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バニシング  作者: 島山 平
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第三章(7)

 五月十四日、日曜日。

 遼太郎は四度目のこの日を訪れていた。大学構内で中川との食事を終え、すぐに奈々恵の元へと向かった。夜は自宅で三人でお好み焼きを作り、リビングで布団を並べて眠った。ここまでは、前々回と全く同じだった。


 二人が眠ったことを確認し、遼太郎は一人で起き上がった。真っ暗な中、目が慣れるのを待ち、音を立てぬよう注意しながら歩き出す。通路に一番近かった遼太郎は、二人を跨ぐことなく廊下へと出た。

 そっと階段を上がり、二階にある奈々恵の部屋へと入る。父親は学会のため不在で、遼太郎の行動を邪魔する者は誰一人いなかった。奈々恵の部屋の扉を閉め、ようやく明かりを点ける。普段から目にするのと同じ部屋で、どこに何があるのかは(おおむ)ね見当がつく。遼太郎は作戦を実行するために、奈々恵のお気に入りのバッグを手に取った。

 この世界に戻ってきて、奈々恵が金山へ行くのを阻止した後、真っ先に向かった場所がある。市内にある家電量販店だ。そこで目的の物を購入し、二人に見つからぬよう持ち帰っていた。

 前々回、過去へ戻ったとき。遼太郎はこの日、奈々恵を家で過ごさせることに満足してしまった。それさえ守れば、彼女が襲われることなどないと信じていたからだ。だが、実際には元の世界へと戻っても、奈々恵は姿を消したままだった。つまり、今日を無事にやり過ごしても、それだけでは奈々恵を救うことはできないということを示している。元の世界へ戻った後、中川がこう口にしていた。

『翌日の夜から、ナナの姿が見えなくなった』

 おそらくは明日の朝、中川が一人で帰宅する。二人だけになったこの家で、遼太郎と奈々恵は普段通りの生活をしたはずだ。そうして奈々恵が外出し、何かしらの出来事に巻き込まれるのだろう。その後の彼女の行方を辿るためにも、遼太郎は彼女のハンドバッグに仕掛けをすることにした。

 購入したのはGPS機能つきのボイスレコーダーだった。これをハンドバッグの中に忍ばせておくことで、姿が見えない場所でも、奈々恵の行動をある程度把握することができる。ボイスレコーダーの性能がどの程度かは試していないが、謳い文句を信じるならば、周囲の会話は聞き取ることができるらしい。奈々恵がハンドバッグを置いて別の部屋に行ったりしない限り問題はないという見込みだった。

 ボイスレコーダーを、奈々恵が持ち歩いている薬袋の奥に仕舞い込む。女性ならではの持ち物が目に入ったら気まずい。遼太郎はできるだけ手もとを見ないようにしながら、どうにかボイスレコーダーを隠すことに成功した。家族でなければ逮捕されてもおかしくないし、家族であっても品のなさすぎる行為だ。奈々恵が熟睡してくれていることを願うしかない。

 無事に任務を終え、遼太郎は部屋の中を見渡した。それなりに整頓されてはいるが、女性特有とでいうのか、小物類に溢れている。それに加え奈々恵は装飾品を集めるのが好きなため、色鮮やかなネックレスやイヤリングも多く目に入る。どれもさほど大した金額ではないのだろう。それでも遼太郎の目には贅沢品にしか見えなかった。誕生日に奈々恵からもらったネックレスは、今も遼太郎の首元で輝いている。こうして他の物と見比べると、確かに奈々恵の好みに合うチョイスだと感じた。

 あまり長い時間この部屋にいるわけにもいかない。誰にも見られていないとはいえ、妹の部屋に長居するなど、客観的に考えれば気持ちが悪くて仕方がない。遼太郎は足音を立てぬよう注意し、そっと部屋をあとにした。そのままリビングへと直行し、何事もなかったかのように布団に潜り込んだ。

 時刻は夜中の一時前。翌朝まで、軽く睡眠をとっておくことにした。


 中川が帰宅したのは、翌朝の午前十時を回った頃だった。奈々恵も特別変わった素振りを見せずに中川を見送り、遼太郎は自宅の掃除をしていた。奈々恵のハンドバッグに忍ばせたボイスレコーダーはまだ気付かれていないようだ。GPSにより居場所は把握でき、遼太郎のスマートフォンでそれを確認できるように設定しておいた。やっていることはストーカーのそれだ。開き直るわけではないが、懺悔するつもりもなかった。

