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バニシング  作者: 島山 平
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第四章(2)

 小学校に入学すると、奈々恵と遼太郎はクラスメイトと遊ぶ機会が増え、父親の帰りが遅くなった。とはいえ放置されているわけではなく、相変わらず家政婦は週に三日来てくれるし、二人が眠るよりは早い時間に父親も帰宅した。少しばかり手を離れたため、研究室に残る時間が増えたということだ。二人とも、父親がいない自宅での生活にも慣れ、淋しくて泣くこともなかった。

 一年生の冬頃になると、遼太郎はクラスメイトの中に気になる人でもできたようだ。そんな噂が耳に入ってきたし、実際、奈々恵が遼太郎のクラスへ行った際にその相手がどんな人物か知ることとなった。田所美希という名の少女で、奈々恵が見る限りは良い子だと感じた。遼太郎が田所と話す機会が増え、必然的に奈々恵も彼女と親しくなった。田所の母親も奈々恵たちのことを気に掛けてくれ、夕食を世話になることもあった。

 家に帰ってからも遼太郎は田所のことばかり話した。好きな子がいるということを口にするのは、奈々恵にとっては恥ずかしいものだった。何となく気になるクラスメイトはいたが、決してそれを口にしたいとは思わなかった。けれど、遼太郎はそんなことを気にする素振りもなく、父親の前でも平気で話した。彼がまだ子供だったのか、女の子である奈々恵の方が先に大人に近付いていたのかもしれない。

「遼太郎、バレンタインにチョコもらえそうかい?」

「知らないよ、そんなの」

 夕飯のおかずを口に運びながら、遼太郎が気まずそうに俯いた。二月に入り、奈々恵のクラスメイトもバレンタインに誰にチョコを渡すかと盛り上がっている。なるほど、もらう方も緊張するイベントらしい。

「ナナは渡す相手でもいるのかな?」

「ううん、めんどくさいからしない」

「クラスの男の子たちが聞いたら泣いてしまいそうなセリフだね」

 父親は苦笑いしながらも、どこか嬉しそうだった。奈々恵がまだ恋をしていないことに安堵したのかもしれない。

「リョウは美希ちゃんからもらえるかどうかだね」

「だから知らないってば」

 遼太郎は顔を上げることなく答えた。それを見ながら、父親と二人で密かに笑った。

「リョウは男らしくないからダメかもね」

「うるさいなぁ、もう」

 ようやく遼太郎が目線だけを上げ、奈々恵を鋭く睨んだ。奈々恵は歯を見せて〈イー〉の口を作り、何も言い返さずにいた。

 

 食事が終わると、父親が食器を洗い、奈々恵が水で濡れたそれらを布巾で拭いた。その間に遼太郎は風呂掃除を始めた。父親が家にいるときは、いつもこうしていた。それぞれが自分の役目を果たす。三人の絆を保つために父親が提案したことだった。

 その後、奈々恵が一番に風呂に入った。浴槽に肩まで浸かりながら、バレンタインにクラスメイトがどうするのかと想像してみた。それでもやはり奈々恵には渡したい相手はおらず、父親と遼太郎の二人に簡単なデザートでも作ろうかと計画した。これまでは、危ないという理由から、一人でキッチンで作業することは許されなかった。けれど、奈々恵だってもう小学生になった。それくらいのことはしてもよいのではないか。そう思うと、自分がキッチンで器用に料理をしている姿が頭に浮かび、奈々恵は自然と笑みがこぼれていた。

 風呂から上がり、バスタオルで髪を拭きながら廊下を歩く。リビングからテレビの音が聞こえ、遼太郎がいることがわかった。父親はテレビを見る習慣がないし、一人でいるときは自分の部屋で仕事をしていることが多い。リビングの中が見え始めたとき、奈々恵の耳に二人の会話が聞こえてきた。

