第三章(5)
「早く帰って洗った方がいいよ」
目の前の中川が笑いながら言った。遼太郎はこの状況にデジャヴを感じ、慌てて周囲を見渡した。喫茶店の中。手もとにはパスタ、中川が食べているのはサンドイッチ。あのときと同じだ。
「今日は五月十四日、日曜日。そうだろう?」
「なに急に。そうだよ?」
どうやら成功したようだ。
今日は奈々恵が金山に行き、犯人に襲われる日だ。
「奈々恵は今、図書館に行ってるんだよな。そんでお前は今晩バイトが入っている」
「ほんとにどうしたのさ」
中川が戸惑いながら表情を緩めた。否定されないあたり、遼太郎の狙い通りに進んでいるらしい。
「この後どうする?」
「食べ終わったら? ボクは研究室に戻るけど」
「俺もそうしようかな」
「それが自然だと思うよ」
遼太郎が何を言っているのか理解できない、そんな様子で中川が笑う。
遼太郎はこの日の行動を思い出そうと必死だった。奈々恵は市内の図書館にいて、夕方には金山へ到着しているはず。犯人に襲われ、ハンドバッグを落とし、おそらく連れ去られる。それまでの間、遼太郎はのん気に研究室で過ごしていたはずだ。
「大丈夫? 服に染みがついたのがそんなにショックだった?」
「うっさい。子供扱いすんな」
「だって」
ケラケラと笑う中川を見て、奈々恵が襲われるなんて微塵も思っていないことが伝わってくる。それは当然なのだが、全てを知ってしまっている遼太郎は、どこか憤りを感じなくもなかった。自分はこんなに苦労しているのに、という身勝手な感情だった。
「バイトが終わったら、奈々恵に連絡してやれよ」
「するよ。いつもしてる」
清々しいほど当然のように言う。平和でけっこう、この平和は遼太郎が守ってやらなくては。
図書館にいる奈々恵を発見し、尾行を開始した。
午後三時時半を過ぎた頃図書館を出て、奈々恵の向かった先は美容室だった。さすがに中に入ることはできず、遼太郎は美容室の見える位置にある本屋へ足を運んだ。立ち読みやぶらついて時間をつぶすつもりだったが、遼太郎の想像以上に美容室の時間は長かった。一時間半近くいたのではないか。これだけ時間を掛けて髪の手入れをしたというのに、この直後に襲われるとは。奈々恵の不幸さに同情してしまう。
午後五時すぎに美容室を出て、奈々恵は駅の方向へと向かった。どうやら、このまま金山へ向かうらしい。地下鉄で一駅乗るだけだ。すぐに着いてしまうが、奈々恵はこんなに明るい時間に襲われたのだろうか。
人混みの中を尾行するのは苦労した。奈々恵に近付きすぎては見つかってしまうし、離れれば見失う。こんなことならGPSでもつけておくべきだったと後悔していた。奈々恵は駅を出ると、目的地が決まっているのか、迷いのない足取りで歩いていた。信号待ちで離されぬよう注意しながら遼太郎もそれに続いた。
奈々恵は一人で定食屋へ入った。彼女が普段どんな食生活をしているのかわからないが、女性が一人で金山へ来て、定食を選ぶのは意外だった。中川とのデートでもこういった店を選ぶのだろうか。遼太郎は向かいのコンビニへ入り、立ち読みをするふりをしながら様子を伺っていた。まもなく夕方の六時になる。いつ、どこで奈々恵が襲われてもおかしくない。
三十分ほどで定食屋から出てくると、奈々恵は再びどこかへ向かい出した。遼太郎もあとを追いながら、この先に新城公園があることを思い出した。殺害された田所が発見された公園だ。遼太郎の心臓がドクンと音を立てた気がした。いよいよ、奈々恵が巻きこまれる瞬間が迫っている。
