれど、奈々恵の目的はそんなものではなかった。ポストに入れられていた封筒、あれはもう処分してしまったのだろうか。

 探していると、上着のポケットに入れた携帯電話が振動した。新年の挨拶でも届いたかと開いてみると、遼太郎からのメールだった。多少ガッカリしながら文面を確認する。そして、思わず舌打ちしそうになった。

『ごめん、携帯の充電器忘れちゃったから持ってきてほしい。場所は―――』

 友人の家にいるらしいが、わざわざ携帯の充電器を持ってこさせる気か。面倒になり無視しようかとも思ったが、幸か不幸か、その家はスーパーと同じ方向にある。小学生の頃、遼太郎と二人で訪れたこともあった。

 仕方なく『了解』とだけ返事を打ち、奈々恵は父親の部屋をあとにした。引き出しを全て確認してみたが、どこにも封筒はなかった。やはり、父親が処分したと考えるのが妥当か。残念に感じなくもないが、あんなものに振り回されるのはごめんだ。気にしている自分が馬鹿らしくなり、奈々恵はさっさと出掛けることにした。


 遼太郎と再会したのは、友人の家の前だった。家の柵にもたれかかるようにして遼太郎が一人で立っていた。中で遊んでいればよいのに、律儀に奈々恵を出迎えたらしい。

「はい、これ」

「ありがと。悪いね」

「ほんとに。めっちゃ寒いからひきこもろうって思ってたんだけれど」

 遼太郎はぎこちなく頭を下げた。すぐに家の中へ引き返すのかと思ったが、まだ用があるのか、奈々恵の足元に視線を落としている。

「あのさ」

「なによ」

 奈々恵は両手を上着のポケットに入れ、背中を丸めていた。できることなら今すぐスーパーに向かいたいのだが、遼太郎に文句を言った手前、買い物をするのだと悟られたくなかった。

「中川、覚えてるよね」

「もちろん。ここ中川くんちだしね」

 目の前にそびえる一軒家、平均よりも裕福であることが伺える造りだった。

「あいつがさ、奈々恵のこと気になるらしくて」

「なにそれ」

 咄嗟にいくつかのパターンが頭に浮かんだが、正解がどれなのか、すぐにわかってしまう自分が嫌だった。

「だから、連絡先とか知りたいみたいなんだよね」

「別にいいけれど。リョウから伝えといてよ」

「うん」

 返事をしたっきり、遼太郎は口を開こうとしなかった。それでいて動き出す気配もないのだからタチが悪い。

「まだあるの?」

「直接伝えてやってくれない? 中川、そこにいるし」

 遼太郎は二階に見えている窓を指さして言った。カーテンが仕舞っており、中の様子は見えない。けれど、そのカーテンの奥に中川がいることは明らかだった。

「ごめん、それは急すぎ。服だって適当だし」

「まぁ、そうだよね」

「また今度にして。連絡先はリョウから教えてあげればいいから」

 遼太郎が二度頷くのを目にし、奈々恵は「じゃ」とだけ言って退散することにした。これ以上ここにいたら、流されてしまう気がした。中川のことは嫌いではないし、三人で会うこともあった。とはいえ、好意を寄せられていることを伝えられ、その中川の前に出るわけにはいかなかった。それではもう、返事をしたようなものではないか。奈々恵にだって、心の準備をする時間くらい欲しかった。

 遼太郎は諦めたのか、追ってくることはなかった。しばらくしてから奈々恵が振り返ると、すでに遼太郎の姿はなかった。中川の家の中に入ったようだ。そこで二人がどんな会話をしているのか、考えてしまう自分を抑え込むのに必死だった。


 スーパーで買い物を済ませ、家路についていると、ようやく空気の冷たさに体が慣れてきた。ビニール袋にはケチャップと卵、それに安売りされていた餅が入っている。わざわざ手の込んだおせち料理など作れないが、せめて雑煮くらい用意してみようと思った。卵はオムライス用で、父親の好物だった。

 アスファルトは雪が一度溶けて氷となっているせいか、気を抜いたら滑りそうになる。転ぶくらい構わないが、今は卵を持っている。悲惨な状況にならぬよう注意していた。

 間もなく家の角が見えるかという頃、上着のポケットの携帯電話が振動した。今度は誰だろう。そう思いながら手に取ると、知らないアドレスからメールが届いていた。左手だけで携帯電話を操作しながら、奈々恵の心の奥底では答えを見つけてしまっていた。けれど、気持ちがわざつくのを抑えるため、わざと鈍感なふりをしていた。