「遼太郎、最近特に問題はないか?」

「ないよ。どうして?」

「いや、お父さんは忙しくて家に帰る時間も遅いから、二人のこと心配なんだよ」

「うーん、大丈夫だよ。ナナもぼくも何だってできるし」

「おぉ、大人になったもんだな」

 父親の大袈裟な笑い声が聞こえる。奈々恵は廊下の壁に背中をつけ、二人の会話を聞いていた。別に奈々恵が聞いても問題ない内容だし、わざわざ隠れる必要はなかった。けれど、男二人が自分のいないときにどんな会話をしているのか、それに興味があった。普段は見えない部分が明かされるようで、どこか緊張していた。

「遼太郎はお兄ちゃんだから、奈々恵のことも守ってやらなくちゃいけないしな」

「よゆーよゆー。めんどくさいけどね」

「そんなこと言うもんじゃない。いいか、ナナが困ってたら絶対に助けてあげるんだぞ。それにナナだけじゃない。男ってのは、女の子を守ってあげるのが仕事なんだ」

「そうなの? なんか不公平だね」

 遼太郎の不満げな声が響く。奈々恵は遼太郎に守ってもらいたいなど思っていなかったが、彼の態度に不満を覚えた。そんな力も勇気もないくせに、言うことだけは一丁前なのだ。そんなことではいつになっても田所からチョコレートをもらうこともできないのではないか。

「不公平なんだよ」

 父親が落ち着いた声で言うその言葉を耳にし、奈々恵は、おや、と思った。てっきり、反対のことを言うのだと思っていたからだ。

「世の中は平等じゃないし、勝ち負けだってはっきりする。ただ、覚えておいて欲しいこともあるんだ」

 遼太郎は何も言わなかった。二人の姿は見えなくとも、奈々恵にはリビングの中が透けて見えるようだった。父親はいつもの優しい笑顔をしたまま、上目遣いでそれを見る遼太郎に話しているはずだ。

「スタートはみんな同じじゃない。それに、持っている武器だって違う。だけど、それを言い訳にしちゃいけない。自分にできるベストを尽くす。それができる人を強い人間と言うんだ」

「ふーん」

 遼太郎は、父親の言葉を理解できたかどうかわからないような声で返事をした。素直に認めることができないのかもしれない。なにしろ、父親が口にした言葉はあまりに酷だからだ。奈々恵だって、それを受け入れることは難しいだろうと思った。漫画やアニメのように、頑張れば勝てると言って欲しかった。

「まだ遼太郎には難しいかな」

「ううん、わかるよ。父さんにはそれができるんでしょ? だったらぼくにもできなくちゃ」

 はははっと父親が笑った。どこか嬉しそうな響きでもあった。

「今すぐじゃなくていい。大事な人を守れるくらいになってくれたら、お父さんは嬉しいかな」

「おぼえとく」

「頼んだよ」

 そうして二人の会話に区切りがついた。

 奈々恵は、たったいま風呂から出てきたと装うため、足音を立てぬよう洗面所へと戻った。予想外に大切な話をしていた。それを盗み聞きしていたというのが、妙に罪悪感を覚えたのだ。

「お風呂出たよー」

 何も知らない振りをして、わざといつもより大きな声を出した。「おおー」と父親の返事があった。遼太郎はきっと気まずそうな顔をしている。それに気付かない素振りをしてやろう。奈々恵なりの優しさだった。


 翌日、奈々恵が帰宅すると、先に帰っていた遼太郎は部屋から出てこなかった。いつもならばリビングでテレビを観ているというのに、その日に限っては違った。体調が悪いのかと思い奈々恵が様子を確認しても、ベッドの上で横になっているだけだった。表情に力はあったし、返事もしっかりしている。けれど、どこか覇気がないようにも感じられた。

「リョウ、大丈夫?」

「さっきからそう言ってるじゃん」

 吐き捨てるように言って寝返りを打ち、奈々恵に背を向けた。仕方なく諦め、奈々恵は一人で一階へと戻った。遼太郎の異変に気付きながら、彼の方から説明してくれるまで待つことにした。つまるところ、奈々恵はそれほど遼太郎のことが心配ではなかった。もうすぐ夕方のアニメが始まる。それに間に合うことにほっとしていたくらいだ。