 いつ、奈々恵は出掛けるのか。遼太郎は今日一日を、奈々恵の失踪理由を突き止めるために使うことにした。これまでの経験から、過去に戻った場合、その目的を果たすと現実に引き返すことがわかっている。田所を助けたかったときも、奈々恵を守りたかったときもそうだ。当初の目的を果たした後、気付いたら元の世界へと帰っていた。つまり、今回は奈々恵がいなくなった原因を突き止めるまで、この世界にいられるということだ。

 昼前になり、昼食をどうするか迷っていた頃だった。階段を下りていると、一階にいた奈々恵が出掛ける支度をしていることに気付いた。どちらかが出掛ける際、特に声を掛けることはない。互いの行動を把握しようとする習慣はないからだ。

「どっか行くのか」

「うん。ちょっと買い物」

「帰りは?」

「そんなに遅くないけど、別になんでもいいでしょ」

 この程度の関係だ。時間を事細かに質問すれば、奈々恵から不審がられるに決まっている。遼太郎はさして興味のないふりをし、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫を漁りながら、奈々恵が出掛けるタイミングを伺っていた。彼女が家を出た直後、遼太郎もそれを追うつもりだった。GPSがあるとはいえ、できることなら自分の目で奈々恵の行動を確認しておきたかった。

 やがて玄関の開く音が聞こえた。奈々恵が外出したということだ。遼太郎は慌てて二階へ駆け上がり、最低限の身支度を済ませた。ポケットに財布とスマートフォンを突っ込むと、文字通り家から飛び出した。

 奈々恵が進むであろう方向はわかる。自転車に乗るのを嫌う彼女のことだ。最寄り駅まで歩いているはず。スマートフォンで奈々恵の居場所を追いながら、遼太郎は彼女の失踪の理由を探り始めた。


 奈々恵の目的地はすぐにわかった。駅のホームで彼女が乗りこんだ電車を見た瞬間、中川のところへ行くのだと察した。大学とは反対方向で、遼太郎の知る限りでは、そちらへ向かうのは中川と会うときだけだからだ。遼太郎は隣の車両へ乗り込み、降りると思われる駅を待った。

 予想通り奈々恵は鳴海駅で降りると、遼太郎もよく知る道を歩き始めた。遼太郎が中川の家を訪れる際も同じ道を通る。他に選択肢がないほどなのだから当然だ。坂道を上がり、右手には神社がそびえる。それを過ぎると一度下り、もう一度坂を上がった先に中川の住むアパートはあった。奈々恵との距離を大きく離してもさほど心配はなかった。姿が見えなくなったとしても、目的地は想像できるからだ。

 双子の妹を尾行する。そんな奇妙な行動をとりながらも、遼太郎は後ろめたい想いなどなかった。この後、おそらくは中川の家を出た後で、奈々恵はどこかへ向かう。そして、それこそが彼女の失踪の原因となるのだから。

 奈々恵が中川の住むアパートへ到着し、部屋のチャイムを鳴らした。それを離れた位置から眺め、遼太郎はボイスレコーダーの着信側のスイッチを入れた。鞄の中にある発信器から電波が届き、手もとの受信機がその内容を聞かせてくれる。万が一聞いてはならないような出来事になってしまったとしても、遼太郎は最後まで見届けるつもりだった。恥ずかしいとか、そんな理由で大事な部分を聞き逃したくはないからだ。

 中川の部屋は二階にある。それを観察するのにふさわしい場所があってよかった。遼太郎はすぐ傍にあるコンビニへと入り、軽食を購入してフードコーナーへ向かった。その間もイヤホンでボイスレコーダーの音を聞きながら。

 椅子に腰掛け、中川の部屋の玄関を眺めながらイヤホンに集中する。聞き取りづらいが、二人の会話は確かに届いている。

『ごめんね、急に』

『いつでも大歓迎だって』

 ツナマヨのおにぎりを頬張りながら、遼太郎は悪趣味な行動を自覚していた。親友と妹の親密な時間を盗聴している。これではまるで、妹に恋人ができたことを嫉妬するようではないか。窓ガラスにぼんやりと反射した自分の姿に、遼太郎は(あわ)れみすら覚えた。

『あのね、お願いがあって来たの』

 しばらくしてから、奈々恵の改まった声が聞こえた。彼女が僅かに緊張していることが伝わってくる。

『お金ならないよ。―――紅茶でいいよね?』

『ハル、真剣な話なの』

『なになに』

 物音がばたばたと聞こえる。おそらくどれもが中川のものだろう。これまでの雰囲気から、奈々恵がどこかに腰掛けていることは想像できた。

『ハルにしか言えないことなの。相談できないことなの』

『なんだろう。光栄だけどちょっと緊張するね』

 しばらく、二人の会話が途切れた。物音もさほどない。二人共が座り、奈々恵が話すのを迷っているように感じられた。

『あのね、誰にも言ってないことがあるの』

『遼太郎にも沖先生にも?』

『そう。誰一人として言ってない』

 遼太郎には、奈々恵の言おうとしていることに見当もつかなかった。自分と父親、その二人に隠していることくらいあるだろう。それ自体は問題ない。だが、奈々恵の雰囲気が尋常ではなかった。覚悟をした声だったからだ。