『久しぶり。中川です。遼太郎からアドレス教えてもらいました。』

 顔文字などない、シンプルな文面だった。遼太郎はさっそく仕事を終えたらしい。今後奈々恵と中川がどうなるのか、高みの見物でもするつもりだろう。奈々恵は一度携帯電話を仕舞い、落ち着いてメールの返事を考えることにした。最初はそっけない方がよいのだろうか。自分の方にも好意があると勘違いされては面倒だ。少なくとも、現時点では。

 無意識に歩調が速くなっていたが、奈々恵はそれに気付かなかった。中川に早く返事をしたいと、無意識に体が勝手にそう動いていた。

 角を曲がり、自宅の門がすぐ傍に見えた。灯りの消えた家に入れば、奈々恵一人の時間となる。ゆっくりとお茶でも飲みながら、中川とやり取りしている自分が容易に想像できる。―――なんだ、わたしは楽しんでいるではないか。自分の知らない一面が垣間見えた気がして、奈々恵は恥ずかしさで笑ってしまった。

 門をくぐり、玄関のカギを開けようとした―――そのときだった。

 視界の端に見えたものが、浮ついた奈々恵の感情をぴしゃりとひっぱたいた。手にしていたビニール袋が玄関先のコンクリートに落下する。卵が無事かどうか、そんなことを考える余裕などなかった。

「お父さん!」

 別の誰かが叫んでいるようだった。奈々恵は考える前に駆け出し、庭に横たわる父親の元へと駆け寄った。うつ伏せで、出掛けたときと同じ格好をしている。そして、その父親の腹部を中心に、地面がどす黒く汚れていた。

「お父さん!」

 向こう側を向いた父親の肩を揺する。体が冷たい。それに、何も反応がなかった。

「ねえ! お父さん、起きてよ!」

 父親からの返事はなかった。顔を覗き込むと、瞼を閉じて穏やかな顔をしていた。異様なまでに白い顔で、とても生きているとは思えぬほど。

 奈々恵は慌てて携帯電話を取り出し、119番通報をした。電話の向こう側の女性に大声で助けを求め、再び父親の体に触れた。腹から出ているのは血で間違いない。となれば、誰かに襲われたのか。さっきは出掛けると言っていたのに、どうして自宅の庭に倒れている。いくつもの疑問が浮び、一つも答えを見付けられぬまま奈々恵は叫び続けた。お父さん、お父さん。これ以上家族を失うのは嫌だ。お願いだから、わたしを置いていかないで欲しい。

 そのとき頭に浮んだのは、遼太郎の姿だった。彼は中川の家で遊んでいる。父親がこんな目に遭っていることも知らず、のん気に奈々恵と中川の恋愛に口を出そうとしている。早く知らせなければ。

 無我夢中で携帯電話のボタンを押す。遼太郎の番号を開くまで、酷く長い時間が掛かった気がした。耳元で呼び出し音が聞こえ、なかなか電話に出ない遼太郎にいらついていた。早く出て、助けて欲しいのに。

『もしもーし』

「なにしてるのよ! 早く来て!」

『急にでかい声だすなよ。どうし―――』

「お父さんが倒れてるの! 早く帰ってきて!」

 もはや、それは叫びだった。遼太郎の発する言葉を待つ余裕もない。一刻も早く助けなければ、父親は死んでしまう。

『何だって? 父さんが・・』

「だから、ああもう! お願いだから帰ってきてよぉ!」

 奈々恵は携帯電話を放り投げ、横たわる父親の体に覆い被さった。どうすればいい。救急車が来るまでの間、父親の命を引き止める方法がわからない。誰か、早く助けに来て。奈々恵は無心で祈り続けていた。


 その後、どれくらいしてから救急車が来たのかわからない。気が付けば奈々恵と遼太郎は病院にいて、父親は集中治療室の中に閉じこめられていた。廊下の椅子に腰掛けながら、奈々恵は遼太郎にしがみついて泣きつづけた。廊下に響くその叫び声には、何の力もなかった。父親を襲ったのが誰か。その目的は何か。奈々恵には、そんなことどうだってよかった。父親が助かるかどうか、助けてもらえるのか。それを考え続け、理性など吹き飛んだまま泣きつづけた。

「大丈夫だ」

 耳元で誰かの声が聞こえた。

「大丈夫、奈々恵は俺が守ってやるから」

 それが遼太郎の言葉だということも、今の奈々恵にはわからないままだった。


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