 しばらくしてアニメが終わる頃、ようやく遼太郎が二階から降りてきた。先程と変わらぬ表情で、(うつ)ろな目をしている。遼太郎の様子をじっと眺めながら、奈々恵はテレビのボリュームを下げた。

「ねえ、ナナ」

「ん?」

 食卓に腰掛けた遼太郎は、相変わらず視線を合わせようとしない。膝を曲げてソファーに座っていた奈々恵は、顔だけをそちらに向けた。

「お母さんが死んじゃったのは、ぼくたちのせいなのかな」

 微かに震えた声で言ったその言葉を、奈々恵は何度も頭の中でくり返した。それを口にした遼太郎の想いと、なぜそんなことを言うのかという疑問を抱きながら、奈々恵も口を開く。

「違うんじゃない? わたしたちを産んで、そのときに死んじゃったってだけで」

「でも、クラスの子が言ってた。子供を産むとき、お母さんは死んじゃうこともあるんだって。体力がなくなって、それで死んじゃうって」

 このときようやく、遼太郎は奈々恵の目を見た。彼の目が僅かに潤んでいることに気付き、奈々恵は返事に困った。難しいことはわからない。それだけでなく、遼太郎に何と返事をすべきなのか、答えを見つけることができなかったのだ。

「そうかもしれないけれど・・。でもどうしようもないじゃん」

 今度は遼太郎が返事に戸惑っていた。彼自身、言葉にできないような感情を抱いているらしい。母親の死に自分の存在が関わっている。それが事実だとして、何かが変わるわけでもないのに。

「リョウはお母さんに会いたいの?」

 遼太郎は素早く首を振った。意地でも頷いてたまるか、という子供らしさを見せながら。

「そうじゃなくて、ただ知りたかっただけ。どうしてお母さんは死んじゃったんだろうって」

「知ってどうするの?」

「わかんない」

 テーブルに両手を乗せたまま、遼太郎は物思いに(ふけ)るように天井を見上げた。

 奈々恵には彼の気持ちを察することができなかった。遼太郎なりに、必死に考えていることは伝わる。だからこそ奈々恵もからかうようなことを口にできなかったし、この沈黙を破ろうとも思わなかった。

「双子って、珍しいんだよね」

「みたいね。わたしたち以外学校にいないし」

「だよねえ」

 とはいえ、それほど珍しいことでもないのだと知っている。母親のお腹の中に二人がいたことは不思議だが、紛れもない事実だった。あの頃の記憶などない。それでも、遼太郎と奈々恵は確かに同じ場所にいた。

「そんなに気になるなら、お父さんにきいてあげようか?」

「きくって、何を?」

「お母さんが死んじゃった理由」

「・・やめといたら? お父さんに怒られそう」

 怯えたように表情を歪めた遼太郎に、奈々恵は作り物の笑顔で言う。

「わたしたちのせいじゃないって言ってくれるよ。そうすればリョウも安心でしょう?」

「うーん、そうだけど・・」

「決まり。今日の夜きいてあげる。わたしが知りたいってふりもしとくし」

 遼太郎からの返事はなく、彼も特に否定する気がないことがわかった。奈々恵にとっては大した宿題ではなかった。それに、彼女自身も知りたかったことでもある。双子で、母親がいない。この境遇に、学校でも異端扱いされていることを感じている。それらを笑い飛ばせるくらい、奈々恵は強くなりたかった。


 夕食を終え、普段のように奈々恵が一番に風呂に入った。その後で遼太郎と父親も入り、午後九時には奈々恵と遼太郎は子供部屋へと上がった。部屋では遼太郎がベッドでうつ伏せになり漫画を読んでいたが、頭の中では母親のことを考えているのだと想像がついた。先程から、一ページも進んでいないからだ。

 しばらくして遼太郎が漫画を閉じ、ひっそりと布団に潜り込んだ。空気を読んで奈々恵も読みかけていた小説を机に置いた。二人とも何も言わぬまま、奈々恵が部屋の電気を消し、そして、部屋をあとにした。

