第四章(1)
奈々恵には母親の記憶がない。母親は奈々恵と遼太郎を出産した直後に亡くなったためだ。物心ついたときから、家にいるのは双子の兄である遼太郎と父親だけ。他所の家では母親が夕飯の支度をするのが当然らしいが、そんな生活とは無縁だった。代わりに、父親が雇った家政婦が週に三日、家事をしに訪れてくれた。
奈々恵にとってはその生活が普通であり、母親がいないことをさほど淋しいとは思わなかった。知らなければどんな現実も受け入れられてしまうのが子供だ。幸か不幸か、奈々恵も遼太郎も、苦労することなく生活することができていた。
小学校に入学するまでは、奈々恵の遊び相手は遼太郎がほとんどだった。近所の家も沖一家に気を遣い、何かと世話をやいてくれたし、仲の良い友達もいた。けれど、遊びの大半の時間を過ごす相手は遼太郎で、奈々恵にとっては彼が全てだった。一緒にいて当たり前の、もはや自身と同一の存在であった。
父親が帰宅するのは大抵午後六時頃。遅い日もあったが、基本的には二人を心配して帰宅時間に気を遣っていた。家政婦が用意してくれた食事に加え、奈々恵は父親の買ってきてくれるちょっとしたおかずが毎日の楽しみだった。たこ焼きや刺身といった、何でもないものだったが、子供の二人には贅沢に感じられた。そんな二人の顔を見たかったのか、父親の方も必ず何かお土産を用意してくれた。
二人が同じ部屋で眠るのは午後九時と決まっていた。隣り合ったベッドで横になり、二人でふざけ合っているうちに睡魔に負けて眠る。毎日その繰り返しだった。父親はそこからも研究したりや論文を書いていたはずだが、当時の二人には知る由もない。本来ならば大学の研究室でやりたい作業も、父親は自宅でこなした。時には学生と一時間以上電話でやりとりをすることもあった。それらも全て、二人の子供を放任しないという父親のポリシーによるものだった。
小学校入学を目前に控えた、三月の寒い日だった。父親の帰りが遅くなると連絡があり、二人はこたつに入ってテレビを見ていた。普段なら眠る時間になっていたが、珍しい状況に高揚し、二人とも眠る気などなかった。二十一時から映画があることはわかっており、最後まで見てしまおうかと盛り上がった。
「ナナ、みかんもう一個とって」
「自分でとりなよ。お父さんいないからって甘えちゃだめ」
「動きたくないもん。ナナのほうが近いんだからさー」
遼太郎は、わがままを言い出したら諦めない。奈々恵は仕方なく、彼のためにこたつから出た。部屋の隅に置かれた段ボールからみかんを四つ取り、元の位置へ戻った。
「ありがと」
「みかんばっかり食べると手が黄色くなるんだよ」
「ほんと?」
初耳だったようで、遼太郎の両眼がこれでもかと言わんばかりに開かれた。その表情が可笑しく、奈々恵は友人から聞かされた話をそのまま口にした。
「みかんに入ってるものがね、わたしたちの手とか足の色を変えるんだって。で、黄色くなったらもう戻らないらしいよ」
「ええ!」
「だから食べすぎちゃいけないんだよ」
「もういらない!」
遼太郎は食べかけだったみかんを叩き付けるようにコタツの上に置いた。心底怯えた様子でこたつに肩まで潜り込んでしまう。
「でもね、よく運動すれば黄色くなりにくいんだって」
「こわいからもう食べるのやめる」
「心配しすぎだと思うよ」
奈々恵はみかんの皮を剥きながら言った。二人は知らなかったが、おそらくこれは友人の親が作った物語だろう。運動は嫌いだがみかんは好物。そんな子供のための嘘だ。
「残りは全部ナナが食べていいから!」
「そんなに食べきれないよ」
こたつの上には三個のみかんと遼太郎の食べかけが残っている。段ボールの中にはこの何十倍も入っているのだ。父親はそれほど食べるわけでもないし、遼太郎が食べなければ腐らせてしまうのではないかと不安になった。
