第三章(2)
遼太郎が瞼を開けると、白いタイルに包まれた個室にいた。便座に座り、左の壁にはトイレットペーパーが備え付けられている。背後には鏡。ようやく、遼太郎は自分がトイレにいることを理解した。
慌ててスマートフォンを取り出し、今が五月十六日であることを確認した。
無事に戻ってきた。奈々恵を金山へ近付けることなく、彼女を守ることができた。遼太郎は自分の目でそれを確認するため、トイレを出て、奈々恵に電話を掛けることにした。大学の構内を大勢が行き交っているのを見ながら、早く出てくれないものかとやきもきしていた。
だが、どれだけ待っても奈々恵は電話に出なかった。仕方なくターゲットを中川に変更し、奈々恵の無事を確認することにした。
『はい、ボクだけど』
「奈々恵ってどこにいるかわかる?」
遼太郎の問いに、中川はすぐに返事をしなかった。どうしたというのか。聞こえなかったわけではないだろうに。
『遼太郎、何を言ってるの?』
「だから、奈々恵は今どこにいるか知ってる?」
『ナナがいなくなって連絡がとれないって言ってるじゃん。むしろボクが教えてもらいたいんだけど』
「・・待て。奈々恵はいないのか?」
『遼太郎、大丈夫?』
遼太郎は返事ができなかった。わけがわからないのだ。たった今過去に戻り、奈々恵が襲われる日、彼女が犯行現場である金山付近へ行くのを防いだ。これで事件に巻き込まれるはずはないと思っていた。―――それなのに。
「お前はどこにいる?」
『研究室だけど・・』
「すぐに行くから待ってろ!」
返事を待たずに電話を切り、遼太郎は工学部棟へ急いだ。
―――なぜだ。遼太郎の計算とは違う何かが起きている。
奈々恵が事件に巻きこまれたのは五月十四日、場所は金山駅付近だったはずだ。実際、彼女のハンドバッグもその周辺で発見されている。そこへ行くのを防いだというのに、奈々恵は依然姿を消したまま。
―――何かがおかしい。
誰もいない実験室の中で、遼太郎と中川は向かい合っていた。金属製の椅子に腰掛け、工具の散らかったテーブルを挟む。研究室には他のメンバーがいたため、会話を聞かれないようこの部屋を選んだ。
「奈々恵のハンドバッグが警察に届いたのか?」
「え、待って。何のこと?」
「だから、奈々恵がいなくなって、金山であいつのハンドバッグが警察に届けられたんじゃないのかって」
中川の煮え切らない態度に腹が立った。焦っている素振りが見えないのだ。奈々恵がいなくなり、彼女と連絡がとれないというのに。
「遼太郎、そんな話きいたことないよ。ナナとは連絡とれないけど、まだ丸一日も経ってないんだよ」
中川の言葉に、遼太郎は心臓を打ち抜かれた気がした。
「えっと・・。奈々恵がいなくなったのはいつだ?」
「いなくなったっていうか、連絡が取れなくなったのは昨日の晩からだね」
「今日が十六日だから、十五日の晩ってことか?」
「ボクの知る限りそうだね」
中川が嘘をついているのかと思った。そうでなくとも、間違えているのではないかと。しかし、目の前で困惑した表情を見せる彼は、そのどちらでもなかった。中川は真実を口にしている。遼太郎はそれを受け入れざるを得なかった。
「十四日の晩、俺たちは何をしていた?」
「十四日・・日曜日? あぁ、遼太郎の家で泊まった日か。何って別に、お好み焼きを作ったくらいでしょ」
そうであれば、遼太郎がやり直した過去は間違っていない。あの日の晩、奈々恵が金山へ出掛けるのを防ぐことには成功している。―――それなのに、なぜ奈々恵と連絡が取れていないのだ。
「警察には言った? 奈々恵がいないこと」
「言ってないよ。さすがに心配はしてるけど」
「奈々恵と最後に連絡を取ったのは昨日か・・。あいつはどこへ行くって?」
「わかんない。夕方までは大学にいて、夜はバイトもなかったはずだけど」
昨晩、奈々恵はどこへ行ったのか。遼太郎の中に記憶はない。毎回思うが、このシステムは記憶が変化しない点が問題だ。遼太郎の認知していない部分で世界が変わってしまっている。
「中川、たぶん信じてもらえないと思うけどさ・・。奈々恵は事件に巻き込まれてる。助けたいんだ」
「事件って―――美希ちゃんと同じ?」
「あぁ。このままじゃあいつも殺される。居場所を突き止めなきゃならないんだけど、どうしていいかわかんなくて」
中川が信じてくれるかどうか。遼太郎は賭けるしかなかった。
「遼太郎は、どうしてナナが事件に巻き込まれてるって思うの?」
この問いから、遼太郎は逃げ続けてきた。なにしろ、言っても信じてもらえないと思っているからだ。中川や奈々恵に、頭がおかしくなったと思われるのが怖かった。―――だが。
「俺、過去をやり直せるんだ」
ついに、遼太郎はそれを口にした。中川にどう思われるのか不安で、駆け足で言葉を続ける。
「奈々恵が事件に巻き込まれるのを経験してさ、それを避けるために過去を変えた。だからわかるんだ」
中川は遼太郎を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。笑うでもなく驚くでもない。二人の視線が交わったまま、緊張感だけが漂っていた。
やがてそれを吹き飛ばすように、中川がポツリと呟いた。
「・・なるほどね」
ようやく表情が動き、中川は背もたれに寄り掛かった。