 残された遼太郎は不思議に思うだろうか。そんなことはないと、奈々恵には彼の気持ちが手に取るようにわかった。奈々恵が一階へ向かう理由も、そこで父親と話をすることも、遼太郎にはわかっている。だからこそ何も訊かず、奈々恵が部屋から出るのを止めなかった。

 一階のリビングはまだ灯りが点いていた。珍しく父親が分厚い本をリビングで読んでいるのかと思い、奈々恵は足音を忍ばせて廊下を進んだ。顔だけでリビングを覗き込むと、見える範囲には誰もいなかった。トイレに行っているのかと思ったが、そちらの灯りは消えている。となると二階の部屋かと思った途端、奈々恵の耳にそれが届いた。

「―――二人とも、涼子(りょうこ)に似てきたよ」

 姿は見えないが、今のは父親の声だった。どうやら、リビングの隣にある和室にいるらしい。おそらく、一人で仏壇の前に座っているのではないか。

 奈々恵はそっとリビングの中へと入り、開いている襖の奥を覗いた。案の定、父親は座布団にあぐらをかき、仏壇に向かって話し掛けていた。これまでも、何度かこの光景を目にしてきた。奈々恵だって仏壇に手を合わせることはあったし、珍しいことではない。けれど、今回が異質だったのは、父親の傍に酒と思われる瓶が置いてあったことだ。父親はあまり酒を飲まない。少なくとも、三人で夕食をとっているときに飲んでいるのを見たことはなかった。

「あっという間に大人になってしまうんだろうね」

 仏壇の母は、奈々恵が小さい頃から変わらぬ笑顔をしている。二十代後半で二人を妊娠し、出産直後に亡くなった。奈々恵があと二十年もすれば、母親と似た姿になるのだろうか。

 仏壇に話し掛ける父親の横顔には、やけに(かげ)りがあった。口調は穏やかだし、肩の力も抜けているように見える。けれど、彼の目に潤んだものが浮んでいるように見え、奈々恵は声を掛けられずにいた。そうしてリビングで立ち尽くしたまま十数秒が経過した頃、気配に気付いたのか、父親の顔が奈々恵の方に向けられた。

「ナナ、いたのか」

 僅かに驚いたように眉を上げ、父親はすぐに表情を崩した。聞かれてまずいこともないのだろう。酒の瓶を体の左側へ移し、空いたスペースを右手の指先で二度叩いた。

「ナナもおいで」

「うん」

 言われるがまま、奈々恵は父親の傍へ向かった。隣に腰掛け、両膝を抱え込む。笑顔のままの母親は、奈々恵と目を合わせてはくれなかった。

「どうしたんだい? 眠れなかった?」

「ううん。なんとなく下りてきただけ」

 父親は不思議そうに奈々恵の顔を眺めていたが、「そうか」とだけ言って顔を正面に戻した。

「わたし、お母さんに似てる?」

「もちろん。目元なんてそっくりだよ」

 父親は奈々恵の顔を覗き込むようにして言った。自分に向けられた笑顔が恥ずかしく、奈々恵は思わず顔を伏せた。きっと、父親は自分を通して母親の姿を見つめている。なんだか申し訳ないような、複雑な気持ちだった。

「お母さんはどんな人だったの?」

「とにかく優しい人だった。それでいて綺麗だったよ、ナナにそっくりで」

「どうして結婚したの?」

「難しい質問だなぁ」

 父親は照れたように口許を隠し、目尻に皺を作ったまま口を開いた。

「一緒にいたいって思ったんだ。ずーっと一緒にね」

「でも、今はもういないよ」

 奈々恵は勇気を出し、父親の方へ顔を向けた。訊いてはいけない質問だったかもしれない。けれど、遼太郎が不安に感じている内容でもあるし、奈々恵自身が気にしていることでもあった。母親はもう死んでしまった。それについて、父親はどう思っているのだろう。