怯えた自分が恥ずかしくなったのか、遼太郎はこたつ布団に顔を隠したまま動かなかった。脅しすぎたかと反省しつつ、奈々恵は一人でテレビ画面を見つめていた。映画が始まり、一度目のCMに入った頃、遼太郎の寝息が聞こえてきた。
「風邪ひいちゃうのに」
覗き込んで遼太郎の姿を観察する。眠り始めて少ししか経っていないはずだが、深い眠りに落ちているようにも見えた。仕方なく、奈々恵はテレビのボリュームを下げ、片付けを始めた。みかんの皮をゴミ箱に入れ、二人分のコップをキッチンへと運ぶ。そのうち遼太郎も起きるだろう。そのタイミングで二階へ行かせることにした。
片付けを終え、歯を磨くために洗面所へ向かいかけた―――そのとき。
二階へと続く階段が目に入り、なぜだかわからないが奈々恵はそちらへ足を向けた。二階には子供部屋と父親の寝室、それに物置代わりになっている部屋がある。元々は母親のための部屋だったらしいが、二人が生まれてからは、ただの物置になっている。父親の書籍が大量に仕舞ってあるし、家族全員の服だってある。なぜそこへ行こうと思ったのかはわからない。けれど、階段を上がりながら、奈々恵は一人でその部屋を散策してみたくなった。
階段を上がって左手が物置だった。正面には父親の部屋。右には子供部屋が位置する。奈々恵は物置へと進み、そっと扉を開けた。
ひんやりとした空気が全身を包んだ。冬の気温の低さだけが原因ではなかった。普段人が出入りすることの少ない部屋が、異質な空気を纏っていたのだ。奈々恵は僅かに緊張しながら部屋の中へと進んだ。
母親がいた頃とは、ほとんどが変わってしまっているのだろう。ベッドはないし、シンプルな机が壁際にある。それ以外は誰かの物が仕舞われているだけだった。正面の壁には父親の書籍が並んでいる。いくつかのタイトルを読むことはできても、奈々恵にはさっぱり中身の想像ができなかった。
衣装タンスへと近付いたのは無意識のことだった。母親の服があるかもしれないとは思ったが、何か目的があったわけではない。引き出しを一つずつ覗き、防虫剤のにおいに顔をしかめた。父親の冬服も入っているし、奈々恵たちのものもある。下段を確認し終え、奈々恵は上段を見上げた。彼女の身長では届かない位置にも引き出しがある。以前、むりやり登ろうとして父親に叱られた記憶がある。けれど、今日はその父親がいない。多少の冒険をしてみたくなるシチュエーションに、奈々恵の理性は負けた。
下段を少しだけ引き出し、そこに足を掛けて背伸びをする。上段まで覗き込むことができるようになった。初めて見るそれは、中身が何であれワクワクした。秘密を覗いているという状況が奈々恵を興奮させていた。
それでも、上段に仕舞ってあったものを目にしたとき、奈々恵の興奮は別の理由となった。いくつもの宝石が仕舞われ、中には指輪もあったからだ。これまで本やテレビの中でしか見たことのなかった物が、現実の目の前に存在している。奈々恵は興奮を隠しきれず、周囲を確認した。誰かに見られてはならない気がしていた。まるで泥棒になったかのような背徳感に包まれていた。
時間を掛けて、仕舞われていた宝石を全て取り出し、床に広げてみた。全部で二十個以上ある。どれもが奈々恵の興味を惹きつけ、離さなかった。水晶のような珠も、音符の形をしたイヤリングもある。これらは全て母親の所有物だろう。捨てられることはなく、誰かに使用されるわけでもないこれらは、奈々恵からすれば干涸びてしまう寸前に見えた。せっかく綺麗なのだから、誰かが身に着けてやらなければ損ではないか。