奈々恵は一人で公園の中を歩き、時折ベンチに腰掛けていた。そのままじっと動かず、誰かと電話をしている様子もない。淋しい休日を見せつけられ、どこか哀愁が漂うようだった。そうかと思えば再び歩き出し、離れた位置に隠れていた遼太郎も慌てて動き出す。女性が一人で暗い中を歩いていれば、どこで襲われても不思議ではない。その瞬間に飛び出し、奈々恵を守る。できることなら犯人を取っ捕まえてやるつもりだった。
公園を出ると、奈々恵は大通りから裏へ入った道へ進んだ。やはり目的地があるのか、奈々恵の足取りはスムーズだった。何度も通ったことでもあるように、真っ直ぐ進んでいく。
遠くに隠れて彼女を追っていた遼太郎は、視界の端で何かが動くのを感じた。建物の影に隠れるようにして、一人の男がいた。まるで、誰かのあとをつけるように。遼太郎自身がそうだったからか、その男の怪しさに気付くことができた。―――そして、遼太郎は確信した。あの男が、奈々恵を襲った犯人なのだと。
まさかこんなにすんなりと犯人の正体に辿り着けるとは思っていなかった。だが、こうなったら心を決めるしかない。あの男はそのうち奈々恵に接近する。周囲に気を配りながら。遼太郎も同じだ。それでも、遼太郎が一つだけ勝っている部分がある。男は奈々恵を襲うことに成功した。つまり、周囲に三人以外誰もいない。男を邪魔する者がいなかったということだからだ。それを知っている遼太郎は、男の動きだけに注目することができる。男が奈々恵に襲いかかる瞬間、遼太郎は飛び出すつもりだった。
そして、その瞬間は遠くなかった。
奈々恵が何度か振り返り、男の動きを気にする素振りを見せていた。その直後、男が駆け出したのだ。
遼太郎が声を出す暇もなかった。奈々恵に注意を呼びかけたかった。振り返って欲しかった。だが、それよりも自分が先に動いた方が早い。どちらにしろ、女の奈々恵では犯人に勝てないのだ。
遼太郎は無我夢中で駆け出していた。男はもうすぐ奈々恵の傍に辿り着く。彼女はまだそれに気付いていない。
「奈々恵!」
考えていたわけではなかった。遼太郎は全力で走りながら、奈々恵の名を呼んでいた。男がサッと振り返り、遼太郎と目が合った。それでも、相手ももう引き返せなかったのだろう。そのまま奈々恵に向かって走り続けた。
奈々恵は遼太郎の叫び声を耳にし、自分に近付く二人の男を目にしていた。予想だにしない状況に、体がどう反応すればよいのかわからないのかもしれない。犯人の方が奈々恵に近い。このままでは―――。
そのとき、奈々恵が手にしていたハンドバッグを男に向かって投げつけた。女にしては鋭い動きだった。ハンドバッグは男の顔面へ向かって飛んでいき、男が咄嗟に両腕で顔を覆った。大したダメージはないはずだが、その数秒が遼太郎にとっては救いだった。
「奈々恵! 来い!」
彼女へ向かって全力で走りながら叫んだ。男を追い越し、左へ逸れる。三人の位置が正三角形を描くことになる。どうするのかなど考えていなかった。とにかく、奈々恵を自分の傍に置いておきたかった。
男が体勢を立て直すのを見て、奈々恵が駆け出した。遼太郎との距離がみるみる縮まる。男は殺意を丸出しにした形相で奈々恵の姿を追った。それでも、二人が合流する方が先だった。
遼太郎は奈々恵の体を背後に隠し、急転換して男へ突進した。男は遼太郎など目もくれず、奈々恵だけを追っている。野生動物のようなその目を怖れることもなかった。彼女を守ることだけが、遼太郎に架せられた使命だった。
男がポケットから何かを取り出すのがわかった。だが、遼太郎はもう止まれなかった。全力で走ったまま、遼太郎は地面を強く蹴った。自分の体が宙に浮かびあがり、男との距離が一気に縮まる。遼太郎の行動を予想できていなかったのだろう。男がようやく目を見開き、遼太郎を見上げた。その顔に向かって、遼太郎は蹴りを繰り出した。