「それはもうね、すごく悲しいよ。たくさん泣いたし、しばらくは何も考えられなかった」

 ゆっくりと、言葉を選ぶような話し方だった。油断すれば父親の中の何かが壊れてしまうのではないかと、聞いている奈々恵が不安になるほど。

「でも、ナナと遼太郎がいたからね。二人を守らなきゃって思った。お母さんが頑張って二人を産んでくれたんだから、それを守るのがお父さんの役目だ」

「イヤじゃなかった?」

「嫌って、何がだい」

「だから・・」

 父親に見つめられ、奈々恵は言葉が出なかった。何と訊ねればよいのか。父親からどんな返事をもらえば満足できるのだろう。―――結局、奈々恵は思ったままを口にした。

「大好きなお母さんは死んじゃって、わたしたちだけがいるでしょう? それはイヤじゃなかった?」

 奈々恵の問いに、父親はすぐに答えなかった。じっと目を合わせたまま、表情を変えることなく僅かな時間が過ぎた。

「ナナ、違うよ」

 穏やかな、言葉を噛み締めるような口調だった。

「二人がいてくれたから、お父さんは頑張ってこられたんだよ。嫌なんかじゃない。そんなわけがないだろう」

「わたしたちが生まれたせいで、お母さんは死んじゃったんでしょう?」

 知らぬ間に、奈々恵の声は震えていた。最後の方は無理やり言いきったようなものだった。

「ナナ」

 涙が零れそうになるのを必死に堪えていると、父親の静かな声が届いた。

「お母さんが死んでしまったのは、ナナたちのせいじゃないよ」

 奈々恵は顔を上げることができなかった。父親の言葉は優しくとも、どんな表情をしているのか確認するのが怖かった。

「なんて説明すればいいのかな。確かにお母さんは二人を産んですぐに死んでしまった。でもね、それは二人を産んだことが悪かったからじゃないし、仕方のないことだったんだ。お母さんは元々体が弱かったからね」

「双子を産むのはたいへんだって―――」

「どこかでそう聞いたのかな? それは間違いじゃないよ。でも、例えばお腹にいたのが一人だけでも結果は変わらなかったかもしれないし、三人だったとしてもそう。二人を産んでからすぐにお母さんが死んでしまった、という結果だけを見て、何かを決めつけるのは間違っているよ」

 頭を撫でられ、父親の大きな手の温もりが、余計に奈々恵の心を揺らした。

「お母さんは必死にナナたちを産んでくれた。それに二人だって頑張ったんだよ。覚えていないだろうけど、赤ちゃんだった二人だって、命がけで生まれてきたんだ。お父さんはみんなに感謝しているよ」

「お母さんが死んじゃったのに?」

「どうしようもなかったんだ。悲しいけど、お父さんはお母さんのことが今でも大好きだよ」

「わたしたちのこと、きらいじゃない?」

「大好きだよ。お母さんと同じくらいね」

 ようやく、奈々恵は顔を上げることができた。父親は指で奈々恵の涙を拭い、自らも目に涙を浮かべて微笑んだ。父親だって哀しいに決まっている。それでもきっと、言葉に嘘はないし、奈々恵たちの前で弱音を吐くようなことはしないだろうと思った。

「リョウにも言っていい?」

「今の内容? もちろん構わないさ」

「うん」

 奈々恵は両手で目を擦り、鼻をすすった。泣いてしまった恥ずかしさはあるが、心は穏やかな温もりに包まれている。これまで感じていた不安が、少しは晴れている気がした。自覚していた以上に、奈々恵は母親の死について思い詰めていたらしい。

「どうだい、寝られそうかな?」

「うん」

 奈々恵は深く頷き、仏壇の母を見つめた。先程と変わらぬはずの母親も、不思議と奈々恵に向かって微笑んでくれているように見えた。命を懸けて二人を産んでくれた人に、奈々恵は、何と言葉を掛ければよいのかわからなかった。けれど、どんな言葉も、母親は受け入れてくれるのではないかと思えた。


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