奈々恵はその中の一つを手に取り、首に掛けてみた。首の後ろで金具を留めると、首元でそれは輝いていた。十字架の形をしたネックレスは、確かに奈々恵の元にある。それだけで、急に大人になった気がした。クローゼットの扉についている鏡の前に立ってみる。顔も体も子供なのに、首元に輝くネックレスが、普段とは違う自分に見せてくれた。母親が身に着けていたのと同じ物がここにある。それが、奈々恵には言葉にし難い幸福感をもたらしてくれた。
床に広がる宝石類を眺めながら、奈々恵は母親の姿に想いを馳せた。直接会うことはできなかった。見たことがあるのは、写真に残された若かりし日の姿だけだ。独身時代の母親の姿を、祖父母の家のアルバムで見せてもらったことがある。『奈々恵ちゃんはお母さんによく似ているね』という祖母の言葉は、今でも耳に残っている。遼太郎がふてくされた顔をしていたのも印象に強い。
しばらく眺めた後、奈々恵は宝石類をタンスに仕舞うことにした。勝手に漁っていたことが父親にバレたら叱られるかもしれない。父親は声を荒げるようなマネはしないが、哀しそうな顔で注意することがある。その表情を見ると、奈々恵は怒鳴られるよりも心が苦しくなる。
宝石類を仕舞い終え、一番下の引き出しを戻しているときだった。引き出しの中に菓子缶のようなものを見つけた。四角くて、贈り物で家に届くような類の物だ。気になってしまい、最後にそれだけ覗いてみることにした。
蓋を開け、姿勢の悪い状態で覗き込む。中には封筒があり、どうやらその中には写真や手紙が入っているようだった。もしかすると、両親の間で交わされていたものかもしれない。好奇心に従い、奈々恵はそれらを取り出して床に置いた。
封筒を開けてみると、中には二枚の便箋が入っていた。三つ折りにされたそれを広げてみる。難しい漢字が続き、奈々恵には読めなかったが、これが母親の書いたものだということはわかった。普段目にする父親の字とは違っていたからだ。子供の目から見ても整っており、母親が綺麗な文字を書くことに誇りを覚えた。
他の封筒にも同様の手紙が確認された。どうやら、父親が母親との思い出を残していたらしい。勝手に覗いてしまったことは申し訳ないが、奈々恵は嬉しかった。父親が今でも母親のことを大切に想っている証だからだ。そして、最後の封筒に手をかけたとき、中に固い紙が入っていることに気付いた。
何だろうと思いながらそれを取り出すと、一枚の写真だった。若い男女が写っている。男の顔から、それが若かりし日の父親だとわかり、隣にいるのは母親だろうと推測できた。これまで見たことのない写真だった。祖父母の家にもなかったように思う。二人の後ろには整えられた木の壁がある。雰囲気から、どうやらそれは外国のようにも思えた。二人が旅行で訪れたのかもしれない。母の髪は肩にかかるほどの長さで、膝下まで隠れる白のワンピースを着ている。とても似合っており、素直に可愛いと思えた。
写真の中の母親に注目していると、彼女の首元に見覚えのあるものを見付けた。真っ赤な丸い珠で、ネックレスのようだ。大きさはそれほどでもないが、先程タンスの中でも見かけた気がする。やはり、母親が身に着けていたものが仕舞ってあるらしい。出会ったことのない母親だが、こうして思い出だけは形として残っている。その事実は奈々恵を優しく包み込むように温かだった。父親の記憶の中に、そしてこの家の中に、母親の存在は残されている。何も寂しがる必要はないのだと思わせてくれる。不思議と穏やかな気持ちになり、奈々恵は写真を元に戻した。
タンスから出したものを全て仕舞い終え、部屋の中を見渡す。入った際と何も変わりはない。勝手に漁ったことがバレる心配はない。一階で眠っている遼太郎は、きっとそのままだろう。奈々恵が母親の存在に近付いたことなど知らず、気持ちよく眠っているはずだ。
他人の言葉を素直に信じてしまうような純粋な彼を守るために、奈々恵は一階へ戻ることにした。