映画スターのようにはいかなかった。綺麗に男の顔面を蹴り飛ばすことはなかったが、勢いよく突進した遼太郎の体が男と正面からぶつかった。その勢いのまま二人は倒れ込み、遼太郎は体中に痛みを感じた。急いで目を開けてみても、自分がどこを向き、どんな状態なのかわからなかった。
それでも、遼太郎の目は無意識に奈々恵だけを追った。彼女は離れた位置でこちらを見つめている。驚きに包まれた表情で、遼太郎に向かって何かを伝えようとしていた。
「後ろ!」
その叫び声で反射的に振り向くと、男が何かを振りかざそうとしているのが見えた。本能的に体を動かし、男と距離をとる。なおも襲いかかる男に向かって、遼太郎はそれ(・・)を突き出した。ポケットに忍ばせておいたナイフだった。
どこかから悲鳴が聞こえた気がした。それが奈々恵のものだったかどうか、確認する余裕などなかった。遼太郎の突き出したナイフは男の腹部に刺さり、体重が重くのしかかってきた。
遼太郎は動けなかった。
人を刺したことなどなかった。右手に温かいものを感じながら、茫然と、自分に寄り掛かる男の顔を見つめていた。
「チクショウ・・」
男の全身から、次第に力が失われていった。支えきれなくなり、遼太郎は男の体を突き飛ばした。
「リョウ!」
「・・来るな!」
奈々恵の方を見ずに叫ぶ。近付けてはならない。こんなシーンを間近で見せるわけにはいかない。男はまだ必死に体を動かそうとするが、力尽きようとしている。
こんなはずではなかった。
遼太郎は、犯人を殺すつもりなどなかった。奈々恵を守ることさえできればよかったのに。後ろを振り向くことができなかった。奈々恵はどうしているだろう。彼女の身は安全だ。それでも、別の意味で事件に巻き込んでしまった。これでは、彼女を真の意味で救うことにはならない。
男の動きが鎮まっていく。体から溢れ出た血液がコンクリートの表面を濡らしている。細かな突起が赤く染まるのを見ながら、もう、助からないことを悟った。男の正体も、目的もわからないままだ。
―――いや、待て。
遼太郎は最後にやるべきことを思い出した。
たとえこのまま逮捕されるにしても、確認しておかなければならないことがある。遼太郎は素早く手を動かし、男の服のポケットを漁った。どこかにあるはずだ。男の身元を示す何かが。
そして、遼太郎はそれを見つけた。
二つ折りの財布をとり出し、急いでカード類をさばくる。その中にある免許証を手に取り、心臓の鼓動で揺れる焦点を合わせた。
『山岸徹斗』
それが、男の名だった。
これで切り札を手に入れることができた。男の正体さえわかれば、後からどうとでもなるのだ。
「リョウ、どうして・・」
振り返ると、奈々恵がすぐ傍にいた。涙を流し、震える腕で、リョウの頭を包み込んだ。
「どうして・・」
奈々恵の温かさに包まれながら、遼太郎はどこか不思議な気持ちでいた。奈々恵を守ることができた。それなのに、安堵感などどこにもなかった。目的は果たしたはずだ。それなのに・・。
周囲からざわめきを感じた。人々の話し声や、叫び声が聞こえる。近隣住民がやってきたのか。となれば、遼太郎の行為も隠しようがない。元の世界に戻ったとき、どうなっているだろう。
遼太郎は不安を感じながらも、後悔はなかった。奈々恵を守ることができた。犯人の正体をつかむこともできた。上出来ではないか。
それにも関わらず、心が落ち着かないのはなぜだ。
奈々恵の胸に包まれながら、遼太郎は、自分の力を呪っていた。