『これを言うのはハルだけだと思うし、もう二度と言わない』

 二人の会話を盗み聞きしながら、遼太郎も緊張感に包まれていた。コンビニの店内では明るい音楽とともにラジオが流れている。店員の無駄に明るい声も響いている。それを振り払うかのように、遼太郎は目を瞑り、奈々恵たちの世界に集中した。予想とは異なり、この瞬間に奈々恵の失踪の理由が隠れているような気がしたからだ。逃げてはならない。中途半端な覚悟でそれを知ってはならない。

『まじめに聞く。ナナのタイミングで話して』

『ありがとね』

 少しずつ、奈々恵の言葉が聞き取りづらくなってきた。声のボリュームが小さくなっているのもあるが、彼女の覇気が失われているのだ。最後まで聞くことができるだろうか。遼太郎はイヤホンをしたまま耳を手で覆い、できる限り集中しようと試みた。

『ハル、わたしはあなたのことが好きよ』

『もちろんボクだって』

『大好きなの』

『同じだよ』

 ガサガサと物音が聞こえる。どちらかが移動しているようにも感じられた。

『―――んね』

 奈々恵の声だった。しかし、彼女が何と言ったのか、はっきりと聞き取ることができない。

『どうしたのさ』

 今度は中川の声だ。雰囲気から、二人が接近している様子が伺えた。

『大丈夫、ゆっくりでいいよ』

『ありがとう』

 知らぬ間に、遼太郎の両手が震えていた。体中が小刻みに動き出すように、ほてりが鎮まらなかった。

『わたしね――――――てるの』

 中川の息を呑む音が聞こえた直後、会話が途切れた。奈々恵の告白が、中川の動揺を呼び起こしている。

『それって・・』

『ハルじゃないの。ハル――――――ないの』

『ナナ』

『ごめんなさい・・・本当に、ごめんなさい』

 今にも掻き消えそうな奈々恵の声だった。震えている。ほとんど泣いているのではないか。

 遼太郎はただ事ではない状況に、平静でいることができなかった。二人の会話を全て聞き取れたわけではない。奈々恵が何を口にし、中川がなぜ驚いているのか。その様子だけが頭に浮かび、内容については不明なままだった。

『いつから?』

 中川の問いに返事はなかった。奈々恵は嗚咽を漏らし、すでに話すこともできない状況のようだ。両耳から、彼女の溢れ出た悲痛な嗚咽だけが届く。

『ごめ・・ん・・なさい』

 その言葉を皮切りに、奈々恵は涙をこらえるのを諦めたようだ。激しい泣き声が続いた。子供が母親の胸で泣き出すように、奈々恵は大声で泣いた。中川の声も聞こえない。遼太郎は事態を把握できず、その場から動けずにいた。


 やがて、奈々恵の泣き声が鎮まった頃、遼太郎は脳がひっくり返る感覚を覚えた。自分の耳に届いた言葉が原因だった。中川の質問に対する奈々恵の返答。それが、あまりに予想外だったからだ。

 無意識にイヤホンを外してしまっていた。その場に立ち尽くし、一人きりでテーブルに両手を突く。腕の感覚などなかった。意識せずとも震え、三半規管が狂うかのように視界が歪んでいく。

 遼太郎は中川の部屋を真っ直ぐに見上げた。その部屋の中にいる奈々恵は、中川に何を望むのだろう。彼女の告白が中川に与えた影響は計り知れない。それどころか―――。

 遼太郎には信じられなかった。何も知らなかった。

 様々な場面が脳裏に浮んでくる。奈々恵の笑顔も、中川と三人で過ごした日々も。父親と一緒に食卓を囲んでいたことも。そのどれもが、馬鹿馬鹿しいほどに哀れだった。

 自らの愚かさを悔やむしかなかった。遼太郎にはこれを防ぐことができなかったのだろうか。どうして、奈々恵の秘密に気付いてやることができなかったのか。自分が奈々恵を苦しめてきたなど、これっぽっちも考えてはいなかった。

 もう、イヤホンを耳につけている勇気がなかった。これ以上、奈々恵の告白を聞きたくなかった。逃げ出したい。全てから、現実から。

 奈々恵が口にした中で、ハッキリと聞き取れた言葉があった。

『妊娠してるの』

 それが、全ての始まりだったのだ。


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