「なるほどなぁ。そういうことだったのか」
「中川?」
「信じるよ。ボクは遼太郎とナナを信じる」
ハッキリと、迷いなく中川が言った。
「本当に? 俺、頭おかしいこと言ってるぞ?」
「うん、意味わかんないよ」
言葉とは裏腹に、中川は満足そうに笑った。
「でも、そんな嘘つけるタイプじゃないでしょ。遼太郎がそう言うんなら、たぶんほんとなんだよね」
「あぁ。なんでこんなことできるのかもわからんけど、これまで二回過去をやり直した」
「ナナを助けたっていうのと、もう一回は?」
「田所だ。あいつは、小学二年生のときに殺されてた」
遼太郎の言葉で、中川の表情に真剣味が増した。
「どういうこと?」
「小学校の校長に誘拐されて殺されるんだ。俺がそれを防いだから、あいつは大人になった。―――今は別の事件に巻き込まれちまったけどな」
信じられない様子で中川が静かに息を吐いた。遼太郎が嘘をついていないことは理解しつつも、突然こんなことを言われたら動揺して当然だった。
「どうやって過去をやり直しているの?」
「正確にはわからん。ただ、写真を見たらその瞬間の自分に戻れる」
「うわぁ、便利だね」
「必ずできるわけじゃないんだけど、今んとこ二回は戻れた」
中川は驚きを隠そうともせず、何度も頷いていた。非現実的なことを口にしている遼太郎の方が緊張していた。
「ナナを助けたっていうときの状況を教えてくれる?」
中川を信じ、遼太郎は素直に話し始めた。
十四日の日曜の夜、奈々恵が金山駅付近へ出掛けていたこと。それ以降連絡が取れなくなり、今日、奈々恵のハンドバッグが警察に届けられたこと。その中には財布が入っていて、何かが盗まれた形跡はなかったこと。そして、それを知って遼太郎が過去に戻り、奈々恵が金山へ出掛けるのを防いだこと。―――それにも関わらず、やはり奈々恵が行方不明なままであること。
「・・なるほど。つまり遼太郎はナナを助けたはずなのに、いなくなったままなのか」
「そう。だから何かしら別の原因で事件に巻き込まれている可能性が高い」
中川は何度も頷きながら、集中した表情で手もとの一点を見つめていた。
「遼太郎はまた過去に戻れる?」
「・・わからんけど、やってみる。できると思う」
「だとしたら、ナナがいなくなった原因を突き止めるのが最優先だと思う。今回、遼太郎はナナが事件現場に行くのを防いだんでしょう? それをせず、襲われる瞬間を見張るのはどう?」
「つまり・・、奈々恵をおとりにしろってことか」
「うん」
苦虫を噛み潰したように中川の表情が歪んだ。彼だって本心ではそんなこと望んでいない。だが、奈々恵を襲った犯人を突き止め、その証拠をつかんで逮捕することができれば、奈々恵を救うことに繋がるのも事実だ。
「ナナがいなくなったのは昨日だけど、そのときの状況はわからないよね。だったら、前回遼太郎が過去に戻ったのと同じ瞬間に戻った方が確実だと思うんだ。他に写真なんて撮ってないでしょ」
遼太郎は無言で頷いた。そして、中川の言わんとしていることにも察しがついた。
「奈々恵が襲われる瞬間に戻って、犯人を捕まえつつ奈々恵を救う。少なくとも、犯人の正体さえ突き止めればいいんだよな。それさえわかればもっと過去に戻って、被害者が出る前にそいつを捕まえればいい」
「正確には、一人目を襲う瞬間に立ち会わないとダメだけどね。『この人がもうすぐ人を殺すので逮捕して下さい』じゃ、警察は動いてくれないから」
中川がここまで真剣に考えてくれることが驚きだった。友人とはいえ、ここまで信頼のおける男だとは思っていなかった。
「サンキュ。やってみるよ」
「今すぐに、ここで過去に戻る?」
「いや、さすがに・・」
遼太郎は辺りを見渡したが、とても落ち着いて考えられる状況ではなかった。隣の部屋には中川と同じ研究室のメンバーがいる。彼らがいつこの部屋へ入ってきてもおかしくない。
「これまではどんなタイミングで戻ったの?」
「一回目は、自分の部屋で小学校のアルバムを見てたとき。気付いたら小学生に戻ってたな。二回目はお前から俺の写った写真をもらって、大学のトイレで」
「便所旅だね」
「うるせえ」
集中するにはそこしかなかったのだ。
「今回も同じ場所でやるのがいいかもね。部屋で一人きりっていうのも過去に戻る条件かもしれないし」
「ひきこもりに最適だな、それ」
「でもさ、どうしてこれまで言ってくれなかったの? 最初に過去に戻った日にちは覚えてる?」
「確か、五月九日の火曜日。だって、言っても信じなかったろ?」
「今のボクを見て、どう?」
「信じてくれたけどさ・・。ふつう言う勇気ねえって」
「まぁ、その気持もわからなくもないか」
中川は何か思い当たる節でもあるのか、悟ったように微笑んだ。
「それじゃあ、またやり直してくる。この世界に戻ってきたら、たぶん奈々恵も一緒にいるから安心しろ」
「遼太郎」
中川が真剣な顔をしていた。
「頼むね、本当に。事件を解決できるとしたらきみだけだ」
「わかってる。全部終わらせてやるよ」
中川はどこか淋しげに俯き、ゆっくりと頷いた。
遼太郎のむちゃくちゃな話を信じてくれた彼のためにも、遼太郎は過去に戻ることを決めた。奈々恵が襲われた瞬間を目撃するのは気分が悪いが、そうでもしなければ変えられないこともある。偶然授かったこの力で、遼太郎は世界を救える気すらしていた。